新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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ルビスの塔②

 

 

 

 アレフガルド大陸に於いて『ルビスの塔』と呼ばれている神聖な塔は、外観よりも美しく、正しく天界に最も近い場所として謳われた場所に相応しい物であった。

 塔の内部は、アレフガルドの職人達が施した装飾が彫り込まれており、それは燭台を模る金属にまで及ぶ。精霊神ルビスを現世に迎える為、人類の叡智と技術を全て注ぎ込んだこれらの装飾は、既に芸術品という枠さえも飛び越えた物であり、見る者全てを魅了する力を有していた。

 入り口から入って真っ直ぐに進む回廊が続く。回廊にある燭台の一つ一つに『たいまつ』から炎を移して行き、闇に支配された塔内部に明かりが灯って行った。

 魔物との遭遇もなく、暫く直線に伸びた廊下を進むと、十字路が見えて来る。道が分かれ事を見たメルエが自然にリーシャへと視線を動かすが、先頭を歩いていたカミュは迷う事なく道を直進した。

 

「奥は開けた場所になっているようだ。火を熾して一度身体を暖める」

 

「そうだな。このままでは身体が冷えてしまう」

 

 自分を見上げるメルエの身体さえも濡れている事を見たリーシャは、その隣に立つサラへ視線を移して休憩に同意する。メルエはカミュのマントに護られていた為、それ程酷い状態ではないが、サラは完全に濡れ鼠のようになっていた。黒味交じりの青い髪は肌にぴったりと張り付き、その髪からは水が滴り落ちている。如何に水の羽衣とはいえ、雨の雫全てを防ぐ訳ではないのだ。

 メルエが寒さに強いとは云えども、濡れた身体を放置していれば体調を崩す可能性は高い。それ以上にサラの身体も心配であった。

 

「サラの革袋に入っている枯れ木を使おう」

 

 サラの腰に結ばれた革袋に入れていた枯れ木を少し開けた広間のような場所に出し、火を着ける。湿り気を帯びてしまっている為、即座に燃え上がる事はないが、塔の中の燭台に残る枯れ草を混ぜる事によって徐々に炎が上がり始めた。

 体力などを考えて三人の中でサラの物を優先させたリーシャであったが、燃え始めた炎に見向きもしないメルエが何かそわそわし始めたのを見て嫌な予感が走る。それはカミュも感じたようで、少女を遮るように目の前に移動した。

 

「…………むぅ………はこ…………」

 

 視界を遮ったカミュを恨めしげに見上げたメルエは、先程まで見えていた物を示すように口にする。焚き火の炎が大きくなると同時に見える物が多くなって行き、焚き火から燭台へ炎を移す事によって完全に開けた。

 その場所は少し開けた空間であり、奥には祭壇のような高台が設置されている。精霊神ルビスを迎え入れる為の儀式をする場所なのか、それなりに大きな空間になっており、壁に掛かった燭台意外にも、祭壇の周りに篝火を焚く台があった。そして、その祭壇の中段には宝物箱が二つ置かれており、それを逸早く見つけたメルエが心を弾ませていたのだ。

 

「待っていろ」

 

「カミュ、私も行こう」

 

「そうですね。この塔は本来ルビス様の威光が届いていますから、悪しき魔物などが棲み付く事はないのでしょうが、現在は何処か空気が濁っています」

 

 宝箱の型式からいって、それ程に重要な物が入っている様子はない。この場所が儀式をする場所だとすれば、その儀式に必要な道具などが入っている可能性が高い。しかし、サラの言葉通り、この塔に入った頃から、これまでの塔とは同等以上の瘴気を感じていたのも事実。精霊ルビスが封印された事によって空気が濁った塔内部には、凶悪な魔物達が棲み付いていたとしても不思議ではなかった。

 宝箱に擬態する魔物は数種類であるが存在し、その攻撃力は侮れない。イシスのピラミッドでは勇者であるカミュが命を落とし掛け、ガルナの塔でも死の呪文によって勇者は命を落としかけた。地球のへそにてその悪い流れを断ち切った彼ではあるが、それを見ていないリーシャやサラにとっては、その魔物はカミュの天敵以外の何物でもないのだ。

 

「インパス」

 

 カミュ達が宝箱へ向かって動き出す前に、サラがその呪文を行使する。本来であれば自分が行使する筈であった物を行使してしまったサラに対してメルエは不満そうな表情をするが、魔法力を当てた宝箱を見たサラの表情を見て杖を構えた。

 険しく眉を顰めたサラの表情が、その魔法力を受けた宝箱の色が赤色であった事を明確に表している。それはこちらに害意を持った物である事を示していた。つまりは『人喰い箱』や『ミミック』といった宝箱に擬態した魔物の存在である。

 

「右の宝箱は無害ですが、左の宝箱は魔物で間違いありません」

 

「カミュ、まずは魔物を倒そう」

 

 サラの言葉を聞いたリーシャとカミュが各々の武器を構える。未だに擬態を解かない宝箱に対してメルエが杖を振るって中級火球呪文を唱えた。

 真っ直ぐに宝箱へ向かって行き、直撃するかと思われた時にようやく擬態が解かれる。箱が突然開き、縁には鋭利な牙が生え揃っていた。ミミックと呼ばれるその魔物は、宝箱を装って近付く者を鋭い牙で食い千切る。そんな凶悪な魔物がメルエの放ったメラミの火球を避けてカミュ達へと襲い掛かった。

 しかし、ミミックなど既にカミュ達の敵ではない。死の呪文を行使するのであればそれなりの脅威にもなろうが、牙を武器に向かって来るのであれば、相手にもならないだろう。

 

「ふん!」

 

 案の定、雷神の剣の一撃を受けたミミックの蝶番は破壊され、その牙がカミュに触れる事もない。止めの一撃とばかりにリーシャが魔神の斧を横薙ぎに振るえば、ミミックの身体を模る木造の箱は、木片となって燃え盛る焚き火の中へと落ちて行った。

 その力量を正確に把握していたと思っていたサラでさえも、前衛二人の力量の上昇具合を見誤っていたと感じてしまう。それ程に彼等二人は人外の域に達していたのだ。焚き火の中へ落下したミミックの破片は炎を更に激しく燃え上がらせる燃料となり、見る見る内に炭へと変わって行った。

 

「メルエ、開けて良いぞ」

 

「…………ん…………」

 

 ミミックという宝箱に擬態した魔物を撃退した事によって、害のない宝箱だけが残っている。斧を背中へと戻したリーシャは、若干頬を膨らませているメルエを呼び寄せ、宝箱を開けさせた。ゆっくりと開かれた宝箱の中は、乏しい明かりに反射するくすんだ光が見える。メルエが幼い腕を入れ、それを取り出せば、このアレフガルドでも通用する硬貨であった。

 ゴールドと呼ばれる通貨がぎっしりと詰められており、その合計金額はおよそ1000ゴールドにも届くだろう。綺麗な物に目を輝かせるメルエであったが、今のところ彼女に通貨への興味はない。不満そうに眉を下げたメルエは、興味を失ったようにカミュへと視線を動かした。

 

「たいした金額ではないが、貰っておくか」

 

「え? い、いけませんよ。これはこのアレフガルドで暮らす方々がルビス様に捧げた物です。我々が勝手に使用して良い物ではありません」

 

 メルエの横から覗き込んだカミュが、その小さな手から受け取ったゴールドを見て発した呟きは、精霊ルビスの信者としてのサラにとって看過出来る物ではなかった。精霊ルビスという神に近しい存在が下向して来るのをお迎えする為にアレフガルド大陸で暮らす人間が寄付した布施を横領するというは大罪に等しい。然も当たり前の事のように懐に入れようとするカミュへ信じられないという表情を浮かべたのだ。

 しかし、そんな視線と発言を受けたカミュは、いつも通り表情の読めない顔でサラを見つめ、そのまま無言でゴールドを袋へと入れて行く。慌てたサラはその行動を止めようとするが、二人の会話の内容が解らないメルエが首を傾げる横で、ようやくリーシャが口を開く事で足を止めた。

 

「カミュ、ゴールドが必須なのは解るが、流石にルビス様への布施を取るのは感心出来ないぞ」

 

「このアレフガルドで生きる者達の願いが、この世界を覆う闇を払う事であり、その為にルビスを解放しなければならないのだとすれば、このゴールドをその為に使用すれば良い。それに、精霊ルビスという曖昧な存在が、人間が使用する通貨を欲するとでも思っているのか?」

 

「曖昧な存在……。いくらカミュ様でも、その物言いは駄目ですよ。ルビス様はこのアレフガルドでも信仰されている精霊神様です。確かに、ルビス様のような精霊様が貨幣などを欲するとは思いませんが、それでもそれは『人の想い』なのです。何かを願い、それへの対価として、自身の大切な物を差し出したのですから、それを無碍にするのは許されません」

 

 彼等三人は、この五年の旅の中で歩み寄り、心を近付けて来た。しかし、根本的な所で交わっている訳ではなく、相手の考えや価値観全てを認めている訳でもない。カミュが持つ過去への怒りや憎しみを知っていても、その深さを理解している訳ではなく、サラの強い信仰心を許容していても、それに自らが同調している訳でもないのだ。

 それでも、ここまでの旅の間は、『打倒魔王バラモス』という目標の元に集っていたが、信仰の対象である精霊ルビスという存在を前にして、その不安が表面化して行く。何故、彼らが言い争っているのかが理解出来ないメルエは、先程とは異なる哀しそうな瞳を向けて三人を見ていた。

 

「ジパングと云う国で、全ての国民の願いから生まれた『生贄』を否定した人間の言葉とは思えないな」

 

「……っ」

 

 再び向けられたカミュの瞳は、久しく見ていなかった程に冷たい物であった。そして、それを一身に受けてしまったサラの身体は硬直してしまう。まるで蛇に睨まれた蛙のように動けないサラの額から一滴の汗が流れ落ちる頃、大きな溜息が聞こえて来た。

 何処か呆れたような、それでいて悲しみを宿し、そして何よりも暖かな慈愛を宿した瞳は、カミュとサラを交互に見やり、そして幼いメルエを呼ぶようにその手が動く。救いの手が差し伸べられた少女は、泣きそうに歪めた表情をそのままに、母のような女性の腰元に抱き付いた。

 

「わかった、わかった……カミュ、1000ゴールド程度の資金が急ぎで必要なのか? サラの目指す世界は、ルビス様を信仰していない者は生きて行けない場所なのか?」

 

 腰から顔を上げたメルエに優しく微笑んだリーシャは、鋭い視線をカミュとサラへと向ける。それは有無も言わさぬ程に強い光を宿し、二人の反論を認めるつもりがない事を示していた。

 頼もしい雰囲気を出したリーシャを眺めていたメルエの表情に余裕が生まれ、先程まで下げられていた眉が上がる。そのまま、まるで二人を叱りつけるように腰に手を当てた少女の姿に、リーシャの瞳が若干和らいだ。

 

「違うだろう? ルビス様を前にして二人の心が焦るのも解るが、馬鹿らしい争いはもう良いだろう。私も今話したが、1000ゴールドなど今の私達であれば何度かの戦闘で稼げる金額だ。それでも、この場所に奉納されていたのであれば、それなりに重い金額なのも解る筈だ」

 

「…………カミュ………だめ…………」

 

 続けられた言葉は明らかにカミュへ向けられた物。アリアハンと云う小さな国を出たばかりの頃とは異なり、他人の想いを慮る姿を見せ始めたカミュであれば、その程度の事は理解出来るだろうという確認のような仕草であり、相手の肯定しか認めないという強い姿勢にも見える。それを受けたカミュは、反論する事もなく、応える事もなく、目を伏せる事しか出来なかった。

 そんなカミュに追い討ちを駆けるように、メルエがお叱りの言葉を口にする。幼い子供を叱るような仕草が、周囲の雰囲気を軽い物へと変え、柔らかく微笑んだリーシャの手で撫でられたメルエが目を細めた。

 

「サラはどうなんだ? 魔物や動物達のように、ルビス様へ祈りを捧げない物達は救われない世を目指すのか? 盗みが目的でこのゴールドを取った者は罰せられるだろう。それを否定するつもりもなければ、カミュの行動を肯定するつもりもない。だが、ルビス様を信じない、崇めないという者達を拒否してしまう姿勢を変えていかなければ、進むべき道を見失うぞ」

 

「…………サラも………だめ…………」

 

 リーシャの言葉は、サラの胸に想像以上に鋭い刃を落とす。まるで胸の奥にある何かを見透かされているかのような言葉の刃は彼女の心に深々と突き刺さった。

 サラ自身も自覚はなかったのだろう。精霊ルビスを信仰の対象とするルビス教の教えから飛び出てしまったとはいえ、彼女は熱心な信者である。歪んだ教えの中で悪とされる魔物に対しても慈悲を向けるようになったとしても、やはりルビス至上主義という根底は変わらなかったのだ。故にこそ、無自覚の内に精霊ルビスへの信仰を強要する姿勢が出てしまう。だが、本来信仰は自由であり、その者が何を信じ、何を頼るのかと云うのもまた、各々の自由であるのだ。

 

「さぁ、早急に服を乾かすぞ。カミュもサラもこっちへ来い。宝箱に擬態していた魔物のお陰でしっかりとした焚き火になっているのだから、今の内に身体全体を暖めておけ」

 

 最年長の女性戦士の言葉に反論する者は誰もいなかった。

 精霊ルビスという存在は、カミュにとっては忌むべきものでもある。父であるオルテガと同様、自身を勇者という象徴に押し上げた元凶であり、その後の苦難の要因でもあるからだ。だが、そんな相手でも自分の目的の為に解放しなければならないという苛立ちが、僅かなゴールドに固執する結果になってしまったのは明らかであり、その苛立ちを精霊ルビスを至上と考える賢者に向けてしまった事も確かであった。

 サラ自身、自分の胸の奥底に残る何かに思い当たる節などない。だが、改めて真っ直ぐに言われてみれば、これ程に的確な指摘はなかった。彼女は魔物によって家族を奪われ、愛を奪われている。だが、その後ルビス教の司祭によって拾われた事で、精霊ルビスの加護によって命を永らえているという想いがあったのだ。故にこそ、精霊ルビスへの侮辱は許せない。表面上は許しても、その奥底では燻り続ける何かが残っていたのだろう。それを今回リーシャに突き刺されたのだった。

 

「…………ふふふ………リーシャ……すごい…………」

 

「そうか? こういう時は、メルエの方が凄いぞ」

 

 剣呑な雰囲気を一瞬の内に変えてしまった母のような存在に、幼い少女は目を輝かせながら賛辞を述べる。『濡れるから駄目だ』と言っても、笑顔で腰にしがみ付いて来るメルエにリーシャも小さな笑みを作った。

 リーシャだけの言葉では、カミュにもサラにも蟠りが残ってしまう。如何にそれが真実だとしても、自分でも気付いている物だとはしても、他人から指摘されて素直に受け入れる事が出来る者など少ない。指摘した者とその原因を作った相手に対して何らかの悪感情を頂いてしまうのが通常の人間なのだが、その部分を補うのが、この幼い少女であった。

 メルエという少女は不思議な雰囲気を持っている。それはこの世で生きる幼い子供特有の物ではあるが、彼女がここまでの旅で何度も一行の雰囲気を和ませて来た。巨大な敵へ向かうという重圧を受ける中、それ以外の悩みや苦しみで沈んで行く気持ちをギリギリの場所で拾い上げて来たのは、この幼い少女である。

 全てに諦めていた青年に心を蘇らせ、自身の力を認めさせようと躍起になっていた女性戦士の母性を目覚めさせ、そして一つの価値観に凝り固まっていた女性僧侶の心を大空へ羽ばたかせる切っ掛けを作った。

 その全ては、この少女の功績であるだろう。

 

「服も乾いて来たな。メルエも寒くはないか?」

 

「…………ん…………」

 

 炎の傍で服をはためかせて水分を飛ばす。少女の茶色の髪を撫で付けて乾かしていたリーシャの呟きにメルエは頷きを返した。短い時間であった為、湿り気はどうしても残ってしまうが、体温で自然に乾く状態にまでは戻っている。この程度であれば探索を続ける内に乾くだろう。

 花咲くように微笑むメルエを見ながらリーシャも衣服を乾かし、先程まで諍いを続けていたカミュとサラも準備を整えた事で焚き火を消した。何が嬉しいのか、焚き火に残った長い木の枝を取り出したメルエは笑顔でカミュとサラを見やる。苦笑を浮かべたサラはその手を握った。

 勇者と賢者の間にある溝は決して埋まる事はなく、広がる事もない。アリアハンという小国を出た頃から五年間、その溝の深さも広さも変化はしていないのだ。

 『世界を救う者』と『人を救う者』。その名義を持って生まれた勇者と賢者は決して交わる事はない。どれ程歩み寄ろうと、どれ程にお互いを信頼していようと、その根底にある物は決定的な差異がある。それを辛うじて繋いでいるのは、メルエという楔と、リーシャという鎖なのかもしれない。

 

「……どっちだ?」

 

「左だな」

 

 最早、この問答に葛藤はない。入り口へ戻るように空間を出た一行は、再度現れた十字路を前に足を止める。カミュの言葉にリーシャが即座に答え、それに頷いた彼は反対方向へと足を進めた。

 通常であれば、このやり取りは他人を馬鹿にしたようなものではあるが、当のリーシャはサラの手を握るメルエと微笑み合っている。一行にとって日常に近い行動で何度も何度も繰り返して来たやり取りなのだ。

 

「流石はルビス様をお迎えする為に造られた塔だな」

 

「……そうですね。途方もない労力と財力を注ぎ込んだのでしょうね」

 

 通路の壁に掛けられた燭台へ炎を移しながらリーシャは炎に照らし出された装飾に目を凝らす。人の叡智の結晶と呼んでも過言でない程に手を加えられた塔内部は、このアレフガルド大陸以外の世界を知る一行であっても驚く物であった。

 何年も、もしかすると何十年も掛けて建造された塔は、その時代その時代の最高技術を注ぎ込んでいる。塔の層ごとに建造した時代が異なるのか、少しずつ装飾の在り方も変わっていた。美しく、それでいて力強く掘り込まれた装飾は、見る者を圧倒しながらも安堵させる暖かさを有している。それは、このアレフガルド大陸の人間の中にあるルビス像そのものなのかもしれない。

 

「止まれ」

 

 雰囲気に呑まれそうになる程の装飾に目を奪われていたリーシャとサラは、『たいまつ』を掲げて先頭を歩くカミュの言葉に表情を変える。カミュが纏う空気に緊張感が帯び始めたのだ。それは明確な戦闘開始の合図。

 静かに雷神の剣を抜き放ったカミュに続き、リーシャが魔神の斧を構える。一行が歩いて来た通路に掛けられた燭台の炎は後方を照らし出しているが、未だに踏み入れていない奥は漆黒の闇に包まれている。襲撃に備えるように前線で動かない二人を見て、サラとメルエも戦闘準備に入った。

 前方の闇の中でちらりちらりと瞬きを繰り返す光が、魔物の瞳である事が解った時、戦闘の火蓋は切って落とされる。一気に迫って来たそれは、燭台の炎に煌く牙を前線の二人へ向けて煌かせた。

 

「ちっ」

 

 大きな舌打ちをしたカミュは迫る牙を雷神の剣で防ぎ、想像以上の力に表情を顰める。炎によって映し出されたその姿は、カミュ達の倍近くの大きさがある獣であった。押し寄せる力は相当な物であり、その威力にカミュが後方へと押し込まれる。一拍遅れたリーシャはその獣の身体に斧を振り下ろすが、それを嘲笑うかのように獣は後方へ飛んだ。

 襲い掛かって来た獣の他に闇の中からゆっくりと同じ獣が二体現れる。総数で三体。全ての瞳が四人の人間を射抜いていた。

 全身を灰色の体毛に覆われ、顔面を鬣が覆っている。鋭く生えた牙は炎に照らされて煌き、背中から生えた翼はその大きな体躯を更に大きく見せていた。ネクロゴンドの洞窟で遭遇したライオンヘッドに酷似した姿が強敵である事を明確に物語っている。

 

「カミュ、来るぞ!」

 

 一気に肉薄して来たその魔物の牙がカミュを襲う。リーシャの叫び声に反応して勇者の盾を掲げたカミュは、その衝撃に押される力を利用して雷神の剣を振るった。鋭い一撃を体躯に受けた魔物の体液が塔の床を穢す。だが、それ程の深手でもなく、大きな雄叫びを上げた魔物が後方へと下がって行った。

 睨み合うように対峙した一行と魔物の均衡は、一体の魔物の奇声と、人類最高位の魔法使いの詠唱によって崩される。空気が震えるような雄叫びに掻き消されるような呟きを漏らした少女が大きく杖を振るった。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 雄叫びと共に周囲を襲う冷気が吹き荒れる。燭台の炎さえも吹き消すように漂った冷気は壁に氷の壁を作って行った。だが、その直後に唱えられた最上位の灼熱呪文の炎が氷の壁を溶かし、一気に冷気を押し込んで行く。蒸発した冷気が白い霧を生み出して行った。

 真っ白に染まった視界から飛び出して来た魔物がその前足を振るう。鋭い爪が光るその一撃は、リーシャの右腕の肉を抉った。迸る真っ赤な鮮血がルビスの塔の壁を染めるが、それでも彼女は己の武器を手放さない。斧を振るえない彼女は再度振るわれた前足を水鏡の盾で防ぎ、一気に押し返した。

 

「ベホイミ」

 

 少し離れた場所から唱えられた詠唱がリーシャの腕の傷を癒して行く。自分の腕に握力が戻った事を感じたリーシャは、かなりの重量を有す魔神が愛した斧を片手で振り抜いた。一体の魔物の胴体に吸い込まれた斧の刃が肉を斬り裂き、どす黒い体液を溢れ出させる。一撃で致命傷に近い傷を与えられた魔物は臓物を護るようにその場に屈み込んだ。

 追撃を掛けようとするカミュを防ぐように再び吹き荒れる冷気。他の一体が唱えた氷結呪文が周囲の温度を一気に下げて行く。それに対抗するように唱えられたメルエのベギラゴンが再び白い霧を生み出した。

 

「ムゥオォォォォ」

 

 霧の向こうから先程の物とは異なる奇声が聞こえて来る。何かの攻撃的な呪文の行使かとカミュ達は身構えるが、何事もなく白い霧が晴れて行った。徐々に晴れて行く霧の向こうに先程と同じように三体の魔物が見える。

 その姿にリーシャが驚き、サラは険しく眉を顰める。先程リーシャが斬り裂いた魔物もその傷の欠片もなく鋭い瞳を向けていたのだ。それは、先程の雄叫びが回復呪文である事を示している。そして強力な氷結呪文を行使し、その上で回復呪文を行使出来る魔物がかなりの強敵である事の証明であった。

 

「あの傷を癒す事が出来るとなれば、ベホマ級の物であると思います」

 

「厄介な奴か……」

 

<ラゴンヌ>

ネクロゴンド地方に生息するライオンヘッドの上位種に当たる魔物である。その体躯の大きさはライオンヘッドよりも一回り大きく、鋭い爪と牙は十分脅威となる物。上位種と云われるだけあり、行使出来る呪文は氷結系と回復系の二種であっても共に最上位に近い威力を誇っていた。

襲った相手の肉を保存するように冷却して食すとも云われてはいるが、既に伝承にしか残っていない魔物でもあり、その生態は解明されていない。

 

 数ではカミュ達一行に分があるとはいえ、強力な魔物が三体無傷という状況はかなり厳しい。先程のリーシャの一撃で解るように、人類最高位の攻撃力を持った戦士でも一撃で葬る事が出来ない魔物が、その傷を完全回復出来る手段を持っているというのは脅威以外の何物でもないのだ。

 サラやカミュがベホマという最上位回復呪文を行使出来る。故に、一撃死しなければどのような傷であろうと、回復させる事が出来るだろう。だが、その条件が相手も同等であれば状況は一変する。一撃で葬らなければ回復され、地力の強い魔物が優位となってしまうのだ。それを最も理解しているサラが険しく表情を歪めていた。

 

「カミュ様、難しいかもしれませんが、短期で戦闘を終了させなければ苦しくなります」

 

「……わかっている」

 

 先程まで口論していた者同士とは思えないやり取りに、リーシャは頬を緩める。胸の奥にある根幹が交わらなくとも、互いが互いを認め、信じている事は揺ぎ無い事実なのだ。故にこそ、互いの存在を含めた作戦を練る事も出来るし、それを詳しく説明する事なく実行出来るのだろう。

 依然状況は変わらない。だが、リーシャという女性戦士にとって、状況が変わらないという事は自分達の勝利が揺るがないという事と同意であった。圧倒的不利に陥らなければ自分達の負けはなく、負けないのであれば勝利しかない。

 強く魔神の斧を握り締めた女性戦士が駆け出した。

 

「メルエ、援護を頼むぞ!」

 

「グゥモォォォォ」

 

 リーシャの叫びとラゴンヌの雄叫びが重なる。斧を持って突進して来る戦士を見て、魔物が呪文の詠唱に入ったのだ。

 吹き荒れる冷気が周囲の気温を一気に下げ、吐く息さえも瞬時に凍らせて行く。斧を持つ手に霜が降り、身体の表面が凍る。だが、それでもリーシャは歩みを止めない。ラゴンヌとの距離を詰めるように駆け出した足さえも凍り付きそうになる時、後方から援護の熱風が吹き抜けた。

 魔法力が皆無に等しいリーシャにとって、最上位の呪文は死に直面しかねない脅威である。故にこそ、ラゴンヌのような魔物との戦闘ではカミュが駆け出す事が多かった。リーシャの場合、援護で放たれたメルエの呪文でさえも傷付きかねないからだ。

 

「おりゃぁぁぁ」

 

 全身の傷が凍傷と火傷のどちらなのかが解らない状態のリーシャが一気に斧を振り落とす。メルエの放ったベギラゴンの火炎で相殺し切れない氷の結晶を纏った魔神の斧が、ラゴンヌの太い首筋に吸い込まれて行った。

 マヒャドという最上位氷結呪文を行使した直後で対応出来ないラゴンヌは、自分の命を刈り取る断頭の斧を受け入れる事しか出来ない。命を刈り取る不快な音を響かせて、一体の魔物の首は、心の臓を持つ胴体と永遠の別れを迎えた。

 

「リーシャさん、戻って!」

 

「早く行け!」

 

 満身創痍のリーシャに回復呪文を掛ける為に詠唱を始めていたサラの叫びが轟き、一気に距離を詰めたカミュがリーシャの腕を引いて、後方へと放り投げる。迫っていたラゴンヌの牙を勇者の盾で受けたカミュの持つ雷神の剣が唸りを上げた。

 風を斬り裂き、大地を割る一撃。雷を司る雷神の怒りに似た一撃がラゴンヌの胴体に襲い掛かり、咄嗟に身体を庇うように上げられた前足を斬り飛ばす。根元から斬り飛ばされた前足が塔の壁に当たって落ち、巨体を支える一本の足を失ったラゴンヌは床に伏せた。

 

「ムゥオォォォォ」

 

 しかし、残る一体が即座に唱えた最上位の回復呪文がその傷を瞬時に癒して行く。欠損した前足は戻らなくとも、深々と抉られた傷は塞がり、流れていた体液も止まった。通常の獣であれば、動き回れないというのは死に等しい。だが、呪文行使が可能なラゴンヌであれば、その括りではない。

 怪我が癒えたラゴンヌが氷結系呪文を行使する。自身の周囲を氷の結晶が覆い始めた事を確認したカミュはベギラマを唱えるが、只でさえ呪文の格差があり、更に言えば魔物と人間の呪文の威力の差がある為、氷結呪文を相殺する事は不可能であった。

 徐々に凍り付いて行く盾や剣に舌打ちをしたカミュではあるが、先程のリーシャと同様に、死に至らしめる程の冷気の中、前へと足を踏み出す。それは、彼の後方から迫る圧倒的な熱風を感じたからであった。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 後方から吹き荒れる熱風がカミュの背中から抜けて行き、冷気とぶつかり蒸気になる。凍りついた盾や剣の氷を溶かし、多少の火傷を勇者に与えながらもその活動を後押しさせた。

 前足を失っているラゴンヌに逃げる術などない。真っ直ぐに振り下ろされた神代の大剣を眉間に受ける。本来であれば、ルビスの塔を守護する神聖な獣として生きていたであろう獣が最後に見た光景は、天から落ちる雷神の怒りのような輝きであった。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 ラゴンヌの顔面を割ったカミュは、横へ飛ぶ事で最後に残ったラゴンヌへの道を開ける。勝利へ続く真っ直ぐに開けた道は、人類最高位の魔法使いが持つ最大の呪文の通り道となった。

 極限まで圧縮された巨大な火球が壁に残る氷を溶かしながら、真っ直ぐにラゴンヌへと向かって行く。この通路は狭い訳ではない。むしろ塔内部の通路としては圧倒的な広さを誇るだろう。それでも、メルエが唱えた火球から逃げる事など出来ない。カミュの横を通り過ぎた火球はその大きさと密度を更に濃くし、ラゴンヌを飲み込んで行った。

 

「ギャオォォォォ」

 

 断末魔の叫びと生物が焦げる臭いを轟かせ、ラゴンヌはルビスの塔に残る染みと化す。全ての肉と骨を瞬時に溶かされ、跡形も残らずに消滅したラゴンヌが生きていた証拠は、床に残った黒い染みだけであった。

 リーシャの回復を終えたサラからの治療を受けるカミュは、徐々に増して行くメルエの呪文の威力に目を見開く。そんなカミュの様子を見ていたサラは小さな苦笑を浮かべ、彼の身体全体に淡い緑色に光る輝きを纏わせた。

 

「カミュ様、メルエが覚えた新しい呪文を見た時にはそのような表情はしないで上げて下さいね。魔王バラモスが唱えていたあの呪文は、メルエこそが本来の使い手かもしれませんから」

 

「……イオナズンか?」

 

 弾かれるように振り向いたカミュの瞳は驚愕の色に包まれている。静かに頷きを返したサラは、リーシャに頭を撫でられて微笑む幼い少女へ視線を移した。

 爆発系の最上位呪文であるイオナズンは、魔王バラモスがあの死闘の最中に何度も行使した呪文である。その威力は計り知れなく、メルエのマホカンタがなければカミュ達など粉々に砕け散っていた可能性が高かった。現に、戦闘開始直後に放たれたイオナズンによって、四人全員が瀕死に近い状況に追い込まれていたのだ。

 その驚異的な呪文が『悟りの書』に記載されていたという事実にも驚かされたが、メルエがそれを修得してしまっているという事にカミュは驚愕する。あれ程の威力を持つ呪文となれば、魔族や魔物だけが有する呪文であっても可笑しくはない。それにも拘らず、サラは『本来の使い手はメルエかもしれない』と口にしていた。それは、メルエの放つイオナズンが魔王バラモスよりも強力であるという事を意味している。

 魔族や魔物よりも強力な呪文を放つ少女がいるであろうか。常識的に考えれば否である。何らかの理由がなければ、その異常性を説明出来ないだろう。

 

「あっ!? こ、この事はメルエには内緒ですよ。私が既に新しい呪文について話してしまっていると知ったら、きっと凄く怒ってしまいますから」

 

 異常性を持つ少女ではあるが、その心は何処にでもいる子供と変わりはない。自分の功績を誇り、それを褒めて貰いたいと願うのは子供特有の物であろう。直前まで秘密にし、それを見せて驚かせたいと思うのも、その後の賞賛を受けたいと思うのも子供ならではである。そんな少女にとって、このサラの発言は裏切り行為であり、おそらく激怒する事であろう。それこそサラと口を利いてくれなくなるかもしれない。それは世界で唯一の賢者といえども恐るべきものであった。

 先程の驚愕の表情よりも余裕を戻したカミュは静かに頷き、自分の方へと寄って来る少女へと視線を移す。何度もこの少女の能力によって一行は救われている。例え彼女がどのような存在であろうとも、カミュ自身の心に変化が訪れる事はないだろう。

 

「流石に強力な魔物が多いな。何とか対処出来たが、この先も大丈夫だとは安易に言えないな」

 

「そうですね。アレフガルド大陸の魔物の強力さは知っていましたが、それでもかなり厳しいようです」

 

 カミュに頭を撫でられてご機嫌なメルエを見ながら、リーシャは奥へ続く闇へ視線を凝らす。今でこそリーシャもカミュも傷は癒えているが、あのまま放置していれば死に至る可能性もある大怪我であった。ラゴンヌという魔物を討ち果たす為にメルエも数度最上位呪文を行使しているし、サラも回復呪文を数度行使している。それは、ここまでの戦闘でも数える程しかない激戦と言えるだろう。

 大魔王ゾーマとさえも戦う事が出来る精霊神を封印している場所を並大抵の魔物が護っている訳はない。それこそ、最上位に位置する魔物達が生息していても何ら不思議ではないだろう。カミュもリーシャも自分達の力が大抵の魔物に後れを取る物だとは思っていない。だが、そんな彼らでもこのルビスの塔に生息する魔物達と戦うには、力が不足しているのではないかと考えていた。

 

「とりあえず進むぞ」

 

 真っ直ぐに伸びる通路の壁にある燭台へ炎を移しながら歩き出す。魔物の体液で湿った床で滑らないように手を繋がれたメルエが、少し哀しそうに眉を顰めてラゴンヌであった物へ視線を移したのを見て、サラは優しい笑みを浮かべた。

 あれ程の呪文をメルエが放ったのは、ラゴンヌという魔物がカミュ達に敵意を向けたからである。カミュやリーシャの敵はメルエの敵であり、そこに慈悲の欠片もない。それがこれまでのメルエの行動であった。だが、今ラゴンヌの死骸に向けた彼女の悲しい瞳は、そこに若干の後悔の念を映し出している。

 『出来る事ならば、殺してしまいたくはない』という想いは、メルエという少女の確かな成長の証であり、優しさの現れであるだろう。魔物を打ち倒し、魔王を打ち倒し、大魔王を打ち果たそうとする一行の中で、その心が育っている事にサラは喜びを感じていた。

 

「上への階段だな」

 

 通路の奥には一階部分の終わりを告げる階段が見える。ルビスの塔の名に恥じないだけの装飾が施されたその階段は、天へと伸びる塔の上層部へと続いていた。見たままを告げるリーシャに対して頷いたカミュが、これまで以上に真剣な瞳を他の三人へと向ける。その瞳の厳しさが、この塔の攻略が難解である事を明確に物語っていた。

 未だに一階部分を攻略したに過ぎない。天高く聳え立つルビスの塔の入り口部分を攻略しただけであり、この階層にいる魔物が全てではないだろう。大魔王ゾーマにとって唯一の脅威と成り得る精霊神を封じている塔である事を考えれば、この先の道中が楽な道ではない事が推測出来るのだ。

 ゆっくりと踏み出した足が、一歩一歩長い階段を上がって行く。一行はまた一歩精霊ルビスとの対面に近付いて行った。

 

 精霊神ルビスが封じられし天高き塔。

 この先で、彼らが味わう絶望と悲しみを、今は誰も知る事が出来ない。

 

 

 




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ルビスの塔の二話目です。

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