新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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マイラの森③

 

 

 

 メルエという幼い少女を追って走り続ける三人の間には既に会話はない。誰一人口を開く事はなく、自分の胸に広がり始める強い不安を隠すように押し黙っていた。

 メルエがいなくなるという事は初めてではない。魔法の契約で一人森の中へ入って行った事もある。魔道士の杖を媒体とする呪文行使の為に一人森の奥へ篭った事もある。光を与えてくれた勇者不在に心を壊し、その青年を探す為に森の中を彷徨っていた事もあった。

 ここまでの旅で何度も姿を消した少女ではあったが、命を失った事はない。それが神の加護なのか、精霊の加護なのか、それとも亡くなった両親の愛や、彼女の中に流れる血筋の加護なのかは解らない。いずれにしても、彼女は必ず三人の許へと戻って来ていたのだ。

 だが、何故かカミュ達の胸の中に今広がっている不安は、ここまでの旅の中で感じた事もないような強い物であった。その存在自体を失ってしまったような喪失感と全ての希望を失ってしまったような絶望感が、三人の心に例外なく広がっていたのだ。

 

「……カミュ」

 

「煩い、走れ!」

 

 その言いようのない不安をリーシャが堪らず口に出してしまう。だが、その横で真っ直ぐ前を見て駆けている青年は、この五年で張り上げた事のない程の声量でそれを遮断した。そんな彼の見た事もない姿が、リーシャと同じ不安を感じている事を明確に物語っている。それだけ強い喪失感と絶望感であったのだ。

 二人に遅れないように必死に駆けているサラの表情は、最早色を失っている。自分の行いが予想だにしない大きな問題へと発展し、それによって自分がこれ程悔やむ事になった事で彼女の心は壊れ掛けていた。

 あの時、メルエから目を逸らした瞬間、自分が後にどれだけそれを悔やみ、悩み、苦しむのかを知っていた筈。それでも自分の胸の中に湧き上がった恐怖に抗えなかった。扉の前で屈み込み、顔を手で覆ってそんな自分に泣き続けたのだ。

 自己嫌悪と自己否定。今のサラはそんな負の感情を胸に持ち、この五年の旅の中でも最悪の状態へと落ちていた。

 

「……なんだ?」

 

 サラの瞳に映る景色の闇が、実際よりも更に濃くなっていた頃、先頭を駆けていたカミュが急に立ち止まる。それに驚いたリーシャも急停止してカミュへと振り返り、その後方を走っていたサラは停止したリーシャの身体へと衝突した。

 メルエという少女がこの場にいれば、和やかな笑みに包まれるような出来事ではあったが、カミュに浮かんだ表情を見たリーシャは、先程感じていた以上の不安に襲われる。それ程に彼の表情は酷く、この世の全てに絶望したような物であったのだ。

 

「こっちか?」

 

 それでも勇者は動き始める。彼に問いかけるような言葉を漏らしたリーシャの声を無視し、周囲を見回した彼は、一点に視線を固定させた後、一気にその奥へと駆け出した。何が何やら解らないリーシャとサラもその後へ続く。カミュが持つ『たいまつ』の火の粉が周囲に飛び、進行方向の景色が徐々に見えて来る。

 そして、彼等三人の前に、絶望的な光景が広がった。

 

「メルエ!」

 

 それは、三人同時に発した悲痛な叫びであった。

 森の奥に位置する木々が生い茂る場所に一体の人が横たわる。うつ伏せに倒れた小さな身体は、触れなくても解る程に生気の欠片も見当たらなかった。それが意味する事が理解出来ない程に幸せな生活を送ってきた者など、この場所には一人もいない。明確に意識出来る程に濃い死の空気がその場全てを支配していた。

 駆け寄ったリーシャの後ろから近付くサラの唇は震え、彼女こそ死人ではないかと思う程にその色は血色を失っている。青に限りなく近い色になった唇を震わせ、動かない少女の身体の傍に座り込んだ。先に屈み込んでいたリーシャがその小さな身体を動かし、仰向けに寝かせるが、その身体が既に活動を停止させてしまっている事は明白であった。

 屈み込む二人の後方からゆっくりと近付いて来た青年は、少女の顔を見て瞳を強く閉じる。それは、どんな場面でも、どんな人間が希望を手放しても、一度も諦めるという選択肢を取る事のなかった青年が初めて全てを諦めた瞬間でもあった。

 

「何故だ!? メルエ! 目を覚ましてくれ……頼む、目を開けてくれ……」

 

 小さな身体を揺するように動かしていたリーシャが突如叫び出す。先程までの呆然とした表情は消え失せ、鬼気迫る物へと変わって行く。そして、最後には再び消え去るような声になり、大粒の涙が零れ落ちた。

 リーシャが触れているメルエの頬は、まだ微かに温かみが残っており、この少女が僅か前までしっかりと生きていた事を示している。だが、それでもその温かみも徐々に失われつつあった。

 明確になって行く『死』という結末。この長い旅路は、死と隣り合わせの物であった。いつも死と向き合いながら戦って来ていたし、誰かを失っても可笑しくはない状況は何度でもあったのだ。だが、それでもこの少女だけは、最も死から遠い場所にいた筈であった。

 

「メ、メルエ……メルエ? あれ? メ、メルエ?」

 

 そんな少女の姿を見て、サラの心を繋ぎ止めていた最後の糸が切れてしまう。最早同じ事を繰り返す人形のように、動かなくなった少女の身体に触れては戻すという行為を繰り返していた。状況が理解出来ないのではなく、状況を理解する事を拒否しているのだろう。身動き一つしなくなった少女の身体が、まるで夢の中での出来事のように映っていた。

 少女の身体には傷一つない。まるで魂だけを抜かれてしまったようにその身体を手放し、三人が愛した少女はこの世から消え失せていた。半狂乱になった戦士が大声で泣き叫び、心を壊してしまった賢者が小さく呟きながら少女の身体に触れる。その後方で、胸の中に渦巻く憤りを抑えきれなくなった青年が、枯葉が散ばる地面へと『たいまつ』を投げ捨てた。

 

「クククク」

 

 勇者一行と呼ばれ、誰も成しえなかった偉業を果たした四人の若者が崩壊し始めたその時、闇の中に不気味な笑い声が響き渡る。それは聞く者を不快にさせる笑い声であり、心の底から嫌悪感を感じる音であった。

 真っ先にそれに気づいたカミュは、背中から剣を取り出し周囲に鋭い瞳を動かす。最愛の少女を失った今となっても、外敵に対して身体が動いてしまう事に顔を顰めた彼であったが、その瞳はどんな些細な事も見逃さないように鋭い光を放っていた。

 カミュが投げ捨てた『たいまつ』の炎が落ち葉に燃え移り、火事という程の大惨事にはならずとも、周囲を十分に照らし出す明かりを生み出して行く。そんな炎による明かりの中、カミュの瞳が一点に固定された。

 

「ククククク」

 

「……お前か? お前がメルエを襲ったのか?」

 

 燃え広がる炎が漆黒の闇に包まれた森を照らす中、照らし出された樹木に移り込んだ大きな影は、この場にいる誰の者とも異なる姿を見せていたのだ。それは、五年の旅の中で何度か遭遇した事のある魔物の一つと考えられる存在。そして、今、この場にそれがいるという事自体が、カミュが噛み殺すように発した呟きが正しい事を物語っていた。

 剣を握り締めるカミュの掌から一筋の液体が流れ落ちる。炎に照らされた真っ赤な液体は、彼の生命の源である血液。手の皮が捲れ、内にある肉を傷つける程に強く握り込まれた剣が、彼の心中を表していた。

 そんなカミュを嘲笑うかのように、大きな異形の影は木々に飛び移るように場所を移し、彼の前にその実体を表す。影が立体化したように揺らめきながら、未だに不快な笑い声を発する影と対峙したカミュは、メルエの傍で屈み込む二人の女性が、状況を把握していない事に小さな舌打ちを鳴らした。

 リーシャは泣き叫び、サラは未だに呆然とメルエの名を繰り返している。今の彼女達が戦力にもならないどころか、足手纏いにさえ成り得る事は明白であった。

 

「P¥5%*」

 

 揺らめく影から突如奇妙な文言が発せられる。それは即座に対峙するカミュを包み込み、その後方にいる二人の女性さえも包み込んで行った。

 脳裏に直接打ち込まれる文言は、その相手の死を望む呪いの言葉。生きる気力を奪い、死へ誘う事で、自主的に生を手放させる呪文である。

 亡者の呼びかけが絶え間なく続き、意識が深い闇へと引き摺り込まれる。死と云う結末を恐れる心を奪い、生への渇望さえも奪って行くのだ。それは、高位の僧侶でさえも修得する事は不可能であり、それを修得出来る者は『死』をも超越するとさえ云われる高等呪文。

 

「クククク」

 

<魔王の影>

その名の通り、大魔王ゾーマが生み出した影である。自身の影となり、主に諜報を司る魔物である。その特性を生かし、どのような場所へも入り込み、相手に気取られる事もなく様々な情報を収集して来るのだ。そして、その中で敵を人知れず葬る為に、死の呪文を有しており、自身が生まれた闇へと哀れな魂を引き摺り込むのだ。

ルビスの塔という大魔王ゾーマにとっても重要な場所に監視の為に遣わされていたこの影は、その場に現れた一行の動向を常に監視していた。そして、その場所でドラゴラムという古の賢者の中でも特殊な出である者だけが行使出来る呪文を唱えた少女を見て、マイラの森まで足を伸ばしていたのだ。その血族の流れを止める為に。

 

 魔王の影にとって、脅威となるのはメルエ唯一人である。魔王の影とはいえ、大魔王と同等の力を有している訳ではなく、竜種を越える力を有している訳でもない。それでも、受け継がれる脅威の血筋の断絶がこの魔物にとって最重要事項であり、竜種の上位種とはいえ、ドラゴン程度に後れを取る者達が大魔王の脅威となるとは考えていなかった。

 ザキやザラキといった死の呪文は、心の弱った者には絶大な効果を発揮する。常に希望に満ち溢れるメルエなどには絶対に通用しない呪文の一つではあるのだが、間が余りにも悪かったのだ。そして、本来であれば、そんな希望の証である少女を失った三人の心の弱り具合を見た魔王の影は、今ならば他の三人も抵抗なく死の呪文を受け入れると考えてその姿を現したのだろう。

 しかし、大魔王の影から生まれた魔物とはいえ、所詮は影である。人間の持つ心の絆の強さも知らなければ、それを推測出来る脳もない。

 

「貴様か……。貴様、メルエに死の呪文を使ったな!?」

 

 死の淵を彷徨い、絶望の中で命を手放している筈であった一人の女性が、背負っていた斧を取り出し、ゆっくりと立ち上がる。そして振り向いて発した怒声は、ルビスの塔で竜種上位にいるドラゴンが上げた咆哮以上に大気を震わせた。

 一体何が起こったのか理解が出来ない魔王の影は、一瞬の間で目の前に迫って来た女性戦士に驚き、本能で身を捩るように動く。しかし、振り抜かれた斧は的確に魔王の影の身体に入り込み、その身体を両断してしまった。

 本来、実体を持たないこの種の魔物を物理攻撃で倒す事は難しい。案の定、リーシャの一撃を受けて尚、魔王の影はその形状を戻して行った。

 

「ギギギッ」

 

 だが、魔王の影にとって当たり前の復元が上手く行かない。まるで影が修復後の形状を忘れてしまったかのように、上手く影同士が結びつかないのだ。予想外の出来事に動揺した魔王の影は、先程の不快な笑みを浮かべる事も出来ず、軋むような音を発する。

 間髪入れずに振り抜かれた斧を見た魔王の影は本能的に身を捩り、影へと戻ろうと試みた。しかし、そのような動きを許す程、今目の前にしている二人は慈悲深くはない。最愛の少女を死に至らしめた魔物を逃がすような精神状態ではなかったのだ。

 

「逃がす訳がないだろう?」

 

 袈裟斬りに入った大剣は、魔王の影の肩口から斜めに両断する。雷神が愛した剣は鋭い稲光のように漆黒の影の中を走り、実体のないその身体を傷つけて行った。

 驚いたのは魔王の影であろう。この世に自分の身体を傷つける事が出来るのは大魔王以外はいないとさえ考えていても可笑しくはない。それが、人間風情に傷つけられ、しかもそれも二人となれば、この大魔王の自尊心を分けて生まれた魔物にとっては耐え難い物であった筈だ。

 しかし、そんな些細な誇りなど、自分達の誇りであり希望でもある少女を奪われた男女の怒りに比べれば塵にも等しい。核を傷つけられたように復元する事が出来ない影は、抵抗する隙も与えて貰えずに迫る斧を受け入れるしかなかった。

 

「消え失せろ!」

 

 静かな怒りの炎を燃やす勇者と、烈火の如く燃え盛る怒りの炎を吐き出す戦士。そんな二人の攻撃は、それぞれが持つ武器を愛した神々の物と大差はないかもしれない。止めとばかりに振り抜かれた斧は、驚愕の表情を浮かべたように見える魔王の影をこの世から完全に消滅させた。

 闇の中に溶け込むように消えて行く魔王の影を見たリーシャは、取り逃がしたかと感じて顔を顰めたが、その後に核となっていると思われる宝玉のような物が粉々になって地面に落ちたのを見て表情を緩める。しかし、直後に感じた喪失感は、彼女の中にある全てを奪われた程に大きな物であり、その事実に立ち返った彼女は、涙を目一杯に溜めて顔を歪めてしまった。

 それはカミュも同様であったようで、きつく瞳を閉じて天を仰ぐように顔を空へと向け、手に持っていた雷神の剣を地面へと落としてしまう。彼をここまで歩ませていた活力が、彼を勇者として輝かせていた意義が、そして何よりも彼を人間として留まらせていた優しさが消えて行く瞬間でもあった。

 そんな時、二人をも包む大きな光がマイラの森を包み込んだ。

 

 

 

 

 

 そんな二人の強者が力を失ってしまう少し前に遡る。その頃、この世で唯一人の賢者は、全ての希望と夢を手放そうとしていた。

 魔王の影が放った物は『ザラキ』。集団に対して死と云う呪いへと誘う言霊を浴びせる凶悪な呪文である。単体を対象とする『ザキ』に比べると、その効力は若干甘いが、それでも生きる気力を失いつつある者にとっては、抗う事の難しい物であった。

 本来のサラであれば、このような呪文の餌食になる事など有り得ない。何故なら彼女は自身の目指す先にある未来に大きな希望を抱いているからだ。しかし、そんな『賢き者』の心はこの場に足を踏み入れる前から粉々に砕け散っていた。

 メルエに対して恐怖し、それがどれだけ彼女を悲しませるかを知っていて尚、あの場で目を逸らしてしまう。それは、己の弱さを認める行為であり、己の中に成立し掛けていた誇りを打ち壊す行為であった。

 

「……あ……あ」

 

 降りかかる死の言葉。自身が生きる価値の無い物であり、この世界で生きる資格さえも所有していないと囁かれる言葉は、脆く崩れ去ったサラの心に打ち込まれ、抗う力さえも奪って行く。

 メルエが居なくなったと聞かされた時、顔を青褪めさせた。それはそれを予期していたにも拘らず、あの場で目を逸らし、そしてその場を立ち去ってしまった自分を責めた為である。そして、その顔色が色を失くし、真っ白に変化してしまったのは、メルエ失踪という重大事件に対して安堵する自分を知り、死にたいと感じる程に心を壊していたのだ。

 故にこそ、彼女は今、自身の死を受け入れてしまう。誘われるように闇の奥底へと落ちて行く感覚が心地良いと感じる程、今の彼女は弱っていた。

しかし、このまま生を手放し、死を受け入れてしまった方が余程楽ではないかと感じた時、彼女の目の前に一筋の光明が差し込む。

 

「……死の…呪文……!?」

 

 闇へと落ちる意識の中、目の前を漂う亡者の顔を見ても恐怖を感じない程に全てを手放しかけたサラであったが、その光景を見せているのが『死の呪文』と呼ばれる魔法であると云う認識が蘇った瞬間、自分の身体から流れ出る生気を一気に戻し始める。

 最早、一点に集中された賢者の意識に、敗者である亡者達の奏でる文言などは届かない。まるで閉ざされた扉が開け放たれたかのように、押し寄せるように光が溢れ、サラの意識は現実へと引き戻された。

 

「死の呪文ならば……死の呪文ならばまだ間に合う筈」

 

 暗い闇の奥底から引き上げられた意識は、通常の人間であればある程度の時間が経過しない限り覚醒しない。だが、彼女は世界で唯一の賢者であり、強大な敵に立ち向かう勇者一行の頭脳でもある。周囲の状況を確認するよりも早く、メルエの亡骸を触り、傷が一つもない事を確認して行った。

 今のサラには周囲の音などは聞こえていないだろう。リーシャの怒りの叫びも、メルエを死に追いやった魔物の苦悶の奇声も、カミュが放つ底冷えするような声も、一点に集中された賢者の耳には届かない。無心にメルエの身体を調べる彼女の額から一筋の汗が流れ落ちる頃、全ての準備が整ったのか、サラの表情が一変した。

 厳しく結ばれた口が小さく開き、詠唱の準備に入るように祈りの言葉を紡いで行く。胸の前で合わせられた手が、救いを求めるように天へと伸ばされ、それと同時にサラを包み込む膨大な魔法力が溢れ出して行った。

 それは、メルエが一行を救う為に紡ぎ出した、先祖返りを促す呪文を唱えた時とは真逆の質を持った魔法力。禍々しさなど欠片もなく、この場の全てを浄化してしまうのではないかと感じる程の聖なる魔法力が溢れ出している。メルエを失った悲しみと怒りで我を忘れているカミュとリーシャは気づかないが、この世界唯一の賢者がある領域を超えてしまった事を意味していた。

 

「ザオラル!」

 

 天へと掲げた両腕を一気に幼い少女の身体へ振り下ろす。サラの中で眠る膨大な魔法力に、天からの祝福が加わった魔法力が少女の身体を満たして行った。

 神聖な魔法力に包まれて輝きを放って行くメルエの身体が一瞬宙に浮くが、その輝きの消滅と同時にゆっくりと地面へと降りて行く。そして、先程と全く同じ姿で地面に横たわるその身体に生気は戻っておらず、身動き一つしていなかった。

 

<ザオラル>

『悟りの書』に記された禁断の呪文の一つである。死者を甦らせると云われるその呪文ではあるが、それを生み出した賢者の注釈を読む限り、万能な呪文ではない事が解るのだ。

基本的に、人間は神ではない。命を奪う事は出来ても、それを甦らせる事など不可能である。死した魂は精霊ルビスの御許を通り、創造神の御許へ還るという言い伝え通り、本来生物の生死を神以外が定める事は出来ないのだ。

ただ、その中で例外が一つだけある。それが『死の呪文』である。ザキやザラキによって強制的に死を迎えた魂は、精霊ルビスの御許へ向かう事が出来ず、現世の闇を彷徨うと云われている。それは、神や精霊の意思とは無関係な死であると考えられているからであった。

それ故に、精霊ルビスの御許へ向かう事も出来ずに現世を彷徨う魂を、肉体が滅びる前に呼び戻す方法が生み出される事となる。永久に彷徨う定めの哀れな魂の救済の為に生み出された呪文がこのザオラルであった。

だが、『人』の身分を越えた神秘である為、その成功率は限りなく低い。

 

「……どうして……どうして!? お願い、戻って来て! 戻って来て……」

 

 蘇生呪文という高等呪文の行使の脱力感を感じる暇もなく、サラは再度同じ呪文の行使準備に入る。メルエが先程の魔王の影が放った死の呪文と同じ物を受けて死に至ったならば、サラの行動は正しい筈であった。だが、その蘇生呪文は成功せず、未だに魂の抜けた少女の身体は動かない。まるで行使する自分を拒むように戻らない魂に、サラは再び自責の念に苛まれ始めた。

 最初にメルエを拒絶したのは自分である。あの時、満面の笑みを浮かべてサラを迎えたメルエは、皆を護ったという事実を誰よりもサラに褒めて欲しかったのだろう。サラの言い付けを破り、ドラゴラムと云う禁忌の呪文を行使した事を叱られる事があったとしても、メルエの心の中にある『サラに拒絶されるかもしれない』という不安は、それ程大きくはなかったのかもしれない。それにも拘らず、サラは幼い少女の信頼を裏切ってしまったのだ。

 目を逸らし、そのまま扉を閉じてしまった為にメルエの表情をサラは見ていない。だが、その悲しみに満ちた表情は容易に想像出来る物であった。

 そんなサラが唱える蘇生呪文は、この現世に希望を失ってしまったメルエにとって拒絶したいと思っても仕方のない行為である。戻って来ても、大好きな者が自分を恐れる姿は見たくはないだろう。

 

「メルエ、お願いだから! 戻って来て……」

 

 その事に思い至ったサラは溢れて来る涙を少女の遺骸に落としながらも再びザオラルという神秘を唱え始める。

 『悟りの書』というこの世に二つと無い書物に記された大呪文である。その希少性や呪文効果を考えれば、行使による魔法力の消費量は生半可な物ではないだろう。通常の僧侶などでは行使する事も出来なければ契約する事も出来ない。高位の僧侶であっても同様であろう。それを二度も行使出来るのは、世界広しといえどもサラだけである。

 しかし、そんな呪文使いの中でも奇跡に近い行使であっても実を結ばない。再び神聖な光に包まれたメルエの身体は、その光が消えて行くのと同時に力なく地面へと横たわってしまった。その瞳は開かず、その口元は動かない。花咲くような笑みを浮かべる事もなく、不満そうに頬を膨らませる事もない。呟くようでありながらも、何とか自分の想いを伝えようと必死に紡ぐ声も聞こえず、その身の内にある膨大な魔法力を感じる事もなかった。

 

「ぐずっ……ごめんなさい! ごめんなさい……メルエ。私が、メルエを嫌いになんてなれる筈がなかったんです! お願いだから……お願いだから、目を開けてください!」

 

 最早サラの瞳にメルエの姿ははっきりと映っていない。次々と溢れて来る涙は、洪水のようにメルエの服を濡らして行き、視界を歪ませて行く。魔法力の著しい消費の為に、朦朧として来る意識を繋ぎ止めながらもサラは叫び続けた。

 懺悔の言葉を繰り返し、それと共にザオラルいう奇跡の呪文を繰り返す。神や精霊ルビスの祝福を受けて輝くサラの腕が再度メルエの身体に光を送り込んだ。

 だが、それでも少女の魂は、彼女の器には戻らない。倒れそうになる身体を必死に起こし、サラは再び両手を天へと突き上げた。光がその両手に集まり、天からの祝福を加えて輝きを放つ。しかし、三度目の行使でも、四度目の行使でも、メルエの魂がサラの呼び掛けに応じる事はなかったのだ。

 

「私は、メルエが大好きですよ! 本当に……本当に大好きなんです……。でも、でも……竜になったメルエは恐かった。身体の震えが止まらなかった……えぐっ……それでも、やっぱり私はメルエが大好きなんです」

 

 メルエの身体に下ろした両腕でメルエの身体を揺すりながら、サラは大粒の涙を流し続ける。未だにこの森を彷徨っているであろうメルエの魂に語りかけるように、それでいて自分の胸の奥にある想いを確かめるように呟かれる言葉は、サラという賢者を成り立たせている原点なのだろう。

 魔物への潜在的恐怖を消す事は出来ない。それこそサラという賢者の原点であり起源だからである。魔物への恐怖が彼女を歪め、その恐怖があるからこそ魔物も生物である事を知った。盗賊や魔物達を葬って行く自分達を見る者達の瞳が、自分が魔物やカミュを見る瞳と酷似している事を知ったからこそ、恐怖の対象である魔物を一個の生物として認識する事が出来たのだ。

 魔物とて一つの生物であり、その生に意義は存在する。魔物とて命は一つであり、死を迎えれば魂となる。それは人間と同じであり、死への恐怖もまた同じ。己の遺伝子を後世に伝え、それを命を掛けて護ろうとする姿も変わりがないのだ。

 当初は気づこうともせず、憎しみだけをぶつけて来た彼女ではあったが、カンダタという盗賊との二度目の対戦を期に周囲への視野が大きく広がって来る。自分にも護る物があり、自分が敵対する者にも護る物があるという単純な事に気付く事が出来たのも、その頃であった。

 サラはアッサラームの夜に、その胸に誓ったのだ。義母に怯え、アッサラームの町へ入る事を拒んでいた少女の寝顔を見ながら、『この少女を護る』と。そして、ランシールでリーシャと語った事で、その誓いが重い物である事を自覚したサラは、その後に何度も自問自答を繰り返して来た。

 その答えが今、出る事となる。

 

「もっと、お話をしましょう……もっとお歌を歌いましょう……もっと、もっと、メルエと一緒に居たいんです! メルエが私を嫌っても良い……それでも私はメルエが大好きですから! だから、お願い……お願いだから戻って来て!」

 

 最後の慟哭といえる叫びと共に、サラは再び天を仰ぐように両手を掲げる。既にサラの魔法力は枯渇寸前であろう。高等呪文である蘇生呪文を何度も何度も繰り返し、溢れる涙が彼女の体力を削って行っていた。それでも彼女は呪文行使を繰り返す。自身の命を投げ打つかのような行為は、彼女が持つ罪悪感の強さと、決意の強さの表れであった。

 丁度カミュとリーシャが魔王の影に止めの一撃を与えた頃、サラの両手に先程以上に神聖な輝きが集まり始める。それはサラの身体に残った全ての魔法力でありながら、それ以上の輝きを放っていた。

 全ての生物は創造神によって生み出され、死を与えられると伝えられている。本来は神や精霊の祝福を受けてこの世に生を受け、短くとも生を全うした者が精霊の御許へと呼ばれると云われた。この世で生きる全ての物が神の祝福を受けて生まれて来る。それは人もエルフも魔物も、虫や獣や草花に至るまで例外はない。

 そして、竜の因子を受け継ぐ神の奇跡と呼ばれる一族の末裔であるメルエもまた、神や精霊の祝福を受けて生まれた者であった。

 

「メルエ……目が覚めた時、哀しんでは駄目ですよ。メルエはもっともっと大きな世界を見て、たくさんの生物に優しさを分けて下さいね」

 

 大粒の涙を溢れさせ、それでも優しい微笑みを浮かべたサラの顔は、ルビスの塔へ挑む前よりも賢者の顔となっていた。世界で唯一の精霊ルビスとの架け橋となれる存在であり、人類だけではなく、全ての生物の希望となる存在。

 竜種の因子を持ち、自分よりも圧倒的な力を持つ少女に微笑み、自分の心に残る傷と闇を生み出した魔物にさえも慈悲を向けようとし、遭遇する出来事全てに悩み、苦しみ、泣き、後悔を重ね、それでも立ち上がり前へと進む者。

 歴代の賢者の中でも最も心が弱く、力も弱い。だが、どれだけ高名な賢者よりも芯は強く、その力に対する知識には貪欲。誰も成しえなかった願いに向かう決意は強く、それを支える者達も多い。癒えぬ傷を持ちながらも、他者を癒そうとする志は高い。

 至上類を見ない『賢者』が誕生した瞬間であった。

 

「ザオリク!」

 

 創造神や精霊達の祝福が一気に集まったサラの腕が、闇に包まれたマイラの森を明るく包み込む。サラの体内に残っていた魔法力は少ない。そんな残りの魔法力全てを注ぎ込むような輝きは、サラの命の灯火のように眩い光を放っていた。

 それは、神の祝福であり、精霊の祝福。そして何よりも新たに生まれた真の賢者が持つ決意の輝きである。誰も踏み込む事の出来ない聖域へと踏み込み、誰も乗り越えられない高い壁を乗り越えた者が手にした輝きは、横たわる少女の身体へと吸い込まれていった。

 

 

 

 メルエという少女にとって、この世で大事な者は多くない。特に、アレフガルド大陸に限って言うのであれば、三人だけと言っても過言ではなかった。

 その三人が居なければこの少女は存在せず、この三人の内一人でも失えば、その心は壊れてしまう。それはカミュと逸れてしまった時に既に証明されている。それ程に彼女にとって勇者一行の三人の存在は大きいのだ。

 三人が彼女の夢であり、希望であり、そして全てである。

 

「…………??…………」

 

 その全てが崩れ去った彼女は森で歩き続けた結果、突如として広がった闇に飲み込まれた。心地良ささえも感じる闇に恐怖は感じず、解放されたような安らぎに満ちて行く中、彼女は意識を手放す。そして、気づいた時には何故か空中を漂っていた。

 浮遊感を感じる事はなく、只単純に自分の意識がそこにある。そんな不思議な感覚に不安を覚えたメルエが下を見ると、そこには見た事のある身体が横たわっていた。音さえも聞こえず、光も見えない状況で何故かはっきりと浮き上がる自分の身体を見たメルエは恐くなり、必死に自分の保護者を探すように首を動かす。

 しかし、そのような状況に陥って初めて、自分が何故この森へ来たのかを思い出した。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 再来する悲しみは彼女の心を襲い、唸り声を上げる。しかし、涙は出て来ず、胸の痛みも感じない。意識はあるのに、自分の身体が自分の身体ではないという感覚に、再度恐怖心が湧き上がった。

 見える景色は徐々に地面から離れ、周囲の木を掴もうとする手は木の枝をすり抜ける。襲い掛かる恐怖心は全てを飲み込み、声を上げようとしても喉が潰れたように声が出ない。周囲の音は聞こえず、深い闇は自分を飲み込むように濃く広がって行った。

 

「メルエ!」

 

 そんな時、静寂と闇に満ちていた森を斬り裂くような声が聞こえたような気がした。不安と恐怖に怯えていたメルエは懸命に下へと視線を落とし、横たわる自分の身体に近寄る三人の人影を見て表情を緩める。それは、彼女の全てと言っても過言ではない三人であった。

 その三人の中に自分を嫌悪しているであろう姉のような存在も居た事に一瞬顔を歪めたメルエであったが、その人物が迷う事なく自分の身体の傍に近寄り、触れた事を見て、嬉しそうに頬を緩める。

 しかし、大好きな三人の許へ戻ろうと身体を動かそうとするが、メルエの意志とは異なり、見えている身体は微動だにしない。そればかりか、見えている三人の姿は徐々に小さくなって行き、距離が離れ始めたのだ。

 

「…………うわぁぁぁん…………」

 

 力の限りに泣き叫んでも、その声は下の三人には届かない。皆が自分を無視しているように見え、不安と恐怖心が煽られる。暴れるように木の枝へと手を伸ばしても虚しくすり抜けて行き、次から次へと涙が溢れて来た。

 泣き叫んでもその声は届かず、救いを求めるように下へと手を伸ばした時、既にリーシャとカミュはそこにはおらず、更に大きな不安がメルエに襲い掛かる。カミュ達三人の傍に居られない事、それはこの少女には耐えられない程の苦痛なのだ。先程までは一緒に居たくない、居る事が出来ないと感じていた彼女であったが、実際に三人が傍に居るにも拘らず、自分の存在を認識して貰えないという事がこれ程の恐怖を誘う物だとは思っていなかった。

 カミュやリーシャが離れてしまった事で絶望感に再び苛まれ始めたメルエであったが、一人残ったサラの姿を見て、泣き叫ぶのを停止させる。メルエの身体に縋りつくように抱き付いたサラの瞳からは大粒の涙が流れていたのだ。

 サラが泣くなど最早日常茶飯事の出来事ではあるが、それでも感情の制御も利かずに泣き叫ぶ事は珍しい。つい先程まで、その人物の愛情を欲して彷徨っていたメルエにとって、サラの慟哭は驚くべき出来事であった。

 

「……!!」

 

 メルエの身体に手を当てながら叫ぶサラの声は届かない。何を叫んでいるのか理解出来ないまでも、その言葉が己を呼ぶ物に近い事を感じたメルエは、サラへ向かって叫び声を上げた。

 お互いが存在する世界が既に違うのだろう。二人が相手を呼び合う叫びは、哀しい事にお互いの耳には届かない。それでもサラが叫びながらメルエの身体に手を当てる度に発光する輝きは、不安と恐怖に包まれていたメルエの心に勇気の炎を灯し始めた。

 『戻りたい』、『帰りたい』という必死な想いは、徐々に強くなる光と共に、メルエの魂を身体へと近付けて行く。

 サラの姿が近づいて来た事でその表情が見えたメルエは、先程まで泣き叫ぶように両手を天と身体の往復をさせていた彼女が、何かを諦めたように静かに呟きを漏らしているのを見て、再び不安に駆られた。

 その不安が湧き上がり、何かを叫ぼうとしたメルエの魂が膨大な光に包まれ、一気に引き寄せられる。そのまま少女の意識は心地良い光の中へと吸い込まれて行った。

 

 

 

 

 

 サラの身体全てを覆うような強い光は、眩いばかりにマイラの森を包み始める。その輝きを一点に集中させ、横たわるメルエの身体に一気に送り込んだ。

 マイラの森全体を包み込むのではないかと思われた光は、幼い少女の身体の中へと吸い込まれて行き、まるでアレフガルド大陸全体の光という光を全て飲み込むように消えて行く。最後に天へと続く空から一筋の光がメルエの中へと吸い込まれ、再びマイラの森に闇と静寂が戻った。

 

<ザオリク>

蘇生呪文ザオラルの上位呪文である。

死の呪文によって彷徨う魂を強制的に肉体へと戻す事を目的とした呪文であり、その成功率を上げた結果に生まれた真の魔法であった。

だが、その成功率と引き換えに膨大な魔法力を注ぎ込まなければ起動はせず、魔法力の乏しい者が行使すれば一瞬で行使者の命を奪い、蘇生も成功しない。故に、『悟りの書』の中でも厳重に封印されており、それを行使出来る程の才能を示した者でなければ読む事さえも出来なかった。

己の命を犠牲にする可能性もある蘇生呪文は、禁忌とされていたのだ。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 全ての力が抜けてしまったように荒い息を吐くサラは、幼い少女の身体へと倒れ込む。成り行きを呆然と見つめていたカミュとリーシャは、それを見て駆け出した。

 まるで全魔法力を使い果たし、己の生命力さえも注ぎ込んでしまったように倒れ込んだサラの姿にリーシャは焦りを覚える。メルエと引き換えにサラを失ったのであれば、リーシャにとって全てが無意味なのだ。

 確かにメルエは最愛の妹であり、最愛の娘であるようにも思っている。だが、サラという人間もリーシャにとっては最愛の妹の一人であった。例え、この状況を生み出した一つの原因が彼女であったとしても、それは変わらない。

 

「……よかった」

 

 少女の胸へと耳を付けるように倒れていたサラは、小さな呟きを漏らして涙を溢れさせる。そして、そのまま瞳を閉じた。まるで眠りに就くように、そして生を手放すように、彼女の表情は安らぎに満ちた安堵の色を浮かべている。そんなサラの表情を見たリーシャは、自分の中に湧き上がる最悪の状況が現実化して行く事に身動きが取れなくなってしまった。

 不思議な雰囲気に包まれたサラとメルエの周囲には、神聖な空気が満ちている。それが天から神や精霊がサラを迎えに来ているようにさえ、リーシャには見えてしまったのだ。

 しかし、そんな神聖な空気も、神や精霊をどうでも良い物としてしか考えていない青年にとっては考慮に入れる物ではなかった。

 

「起きろ!」

 

 リーシャの横を走り抜けたカミュは、メルエの身体に倒れ込んだサラを強引に引き上げ、幸せそうに瞳を閉じるサラの頬を力強く張る。強く張られた頬は鋭い音を立て、マイラの森に響き渡った。

 突然のカミュの行動に驚いたリーシャは眼を丸くさせながらも、その場を動く事は出来ない。そんな彼女を余所に、カミュは再度サラの頬を強く張った。後日、サラの頬は真っ赤に腫れ上がるだろう。そう感じる程の音が再び森に響き渡り、先程まで瞳を閉じていたサラが重い瞼を微かに開いた。

 

「この状況を作り上げたのはアンタだ! そのまま逃げるつもりか!? 祈れ! 今こそ、アンタが信じて止まないルビスに祈れ! アンタの指にはその為の指輪がある筈だ!」

 

「カ、カミュ……」

 

 サラの胸倉を掴んで引き上げたカミュが発した言葉にリーシャは言葉を失う。まさか、カミュがここまでの声量で叫ぶとは思わなかった。しかも、その相手はサラなのだ。カミュが戦闘中以外で声を張り上げる事など皆無に等しい。稀にあったとしてもそれはリーシャとのやり取りの中だけであった。サラとの間では、ノアニール近辺でエルフのアンとトルドの娘のアンを同一化した時の記憶が僅かに残るだけである。

 サラが今昏倒しているのは、己の中にある魔法力を全て使い果たしたからであり、その代わりに命の灯火を差し出したからである。だが、本来生命力を魔法力へ変換する事など出来はしない。気力を全て吐き出してしまい、残った生命力だけでは生きるという気力を支える事が出来ないからこそ、彼女は眠りに付くように死へと向かってしまっていたのだろう。

 

「……ル、ルビス…様」

 

 珍しいカミュの心の叫びは、意識も朦朧とし、瞳も虚ろなサラの脳へと届いて行く。視線も定まらない虚ろな瞳は深い闇に包まれた空へと向けられ、震える手が祈りを捧げようと動き出す。しかし、気力を全て失ってしまったサラの身体が容易に動く筈もない。それを見たリーシャは素早くサラの傍へと寄り、その両手を包み込むようにして合わせた。

 自分の手が暖かな温もりに包まれた事で若干表情を和らげたサラであったが、開かれた唇は微かに震え、瞳の光も徐々に失われて行く。その姿を見つめるリーシャは、『何故、最愛の妹の死を何度も見なければならないのか』と悔しさに唇を噛み締めた。

 

「……ルビ…ス様……お許し……を」

 

 サラが全てを手放すように最後の呟きを漏らし、瞳を閉じた時、再びマイラの森が大きな光に包まれる。カミュ達のいる場所の北西の位置から発せられた大きく神聖な輝きは、一瞬の眩さと共にサラの身体の中へと吸い込まれて行った。

 まるで、ルビスの塔に封印されているとされる精霊神ルビスが、己の魔法力を分け与えるようにサラの身体に魔法力が満ちて行く。全ての光がサラの中へと納まった後、小さな命の鼓動が闇と静寂に満ちたマイラの森に刻まれた。

 

「カ、カミュ……サラは助かったのか?」

 

「……おそらくな」

 

 サラの身体から手を離し、地面へと静かに寝かせたカミュに問いかけるリーシャの瞳からは大粒の涙が溢れている。メルエとサラの鼓動が聞こえて来るかのように、静かな寝息が響いているのだから、リーシャとて解っているだろう。それでも彼女は問い掛けずにはいられなかった。

 大きく息を吐き出したカミュが頷きを返すのを見たリーシャは、小さく柔らかな笑みを浮かべる青年にしがみ付く。そしてそのまま声を殺す事なく泣き出したのだった。ここまでの状況は、仲間を心から愛する女性戦士にとって、耐える事の出来ない程の苦痛であっただろう。その苦痛と緊張から解放された彼女は、最も信頼する青年の胸で喜びを表すように涙を流し続けた。

 

 

 

 アレフガルドを覆う闇は未だに深い。それでも、その闇を晴らす為に歩み続ける一行を覆い始めていた闇は、その闇を吐き出した『賢者』自身によって、今晴らされた。

 精霊神ルビスの祝福を受けた『賢者』は、このアレフガルドにて精霊神ルビスの信任を得る。ここまでの彼女の苦悩と後悔は、全てこの日の為にあったのかもしれない。

 今、このアレフガルド大陸に於いて、真の『賢者』は誕生した。

 

 

 




お読み頂き、ありがとうございました。
これにて第十九章は終了です。
後日、勇者一行装備品一覧を更新して完全終了です。

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