新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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マイラの村②

 

 

 

 リレミトによって塔の外へ出た一行は、そのままサラの唱えたルーラによってマイラの村へと戻る。海岸に泊められている小舟を置いて行く事になるが、今の一行の状態では舟を使って戻る事は出来ないのが事実であった。

 メルエという最強の呪文使いが戦線を離脱したままであり、サラの今の精神状態を考慮に入れると、船酔いを加えてしまえば戦闘では役に立たないであろう。カミュの呪文ではアレフガルドで生きる魔物達の生命を奪う事は出来ない事は確かであり、今は舟を使う事は危険以外の何物でもなかった。

 次にこのルビスの塔へ訪れる方法が無い訳ではない。だが、あの小舟を善意で貸し与えてくれた漁師の男性への謝罪などの必要は出て来るだろう。

 

「以前に訪れた者です。開門をお願いします」

 

 ルビスの塔からマイラの村までは、それなりの時間が掛かった。周囲全体が闇に覆われている為、今が朝なのか夜なのかは解らない。それは、この村の住人の生活の基準も曖昧にしている。今が寝ている時間帯なのか、それとも活動している時間なのかが解らないのだ。

 マイラの村の中は明かりが灯されてはいるが、温泉という施設がある為に、皆が寝ている時でも明かりが全て消えるという事はない。その為、マイラの村の門の前に着いたカミュ達は、何度か門を叩き、中へ入る為に人を呼ばなければならなかった。

 

「三部屋借りたい」

 

「畏まりました。この時分では、部屋も空いていますから」

 

 門を潜った一行は、そのまま脇目も振らずに宿屋へと入って行く。カミュ個人の部屋、リーシャとサラの部屋、そしてメルエの部屋に分けて部屋を取った。

 ドラゴラムという未知なる呪文を行使が、幼い少女の身体にどう影響を与えているのかが解らない。その為、大部屋のような場所ではなく、メルエ個人の部屋としてゆったりとした部屋を取り、看病をする事になったのだ。

 ここまでの道中でも一切意識を戻さない少女を抱きながら、泣きそうに眉を下げているリーシャと、そんな二人を心配そうに見つめながらも宿の手配を終えるカミュの姿は、若い夫婦のようにも映ったのだろう。宿屋の店主が薬師を呼んでくれ、手配された部屋のベッドに寝かされたメルエは、診断を受ける事となった。

 

「ふむ。身体に異常はなさそうだね。暖かくしていれば、いずれ目を覚ますでしょう」

 

「本当か!? 大丈夫なのだな!?」

 

 一通り身体を見ていた薬師は、メルエの状態を過労に近い症状だと判断し、柔らかな笑みを浮かべる。その笑みは、先程までベッドの傍で固く手を合わせながら極度の心配を少女に向けるリーシャへの物だったのだが、薬師の言葉を聞いた彼女の剣幕に、薬師は笑みを引き攣らせる事となった。

 何度も何度も礼を述べ、診断料として多くのゴールドを手渡すリーシャの姿に苦笑を浮かべながら薬師は部屋を出て行く。彼の目にも、娘を心配する母親のように映っていたのかもしれない。

 ベッドに横になるメルエの意識は未だに戻らない。だが、規則正しい寝息が、彼女が生きている事を明確に物語っていた。そんな彼女の両側には心配そうに見つめる青年と、何度も濡れた布を取り替える女性の姿。それは確かに子を心配する親の姿に近しい物であろう。そんな三人から少し離れた所でその光景を見ていたサラは、そんな想いを持っていた。

 

「サラ、メルエはあの呪文を以前に使用した事があったのか?」

 

「え? あ、はい。おそらくですが、一人で使用した事があったと思います」

 

 安らかな寝顔を見せるメルエに安堵したリーシャは、少し離れた場所に座るサラへ、未知なる呪文について尋ね始める。それは、カミュにとっても疑問に思っていた事だったようで、彼も視線を最上位の呪文使いである賢者へと向けた。

 サラの脳裏には、あのネクロゴンドの洞窟近くにある森の光景が広がる。全てを凍結させた氷の世界であり、冷気の塊であるフロストギズモさえも凍らせてしまう程の世界。確証はないが、サラはあの世界がメルエのドラゴラムの結果であると考えていた。

 何故あの時気付かなかったのかと、今になれば思う程の異常な世界は、氷竜となったメルエが造り上げた世界であると考えた方が理に適っている。世界最強種である竜種の中でも更に上位種である氷竜という存在。その力は、人類の思考の範疇を大きく越えていた。

 

「ならば大丈夫か……」

 

「今回も大丈夫だとは言えないだろう。メルエが目を覚ますまでは気を抜くな」

 

 思考の海へと落ちて行くサラを余所に、一度行使した事のある呪文であれば問題はないと判断したリーシャは安堵の溜息を吐き出す。だが、それをカミュは許さなかった。彼が見たドラゴラムという呪文は、本当の意味での神秘であったのだろう。手から炎を出す事や冷気を出す事以上に、その姿自体を変えてしまう呪文は、異常性を特出させていた。

 竜種と云う世界最強種へと姿を変えるというのは、最早人類の枠を大きく逸脱しており、それは単純に人類の中でも特出して力が強い事や、魔法力が多いなどといった物とは根本的な部分が異なっている。故にこそ、前回が大丈夫であっても、今回もまた大丈夫だとは決して言い切る事は出来なかった。

 

「メルエは生きている。それだけでも私は嬉しい。目を覚まして欲しいと心から願うが、目を覚ましてしまえば、またメルエに無理をさせてしまうのではと考えると……私は怖い」

 

「二度と使わせない。竜種が相手であろうが、大魔王が相手であろうが、メルエにあの呪文を使わせる事は二度とない」

 

 それまで安堵の表情を浮かべていたリーシャが、視線を落としてメルエを見つめる。その心の内を吐き出した彼女は、いつもでは見られない程に弱々しかった。感情の押さえが利かないかのように目に涙を浮かべ、膝の上に乗せられた拳をきつく握り締めている。彼女のこのような姿は、長い五年以上の旅の中でもサラは見た事がなかった。

 そして、そんなリーシャへ告げたカミュの決意もまた、ここまでの旅の中で見た事のない程に強く、その言葉の一言一句に彼の揺ぎ無い想いが込められている。今回の戦闘はそれ程の物であったのだ。これまでどれ程の強敵を前にしても揺るがなかった女性戦士の心を折り、どれ程の苦難にぶつかろうと冷静さを失わなかった勇者の心に熱い決意を生む程の戦闘。大魔王ゾーマへ辿り着く前に全滅しかねない程の戦いは、それぞれの心に大きな傷を植え付けていた。

 

「まずは、休もう。私はこの部屋で休む。メルエが起きた時に誰もいないのは可哀想だからな。カミュとサラは温泉にでも入って、ゆっくりと休め」

 

 顔を上げたリーシャは、無理に作った笑顔を浮かべて優しくも強い提案を口にする。その言葉には逆らう事の出来ない力強さがあり、カミュとサラは静かに頷くしかなかった。

 温泉へ入り、身体の汚れを落とした二人は部屋に入って眠りに就く。様々な思考によって眠れないと考えていた二人であったが、身体は想像以上の疲労を抱えており、ベッドへ入って目を閉じた途端に眠りへと落ちて行った。

 

 

 

 カミュが目を覚ましたのは、太陽が見える上の世界であれば、一日が経過した頃であろう。丸一日眠りに就いてしまう程に疲労していた自分に驚きながらも、メルエが眠る部屋へと移動する。部屋の戸を開けると、未だに少女の意識は戻っておらず、ベッドの隣に置いた椅子に座った女性戦士だけが、その寝顔を見つめ続けていた。

 

「眠っていないのか?」

 

「ん? ああ……どうにも心配でな」

 

 近くでカミュが声を掛けた事で、ようやく部屋に入って来た彼に気付いたリーシャは、この一日で随分やつれてしまっているように見える。本来、優れた戦士である彼女が、部屋の戸が開いた事に気付かないなどという事はなく、間近まで迫られなければその存在に気付かないという事もない。それだけ、彼女も疲労が溜まっているのであろうし、通常の精神状態ではない事が解る。

 リーシャの答えに一つ溜息を吐き出したカミュは、ベッドを挟んだ対面に置いてある椅子に腰掛け、今も目を覚まさない少女の頭を優しく撫でた。いつもならば目を細めて喜ぶ少女は、今は身動き一つしない。その事に僅かに顔を顰めたカミュであったが、もう一度息を吐き出してリーシャへと視線を移した。

 

「何か思う事でもあるのか?」

 

「……メルエがあの呪文を行使したのは、私の責任かもしれない。あの時、私へ問いかけたメルエの言葉は、『竜の姿に変わってしまえば、嫌いになるか?』という意味だったのだろう。それに対して、私は『メルエが何であっても、ずっと一緒だ』と答えてしまった」

 

 静かに問いかけたカミュの言葉に暫く沈黙を続けていたリーシャであったが、目に浮かべた涙の雫を一つ溢した後、消え去りそうな程の小さな声でぽつりぽつりと語り出す。それは、ルビスの塔でドラゴンという竜種に追い詰められた時の出来事であり、メルエがドラゴラムを行使する直前の二人の会話であった。

 大火傷を負ったリーシャは朦朧とする意識の中でも、幼い少女との会話を一言一句憶えていたのだ。あの時のリーシャは、自分の左半身を奪った炎を受ける原因となった事をメルエが悔いているのだと思っていた。だからこそ、そんな彼女の罪悪感を和らげようと口にした言葉であったが、それがドラゴラムを行使して竜の姿になってしまった後の事をメルエが危惧していたとなれば、リーシャの返答がメルエにそれの行使を決意させてしまったとも考えられる。

 

「竜になろうが、それこそメルエが竜種であろうが、私がメルエを嫌いになる事など有り得ない。お前だってそうだろう? だが、それでもこのままメルエが目を覚まさなければ、私はあの時の自分の言葉を許す事が出来ない」

 

 溢れて来る涙の雫は、メルエに掛けられた布団に零れて行く。それだけ、この女性戦士は過去の自分の発言に心を痛めているのだろう。彼女が涙を溢す事は珍しい。それも、他者の心を慮った物ではなく、自身の行動への後悔でとなれば、長い旅の中でも皆無に等しかった。

 しかし、カミュはそんなリーシャの心を好ましく思っている。その考えを馬鹿な事と一蹴するのは簡単な事ではあるが、彼はリーシャの心に根付いた恐怖をしっかりと理解していた。言い換えれば、彼女の心配と罪悪感は、彼にしてみれば自分が感じなければならない物であったのだ。

 

「アンタの責任などない。メルエが魔法を使う事になった全ての原因は俺にある。もし、メルエが目覚めない時は俺を恨め」

 

「馬鹿を言うな! お前がメルエを魔法陣に入れたからこそ、ここまで私達は共に歩いて来れたんだ。もし、メルエがいなかったら、私達は道半ばで全滅していただろうし、上の世界に平和など永遠に訪れる事はなかった筈だ。それこそ、見当違いな罪悪感を感じるな!」

 

 お互いがお互いの罪の意識を否定する。それは、お互いを庇い合っているようにも見えはするが、実際は随分異なる物であった。カミュは自分の罪の意識に苛まれ続け、ここまでの旅を歩んで来ているし、リーシャはそれを罪と認めてはいない。カザーブの森の中では彼を糾弾したリーシャではあるが、その後の旅でメルエの必要性は否応なく感じざるを得ない物であり、幼い少女の魔法なくては旅を続ける事さえ出来なかった事が事実であったのだ。

 だからこそ、リーシャは涙を溢しながら叫び、カミュはその顔を見て大きな溜息を吐き出す。お互いの認識が完全に異なっているのだ。

 

「そういうのであれば、あの時メルエがドラゴラムという呪文を行使しなければ全滅していた筈だ。それでも罪を感じたいのならば、俺と同じようにアンタも自分の弱さを恨め。俺達があの竜種に遅れを取らなければ、この事態は起きなかった」

 

「……そうだな。私達がもっと強ければ、メルエが無理をする事もなかったのだな。何が、大魔王討伐だ! それに従う竜種一つ倒す事も出来ず、思い上がりも甚だしい!」

 

 息を吐き出したカミュは、真っ直ぐにリーシャの瞳を見つめ、断罪の言葉を発する。その罪はリーシャだけの物ではなく、その言葉を発した青年の物でもあった。前衛を担う二人が、例え四体であろうと、竜種と拮抗する実力を備えていれば、サラとメルエは後方支援に専念出来ていただろう。彼女達二人を前へ出してしまったのは、絶対に揺るがない大きな壁である二人が崩れてしまったからだとも言えた。

 悔しそうに顔を歪めたリーシャは、吐き出した言葉と共に自身の膝を殴りつける。誰もが成しえる事の出来なかった魔王バラモスの討伐を果たし、自分達が遥か高みに登った事を実感していた彼女達だからこそ、大魔王ゾーマに挑む事の出来る人間は自分達だけだと考えていた。だが、その大魔王は、そんな勇者一行の思惑の更に遥か高みに存在していたのだ。

 

「余り大声を出すな。メルエが起きるぞ」

 

「あっ……すまない」

 

 大きな後悔の念に、リーシャはこの場所がどんな場所かを失念していた。未だに眠り続けるメルエは、部屋に響く大きな声に対しても身動き一つせず、起きる気配はない。それでも、あれだけの事を成し、身体に無理をして来た少女には、優しい目覚めを迎えて欲しいという想いを二人は持っていたのだった。

 静かに二人が見つめる少女は、本当に安らかな寝顔を浮かべている。彼女の心に心配は何もなく、起きた時には優しい世界が広がっている事を願わずにはいられなかった。

 

「アンタも温泉に入って休め。メルエは暫くは俺が見ている」

 

「……わかった」

 

 静寂が広がる中、メルエの寝顔から視線を外す事なく呟かれた言葉に、リーシャは静かに頷きを返す。カミュの言葉の中に棘はなく、心の奥から他者への配慮に溢れていた。そんな彼の言葉だからこそ、リーシャは休む気になったのだろう。立ち上がった際にふらついた自分へ向けたカミュの瞳を見て、リーシャは小さな笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

 それから二日が経過する。

 未だにメルエは目覚めない。

 毎日、カミュとリーシャはメルエのベッドの横で彼女を見守っていた。交代で食事を取り、交代で眠りに就く。その繰り返しが続く中、サラはどうしてもその部屋に長居する事は出来なかった。

 彼女もまた毎日メルエの様子を見には行くが、それでも一日部屋の中で座っている事が出来ず、マイラの村にある教会へと足を運んでいたのだ。カミュ達とは逆に、サラは一日のほとんどを教会にあるルビス像の前で過ごしていた。

 

「……ルビス様」

 

 毎日ルビス像の前で跪き、胸の前で手を合わせて祈る姿は、マイラの村の住人達から見れば熱心な信者に映っていただろう。だが、その胸の内は大きく異なっており、不安と恐怖に押し潰されそうになっていた。

 そんな自分の中に生まれた感情を誤魔化すように、サラは一日中祈りを捧げる。正確に言えば、サラはその感情が急に生まれた物ではない事を知っていた。幼いあの頃から常に心の奥底にあり、僧侶として魔物を憎んで生きて来た時も、賢者として魔物も人間もエルフも区別なく生きようと決意してからも、そこに在り続けた物である。それを知ってしまったからこそ、彼女は己の中で大きくなる不安と恐怖を恐れたのだ。

 

「私は……私は……」

 

 『魔物への根本的な恐怖』

 それは、自我さえも朧気な幼少の時に感じた恐怖であり、目の前で父親と母親を失った時に感じた物。自身に降りかかる生臭い鉄の香りと目の前に突き出た大きな角。その記憶はどれだけ厳重に蓋をしたとしても、彼女の心に棲み付き、消える事はなかった。

 自分が敵わない者への潜在的な恐怖は生物として当然の物であり、消そうと思って消せる物ではない。そして、その存在によって植え付けられた恐怖は心の奥深くに刻み付けられ、生涯に渡って残り続けるのだ。

 サラという僧侶は、その感情を誤魔化す為に生きて来た。目の前で父が死に、自分を護るように母が死んだ。その時の恐怖を隠す為に、憎しみという感情を表に出して生き続け、勇者という青年に出会う事によって命の尊さに区別がない事を知り、その大望によって恐怖に蓋をして来ている。

 それは決して間違った行動ではない。むしろ、それは彼女が人間として生きて行く為に、彼女の心が無意識に選択して来た結果なのだ。それが今、表に出てしまった。ただ、それだけの事である。

 

「……竜族と人間族との間に生まれた子。神と精霊の大いなる祝福を受けてこの世に生を受けた子」

 

 五年近くもの長い旅路を共に歩んで来た少女を、サラは心から愛していた。本当に血の繋がった妹のように愛し、共に歩める事を心から喜んでいた。だが、その少女は圧倒的な力を持つ竜種の因子を受け継ぐ一族の末裔であったのだ。

 最早人類最高位に立つカミュとリーシャでさえも歯が立たないドラゴンという竜種を圧倒的な力の差で氷像と化すその姿は、長く抑え続けて来たサラの心の奥の恐怖を掘り起こす。そして一度掘り起こされた感情は、二度と蓋する事は出来なかった。

 メルエが賢者の血筋ではないかと云う想像は、サラの中でほぼ確定事項にはなっていた。テドンでの出来事やランシールで出会った存在、そしてネクロゴンドの洞窟を抜けた場所で見た存在を繋ぎ合わせれば、その終着点に辿り着く事は不思議な事ではない。そして、もしメルエが竜種の因子を持つ子であったとしても、あの姿を見なければこれ程の恐怖を感じる事はなかったかもしれない。

 『メルエが純粋な人間ではない』という事実さえもサラの心に波風を立ててしまうのは、全てあの竜となった姿を見てしまったからなのだろう。それは、ドラゴンという他者を圧倒する存在の遭遇直後の出来事であった事も大きな原因の一つであった。

 

「お嬢さん、そろそろ宿に戻られては? 皆も心配する頃でしょう」

 

「あっ!? も、申し訳ございません」

 

 物思いに耽っていたサラは、近付いて来た神父に気付くのが遅れる。既に彼女がこの教会に来てから半日が経過していた。太陽が昇っていれば既に完全に地平線の下へと落ちてしまっているだろう。流石に毎日そのような長い時間祈りを捧げ続ける女性に、神父も心を痛めていたのだ。

 教会の門は常に開かれてはいるし、祈りを妨げる事もない。だが、数日連続して半日以上も祈りを捧げている者がいれば、そこの管理者としてはその身を案じない訳には行かないだろう。この神父も例外ではなく、立ち上がったサラに対して心配そうな視線を向けていた。

 

「何か大きな悩みがあるのでしたら、お聞き致しますよ?」

 

「……ありがとうございます。ですが、大丈夫です」

 

 そんな神父に対して発した彼女の魔法の言葉は、メルエに放っていた物とは比べ物にならない程にその力を失っている。サラと云う女性を姉として、師として慕う少女にとって絶対の力を持つその言葉は、今では見る影もなく、只の飾りに過ぎない。

 力なく笑みを浮かべたサラは、小さく頭を下げて教会を後にする。その後姿を神父は見つめる事しか出来なかった。

 

 

 

 サラの足が帰る事を拒むように前へと進まないその頃、宿屋では歓喜の瞬間が訪れていた。

 眠り続けるメルエの頭に乗せた布を取り替えていたリーシャと、その寝顔を見つめていたカミュは、ゆっくりと開かれる瞳の瞬間に居合わせる。気付いた二人の表情は無意識に緩み、リーシャなどは満面の笑みを浮かべていた。

 閉じられていた瞳がゆっくりと開き、眩しそうに細められた瞳に二人の笑みが映り込む。何度か瞬きを繰り返した少女は、自分の目の前にある顔を不思議そうに見つめた後、花咲くような笑みを浮かべた。

 

「メルエ!」

 

 その笑みを浮かべた少女を見たリーシャは、我慢の限界を超えて抱きついてしまう。頭を抱え込むように抱かれ、人目も憚らずに涙を流すリーシャにメルエは困ったような表情を浮かべた。

 だが、もう一つ見えた顔にも優しい笑みが浮かんでいる事に嬉しくなり、近付いて来る大きな手で頭を撫でられた事で再び柔らかく微笑む。優しい空気が部屋を支配し、小さな少女の小さな笑い声と、それを喜ぶ女性の泣き声が響いていた。

 

「何処も痛いところはないか? 喉は乾いてないか? お腹は空いてないか?」

 

「……そんなに一度に聞いても、メルエが困るだけだろう?」

 

「…………ふふふ…………」

 

 ようやくメルエから離れたリーシャは恥ずかしそうに涙を拭い、それを誤魔化すように矢継ぎ早に質問を飛ばす。しかし、その質問と質問の間に答える隙などなく、本当に尋ねているのかどうかさえも怪しくなる物であった。溜息を吐き出すようにカミュが窘め、そんなやり取りにメルエが微笑む。そして、そんなメルエの笑顔を見たリーシャが恥ずかしそうに笑みを浮かべた。

 何処かにある平和な一家族のやり取りのような優しい時間が過ぎて行く。部屋を照らす明かりが小さく揺らぐ頃、腕捲りをしたリーシャが立ち上がった事で、その時間も終幕へと近付いて行った。

 

「よし! 今日はメルエの食べたい物を私が作るぞ! 何が食べたい? 宿屋の主人に作らせて貰えるように頼んでみるからな。カミュは買い物だ! それぐらいは役に立てよ」

 

「……わかった」

 

 先程と同じように矢継ぎ早に口を開くリーシャに笑みを浮かべたメルエは、買出し役に選ばれたカミュが溜息を吐き出す姿を見て笑い声を漏らす。メルエにとって、リーシャが作り出す料理であれば何でも良いのだろう。彼女が作る料理に失敗はなく、全てが輝くように眩しく、舌がとろけるように美味しいのだ。

 献立を考えながら、結局はカミュと共に買出しにも行く事に決めたリーシャは、階下のカウンターで主人に厨房の使用許可を貰い、そのままカミュと連れ立って食料品を販売している店へと直行して行く。宿屋の入り口でサラが二人と擦れ違ったのは、そんな時であった。

 

「サラ、食事の買出しに行って来る。メルエを見てやってくれ」

 

 その言葉に驚いたサラが口を開こうとした時には、既にリーシャとカミュは村の住人達の波の中へと消えて行ってしまう。片手を上げて、口を開閉するだけとなったサラは、大きな溜息を吐き出して、先程よりも更に重くなった足を前へと踏み出すしかなかった。

 カウンターに居た主人の挨拶に応える余裕さえも残されていないサラは、一段一段ゆっくりと上がって行く。永遠に続いて欲しいと思う階段は、以前来た時よりも短くなってしまったのではないかと思う程に終わりは近かった。最後の段を上がったサラは、再び階下へ下りてしまいたい衝動に駆られながらも、何とか一つの部屋の前に辿り着く。しかし、その後の行動が出来なかった。

 

「……ふぅ」

 

 一つ息を吐き出して手を上げては、再び下ろす。そんな事を何度続けただろう。先程出て行ったリーシャ達が戻って来てしまうのではないかと思う程の時間が経過した頃になって、ようやく上げたサラの手がドアを叩いた。

 静寂の中で響き渡ったノックの音は、サラの胸の奥にある恐怖さえも呼び覚ます。自分で発した音にも拘らず、跳ねるように驚いた彼女は、返って来る筈のない返事を待った。

 部屋に居たとしても、メルエが返事をする事はなく、ドアを開ける事はない。誰かが来ても開けてはいけないという事はリーシャに教えられた事でもあるが、返事をしないのはメルエが余り言葉を発しないという理由からであった。

 おそらく、メルエが目を覚ましているのであれば、今は不思議そうにドアを見つめて首を傾げている事であろう。そんな単純な想像が出来るサラであったが、何故かその顔を見たいという欲求が湧いて来なかった。伸ばしかけた手は取っ手を掴むが、それを回す事が出来ない。しかし、いつまでもそのような事を繰り返す事も出来ない彼女は、『このままドアの前に居ても、メルエを護っている事になるのでは?』という甘い囁きを振り払ってドアノブを回した。

 

「…………サラ…………」

 

 ドアノブを回して目に入って来た光景にサラは驚く事となる。

 ここ数日、何度も足を運んだこの部屋は、暗い雰囲気に包まれていた。責任を感じる二人の男女が醸し出す空気が、この部屋の空気を淀ませていたのだろう。そんな空気が今は一変していたのだ。

 だが、それは決して良い方向にではない。サラという賢者の目には、その部屋の明かりは届いておらず、まるで自分を飲み込む大きな闇が広がっているようにさえ見えていた。それは、サラの心の中にある恐怖が見せる幻影であり、彼女の心の不安が生み出した闇である。それを理解していても、サラの足は細かく震え、それ以上踏み込む事は出来なかった。

 だからであろう。入って来た人物が誰かを理解した少女が、先程と同じような花咲く笑みを浮かべて呼ぶ自分の名が聞こえた時、その不安と恐怖は一気に弾け飛んだ。

 瞬時に視線を外したサラは、こちらを見つめるメルエの視線を受け続ける事は出来ず、そのまま震える足を動かして部屋を出てしまう。そして、一度もメルエに視線を向ける事なく、その戸を閉じてしまった。

 その行動がどれ程に少女の心を傷つけ、どれ程の哀しみを与えるかを知りながら。そして、その行動がどれ程に自分を苦しめ、どれ程の苦難を与えるかを知りながらも、サラは行動に移してしまったのだ。

 

「……う…うぅぅ」

 

 それは誰の呻きであったろう。部屋の戸の前で顔を覆って座り込んでしまったサラの物であったかもしれないし、部屋の中で大きな哀しみに襲われたメルエの物であったかもしれない。小さく弱々しい呻きが、宿屋の二階に響いた。

 

 

 

「……買い込み過ぎではないか?」

 

「そうか? 良い物があれば買ってしまうだろう。それに、きっとメルエはお腹を空かせているだろうからな」

 

 宿屋の二階の呻きが消えてからどれ位の時間が経過した頃だろう。ようやく、買出しへ行っていた二人が宿屋へと戻って来た。荷物持ちのカミュは何個も大きな袋を抱え、その前を歩くリーシャもまた大きな荷物を抱えている。その量はどう見ても四人分の量ではない。大人数の家族であっても、これ程の量を一晩で食す事はないだろう。

 それでも、それを窘めるカミュの顔は呆れを含みながらも何処か優しさに満ちており、それを受けたリーシャの顔は満面の喜びに満ち溢れている。それだけ、この二人にとって一人の少女の目覚めは喜ぶべき物であったのだろう。

 しかし、そんな喜びは、少女が好きな果実を手にとって誇らしげに部屋に入ったところで消え失せる事となる。部屋に入ったリーシャは、そこに広がる光景に思考が追いつかず、持っていた果実を取り落として、大きな袋さえも床へと落としてしまった。

 

「メ、メルエ……メルエ! サラ! サラは何処にいる!?」

 

「何が……!!」

 

 そして、一人の少女は消えてしまった。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
少し短い話ですが、次話への繋ぎとなります。
この章もあと一話で最後となるでしょう。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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