新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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ルビスの塔③

 

 

 

 階段を上がり、上の階層へと辿り着いた一行が見た物は、下の階と同様の真っ直ぐに伸びる通路であった。太陽の光が差し込まない塔内部の為、一切の明かりは無く闇に包まれている。燭台一つ一つに炎を移しながら、カミュ達は周囲を確認した。

 階段のある空間は少し開けた物であり、階段側から真っ直ぐ伸びる通路とは別に右手へ進む通路も見える。両方とも先は闇に包まれて確認する事は出来ず、奥から吹き抜けて来る風が奥まで続いている事を物語っていた。

 

「どっちだ?」

 

「……どちらでも同じだと思うがな。敢えて言うならば、右かな?」

 

 いつも通りの問いかけに、気負う事なく答えたリーシャの言葉を聞き、カミュもまた一切の躊躇なく正面の通路へと進路を取る。最早彼女なくして洞窟や塔の探索は不可能に近い。彼女の直感が何度と無くこの一行を救って来たと言っても過言ではないのだ。

 この階層は、一階部分よりも不穏な空気は濃くなっており、既に瘴気と言い換えても可笑しくはない状態になっている。魔王バラモスが陣取っていたバラモス城と大差ない程の瘴気は、人間であるカミュ達にとって深い以外の何物でもない。幼いメルエを気遣ったカミュは彼女をマントの中へ誘い、周囲への警戒を怠らずに歩を進めた。

 

「ルビス様をお迎えする為に造られた場所がこのような状態に……」

 

「それだけルビス様のお力が弱まっておられる証拠なのかもしれないな」

 

 噎せ返るような瘴気が押し寄せてくる中、口元を押さえたサラの瞳に悲しみの色が広がる。その横で同じように顔を顰めたリーシャは、炎を燭台に移して尚、押し寄せるような闇を見て緊張感を強めた。

 この塔は精霊神を迎える為に作られた塔である。そこにその真偽は関係が無いのだ。例え、精霊ルビスがこの塔を利用しなくとも、アレフガルドの人間がそれを信じ、崇め奉れば、この場所は神聖な場所となり、その空気を纏い始める。元来信仰とはそういう物であった。

 想いが強ければ、その想いは具現化され、それが真実となる。神聖な物として祀られれば、そこに神気が宿り、邪気を寄せ付けないようになって行く。だが、その想いが廃れていけば、想いと比例するように場所も廃れて行く。

 アレフガルドで生きる者達が、この場所に精霊神ルビスが封じられていると信じ始め、それによってルビスの力が弱まっていると信じれば信じる程にこの塔の力は弱まって行くのだ。邪気を寄せ付ける事さえなかった場所は、人間が寄り付く事も出来なくなり、瘴気が支配する環境へと落ちて行く。それが尚更、封じられた精霊神の力を弱めているのかもしれない。

 

「…………むぅ…………」

 

 リーシャやサラとは異なり、瘴気が強まっている事に何の疑問も持たずに歩みを進めていたカミュの足元で、幼い少女が唸り声を上げた。

 息苦しい程の瘴気による不満を口にしたのかと視線を下げたカミュは、見上げるメルエの瞳を見て認識を改める。その瞳には不満の色は微塵も無く、何かを警戒するような強い光が宿っていたのだ。

 この幼い少女がこのような瞳をする時は、決まって強敵との遭遇が近い。背中から雷神の剣を抜き放ったカミュは、マントの中からメルエを出して後方へ送った。『とてとて』と駆けて来るメルエの手を取ったサラはその意図を理解し、同じように把握したリーシャは魔神の斧を握って戦闘態勢へと入って行く。

 暗闇が支配する塔内部が、燭台に移した炎によって少しずつ明らかになって来た。相変わらず、人類の全てを注ぎ込んだ装飾が施されているが、今は瘴気と相まっておどろおどろしい物へと変わっている。そんな中で見えて来た通路の曲がり角へ近付いた瞬間、一行の耳に地響きに近い轟きが届いて来た。

 

「カミュ……」

 

「竜種か?」

 

 轟く雄叫びは、この五年の旅で何度と無く聞いて来た物に酷似していた。

 世界最高位に位置する種族である『竜種』と呼ばれる種族。その大地の守護者として君臨する女王の下、生存する全ての種族の頂点に立つ強靭さを持った希少種でもある。最下級に位置するスカイドラゴンと呼ばれる龍種でさえも、人類からは神獣の扱いを受ける程の者であり、更に上位に位置する者達の中には、神格さえ備えている者も多かった。

 如何に人類の枠を大きく出てしまったカミュ達であったとしても、竜種が相手であれば死という最悪の結果と隣り合わせの戦闘を余儀なくされ、命の危機を換算しての勝利への道筋を生み出さなければならない。それ程の相手であった。

 

「ルビス様の封印を護る存在が竜種なのですか?」

 

「竜の女王様の下僕という訳ではないのだろうな」

 

 竜の女王は上の世界の守護者でもある。精霊神ルビスと共闘出来る程の力を備え、魔王バラモスを討ち果たしたカミュ達でさえも恐怖に陥れる程の威圧感を持っていた。そして、何よりも大魔王ゾーマの危険性を理解しており、敵として認識していた女王であれば、精霊神ルビスの解放を邪魔する訳はないのだ。

 もし、この場所に竜種が居るのだとすれば、それは既に大魔王ゾーマの下に就いた者達であり、カミュ達の明確な敵となる。そして、これ程に重要な役割を担う竜種となれば、それ相応の力を宿した者達となるだろう。

 

「メルエ、大丈夫か?」

 

「…………ん…………」

 

 曲がり角を曲がって直ぐに竜種の吐き出す火炎に巻き込まれては一巻の終わりである。一歩踏み止まったカミュは、曲がり角の先へ注意を向けながらも後方にいる少女を気遣った。

 ヤマタノオロチと相対する時には、それがいるであろう方角へは絶対に踏み入れさせないと彼にしがみ付いた少女は、その竜種と遭遇した時に恐怖によって縛られてしまっている。また、全ての竜種の頂点に立つ竜の女王の城では、その雄叫びを聞いた瞬間に恐怖と怯えで自分で歩く事さえも拒否するまでになっていた。

 聞こえて来た雄叫びを聞く限り、今まで遭遇して来た竜種の中でも上位に位置する力を有した相手である事が想像出来る。竜の女王程ではないにしろ、竜種の中でも極めて強力な存在であろう。なればこそ、メルエが恐怖を感じてしまうのではないかとカミュは考えたのだ。

 しかし、そんなカミュの心配は杞憂に終わり、しっかりと頷きを返した少女は右手に自分の背丈よりも大きな杖を握り締めた。

 

「行くぞ」

 

 先頭にいる青年の言葉に大きく頷いた三人の女性は、それぞれが瞳に覚悟を宿し、強敵との戦闘に心を定める。これまでも楽な戦いなど一度も無かったが、このアレフガルドに入ってからは更に戦闘が厳しくなっていた。それでも彼等は前へ進むしか選択肢は無く、今回もその選択の先に勝利があり、着実に自分達の目的へと近付く一歩を踏めるのだと信じて疑わない。

 だが、竜種と云う世界最強種の幅は、彼等人間に理解出来る範疇を超えていた。時代によっては神と同格に崇められ、場所によっては天災と同様の災害を巻き起こす諸悪の根源と恐れられる竜種と云う存在は、人間程度が定めた枠組みなど瞬時に破壊し、その全てを飲み込む程の物。

 カミュ達四人は、自分達の浅はかさと、無力さ、そして知らぬ内に驕り高ぶった心を思い知る事となる。

 

「グオォォォォォォ!」

 

 最早、息を吐き出す事も出来ない。その圧倒的な存在に対し、先頭で曲がり角を曲がってその空間へ入り込んだ勇者でさえも身を竦ませてしまった。空気全てが震え、塔の壁が崩れるのではないかと錯覚する程の恐怖が支配して行く。

 曲がり角を曲がった先には広々とした空間が広がっており、向こう端が見えない広さを有していた。その空間の中で数多くの宝箱が散ばっており、ここが精霊神ルビスを迎える為に行う儀式の為に人間が入る事の出来る最後の場所である事を示している。これより上部は精霊神の領域であり、どれ程に高位な僧侶であろうと入り込む事は出来ないのだろう。

 周囲を囲むように人型であったであろう石像が並んでおり、精霊神ルビスを迎える為に参上した数多くの精霊を模している事がわかる。森の精や泉の精、そんな数多くの精霊達の首がそこら中に散乱していた。

 

「カ、カミュ様……」

 

「カミュ、これは勝てないぞ……」

 

 その広々とした空間には、世界の最大脅威であった魔王バラモスを打倒した勇者達でさえ絶望する光景が広がっている。精霊を模した石像全てを打ち壊し、尚も怒り収まらぬかのように雄叫びを上げる巨大な竜。吐き出されたであろう炎が揺らめき、それに照らし出されたその姿は、人間であれば誰しもが恐怖を抱く象徴そのものであった。

 これまでの旅で一度たりとも弱気になった事の無いリーシャでさえも、その眉は下がり、絶望を感じる程の威圧感。魔王バラモスと相対した時よりも強く感じる圧倒的な力量の差に、サラは言葉を失っていた。

 緑色に輝く鱗に身を包み、四本の足を床につけて長い首を縦横無尽に動かす。頭部から銀色の鶏冠のような物が背中にまで伸びている。長い首の先にある巨大な頭部は角のような物が生え、大きく裂けた口からは鋭い牙が輝いていた。

 その巨大な敵が四体。それは正しく絶望的な光景であった。

 

「グオォォォォォ」

 

「はっ!? フ、フバーハ!」

 

 カミュ達の侵入に気付いた一体の竜が大きく口を開いたのを見たサラが我に返る。即座に詠唱を開始し、両手を前へと突き出した。その手を起点に生み出された霧のカーテンが、竜の口から吐き出された激しい炎を受け止める。蒸気を上げて消えて行く霧はその炎の火力を弱めて行った。

 それでも蒸気によって視界が奪われた一行は、近付いて来た一体の動きに気付くのが遅れてしまう。横薙ぎに振り抜かれた首は、カミュの真横から飛び出し、その一撃を受けた彼は真横に大きく吹き飛ばされた。

 真横に吹き飛ばした青年が転がるのを見届けた竜は、追い討ちを掛けるように大きく口を開く。真っ赤に燃え上がった火炎が見えた瞬間、一気にカミュへ向かってそれは放出されて行った。

 

「ぐっ……ア、アストロン」

 

 身体を起こしたカミュは視界が真っ赤に染まっている事と、肌を焼くような熱気を感じて、即座に最強の防御呪文を行使する。一拍置いて変化して行く身体が、何物も受け付けない鉄へと変わって行った。

 真っ赤な火炎がカミュであった物を包み込み、それを見ていたリーシャ達は息を飲む。広々とした空間全てを照らし出すような火炎は、転がっていた宝箱諸共周囲を焼き尽くした。

 

<ドラゴン>

世界最高種族である竜種の中でも最も上位に位置する存在。遥か太古からこの世に生を受け、最も古い竜種とも云われている。他種族がその姿を見て、竜という種族を認識したとさえ考えられており、その名も『竜』という呼称そのままを持つ。

戦闘方法に奇抜な物はなく、口から吐き出される火炎と、圧倒的な暴力のみによって他者を圧倒する程の力を有していた。その正攻法の戦闘方法と、その姿の美しさから、他種族から崇められる事もあり、人間の伝承に残る竜種の姿の多くが、その姿によって描かれている。

 

「…………マヒャド…………」

 

 鉄と化した青年へ容赦なく放射される火炎を遮るように唱えられた最上位氷結呪文が凄まじい冷気を呼び、火炎とぶつかり合う。杖を振るった少女が青年の無事を確認する暇も無く、他のドラゴンがその大きな口を開いて少女を噛み砕こうと牙を剥いた。

 一気に迫りそのまま相当な力で持って閉じられる口を抑え込むように掲げられた銀色に輝く盾が乾いた金属音を響かせる。この幼い少女の危機に駆け寄る存在は三人いるが、今回はその内の一人である女性戦士が円形の盾を掲げてその牙を防いでいた。

 

「サラ!」

 

「ルカニ」

 

 盾で再度迫る牙を弾いたリーシャは、カミュへの回復を終えたサラへ補助呪文の行使を指示する。その短い指示で全てを理解した賢者は、リーシャが相対しているドラゴンへ向けて防御力低下の魔法を唱えた。

 詠唱と同時にドラゴンの身体をサラの魔法力が包み込む。しかし、その光は何かに弾かれるように弾け、塔内部へ霧散してしまった。それは竜種最高位に位置するドラゴンの特性なのか、それとも偶然なのかは解らない。だが、世界唯一の賢者が行使する呪文が効かなかった事だけは確かであった。

 

「うらぁぁぁ!」

 

 それでも、目の前のドラゴン一体を退けない事には行動に移れないリーシャは、無理な態勢から斧を振り下ろす。真っ直ぐに振り下ろされた魔神の斧が、彼女に向かって伸ばされていたドラゴンの首に吸い込まれて行った。

 だが、竜種最高位の鱗の硬さは、一行の考えの遥か上を行く物であった。

 魔神の斧の刃は、確かに一体のドラゴンを傷つけている。それでも、それは巨体を持つドラゴンの僅か一部分でしかなく、とてもではないが致命傷に成り得るような傷ではない。微かに見える傷口からは奇妙な色の体液が零れ、床へと滴り落ちてはいるが、巨大な瞳は怒りによって真っ赤に燃えていた。

 

「フバーハ!」

 

「グオォォォォ」

 

 怒りに狂ったドラゴンの危険性に気付いたサラが即座に詠唱に入る。目の前で大きく開かれたドラゴンの口の奥に燃え盛る火炎を見たリーシャは、水鏡の盾を掲げて後方のメルエを護るように身構えた。

 リーシャの目の前に濃い霧のカーテンが生まれたのと、ドラゴンが火炎を吐き出したのはほぼ同時であった。一気に押し寄せる高温の火炎は、濃い霧に突き破ってリーシャの身体を焼いて行く。直接受けるよりも軽減はされているが、それでも無傷とは行かない。肌は焼け、髪は焦げ、意識さえも飛ばされそうになる。そんな中、後方から押し寄せて来る冷気がリーシャの意識を戻し、身体を冷やして行った。

 

「…………むぅ…………」

 

 母親のように想っている女性戦士を傷つけた相手に対し、憎しみに近い鋭い瞳を向けたメルエは、杖を握り締めてリーシャの傍に立つ。駆け寄って来たサラがリーシャへ回復呪文を詠唱するのと同時に振り下ろされた少女の杖から、巨大な火球が生み出された。

 大魔王が生み出したと云われ、魔王が行使していた最上位火球呪文。圧縮された火球の熱は、竜種最高位に位置するドラゴンが吐き出す火炎よりも遥かに高温である。迫り来る大火球を前にドラゴンが火炎を吐き出すが、それを防ぐように生み出された霧のカーテンを突き抜けて来る火球を避ける術はなかった。

 

「グォォォォ」

 

 顔面に大火球を受けたドラゴンは、苦悶の叫びを上げる。圧縮された最上位の火球は、竜種の鱗を焼き、溶解させた。ドラゴンの片目は潰れ、左半分の口元の鱗が焼け爛れている。それでもドラゴンの命を奪う事は出来ず、逆に怒りを増長させる結果となった。

 回復呪文によって身体の傷を癒されたリーシャは、咄嗟にメルエを引き戻す。一気に引き戻された事で呼吸が止められたメルエであったが、先程まで自分がいた場所がドラゴンの前足によって粉砕されたのを見て肝を冷やした。

 引き戻されたメルエを抱き止めたサラは、一瞬疑問に思う。自分達は三人であるのに対し、目の前で怒り狂っているドラゴンは一体。しかし、この空間に入った時に遭遇したドラゴンの総数は四体であった。ならば、残りの三体は何処にいるのか、と。

 

「!!」

 

 その答えは直ぐに見つかる。簡単な答えであり、当然の答えは、怒り狂うドラゴンの向こう側に示されていたのだ。

 リーシャ、サラ、メルエが一箇所に集まり、一体のドラゴンと対峙しているとなれば、必然的に残る一人が三体を相手しているという事になる。その絶望的な光景は、顔面の傷による痛みに悶えた一体のドラゴンが位置を変えた事によって、彼女達三人の眼前に広がった。

 吐き出される火炎を鉄となって防ぎ、鉄化が解けたところに振り抜かれる尾を受けて弾き飛ばされる。剣による一撃で傷を付けるものの、残る二体からの攻撃によって真っ赤な鮮血を噴き上げた。何度倒れようとも、淡い緑色の光を生み出して身体の傷を癒し、迫る三体の竜種を相手取るその姿は、勇者そのもの。だが、それでもその力の差は歴然であったのだ。

 

「カミュ!」

 

 太い尾で床に叩きつけられたカミュが回復呪文を詠唱している最中に他の一体の前足が振り抜かれる。勇者の盾を掲げる事も間に合わず、前足の爪で刃の鎧諸共に傷つけられたカミュから真っ赤な鮮血が迸った。

 吹き飛ばされたカミュの意識は刈り取られており、ぐったりと倒れ込んでいる。そんな勇者に向けて三体のドラゴンが同時に口を開いた。それは、心が凍り付いてしまう程の絶望であり、世界の希望が潰えてしまう可能性。

 だが、それを認めてしまう程に彼等の心は弱くはない。

 

「…………マヒャド…………」

 

「マヒャド」

 

 世界最高位に立つ魔法使いが最も得意とする氷結呪文の中でも最上位に位置する魔法が、二人の呪文使いから放たれる。それは最早暴走する冷気となり、塔の階層全てを凍りつかせてしまうのではないかと感じる程の嵐を呼んだ。

 一人の青年を護るように吹き抜けて行く冷気の壁が、三体のドラゴンが吐き出す火炎と衝突し、真っ白な蒸気を生み出して行く。そんな二人の呪文使いへ向かおうとする手負いのドラゴンの前に一人の女性戦士が立ち塞がった。

 

「邪魔をするな!」

 

 一気に振り抜いた魔神の斧がドラゴンの牙と交差する。凄まじい音を立てて衝突する両者は、竜種の足元にも及ばない力しか有していない人間に軍配が上がった。

 根元からドラゴンの牙を折った斧は、そのまま高々と掲げられ、片目を潰したドラゴンの鼻先に振り下ろされる。緑色に輝く鱗を突き破り、魔神の斧はドラゴンの鼻先から口に掛けて大きく斬り裂いた。

 凄まじい絶叫を上げたドラゴンは、自身の口元を斬り裂いた女性戦士から距離を空ける。その隙を突いて止めを刺そうとしたリーシャは、横合いから出て来た強靭な尾を見落としてしまっていた。

 

「リーシャさん!」

 

 水鏡の盾を掲げる暇も無く筋肉で構成された尾を受けてしまった彼女は、サラとメルエの後方へ吹き飛ばされ、壁に直撃する。手負いとはいえ、世界最高種族である竜種であり、その生命力と強靭さは他種族を寄せ付けない。

 単純な攻撃方法しか有していないドラゴンという種は、その能力だけでも世界最高種族の上位に位置するからこそ、小賢しい能力を必要としないのだ。この世に生を受けた時点での強者であり、彼等を下に見る者達など限られた存在しかいない。それは、単純な程の世界の理なのであった。

 

「…………むぅ…………」

 

「あっ!?」

 

 吹き飛ばされたリーシャが床へ落ちると同時に盛大に血液を吐き出したのを見て、サラは慌てて駆け寄ろうとするが、自分が動いてしまえば幼いメルエを竜種の前に残してしまう事に気付き、振り返る。だが、当の少女は、真っ直ぐにドラゴンを睨みつけ、不穏な空気を纏い始めていた。

 一気に膨れ上がるメルエの魔法力が、彼女がその身に宿す強大な能力を放出させようとしている事を物語っている。既に『悟りの書』に記載されている呪文の中で『経典』寄りの物以外を網羅しようとしている彼女が行使出来る呪文は、世界そのものを変えてしまう程の力を有しているのだ。それが怒りと云う感情の下で制御を無視して爆発させてしまえば、この場に居る全ての物を巻き込みかねない。『魔法使いメルエ』は、既にそういう存在であるのだった。

 しかし、そんなサラの不安は既に遅かった。

 

「…………イオナズン…………」

 

 世界唯一の賢者をして、『彼女こそが本来の使い手』と云わしめた呪文が、一気に解放される。距離を取っていたドラゴンの頭上の空気を中心に一気に圧縮されて行き、耳鳴りがする程に周囲の空気が薄くなって行った。

 リーシャに駆け寄ろうとしていたサラの視界が歪む程の空気の圧縮。それは魔王バラモスが何度も行使していた呪文よりも速く、そして範囲が広かった。『経典』、『魔道書』、『裏魔道書』、『悟りの書』と数多くの魔法書にある攻撃呪文の中で、頂点に君臨する破壊力を誇る攻撃呪文が今、精霊神ルビスを迎える為の叡智の結晶である塔内部で解放される。

 

「きゃぁぁぁぁ」

 

 圧縮された空気が一気に弾ける。凄まじい轟音と、目を開く事も出来ない光が広がった直後、抗う事も出来ない爆風がサラを襲い、その身体はリーシャが横たわる床付近まで飛ばされた。塔が軋むように揺れ、天井を形成している鉱石が崩れ落ちて来る。天井を支える柱に亀裂が入り、手負いのドラゴンがいた床は陥没するように抉れていた。

 最高位の破壊力を有する爆発呪文が解放されて無事である事が出来るのは、本来術者だけとさえ云われている。全てを巻き込み、全てを無に返すとまでに『悟りの書』で記載されていたその呪文をサラはメルエに慎ませていた。彼女がそれを行使する所を初めて見た時、これを行使するのは開けた場所であるか、それとも一行が絶体絶命の窮地に陥った時だけと考える程の威力を発揮したからだ。

 現状が、勇者一行にとって絶体絶命の危機と考えられない事もない。竜種の最上位に位置するドラゴン四体を一度に相手する事は、今の彼等には荷が重すぎていた。

 慢心していた訳ではない。自分達の能力を過信していた訳でもない。それでも、彼等は魔王バラモスを打ち倒したという確かな実績と自信を持ってアレフガルド大陸へと降り立ったのだ。アレフガルド大陸に生息し始めた魔物達が上の世界よりも強力である事も理解していたが、それでも前へ進んで行けると信じていた。仲間への信頼と、自身の力を信じる余り、自分達の種族と云う当たり前の事を失念してしまっていたのだろう。

 

「ベホマラー」

 

 天高く突き上げたサラの腕から淡い緑色の光が降り注ぐ。少し離れたところで倒れ込むカミュと、傍で意識を失っているリーシャ、そして自分とメルエにも降り注ぐ緑色の光が、傷ついた身体を癒して行った。

 メルエの目の前に居た手負いのドラゴンの姿は最早無い。凄まじい程の爆発の中心に居たドラゴンの身体は解放された魔法力と共に弾け飛び、既に肉片と化していた。だが、その魔法による被害も凄まじく、塔の二階部分の広い空間は見る影も無い。掘り込まれていた鮮やかな彫刻は全て消え失せ、無機質な岩肌が剥き出しになっている。周囲に散ばっていた奉納品の入った宝箱は一つ残らず消滅し、亀裂の入った床だけが残されていた。

 カミュを襲おうとしていたドラゴン達も無傷ではなく、その鱗は焼け爛れ、体液がにじみ出ている箇所さえもある。だが、それでも三体は健在。むしろその怒りに拍車が掛かっており、凄まじい咆哮と共に真っ赤に燃え上がった瞳を幼い少女へと向けていた。

 

「メ、メルエ!」

 

 一体のドラゴンが先程の災害に近い状況を生み出した少女を標的として突進を開始する。自身の身体から一気に魔法力を放出した事で先程までの怒りが落ち着いてしまったメルエは、そんなドラゴンを呆然と眺めていた。

 魔法力が枯渇した訳ではない事は、彼女がしっかりと床を踏み締めている事でも解る。だが、一気に多くの魔法力を失う脱力感を味わった彼女は、一瞬の間ではあるが自我を放棄してしまっていたのだ。

 それは、世界最高種族である竜種を前にしては致命的な一瞬であった。

 

「ぐぎゃ」

 

 呆けたメルエは後方へ押され、その隙間に入り込んだ影が奇妙な声を漏らす。幼い少女の視界を真っ赤に染め上げたのは、その影の身体から噴出した鮮血。大量の血液がメルエの頭から降り注ぎ、生臭い鉄の香りが鼻を突いた。

 吹き飛ばされた影は数度床に叩き付けられ、暫しの痙攣の後に動きを止める。広がって行く血液の海がその傷の深さを物語っており、致命傷は免れていたとしても、放っておけば死に至る程の傷である事が解った。

 倒れた者が纏う水色に輝く織物が、血の色に滲んで色を変えて行く。姉のように慕い、師のように敬い、好敵手のように対抗心を燃やす相手が、地に伏してしまった。それは、少女の心を深い絶望の淵へと落とす程の物。

 自身を回復する呪文を行使しようと身を動かすその姿で息がある事は解るが、それを今のメルエは理解出来ない。何度と無く味わって来た深い絶望と、足元さえ不安定になる程の恐怖が彼女の胸を襲い、自然と瞳に涙が溜まって行った。

 

「グオォォォォォ」

 

 そんな少女の心を慮る配慮など、ドラゴンが持ち合わせている訳が無い。放心したようにサラが倒れる場所を見つめる少女に向けて、一体のドラゴンの口が大きく開かれた。見えるのは渦巻く火炎。激しく燃え盛る火炎が、幼い少女の全てを飲み込もうとしていた。

 彼女の未来も、夢も、希望も、そして何よりも求めている愛情さえも飲み込み、消滅させる火炎が吐き出される。周囲全てが真っ赤に染まり、幼い少女の全てが赤く塗り潰されて行った。

 

「ぐあぁぁぁ」

 

 それでも少女は深い愛に護られ続ける。

 既にこの世にはいない両親や、その身を母親から譲り受けたホビット。最後には身を挺して魔物から護った義母や、失った自身の娘の影を重ねながらも愛情を注いでくれた稀代の商人まで。彼女の半生は、深い悲しみと絶望に覆われながらも、確かな愛によって常に護られて来たのだ。

 そして、その愛は確実に受け継がれている。不思議な雰囲気を持ち、本人さえも解らない謎を持つこの少女に無条件の愛情を四年以上も注ぎ続けて来た者達は、今も彼女の傍らを離れる事はない。『いつも一緒だ』と宣言してくれた母のような女性は苦悶の表情を浮かべながらも、少女の身体を右腕で抱え上げた。

 左半身を炎で焼かれ、伸び始めた美しい金髪は再び焦げている。女性として見目麗しい顔は、左側の皮膚が爛れ、瞼は腫れ上がっていた。装備している盾は真っ赤に染まり、それを持つ左腕の皮膚が溶けて金属に張り付いている。それでも尚、先程まで瀕死であった筈の彼女は幼い少女を抱き抱えて、起き上がり始めた賢者の許へと駆けた。

 

「うおりゃぁぁぁ」

 

 左足も焼け爛れ、思うように重心が取れないリーシャが必死に駆ける姿を嘲笑うかのように、もう一体のドラゴンが再び大きく口を開く。渦巻く炎が喉の奥に見え、残る右目でそれを見たリーシャが悔しげに顔を顰めた時、この世界に舞い降りた勇者の一閃がドラゴンを襲った。

 雷神の怒りを表現した剣の凄まじい一撃を受けても、ドラゴンの首が落ちる事はない。それでも閉じられた口から火炎が放射される事はなく、再び三体のドラゴンと勇者の戦闘が開始される。彼とて不死身の生物ではない。何度も叩きのめされ、何度も回復を続けて来たその身体は満身創痍。体内に残る魔法力でさえ、それ程多くの残量がある訳ではないだろう。

 それでも、彼はそこに立ち続ける。

 

「リ、リーシャさん……は、はやく横になって下さい!」

 

「…………リ、リーシャ…………」

 

 自身の身体に回復呪文を掛けていたサラは復活を果たしている。致命傷とはならぬまでも、深く抉られた傷からは未だに血が滲んではいるが、それでも死へ至るような峠は既に越えているだろう。そんな賢者の頼もしい姿を見たリーシャは、抱えていたメルエを下ろすと同時に、前のめりに倒れ込んだ。

 倒れ込む衝撃でミスリルヘルムが外れ、焦げ付いた金髪の束が剥がれ落ちる。左半身の焼け爛れた肉は真っ赤に腫れ上がり、痛々しく体液が滲み出していた。生物とは、これ程の火傷を全身の三割近く受ければ死に至ると云われている。リーシャの身体の左半身全てがこのような状態である以上、最早一刻の猶予もなく、サラは即座に最上位回復呪文の詠唱に入った。

 

「…………リーシャ…………」

 

「……メ、メルエ……怪我は…ないか?」

 

「リーシャさん! 口を開かないで! もう、しゃべらないで下さい!」

 

 右側から自分の顔を覗き込む少女を滲む視界で捉えたリーシャは、動く右腕をその頬へそっと当て、少女の無事を確認する。そんな女性戦士の動きを涙ながらに叱りつける賢者の右腕からは今も血液が滲み出していた。彼女とて、瀕死の状態から回復呪文を懸命に唱えているのだ。最上位呪文を行使出来るような安定した精神状態ではなく、中級の回復呪文で処置した身体は完全に回復しているとは言い難い。

 最早メルエの姿さえもはっきりと見えないであろうリーシャであったが、自分の頬に落ちて来る雫を感じて小さな笑みを浮かべる。右半分の口しか動かず、歪な笑みにはなってしまっているが、それでもそれを見つめている少女の心の奥深くに届いた。

 その笑みを見た少女の表情が劇的に変化する。今まで涙していた瞳を強く閉じ、再び開いた時にはその光の奥底に明確な怯えを映し出す。何かを恐れるように、何かを不安がるように、それでいて、その全てを失う覚悟を宿しているかのように輝く瞳の光は、とても儚く、そしてとても強い物であった。

 

「…………リーシャ……メルエ……きらい…なる…………?」

 

 怯えと不安を帯びた声は震え、擦れる程に小さな呟きはドラゴン三体の咆哮によって消え去ってしまう。傍で詠唱の準備を終えようとしていたサラでさえもはっきりと聞こえなかったその呟きだが、彼女の姉を自負し、共に居続ける事を宣言した女性戦士に残った右耳にだけは届いていた。

 少女の頬を触れていたリーシャの右手が弱々しい拳を作り、それを幼い少女の頭へと落とす。『こつん』という小さな音が、場違いのように響き渡り、驚いたように目を見開いたメルエは再び口元だけで笑みを作るリーシャを見た。

 

「ば、ばかもの……私が…メルエを嫌いになるものか。た、たとえ……何があろうと、メルエが何であろうと……私は、メルエとずっと……一緒だ」

 

「リ、リーシャさん……お願いですから、もう話さないで……」

 

 弱々しい言葉は幼い少女の不安も怯えも、恐怖も怒りも吹き飛ばす。息も絶え絶えとなり、薄れて行く意識の中、それでも尚自分へ笑みを向けてくれるその姿は、少女の心に何かを生み出した。

 涙ながらに懇願しながら回復呪文を詠唱したサラの腕から圧倒的な魔法力がリーシャへと流れ込む。最上位の回復呪文は死者を蘇らせる呪文ではない。受ける人間の生命力が残っており、尚も生にしがみ付こうとする者だけがその恩恵を受ける事が出来るのだ。だが、現状のリーシャには、その生命力の強さが足りない。彼女に限って生を諦める事はしないが、気持ちだけではどうしようもない程に残る生命力が足りないのだ。

 それでも緑色の癒しの光を受けたリーシャの身体が癒されて行き、焼け爛れた皮膚が戻って行くにつれて、弱々しく乱れていた呼吸が正常に戻って行く。それは、サラの回復呪文が間に合った事を意味しており、リーシャの生への執着が勝利した事を物語っていた。

 そこで初めて、涙で歪む視界の向こうで、幼い少女が顔を上げた事にサラは気付く。そして、その表情が他者へ恐れを抱かす程に鬼気迫る物であり、その内にある魔法力が凄まじいまでの動きをしている事を感じるのだった。

 

「メ、メルエ?」

 

「…………サラ……カミュにも…………」

 

 無意識の恐怖によって震える声で呼びかけたサラに返って来たのは、いつもとは全く異なる確りとした言葉。彼女がその言葉の意味を聞き返そうとしたその時、先程までドラゴン三体を相手していた勇者が近くの壁に叩きつけられた。

 既に満身創痍の状態であり、左腕と右足は奇妙な方向へ曲がっている。ドラゴン三体の内、二体もまた重度の傷を負ってはいるが、それでも死にまでは至っていない。本来であれば、一行全員で一体か二体の相手が精一杯なのだろう。それを一人で戦い続けていた青年が無事である訳はない。

 

「…………マヒャド…………」

 

 カミュへ駆け寄ろうとしたサラの前方で、メルエが左腕を大きく振るう。それと同時に呟かれた詠唱の言葉に乗って、冷気の嵐が吹き荒れる。カミュの追い討ちを掛けようとしていたドラゴンが吐き出した炎を包み込んだ圧倒的な冷気が、ドラゴンの口元までも凍らせて行った。

 痛みと熱で表情を歪めるカミュの身体を強い緑色の光が包み込む。折れた腕と足を正常の場所へ戻した事の痛みと熱だった事に気付いたカミュは、それまでの一瞬だけでも気を失っていた事で慌てて周囲の状況を確認した。

 自分の傍で膝を折って座り込んでいる賢者の背中。そしてその賢者が視線を向ける幼い少女の姿。心なしか、賢者の身体が小刻みに震えている事が、カミュの心に大きな不安を生み出していた。

 

「……まさか、メルエ……そんな……」

 

 自分の傍にいる賢者が何を呟いているのか、カミュには意味が解らない。だが、その視線の先に居る少女が纏い始めた魔法力が彼が見て来た物とは全てが異なる事だけは理解出来た。

 その魔法力は禍々しく、とても人間が発する物とは思えない。その纏われた空気に気付いた三体のドラゴンが一斉に首を一人の少女へ向け、標的として定めた。それでもその禍々しい魔法力は幼い少女全てを包み込み、強力さを増して行く。この広い空間全てを飲み込むような雰囲気を放つ一人の少女が全てを支配して行き、鋭い視線を向けていた三体のドラゴンの瞳に怯えの色を生み出して行った。

 

 

 

 体内に備えた膨大な魔法力を禍々しい物へと変えて行く少女を呆然と見つめながら、サラは一年近く以前の出来事に想いを馳せる。既に詠唱の完成を待つだけとなり、後はその小さな口で呪文の名を告げるだけという状態にまで高まったメルエが、あの時感じた不吉な予感そのもののようにサラには感じられていた。

 それは、このアレフガルドへ降り立つ前。かなり昔の段階の話ではあるが、ネクロゴンドの洞窟へ入る以前にまで遡る。

 ドラゴンとの戦闘で何度も行使を行い、何度もカミュやリーシャを救って来た氷結系呪文の最上位の契約が済んだ頃である。あの時も近場の森で共に『悟りの書』を眺め、新しく浮き出て来た文字を見つけては二人で喜び合い、その魔法陣を描いて契約の儀式を行っていた。

 氷結系を元来得意呪文とするメルエは、その最上位の呪文も難なく契約を済ませ、後はその行使に関しての修練を積むだけになっている。それはメルエの歳を考えると異常な速さであり、賢者となったサラでさえも契約が出来ていない事を考えると、その才能の異常性が明らかであった。

 

「ふふふ。でも、これでメルエは『悟りの書』に記載されている呪文のほとんどを覚えてしまいましたね。行使する必要性のない呪文も含めて、全てと言っても良いかもしれません」

 

「…………むぅ…………」

 

 契約が出来た事に喜びを表していたメルエを見ていたサラは、微笑みを浮かべて賛辞を述べる。既に、この幼い少女は、『悟りの書』に記載されているほぼ全ての呪文の契約を済ませたと言っても過言ではない。最早、二人が読めないページは残り数枚しかなく、読めるページに記載されていた魔法陣は全て描き終えていたのだ。

 勿論、描いた魔法陣の中でもメルエが契約出来ない呪文は存在した。だがそれは、ベホマなどといった回復呪文や、フバーハのような補助呪文であり、本来賢者としての祝福を受けていないメルエでは行使出来ない呪文である為、当然の結果である。当の本人であるメルエは非常に不満であり、自分が契約の出来ない呪文をサラが契約してしまった場合、ほぼ半日は頬を膨らませる事になるのだが、それはまた別の話であった。

 

「え? あれ……このページの文字が読めるようになっていますね」

 

「…………サラ……かく…………」

 

 傍にあった『悟りの書』を拾い上げたメルエは、書の後方にあるページを開き不満そうにサラへと突き出す。そのページは、つい先日まで文字が浮かび上がっておらず、白紙のままであった。それが、今はしっかりと文字と魔法陣が浮かび上がり、その呪文の名と効力、そして特性がしっかりと記載されている。最上位の呪文の魔法陣を最近では描き続けて来たサラから見ても、その魔法陣はかなり複雑なもので、木の枝をサラへと手渡そうとするメルエに直ぐには手を伸ばす事が出来なかった。

 また、その呪文の効果や特性は、魔法陣以上に特殊な物であり、そこに記載されている内容から見ても、簡単に手を出して良い物ではない事は明らかであったのだ。

 

「この呪文は、おそらく私もメルエも契約出来ませんよ。そして、万が一契約出来たとしても、絶対に行使出来ません」

 

「…………むぅ………メルエ……やる…………」

 

 『悟りの書』に記載されている文言を読み解いたサラは、自分達二人では行使はおろか、契約さえも出来ない事を悟り、魔法を誇りにしている少女に釘を刺すのだが、そんな窘めは即座に拒絶される。これまでも、ベホマやフバーハのように明らかにメルエでは契約が出来ない呪文であっても、絶対に魔法陣の中に入る事を譲らないメルエに溜息を吐いて来た。その度に落胆し、不満そうな瞳を向ける少女に辟易しながらも、少女の胸にある強い想いを知っているサラは、メルエの為に魔法陣を描いて来たのだ。

 今回の呪文は、メルエだけではなく、間違いなくサラも契約が不可能であろう事は、『悟りの書』を読めば理解出来る。それは、魔法使いだとか、僧侶であるとか、賢者であるとかという次元の問題ではなく、サラとメルエという存在では絶対に不可能であるという程の強い理由があった。

 

「仕方ありませんね。難しい魔法陣ですから、描くのに時間が掛かりますよ?」

 

「…………ん…………」

 

 結局折れる事となったのはサラであり、溜息と共に木の枝を受け取った彼女を見て、メルエは花咲くように微笑みを浮かべる。受け取った木の枝で、地面の土に丁寧に魔法陣を描いて行くが、かなり複雑で難解な魔法陣であり、賢者であるサラであっても何度も何度も書で確認しながら描かなければならなかった。

 どれだけの時間が経過しただろう。先程まで興味深そうに魔法陣を眺めていたメルエが、うつらうつらと舟を漕ぎ始めた頃、ようやく複雑な魔法陣は完成を迎えた。曲げ続けていた腰を伸ばし、大きく息を吐き出したサラは、傍にある木の根元で眠気と戦っているメルエを見て苦笑を浮かべる。

 

「メルエ、出来ましたよ。先に言っておきますが、まず間違いなくメルエには契約出来ません。この呪文に関しては私も契約は出来ないでしょうから、膨れては駄目ですよ」

 

「…………ん…………」

 

 眠そうに目を擦りながらも、愚図る事なく魔法陣へと近付いたメルエは、『たいまつ』の炎に照らし出された魔法陣を見て目を輝かせる。早速魔法陣へ入ろうとした所で告げられたサラの言葉を理解したメルエは、神妙に頷きを返した。

 魔法に関してのサラの言葉は誤りが無い。絶対という訳ではないが、メルエの事に関してだけで言えば、絶対に限りなく近いのだ。故にこそ、メルエは彼女を心から信頼しているし、彼女を師と仰いでいるのだろう。そんなサラが契約出来ないと言えば、ほぼ間違いなく出来ないのであろうが、それでもメルエに『試さない』という選択肢は存在しない。どんなに小さな可能性であろうと、魔法という神秘で大事な者達を護ると決めた彼女は手を伸ばし続けるのだろう。そして、その心を誰よりも知っているサラだからこそ、溜息を吐き出しながらも彼女の為に魔法陣を描くのだ。

 

「えっ!? あれ?」

 

 しかし、そんなサラの確信に近い予想とは裏腹に、魔法陣の中央にメルエが座った瞬間、描かれた文字一つ一つが輝きを放ち、大きな光となって少女を包み込んだのだった。今までの経緯から、今回も契約は出来ないだろうと考えていたメルエも驚きの表情を浮かべ、自分を包み込む光と、周囲を巻くように流れる風を眺める。

 やがて治まりを見せた光は地面に吸い込まれるように消えて行き、メルエの髪の毛を巻き上げていた風も周囲に溶けて行った。何が起きたのかが理解出来ないサラは、魔法陣の中心で首を傾げるメルエを呆然と見つめる。それ程に異常な事が起きていたのだが、サラよりも再起動の速かったメルエが嬉しそうに微笑みを浮かべて魔法陣を出た事によって、賢者の思考が再起動した。

 

「メルエ、契約は出来ましたが、その呪文は行使出来ません。残念かもしれませんが、無理に行使しようとすれば、メルエの身体が壊れてしまうかもしれませんからね」

 

「…………むぅ…………」

 

 今まさに契約を済ませ、後は行使するだけとなった呪文があるにも拘らず、即座に駄目出しを受けたメルエは不満そうに頬を膨らませる。幼い少女にとって、契約が出来た呪文が行使出来なかった事などなく、先程もサラが契約出来ないと豪語していた呪文の契約が済んだ事もあって、認めたくはなかったのだろう。

 だが、サラの瞳が真剣な物であり、その瞳が宿す光が自分を心から心配している物である事を理解したメルエは、不承不承に頷きを返すのだった。

 落胆するように肩を落とし、道具を片付け始めたメルエの小さな背中を見つめながら、サラはもう一度先程の呪文の詳細が描かれた『悟りの書』のページへ視線を落とす。そこに記された文言は、サラの心の奥底にある不安と恐怖を騒がせる物であった。

 

『おそらく、この呪文の契約、行使が出来る者はいないだろう。何かの歯車が噛み合い、契約が完了してしまう事はあっても、この呪文を行使する事は出来ない。もし、この呪文を行使出来る者がいるとすれば、これを記す私の血を受け継ぐ者だけである』

 

 数多くの古の賢者達が自身が編み出した呪文を残す為に受け継がれて来た書が『悟りの書』であり、この書には多くの賢者達が自ら描き加えて来ていた。

 この最後の方のページに突如現れた魔法陣もまた、古の賢者の一人が編み出し、それを残す為に描いたものであるのだろう。誰も契約は出来ず、誰も行使する事が叶わない呪文であっても、それを残す事に何らかの意味があったのかもしれない。

 

『この書を私の血を受け継ぐ者が読む時の為にこの呪文を記し残す。竜種と人間との間に生まれた者の末裔であり、竜の因子を持つ我が血族の為に』

 

 この一文がサラの心に大きな不安と恐怖を残す。

 何故、今この時に、このページの文字が浮かび上がったのか。そして、それを何故メルエが契約出来たのか。その理由が解らず、理解する事自体が罪のように感じた為である。

 基本的に異種族との間に子は成せない。エルフと人間の間に子が産まれる事もなく、魔物と獣の交配によって子孫が繋がる事もないのだ。

 だが、それも皆無に近いというだけで、皆無ではない。本当に神の悪戯と言える確率の中だけで、神の祝福を受ける者達がいる。何万年に一つ、いや、何百万年に一つの可能性なのかもしれないが、それでも皆無ではなかった。

 その大いなる祝福を受けた者の血を受け継ぐ者が古の賢者の中にいる。それは有り得ない話のようでありながら、不思議ではない話でもある。人間やエルフの中でも特出した魔法の才能に恵まれ、『経典』の呪文も『魔道書』の呪文も網羅する事の出来る存在であれば、それだけの異能を持っていたとしても不思議ではないのだ。

 

 賢者となった自身に竜族の血が流れているのではないかという可能性を恐れた。だからこそ、サラはそれ以降あの魔法陣を描く事はなく、自分の記憶から消去しようとさえ考える。自分が人間ではないという恐怖は、サラの心の奥深くにある他種族への恐れという物を同時に心の奥深くへ仕舞い込んでしまったのだ。

 故にこそ、気付かなかった。ネクロゴンドの森付近でメルエが倒れていた時の光景を見ても、それが氷結系最高位の呪文の結果だと思い込んでいた。だが、それは、サラの中に残る恐怖を無自覚に押さえ込もうとしている結果の現れであったのだ。

 

 世界で唯一となった賢者が恐れ、この世界の奇跡とも呼べる神の祝福を受けた一族が残した呪文。

 その名は……

 

 

 

「…………ドラゴラム…………」

 

 放心するサラを押し退けて前へ出ようとしていたカミュでさえも、一歩も動く事は出来ない。それ程に禍々しい魔法力が一気に爆発し、幼い少女を飲み込んで行った。

 眩い光ではない。神々しい輝きでもない。それは竜の女王が人型になる瞬間に放っていた優しい輝きでもない。それらとは全く逆である他者を圧倒し、飲み込もうとする強大な威圧感。この場の全てを支配し、全てを消し去る事さえ可能な程の力の象徴であった。

 

「メルエ……」

 

 その魔法力の強大さ、そして凶暴さを目にしたカミュは、小さな呟きと共に大きな後悔で表情を歪める。彼の中で、カザーブの村で自分が彼女を魔法陣に誘い込まなければという後悔が今も残っているのだろう。あれがなければ、メルエはカザーブでトルドと共に幸せに暮らせていたかもしれないと考えれば、カミュ自身の感情を抜いてしまえば、メルエの幸せを奪ってしまったとさえ考えている節があった。

 それは、彼と共に歩んで来た女性戦士が何度『違う』と告げても変わりはしなかったのだ。

 

「グオォォォォ」

 

 禍々しい魔法力の渦の中、輝く光と共に巨大な咆哮が響き渡る。それは、この階層諸共に破壊してしまうのではないかと思える程の大気の振動を起こし、その場にいる全ての者達の心を飲み込んで行った。

 それは先程までこの階層を縦横無尽に暴れ回っていたドラゴンも例外ではなく、残った三体のドラゴンは、怯えを多分に含んだ瞳で禍々しい魔法力を見つめている。既に動く気力さえも失ってしまったのか、巨大な咆哮が響き渡ると、その場で足を畳んでしまう者までいたのだった。

 眩いばかりの輝きが消え、溢れていた禍々しい魔法力は収束されるように消えて行く。そして、その場所には一体の竜種がいた。

 目の前で怯える三体のドラゴンとは系統が異なるのだろう。二本の太い後ろ足で立ち、背中からは巨大な翼が広がっている。銀色に輝く鱗は、燭台の炎によって黄金のような輝きを放ち、長い尾は敵を煽るように床を叩いていた。

 

「メルエなのか?」

 

 サラによる回復呪文によってようやく意識を取り戻したリーシャは、自分のすぐ傍で咆哮を上げる巨大な竜種を見上げて小さな問いかけを呟く。それは少し離れたカミュやサラの耳には届く事はなく、三体のドラゴンが上げる怯えの雄叫びに掻き消されて行った。

 だが、何故か、目の前に居る巨大な竜だけは、そんなリーシャの方へ首を向け、大きな瞳に哀しみの色を浮かべる。その瞳を見たリーシャは、自分の考えが正しかった事を確信し、柔らかな笑みを浮かべるのであった。

 

「美しいな……。本当に美しい竜だ」

 

「グオォォォォ」

 

 銀色に輝く鱗を持つ竜は、希少種である竜種の中でも更に稀有な存在なのかもしれない。数多くの竜種を見て来たカミュ達ではあるが、その全てと比較しても、メルエであろうと思われる竜の姿は何よりも気高く、何よりも美しかった。

 世界の守護者でもあった竜の女王の姿を見ているリーシャであっても、それ以上に美しく輝く竜が神聖な者のように感じる。そんな賞賛の呟きに応えるように咆哮を上げた銀竜が目の前で怯える三体の竜へ鋭い視線を向けた。

 竜種の中でも最上位に位置するドラゴンでさえも怯え、竦んでしまう程に冷たい視線を向けた銀竜が一歩前へと進み出る。天井の高いルビスの塔内部でさえも手狭に感じる巨体が動いた事で、呆然とそれを見つめていたサラが尻餅を着いた。

 

「ギャァァァァァ」

 

 迫る恐怖に耐えられなくなった一体のドラゴンが、銀竜に向かって大きく口を開き咆哮を上げる。しかし、そのような咆哮を意に介す事なく踏み込んで来る銀竜に、ドラゴンは口から火炎を吐き出した。

 カミュ達一行があれ程に苦しめられた燃え盛るような火炎が銀竜に向かって迫って行く。だが、カミュやリーシャが声を漏らした時には、既に銀竜とドラゴンの戦闘は終了していた。

 口を大きく開いた銀竜は、迫る火炎に向かって息を吐き出す。吐き出された息は即座に真っ白な冷気となり、先程まで燃え盛っていた火炎諸共ドラゴンの身体までをも凍り付かせて行った。その冷気は氷結系最高位の呪文であるマヒャドよりも数段上の威力を誇り、一瞬でドラゴンの命ごと氷漬けにしてしまう。そんな哀れな同種に同情する様子もなく、銀竜は氷像と化したドラゴンの頭部を踏みつけ、粉々に砕いてしまった。

 

『氷竜』

最早、このアレフガルドだけではなく、上の世界であっても伝説と化した竜種である。永久凍土であるグリンラッドに生息するスノードラゴンの遥か上位に位置する種族であった。氷山を主な住処とし、全ての雪原を支配下に置く強大な竜種。火竜として括られる炎を吐き出す竜種よりも希少性の高い種であり、太古の竜の女王の側近を勤めていたという言い伝えも残っている。

多くの竜種を支配下に置く事で世界の守護の一助となり、多くの生物から守り神のように崇められていた事もある。吐き出す冷気は全てを凍りつかせ、振るわれた尾は永久凍土の氷さえも割る。大きく広げた翼で空を飛び、太い二本足で雪原を歩いて世界を守護すると云われていた。

 

「あ……あ…あ」

 

 怯えて許しを請うように鳴き声を上げるドラゴンを容赦なく氷像と化して行く氷竜を見上げるサラは、既に声を出す事も出来ない。その瞳には絶対的強者に対する恐怖が刻まれており、その恐怖を与えている存在が、自分と長く旅を続け、妹のように愛していた少女である事への戸惑いが見えていた。

 

 今更ながら思い返せば、メルエが竜の因子を含む血を受け継いでいると考えられる節は多々あったのだ。見上げるサラの脳裏に、その数々の出来事が思い返される。

 何度も何度もサラが注意をしなければ、メルエは厚着をする事を了承しなかった。身体が濡れてしまう事さえなければ、基本的にあの少女は寒さに強く、グリンラッドの地に辿り着いた時には、どんな吹雪の中でも笑みを浮かべて雪に触れ続けていた。それも、氷竜という雪原の支配者の因子を受け継いでいたのだとしたら、不思議な事ではない。

 竜種と人間の間に生まれた者の末裔である賢者が、『悟りの書』という書物を残し、それをガルナの塔へ封じたとすれば、あのガルナの塔で遭遇したスカイドラゴンがそれを守護していたのも頷ける。氷竜という最上位に位置する竜種の因子を受け継いでいるのであれば、スカイドラゴンのような下位の竜種を従わせる事も出来るだろう。

 サラは知る事がないが、『地球のへそ』と呼ばれる試練の洞窟の中でも、スカイドラゴンがカミュを迎えるように生息していた。あの神殿でカミュ達を出迎えた者が、竜種の因子を受け継ぐ賢者だとすれば、試練の洞窟でカミュが体験した事も、全てを見透かしたような言葉を発していた事も全て辻褄が合ってしまう。

 二度目にグリンラッドを訪れた際のメルエの変貌ぶりも同様である。氷竜という雪原最上位種の因子を彼女が受け継いでいたとすれば、その配下となるスノードラゴンなどに牙を向けられた事に怒りを表したとしても不思議ではなく、あの時のスノードラゴンの怯えようも解るというものだ。

 そして、何より、メルエという少女は、呪文を行使出来るようになってからも一貫して氷結系の呪文を最も得意としていた。彼女の放つヒャドは、その物質の原子さえも凍りつかせ、ヒャダルコは大抵の生物の命を奪っている。元々サラとメルエの魔法力の量に大きな差があるが、中でも氷結系呪文の威力は、同じ呪文であってもその差が激しかった。

 そんなメルエが怯え、恐怖した相手は、ヤマタノオロチと竜の女王だけ。となれば、両者とも、氷竜よりも上位にいる竜種となる。もし、ヤマタノオロチが完全な状態であれば、カミュ達など一瞬で命を落としていたのかもしれない。ジパングという島国の産土神は、それだけの存在であったと云えるのだろう。

 

「おい……おい!」

 

「!?」

 

 メルエと出会ってからの出来事が走馬灯のように流れ、その一つ一つの出来事がこの状況へと繋がる事に思い当たっていたサラは、容赦のない程に揺らされる強い力に我に返る。焦点の合い始めた視線の先には、険しい表情をした勇者が見えた。

 彼は、メルエが竜へと変わる経緯を知らない。同じように何故メルエが竜になるのかという事が解らないリーシャではあるが、彼女は瀕死の状態の際に、何かを決意するメルエを見ている。仲間の心の機微に関しては、誰よりも速く察し、誰よりも強く慮る彼女だからこそ、今のこの状況を受け入れる事が出来ているのだろう。

 だが、サラへ険しい表情を向ける彼は違う。メルエの実父からその身を託され、彼女が呪文を行使するという事に誰よりも責任を感じている彼は、幼い少女の幸せを護る義務を持っていた。それは、誰が何を言おうとも、彼の中での絶対的な優先事項なのだろう。

 

「メルエは……メルエは大丈夫なのか!?」

 

 強く詰問するような激しい問いかけが、今の彼の心を如実に表している。明確な焦りと、それ以上の不安。それは何物にも動じない勇者には珍しい感情であった。だが、その感情の全ては今三体ものドラゴンを相手取っている一人の少女へと向けられている。

 カミュにとっては存在すら知らない魔法。人間が竜の姿に変身するというのは、非常識の象徴と云える魔法という神秘の中でも更に際立った非常識である。変化の杖のような神代の道具を使用したとしても竜種の咆哮しか上げられない程に自我を失う訳がない。また、エルフに姿を変えた際にリーシャが魔法を使えるようになっていた訳ではない事を考えると、変化の杖での変身では、変身した相手の能力が使用出来るという訳ではない事が解っていた。

 なればこそ、今のメルエの状況は異常なのだ。リーシャは何やら納得しているが、正確に把握している訳ではないだろう。カミュに至っては混乱に陥る程に、状況が把握出来なかった為、賢者と呼ばれ、呪文や魔法の真相を追究し、そして幼い少女の師でもあるサラへ問い掛けているのだ。

 

「わ、わかりません……」

 

「ちっ!」

 

 しかし、そんなサラでさえ、この状況を正確に把握し、飲み込めている訳ではない。確証など何もなく、全ては状況証拠からの推測に過ぎないのだ。それでも、サラはそれが事実だと確信しているし、最早疑う事さえ出来なかった。

 メルエが何故竜の姿に変化したのかの理由が解る事と、その結果彼女の身体に及ぼす危険性を把握する事は異なった物である。絶対に行使は不可能だと思い込み、試行使の段階を踏んでいない以上、メルエの安全を約束する事は出来ないのだ。

 頼りない呟きのようなサラの答えを聞いたカミュは、苛立った舌打ちを盛大に鳴らす。彼としても、サラを糾弾するつもりなど毛頭ない。だが、その焦り故に、サラに対して強い対応になってしまっていた。

 

「グギャァァァ」

 

「グオォォォ」

 

 カミュとサラのやり取りの間に、最後の一体となったドラゴンと氷竜の戦いは終幕を迎えようとしていた。最後に残った一体が、追い詰められた鼠のように氷竜へと嚙み付いて行く。太い左足へ喰いついたドラゴンの牙が、氷竜の美しい銀の鱗を突き破り、赤ではない体液が床へと噴き出した。

 その光景にカミュとリーシャは同時に眉を顰め、その瞳の中に不安の色を浮かべるのだが、サラだけは、床に飛び散った体液の色を見つめ、表情を歪める。

 苦悶の雄叫びを上げながらも、氷竜は短い前足でドラゴンの頭部を叩き殴り、牙が外れたところで傷ついていない方の足で蹴り飛ばした。弾き飛ばされるドラゴンが床を転がり、盛大に体液を吐き出す。強力な一撃を腹部に受け、内部の臓物が傷ついたのだろう。それでも火炎を吐き出そうと口を開いたまま、そのドラゴンは氷像と化した。

 全てを凍りつかせる冷気を吐き出し終えた氷竜は、左足から痛々しく体液を流しながらも、勝利の雄叫びを上げる。階層全ての大気を震わせ、階層全体を大きく揺らす咆哮は、生物であれば誰しも恐れ戦く程の物であった。

 

「メルエ!」

 

 そんな咆哮を聞いても揺るがない二人の男女の叫びが重なる。雄叫びを上げた姿のまま大きな光に包まれた氷竜はその姿をゆっくりと変化させて行ったのだ。その光は、先程のような禍々しさはなく、優しく神々しい物であった。

 徐々に小さくなって行く竜の身体が、いつしか少女の物に変わり、そして床に倒れる。ドラゴラムという呪文がどのような構造になっているのか解らないが、メルエの衣服はドラゴンと化す以前のままであり、損傷している部分はなかった。唯一点、幼い少女の左足からは、滲むように血液が流れ出しており、それが彼女が先程の竜であった事を明確に物語っていたのだ。

 カミュよりも近くに居たリーシャが先に駆け寄り、その身体を抱き抱えた。安らかな少女の寝息を聞き取った彼女は、堰を切ったように涙を溢れさせる。遅れて辿り着いたカミュが即座にメルエの足に向けて最上位の回復呪文を唱え、安堵したようにその場に座り込んだ。

 

「カ、カミュ……この塔の探索は、今の私達では無理だ。ルビス様の解放は一時諦め、他の地へ向かおう」

 

「……ああ」

 

 竜種の最上位種であるドラゴン四体は倒した。一体は跡形もなく弾け飛び、その他の三体は氷像と化している。その全てを、今リーシャの腕の中で安らかな眠りに就く少女が行ったのだ。それは、カミュ達勇者一行の力でありながらも、認める事の出来ない力である。

 精霊ルビスの解放というアレフガルドを動かす大きな仕事を成すには、彼等一行の力は不足していた。最早、目指すのは大魔王ゾーマだけだと考えていた訳ではない。それでも、魔族や魔物に遅れを取る事はないと考えていなかったかと言えば、嘘になった。慢心でも過信でもないが、彼等はアレフガルドに生息する魔物達の力を見誤っていたのだ。

 

「サラ! リレミトとルーラを使ってくれ。一度マイラへ戻る」

 

「は、はい……」

 

 熱心なルビス教徒であるサラにとって、ここまで来ての一時撤退は認める事の出来ない事柄であろう。だが、今のサラの瞳の中にそれに対する不満は見えない。それとは次元が異なる何かが、彼女の心を蝕んでいるように見えた。

 ゆっくりと近付いて来たサラは、リーシャが抱き抱える少女へ視線を向ける事なく詠唱を開始する。カミュとリーシャが彼女の衣服を掴んだ事で、呟くような詠唱が完成した。一瞬の間の後、光の粒子へと変化した一行が、未だに冷気の残骸が残る階層から消えて行く。

 

 精霊神ルビスを封じた塔は、その封印を解こうとする者を防ぐ為に、強力な魔物が配置されていた。アレフガルド大陸の中でも上位に位置する魔物達の力は、魔王バラモスさえ討ち果たした勇者一行の力を凌駕していたのだ。

 アレフガルドで生きる者達の悲願である精霊神ルビスの解放は、現時点での勇者一行の力では成し遂げる事は出来ない。日々、濃い闇に包まれ始めるアレフガルドに余り時間は残されていないが、それでも彼等は自分達の力不足を認め、態勢の立て直しを図ったのだ。

 だが、戦闘に於いての力不足という単純な問題だけでなく、今回のルビスの塔の探索は、一行の胸深くに残された大きな問題も露呈する事となった。

 

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。
一気に書き上げてしまったような感じです。

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