新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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ルビスの塔⑥

 

 

 怯えもなく、焦りもなく向かって来る一人の青年に、竜種の上位に君臨するドラゴンは気圧されていた。目の前に見える生物は、この世界の中でも最も底辺の力しか持たない人間。それにも拘らず、一振りの大剣を持って歩いて来る姿は、ドラゴンが恐れを抱いた事のある竜の女王や大魔王に匹敵する存在感を持っていたのだ。

 それでも竜種の上位に君臨するドラゴンの力は、アレフガルド大陸でも上位に位置する。そんな存在が小さな人間に臆するなど認める事は出来なかったのであろう。大きく開かれた口の奥に燃え盛るような火炎を溜め込み、それを矮小な人間に向かって一気に吐き出した。

 

「フバーハ」

 

 炎が噴出した瞬間に、ドラゴンと人間の青年の間に霧のカーテンが生まれる。霧が炎を包み込み、水蒸気へと変えて行った。一気に吹き上がる高熱の蒸気の壁で視界を遮られたドラゴンは、その壁を一気に抜けて飛び込んで来る青白い光を目にした瞬間、左側の視界を奪われる。

 巨大な咆哮を上げたドラゴンは、左目を斬り裂かれ、大量の体液を飛ばしながら首を上げた。水蒸気の壁の熱など物ともしない青年の身体は青白い光を発する鎧によって護られている。首辺りに出来た多少の火傷は、剣に付着した体液を飛ばした瞬間に癒えて行った。

 戦闘開始と共に強靭な鱗を斬り裂いた青年に、ドラゴン三体が怯みを見せる。矮小な人間と侮り、食料としてしか見ていなかった相手に付けられた傷が痛み、視界が赤く染まったドラゴンは、その怒りを真っ赤な炎を吐き出す事で表現した。

 

「おりゃぁぁ!」

 

 しかし、その炎は途中で中断させられる。横合いから振り抜かれた斧が、ドラゴンの口先を大きく抉ったのだ。吹き出す体液と、斬り裂かれた舌。ドラゴンの下顎と長い舌が斬り裂かれ、思うように炎を吐き出す事が出来なくなった一体のドラゴンは、そのまま斧を振るった女性を喰らおうと首をもたげるが、そこでその一体の視界は暗転した。

 巨大な音と共に床へと落ちたドラゴンの首には、綺麗に斬り裂かれた痕が残る。深々と抉られた傷から溢れる体液が、神聖な塔の床をどす黒く染めていた。世界最強種族である竜種の鱗を容易く斬り裂き、一体の竜種を討ち果たした青年が剣を振るって体液を飛ばす。その後方から斧を担いだ女性戦士が現れた事で、ようやく行動が止まっていた残る二体のドラゴンの瞳に力が戻った。

 

「ここからは簡単にはいかないようだ」

 

「……わかっている」

 

 既に命を散らした一体は、カミュ達を侮り、自分の強さを驕っていた。竜種として、この塔の中でも頂点に居たドラゴンが敗れる事はなかったのだろう。故にこそ、近づいて来た矮小な人間を侮り、簡単に討ち果たす事が出来ると考えていた。その隙を突く事が出来たからこそ、サラやメルエの補助呪文があったとはいえ、前衛二人だけでドラゴンを討ち果たす事が出来たのだ。

 しかし、残る二体はそんな彼等の力を見て、明確に敵と判断している。既にその瞳に驕りや蔑みはなく、純粋な敵対意志と怒りが見えていた。この後の戦闘では不意打ちのような策は使えず、純粋な力のぶつけ合いとなるだろう。如何に炎や吹雪から護ると云われている勇者の盾や光の鎧を纏っているとはいえ、本気になった竜種と単独で渡り合う事など出来はしないだろう。

 リーシャへ頷きを返したカミュは、視線を後方にいる二人へと移した。

 

「メルエ、行きますよ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの視線を受けたサラは小さく頷いて隣の少女へ声を掛ける。自身の背丈よりも大きな杖を掲げたメルエもまた、一歩前へと踏み出した。

 溢れる魔法力は空間に漂う大気さえも歪める。己の内にある太古からの因子が、格の違いを訴えかけるように、目の前で咆哮を上げる二体の竜種へ警告を鳴らした。

 何かを感じた一体のドラゴンが大きな咆哮を上げた跡でその口を目一杯に開き、また一歩と歩を進めて来る少女とそれを護るように共に進んで来る女性に向かって荒れ狂うような炎を吐き出す。一気に吐き出された炎に合わせるように霧のカーテンを生み出す事は出来ず、それに変わって振り抜かれた少女の杖先にあるオブジェの嘴から圧倒的冷気が吹き荒れた。

 氷結系最上位呪文であるマヒャドがドラゴンの吐き出した火炎と衝突し、大きな音を立てながら蒸気を上げる。だが、真の力に目覚めた小さな魔法使いが操る冷気は、竜種の上位に君臨するドラゴンの炎を圧倒した。

 渦巻くように吹き荒れた冷気は、炎を消し去って尚勢力を維持し、ドラゴン一体の前足を地面へと縫い付けて行く。床に凍り付いた前足に気付いたドラゴンは悲鳴のような咆哮を上げ、長い首を左右に揺らした。

 

「カミュ、今だ!」

 

 一体のドラゴンの状態を確認したリーシャが、その言葉と共にドラゴンへと駆け出す。魔神が愛した斧を振り被り、そのままドラゴンの首へ真っ直ぐ落とそうとした時、その身体は消え去った。

 残るドラゴンの存在を忘れていた訳ではない。だが、自身の力量が上がった事を認識している彼女は、もう一体が動き始める前に斧を振り下ろせると考えていた。だが、それは竜種という存在の評価を甘く見すぎていた証拠となる。

 仲間の窮地に駆け寄ったもう一体の竜種の首がリーシャの身体を薙ぎ払い、絶対的な重量の違いから、彼女の身体は塔の壁に激しく衝突した。吹き抜けの場所であれば、階下へ真っ逆さまに落ちていただろうが、壁に衝突したリーシャは、そのまま前のめりに床へと崩れ落ちた。

 

「メルエ、支援を! 私はリーシャさんを診て来ます!」

 

「…………ん…………」

 

 倒れ付したリーシャは、気を失っていないまでも起き上がる事が出来ない。不意を突かれた形での衝撃だった為、それに対しての備えが何もなかったのだ。故に、その衝撃は緩和される事なく身体全身に巡り、何処かの骨が折れている可能性さえもあった。

 前回の苦戦が蘇ってくるような構図。再びカミュ一人でドラゴン二体を相手取る事となり、一体の足が固定されているとはいえ、吐き出す炎は強力である。自身が吐き出す火炎の熱によって溶け出した足元の氷を破ったドラゴンがカミュへ肉薄する。真の主としてカミュを認めた勇者の盾が火炎を悉く退けてはいるが、二体のドラゴンの攻撃を凌ぐ事も難しくなって来ていた。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 しかし、一体のドラゴンがその首をカミュへ向けて振り下ろそうと動いた時、後方の魔法使いが最上位の火球呪文の詠唱を完成させる。その呟きに近い詠唱を聞いたカミュは、ドラゴンの攻撃の力を利用して一気に後方へと飛び、炎を吐き出そうとするもう一体のドラゴンに向けて左手を掲げた。

 巨大な火球がドラゴンの顔面目掛けて襲い掛かる。カミュを弾き飛ばしたと満足気に口を歪めたドラゴンは、自身の吐き出した炎以外に熱気に気付き、即座に首を下げた。しかし、火球の速度はドラゴンが考えているより速く、その頭部にある二本の角を削ぎ落とすように融解させて反対側の壁へと突き刺さった。

 

「ギオォォォォ」

 

「イオラ」

 

 身体の一部が圧倒的な熱量で融解された痛みを感じたドラゴンは、咆哮とも言えない凄まじい叫び声を上げる。だが、その叫び声に掻き消される事のない詠唱が塔内に木霊し、カミュへ向かって炎を吐き出そうとしていたドラゴンの口内で空気の圧縮解放に伴う爆発が起きた。

 のた打ち回るように痛みを表現するドラゴンと、吐き出そうしていた炎を巻き込んでの爆発を体内で受けたドラゴンの悶絶によって、イオナズンの威力でも崩壊しない堅固な塔が揺れ動く。大きな杖を振るっていた少女が尻餅を突くほどの揺れが響く中、剣を構え直したカミュの横をすり抜けて、一人の女性が煌く一閃を走らせた。

 

「グオォォォォ」

 

 爆発によって口内に傷を負ったドラゴンの前足が深々と抉られる。巨大な身体を支えていた四本の足の一つが力を失い、支える事の出来ない身体が床へと落ちて来た。それを見たカミュは態勢を立て直してそのドラゴンへと向かうが、横合いから吐き出された燃え盛る火炎に行く手を遮られる。

 大きな舌打ちをしたカミュは、即座に後方へと戻って来たリーシャと肩を並べて炎の熱気が去るのを待つ。そんなカミュ達の空白の時間を突くように、炎を吐き出したドラゴンが炎の中を突き進んで来た。

 

「マヌーサ」

 

 虚を突かれたカミュの反応が一拍遅れる中、大きく口を開いたドラゴンの牙が炎の明かりを受けて輝く。しかし、その牙はカミュを捕らえる事なく、大きな音を立ててドラゴンは口を閉じる事となった。

 後方から唱えられた補助呪文は、敵と認識した二人を敵視する余りに視野の狭くなったドラゴンの脳を蝕んで行く。脳神経を麻痺させ、幻影を見せるその呪文は、竜種の上位に君臨するドラゴンの脳機能を低下させ、虚空に見えたカミュの幻影へと嚙み付いたのだ。

 元々『火竜』という種族の端に名を連ねるドラゴンは、火炎系統の耐性は強い。己の吐き出した炎が如何に強力でも、それを突き抜けて進んで行く事は可能なのだ。その点に意識が向かなかったのは、どれ程に力量を上げたとしても、カミュ達の種族が『人』であるが故なのだろう。

 竜種が強靭な肉体と鋼のような鱗を持っている事を知っている。それでも、火炎の中を突き進んで無傷でいられるとは考えても見なかった筈だ。

 

「竜種でも、仲間の危機には身を挺するのだな」

 

「……人間であろうと、魔族であろうと、竜種であろうと、根本は変わらない筈だ」

 

 あらぬ場所に向かって牙を剥いているドラゴンの姿を見上げながら、しみじみと呟きを漏らすリーシャに、カミュはこの旅が始まった頃から一貫した考えを口にする。それを聞いたリーシャは恥ずかしげに苦笑を浮かべ、『そうだったな』と一言口にした後、表情を引き締めて斧を構え直した。

 人間であろうと、同種の人間を落とし入れ、騙し、嘲笑う悪魔のような者も存在する。仲間を見捨て、自身だけが生き残る為に他者を斬り捨てる人間も数多くいるだろう。それは魔族だから、魔物だから、などという事はないのだ。

 逆に、魔族の中にも同種を大事にし、懸命に回復呪文を唱える者もいた。竜種であろうと、共に生きる種族を護る為に己の身を犠牲にする者がいても何も可笑しくはない。

 

「だが……それでも、私達は前へ進む為に彼らを葬らなければならない」

 

「それこそ、変わる筈がない。俺は何もせずに死ぬつもりはない」

 

 引き締めていた表情を緩め、リーシャは笑みを溢す。彼女の言葉に対して返って来た言葉は、遥か昔、まだ彼女達が生国であるアリアハン大陸から抜け出していない頃に聞いた物であった。

 魔王バラモスに辿り着けるとは考えもせず、途中で命を散らす事を受け入れていた彼が、それでも何もせずに死を受け入れるつもりはないと口にしたのは、その頃は僧侶であったサラが初めて魔族を見た時である。

 だが、リーシャが微笑んだのは、今のカミュの言葉に若干の嘘が隠されていたからだ。今の彼はあの頃に比べ、大きく変わっている。あの頃とは異なり、受け入れざるを得ない死でさえも跳ね除けようと抗う筈だ。それは何の為なのか、その原動力が何なのか、もしかするとカミュ自身気付いていないのかもしれない。だが、リーシャはその心を知っていた。

 

「バギクロス」

 

 今まであらぬ方向へ向けられていたドラゴンの牙が、正確にカミュに向かって襲い掛かる。既にリーシャとの会話を終えていたカミュは、その牙を軽やかに避け、雷神の剣を振るった。その剣筋と共に後方から飛んで来た十字に切った真空の刃が、ドラゴンの巨大な牙を根元から斬り飛ばす。斬り飛ばされた牙を掻い潜って一閃された剣筋は、正確にドラゴンの喉笛を斬り裂いた。

 吹き上がる体液と轟く雄叫び。床を夥しい量の体液が満たして行く。しかし、それでもそのドラゴンの闘志は衰えない。喉から体液を溢していてもその痛みに燃える瞳をカミュへ向け、大きく口を開いた。

 後方支援組の詠唱が間に合わない程の速度で吐き出された炎が、至近距離からカミュを包み込む。真っ赤に燃え上がった炎から肉の焼ける臭いが漂い、炎に包まれた人間の身体に被害が及んでいる事が推測出来た。

 

「カ、カミュ!」

 

 未だに炎を吐き出し続けるドラゴンに向かって斧を振り上げ、その行動を中断しようと駆け寄った女性は、真横から繰り出された一撃によって吹き飛ばされる。壁に衝突し、再び崩れ落ちた女性戦士によって足を斬り裂かれたドラゴンが尾を振るったのだ。

 僅か一撃で形成を逆転してしまうという強みは、何も勇者一行に限った事ではない。竜種の上位に君臨する者であれば、それを可能とする力を有しているという事であった。

 真っ赤に燃え上がる炎を呆然と見つめていたサラは、その事実を改めて突きつけられる。ここまでの戦闘で、自分達が優位に立っていると確信していたからこそ、この状況が訪れる可能性を理解していながらも、それを何処か遠い可能性と考えていたのだ。

 

「…………マヒャド…………」

 

 呆然とそれを見つめるサラの横で少女が杖を振るう。同時に巻き起こった冷気の嵐が、塔の天井まで吹き上がる炎の柱を消し去って行った。圧倒的冷気が炎とぶつかり、蒸気の壁を生み出す。蒸気の壁によって視界を遮られたサラは、我に返って壁に衝突したリーシャへと視線を向けた。

 そこで彼女は、自分が考えている以上の強さを前衛二人が有している事も、改めて知る事となる。どんな局面であっても、サラやメルエの前に立ち、そのような脅威からも護り続けて来た二人は、ルビスの塔の初探索時に受けた雪辱を晴らす為、サラやメルエの見ていない所でも努力を重ねて来ていたのだ。

 己に何が出来るのか、己に何が出来ないのか、何を有し、何が不足しているのかを常に考え、不足している部分を補いながらも、有している物を伸ばす為の努力を彼等は惜しまない。故にこそ、彼等は今、この塔の最上階まで辿り着く事が出来たのだ。

 

「…………カミュ…………」

 

「リーシャさん!」

 

 後方支援組二人の喜びの声が轟く中、二体のドラゴンの大きな瞳に僅かな怯えが映り込む。それは、多少の火傷を負いながらも、青白い輝きを放つ鎧を纏った青年を見たからなのか、それとも自分の身を護る物である筈の盾を掲げ、淡い緑色の光に包まれながら立ち上がった女性戦士を見たからなのかは解らない。ただ、この世界最高種族である竜種を圧倒するだけの力がそこにあったのだ。

 僅かに残る鉄化の名残が消えて行き、青白い光に包まれた勇者が真っ直ぐにドラゴンへ向かって駆けて行く。力の盾というアレフガルドでも希少な盾を構え直した女性戦士が、勇者の背を護るように、恐慌に陥って振るわれた尾を弾き飛ばして行った。

 

「ルカニ」

 

「…………ボミオス…………」

 

 そんな前衛の動きに合わせるように、賢者と魔法使いが補助魔法の詠唱を完成させる。賢者は、敵の防御力を落とす効力を持つ呪文を、魔法使いは敵の素早さを奪う呪文を。それは二体のドラゴンの身体に正確に到達し、その効力が発揮された事を示すように魔法力の輝きを残した。

 リーシャが振るう斧が動けないドラゴンの尾を斬り飛ばし、カミュが振り下ろした剣は、避けようと動くドラゴンの首へと突き刺さる。突き刺さった剣は、その全体重を持って振り抜かれ、ドラゴンの長い首を床へと落として行った。

 塔の最上階が揺れる程の振動を生み出して落ちたドラゴンの首は、夥しい量の体液を垂れ流しながら痙攣を続ける。巨大な瞳から光は失われ、黒目が消えて行った。一体を葬り去ったカミュは、もう一体のドラゴンが炎を吐き出す素振りを見て、傍にいたリーシャの身体を片手で抱き抱える。そのまま勇者のみが行使出来る最上位の防御呪文の詠唱を完成させ、何物も受け付けない鉄の塊へと姿を変えた。

 

「メルエ、行けますか?」

 

「…………ん………イオナズン…………」

 

 既に二人分のマホカンタを唱え終えていたサラは、カミュ達の姿が鉄色に変わるのを確認して、隣に立つ少女に問いかける。自分を取り巻く光の壁を形成する魔法力の温かみを感じたメルエは、大きな頷きを返して杖を振るった。

 直後、この塔の最上階に残る全ての光と音が消し飛ばされる。空気全てが圧縮されたのではないかと思う程に視界は歪み、その歪みの中心にいる緑色の鱗を持つ竜種の姿さえも歪んで行った。そして、耳鳴りがする程の静寂が一気に解放され、凄まじい爆発音と共に爆風と振動が全てを飲み込んで行く。

 塔の壁のあちこちから岩が崩れ落ち、天井を形成する一部も崩壊した。その中心にいた竜種の血肉は爆発によって弾け飛び、その熱によって跡形もなく消し去られる。

 本来であれば、このような塔内部で使用するような呪文ではない。塔の崩落という危機を考えるのであれば、この呪文を使用する事なく、前衛二人に任せるべきであった。だが、サラは既に前衛二人の限界を見ていたのだ。

 二体の竜種を葬り去った二人の腕は僅かに震えている。それは、バイキルトという呪文によって武器を強化しているとはいえ、その強固な鱗を斬り裂いて敵を葬る行為が彼等の身体に負荷を掛けていた証拠でもあったのだ。

 

「大丈夫です。カミュ様達はアストロンによって護られていますから」

 

「…………ん…………」

 

 そして、現在所有するサラとメルエの呪文の内、この竜種に対抗出来る物は、魔法使いの少女が所有する最上位の爆発呪文だけである。前回も一体のドラゴンを吹き飛ばし、その命を軽々と奪った爆発呪文だけが、弱っているとはいえ、竜種の命を奪う事が出来る物であった。

 故にこそ、サラはそれを行使する事を選んだのだ。前回同様、メルエが魔法力の出力を調整するとすれば、ルビスの加護と人々の信仰、そして今では大魔王ゾーマの魔力に護られた塔が崩壊する事はないと考えていた。

 だが、爆風による砂埃が晴れ、鉄の塊となったカミュ達二人が見えて来た頃、サラは自分の判断が危うい物であった事を知り、改めて今後は呪文の行使場所を熟考する必要性を感じる事となる。

 荒れ果てたフロアに、崩れ落ちた天井、天井を支えていた柱の数本は折れ、崩壊した壁には大きな穴が空いている。中心部に近いカミュ達の足元は抉れ、所々では床が抜けている部分さえも見えていた。

 本来の使い手とサラが認める魔法使いの少女が生み出した惨状は、やはり魔王を名乗る者が生み出した爆発よりも規模が上であったのだ。

 

「ふぅ……カミュ、何とか生き残れたみたいだ」

 

「竜種にではなく、味方に殺されるところだったのかもな」

 

 今では背丈もリーシャを越えたカミュが、そんな彼女の肩を抱きながら見た光景は、アストロン行使前と同じ場所だとは思えない物であった。カミュの手が自分の肩にあるという事に気付く事も出来ず、リーシャもまた、その光景を呆然と見つめる。まるで夫婦が絶景を見ているような後姿に小さな少女が抱きつくまで、そんな時間は続いて行った。

 駆け寄って来た少女が腰に抱きついた事で我に帰ったリーシャは、気恥ずかしげにカミュの腕を解き、メルエを抱き上げる。褒めて欲しそうに見つめてくる少女に苦笑を漏らした彼女は、その帽子を取って優しく頭を撫でた。

 

「ご無事で良かったです」

 

「この分だと、封印されているルビス自体が無事かどうかは解らない」

 

 安堵したように近づいて来たサラは、カミュの返答を聞いて顔色を青くする。確かに、封印されて身動きの取れない状態のルビスが、今の爆発に巻き込まれていないと断言する事は出来ない。カミュの行使するアストロンのように何物も受け付けない鉄に変わっているのであれば無事であろうが、石化のような形で石像となっていたとすれば、今の爆発の余波で砕けていないとも限らないのだ。

 顔面蒼白という言葉が当て嵌まる程の表情をしているサラに苦笑を浮かべたリーシャは、メルエを抱き抱えたまま、彼女の肩を叩き、拾った『たいまつ』を塔の中央奥部へと向ける。『たいまつ』の乏しい明かりは、再び闇に閉ざされ始めた塔内部を照らし、その明かりに反射するように、中央の奥から小さな輝きが漏れていた。

 

「……あれは」

 

「ここにルビス様が封印されているのであれば、あの輝きこそがルビス様なのだろう」

 

 淡く漏れるように輝く光は、何処か安心感を齎すような優しい物。一切の明かりが入って来ないアレフガルドの塔内部で、何かが光を反射しているという事は有り得ないだろう。とすれば、必然的にこの場所に封印されている者が発する輝きだと想像出来た。

 このアレフガルドだけではなく、上の世界でも多くの者達が信仰するルビスという存在は、『精霊神』である。数多いる精霊達の頂点にいる存在であれば、例え魔王や大魔王であっても完全に封印する事など不可能に近い筈であった。

 有する力の大部分を削られ、その力を封じられているとはいえども、その存在自体を完全に封じる事は出来ない。闇に包まれたアレフガルドで生きる者達の心に絶望という感情が支配し始めていても、その信仰心は薄れず、そんな生きとし生ける者達の想いが、この輝きを保たせているともいえるのかもしれない。

 

「行くぞ」

 

 いつも通りの声をカミュが上げるが、サラの足が動かない。最も敬愛し、最も信じる存在が今、目の前に居るかもしれない。それは、如何に自分の道を定め、それに邁進すると誓った賢者であっても恐怖を感じる物であったのだ。

 どれ程にその存在に感謝しただろう。どれ程にその存在に祈りを捧げただろう。どれ程に頼りとし、どれ程に心の拠り所としただろう。誰が何を言おうとも、誰がその存在を否定しようとも、蔑もうとも、嘲笑おうとも、サラにとって精霊ルビスという存在が絶対である事は今も変わりはない。

 僧侶として信じていた教えに背き、自分が許されない存在だと感じても尚、精霊ルビスという存在を信じ続けて来た。そんな彼女が、神と信じ続けた者が数十歩先に居る。

 

「サラ、行こう。ルビス様がお待ちだ」

 

「…………いく…………」

 

 いつの間にか床に降ろされたメルエがその手を握る。じんわりと伝わって来る温かみが、サラの心へと溶け込んで行き、凍り付いたように足を固めていた何かが解けて行った。

 最後に肩を軽く叩かれたリーシャの一撃によってサラの足が一歩前へと踏み出し、その勢いを利用するようにもう片方の足が前へと進み始める。既に『たいまつ』を持って先を歩き始めていたカミュの背中が見え、それを追うように三人が続いて行った。

 ルビスの塔という五層の塔の最上階、そして最も奥深くに、それは存在していた。カミュ達四人が見て来た物の中でも何よりも神々しく、何よりも美しい。そんな石像が、その奥で祈りを捧げるように立っていたのだ。

 今にも動き出しそうに淡い光を放ちながら、悲しみを帯びた表情は、新たな時代の到来を願うように瞳を閉じている。創造神への物なのか、それともこの大地で生きる全ての者達への物なのか、しっかりと合わせられた両手は胸の前に置かれ、奇しくも先程のイオナズンによって空けられた壁の穴に向かって顔を向けていた。

 この石像を見た物であれば、世界各地に作られたルビス像が似て非なる物であると口を揃えていうだろう。世界で造られたルビス像は、人間が想い描いた最上位の美しさを表現した女性像である。誰もが畏怖する程の美しさを持ち、誰もが跪く程の神々しさを持つ女性像として生み出されたルビス像も、今目の前にある石像のような物からすれば紛い物以外の何物でもなく、人間の想像の限界を知る事となった。

 

「……ル、ルビス様」

 

「こ、このお方が、精霊の神であるルビス様なのか」

 

 『たいまつ』の明かりを受けずとも優しい光を放つ像を見た瞬間、サラは腰が抜けたように跪く。そのまま胸で両手を合わせ、瞳からは止め処なく涙が溢れ出した。その涙を止める術などない。嗚咽を漏らす事なく、ただただ静かに流れ落ちる涙は、この六年の旅全てを物語っているのかもしれない。

 静かに佇むその像は、それだけで圧倒する程の神々しさを持ちながらも、全てを包み込む優しさと温かさに満ちている。この場に居るだけで、魔王バラモスや大魔王ゾーマが何を恐れていたのかを理解出来ると感じてしまう程の存在感がそこにはあったのだ。

 

「…………ふえ…………」

 

「ああ」

 

 それぞれ感覚で言葉を失っているリーシャとサラを余所に、サラの手を離した少女がカミュを見上げて口を開く。その頬が若干膨れているのは、口に出した道具を使用する事の出来る者が自分ではない事への不満なのだろう。

 二人の女性ほどではないにしろ、その像の存在感に圧倒されていたカミュは、ようやく我に返り、懐から一本の横笛を取り出す。それはマイラの森を護る『森の精霊』から託された神代の笛。『妖精の笛』という名で伝わるそれは、ルビスの封印を解く唯一の方法だと云われていた。

 未だに放心状態で涙を流し続けるサラと、立ったままでありながらも胸で手を合わせ始めたリーシャへ一度視線を送ったカミュは、溜息を吐き出した後で、ゆっくりと横笛の歌口へと唇を宛がう。彼としても自身が楽器などを奏でた事がない事は百も承知であり、笛へ息を吹き込む事しか出来ない事は解っていた。それでも、森の精霊が言うように、この笛は自分にしか奏でる事が出来ないのであれば、何も考えずに吹くしかないと考えていたのだ。

 

「……カ、カミュ?」

 

「…………すごい…………」

 

 しかし、そんな彼の考えは自分の理解出来ない場所から否定される事となる。カミュ自身も何が起きているのか解らない。自分が吹き込んだ息が、不思議な木で出来た横笛からこのような音を奏でるなど想像も出来なかった。

 横笛に等間隔で開けられた穴に当てた指は、自分の脳から与えられた物ではない指示で動き始める。聞いているリーシャやメルエが目を見開き、その美しい音色に心を奪われて行った。人類が作成した笛では奏でる事が出来ない音は、まるで心地良い眠りに誘われるように心へと染み込み、安らぎと温かみを与えて行く。

 カミュが奏でる音は流れるようにルビスの塔へと響き渡る。その音が周辺の壁に染み込み、その都度ルビスを模った石像が放つ輝きが強まって行った。流れるような指の動きが、この世の物とは思えない音色を奏で、強まって行く輝きが塔の最上階を覆って行く。

 音色に心を奪われたように頬を緩めるメルエとは異なり、リーシャは自分を取り巻く周囲の変化に目を見開いていた。先程メルエの放ったイオナズンによって、見るも無残な姿に変わった最上階が、元に復元して行くように姿を変えて行く。ルビスの石像が放つ輝きが強まり、その輝きに包まれた箇所が時を撒き戻したように美しい姿に変化して行った。

 壁に刻まれた装飾はその造形だけでなく、造られた頃の色合いさえも戻って行くように輝きを放ち始める。これ程の技術が、遥か昔にあったのかと疑いたくなる程の素晴らしい彫刻が浮き上がり、色鮮やかに彩られた柱が蘇った。

 

「これが、本来の塔なのか」

 

 自分の周りに見えた塔の装飾は、美術関連の嗜みのないリーシャでさえも感嘆の声を上げる程に素晴らしい物であり、その手を握ったメルエは笑みを浮かべながらその変化を楽しむ。

 どれ程の時間が経過したのかも忘れる程、漂う音色に聞き惚れていたリーシャ達は、その曲の終わりが近付いている事を知る。徐々に緩やかになって行く曲調は、静かに、そして大気に溶け込むように消えて行った。

 妖精の笛の音色が消えて行くと同時に、その音色全てを受け入れたかのように石像が輝きを放ち始める。そして、集約された光が弾けるように塔内全てを眩く照らした後、その存在は彼等の前に舞い降りた。

 

「よくぞ、ここまで辿り着きました。私は貴方達を心から誇りに思います」

 

 頭の中に直接響くような声が轟く。笛の歌口から口を離したカミュは表情を失い、それを見たメルエもまた先程までの笑みを消してカミュの腰にしがみ付く。まるで仇でも見るような二人の耳には、目の前の存在が口にする言葉さえも届いていないかのようであった。

 しかし、先程の笛の音色に涙腺が完全に崩壊していたサラは、頭に直接響くその声に、弾かれたように顔を上げる。眩く輝く人型の何かが目の前で浮いており、その輝きをまともに受ける事が出来ずに目を閉じたサラは、再び深々と頭を下げた。

 

「カミュ……勇者ロトの魂を受け継ぎし者よ。辛く厳しい運命(さだめ)にも屈する事なく、このアレフガルドまで辿り、私を解放してくれた事を感謝します」

 

 輝きが集約され、全ての光がその人型に納まった時、そこにはこの世の物とは思えない程の美しい女性が立っていた。赤く輝く髪をなびかせ、瞳も同じように深い赤い光を湛えている。豊かな胸は母性を表し、すらりと伸びた足が女性らしさを象徴していた。

 精霊の神と呼ばれるその存在が、勇者一行とはいえども人間でしかない者達に感謝を告げるという事自体が異例であり、畏れ多い事である。それを聞いたサラは先程以上に頭を下げ、感激の涙を床へと溢した。

 

「大魔王ゾーマ打倒の為には、精霊ルビスの解放が必要であっただけだ」

 

「カ、カミュ様!」

 

 しかし、放心するリーシャや、感激の涙を流すサラとは異なり、冷たい目でその女性を見つめていた青年は、精霊の神に向かって口にする言葉ではない物を発する。それに驚き、恐れたのはサラであった。畏れ多くも、全世界が崇める精霊神に対して、呼び捨てにするという事は勿論、その解放自体をついでのように話す神経がサラには理解出来ない。無礼を通り越して、罪深すぎるのだ。

 どれ程の感情をカミュが宿していたとしても、人間などよりも遥かに高位の、創造神に最も近いと云われる存在に向かっての発言ではなく、この世界から抹殺されてしまっても可笑しくはない。己の立場も、己の存在も、己の価値さえも弁えない言葉であった。

 

「サラ、良いのです。貴女には要らぬ苦労を掛けました。貴女が望む未来、貴女が夢見る世界は、貴女自身と人の子達が作り出す物。それを咎める者などおりません。貴女は貴女の思うように生きなさい。もし、貴女が誤った道を歩む時、それを遮ろうとする第二の貴女が現れるでしょう。それこそが、世界の意志なのです」

 

「ル、ルビス様……」

 

 カミュの言葉を窘めるサラを制した精霊ルビスは、ここまでの旅で悩み、苦しみ、泣き続けて来た賢者へと声を掛ける。自身の名を敬愛する神のような存在に呼ばれる事が、これ程の喜びを感じる物であった事を、サラは初めて知る事となる。

 この世に生を受け、様々な苦しみと悲しみを乗り越えて来たサラではあるが、自分が誰よりも不幸であると思った事は一度もない。今、この命があるだけでも、精霊ルビスによって救われたという事実があるだけでも、自分は誰よりも幸せなのだと信じて疑わなかった彼女の心が、今初めて報われたのかもしれない。

 魔物を救い、教えに背いた時、最早僧侶としての資格もなく、精霊ルビス像の前に立つ資格さえも失ったと考えていた彼女は、それでも周囲の暖かな手を握り、前へ向かって歩み続けて来た。その道を信じ続けては来たが、迷わなかったと言えば嘘になる。何度も迷い、悩み、苦しみ、泣いて来た。それでも進んで来た道の先にある未来が、決して間違った物ではないと、彼女が最も言って欲しかった存在から賜ったのだ。これ以上の喜びなどあるだろうか。

 

「カミュ、貴方はやはり、あの者と似ていますね。ですが、それは似ているだけ。貴方は貴方であり、他の誰でもありません。貴方は既に知っている筈です。貴方が何故、この場所にいるのか。そして、貴方が何故、勇者と呼ばれるのかを」

 

「……カミュ」

 

 未だに冷え切った瞳を向けるカミュに困ったような笑みを浮かべた精霊ルビスは、この場所でカミュという一人の存在を認める。先程言葉にした古の魂の名を持つ者と似て非なる者であるという事を。

 そんな精霊ルビスと当代の勇者との会話を横から見ていたリーシャは、心配そうに眉を下げ、その名を小さく呟いた。

 

「リーシャですね? 貴女がいなければ、カミュがこの場所に辿り着く事はなかったでしょう。貴女にも心からの感謝を。貴女の優しさと強さが、この勇者と賢者を導いて来ました。ここまでの旅にも、これからの旅にも、貴女の心こそが最後の砦です」

 

「……勿体無きお言葉。光栄でございます」

 

 突如自分に向かって告げられた言葉に、リーシャは慌てて跪く。彼女とて、僧侶であったサラ程ではないが、熱心なルビス教徒である。幼い頃から精霊ルビスという存在への感謝を持ち、日々の糧や命は、精霊ルビスの加護があればこそであると信じて来たのだ。

 そんな彼女が、神のような存在に自分を認められ、感謝までも告げられるとなれば、アリアハン国王に言葉を貰った時と同様の感動を受けたのだろう。跪いたリーシャの瞳に温かな涙が溢れ出していた。

 それでも、一人冷たい瞳を向ける青年の腰にしがみ付いた少女は、何故彼が冷たい瞳を向けるのか、何故サラ達が跪いたのかが解らない。基本的にカミュが敵視した者は皆敵であった。それはリーシャもサラも敵と認識していたし、カミュ達に敵意を向ける者達ばかりであったからだ。

 だが、今目の前に居る存在はそうではない。温かな微笑を浮かべながら、真っ直ぐにカミュへ視線を送り、それを受けたサラ達は涙を流して跪いている。その涙が悲しみや苦痛での涙でない事はメルエにも解った。だからこそ、彼女は目の前に存在にどう接して良いのかが解らない。

 

「メルエ、良く頑張りましたね。最も数奇な運命(さだめ)を持った貴女が、カミュ達と共に歩んで来れたのは、貴女の先祖が忌避して来た、人々との繋がりがあったればこそ。それは、神や精霊ではなく、人々の愛が紡いで来た絆です。貴女こそが、この世界の輝く未来への道標なのかもしれません」

 

 柔らかく乗せられた手は、メルエの心に染み込んで来る程の温かさに満ちている。ゆっくりと浸透して来る温かさは、警戒に強張っていた少女の身体から力を抜いて行った。

 気持ち良さそうに目を細め、その手を受け入れていたメルエは、手が離れると同時に未だに冷たい瞳を持つ青年を見上げる。その表情を見て困ったように眉を下げたメルエではあったが、この心優しい青年に、『自分が傍にいるよ』と伝える為に、その手を握り締めた。

 メルエの体温を感じながらも、目の前に居る存在に湧き上がる感情を抑え切れないカミュは、冷たく鋭い瞳を向け続ける。

 

「私が貴方の魂を見つけた時、何時消え去ってもおかしくはない程に弱々しい輝きでした。その魂を護らなければと思って来ましたが、それは私の傲慢な考えだったのですね」

 

 真っ直ぐにカミュを見つめた精霊ルビスは、懺悔を始めるように小さな呟きを漏らす。カミュがこの世に生を受けた時、既に精霊ルビスはこのアレフガルドで封じられていた可能性は高い。大魔王ゾーマも封じられていた為に、アレフガルド大陸が闇に包まれていた訳ではないだろうが、精霊ルビスの力が弱まっていた事だけは確かであった。

 その中でも、カミュが精霊ルビスの加護と愛を受けていた事も事実であろう。彼の人生が決して平坦な物ではなかった故にこそ、加護と愛がなければ生きていられなかったと考えても不思議ではない。それをカミュが感謝するかは別にしても、小さな愛や加護は届いていたのだ。

 

「貴方は一人で歩くのではなく、彼女達と共に歩き、そしてその魂を輝かせて来ました。優しさを失わず、志を捨てず、貴方は歩いて来たのです。今では、勇者ロトの物よりも眩い輝きを放つ魂となり、そしてこの場所に辿り着きました」

 

 跪いていたリーシャやサラも顔を上げて精霊ルビスの言葉に耳を傾ける。畏れ多いとは知っていても、今はその顔を見て聞かなければならないのだと、本能が語っていた。

 何処か寂しそうに語る精霊神の言葉は、まるでカミュが自分の手を離れてしまった事を嘆く母親のような物にさえ聞こえる。精霊達の王であり神である者に対して感じる事さえも不敬に当たる物ではあっても、何故かそう感じずには居られない雰囲気が漂っていた。

 

「このアレフガルドは私が造った世界です。創造神が生み出した、貴方達の生まれたあの世界に憧れて造りました。ですが、やはり私の力は弱く、人々の力も魔法力も上の世界の人間には及びません。ましてや、創造神の写し身と云われるエルフは生み出す事が出来ませんでした。ですが、人々の心は優しく、この世界に迷い込んだ魔物や魔族を排除しようとする事なく、共に生きる道を探してくれています。そんな世界を壊そうとするゾーマを許す事が出来ず、私が力を解放しましたが、それは間違いだったのかもしれません」

 

 哀しそうに瞳を落とす姿は、先程までの圧倒的な存在感を持つ者とは思えない。そんな雰囲気にカミュの瞳から剣呑さが若干消えて行く。憎しみを持って見ていた相手が持てる影響力など、自分の歩んで来た人生の中の僅かしかない事を改めて認識したのだ。

 精霊ルビスの加護という言葉は、彼が最も嫌う言葉でもあった。そのような物は必要なく、自分で道を決め、自分でその道を歩みたかった。それが出来ず、決められた道を人形のように歩かされて来た日々は、意識なくとも、彼が選んだ道でもあったのだ。

 アリアハンという国を出て、一人で生きて行くという選択肢がなかった訳ではない。それでも自分が居なくなった後の事を考え、行動が出来なかったという過去がある。それこそ、怒りに任せて人々を殺害する選択肢もあっただろう。それもまた、生来の彼の気質が許さなかった。

 知らず知らずの内に選択して来た道は、今の彼を形成する過去となっている。それが苦しい過去であった事は変わらない。だが、その過去があるからこそ、今の自分があると思えば、それもまた一つの道であったのかもしれないと、手を握るメルエの瞳を見て、カミュは思っていた。

 

「最早、この世界は動き始めています。私が差し伸べる手を必要とはしないでしょう。貴方達がここへ辿り着いた事がその答えであり、その証明なのかもしれません。この世界は、この世界で生きる者達だけの物。そしてこの世界の未来もまた、この世界で生きる者達だけの物なのですね」

 

 そんなルビスの言葉に、現職の僧侶であり賢者であるサラが口を開こうとする。精霊の神に向かって言葉を発するなど、一国の王に対して発言する以上の物である。畏れ多く、不敬でありながらも、サラは敬愛する精霊神に対して言葉を飲み込む事は出来なかった。

 立ち上がる事はせずとも、立膝を着き、胸に両手を合わせて精霊ルビスへ視線を送る。言葉を選ぶ余裕などない。それでもこれを口にしなければ、この世界は精霊ルビスという大いなる存在に見放されてしまうのではないかという恐怖に駆られたのだ。

 

「……ルビス様、私が今あるのは、ルビス様の加護と私の両親の愛があったればこそだと信じております。私達『人』だけでなく、この世界に生きる多くの者達には、まだまだルビス様の愛が必要であると愚考します」

 

「サラ、ありがとう。この世界で生きる者達全てが、私の子であり、宝です。私は永遠にこの世界で生きる者達を愛し続けるでしょう。ですが、私の子供達は皆強い。過ちを犯しながらも前へと進み、世界を広げて行く筈です。それに比べれば私の力など微々たる力。特に解放されたとは云えども、今の力ではゾーマに立ち向かう事も出来ません」

 

 精霊ルビスという存在は、精霊の神である。自分が卑下するような小さな力ではない。だが、解放されたばかりのその力が、全盛期の物ではない事だけは確かであろう。復活を果たした大魔王ゾーマに及ぶ筈もなく、その手で人々を護る事も出来ない。

 その事実を突きつけられたサラは、愕然とした表情で眉を下げる。だが、彼女を見下ろす精霊ルビスの瞳が優しく強い光を宿している事で瞳に力を取り戻した。それは子を送り出す母親が持つような温かな瞳。子を信じ、子を誇る親の瞳である。

 

「光の鎧も、勇者の盾も、貴方を主と認めたようですね。その鎧はやはり貴方に良く似合う。その袋の中にある石を私に……」

 

 優しい瞳をカミュへと動かしたルビスは、精悍な顔立ちとなり、その身に神鳥の紋章を宿す青年の姿を誇らしげに見つめる。そして、温かな手をカミュへと差し伸べ、彼の所有物を要求した。

 一瞬何の事か理解が及ばないカミュであったが、腰にしがみ付いていたメルエが、彼の腰に下がった革袋の中にある一つの石を取り出す。それは淡い青色に輝く綺麗な石であり、精霊ルビスの加護を宿し、死の呪文からの身代わりとなると伝えられた石であった。

 サマンオサにあるラーの洞窟で発見し、皆の意見が一致してカミュが持つ事になった物。そして、つい数ヶ月前に、この石を取り出した少女に持たせていなかった事を大いに悔やむ事となった物でもある。

 

「…………これ…………?」

 

「ありがとう、メルエ」

 

 差し出された『命の石』を受け取った精霊ルビスは、それを手のひらに乗せ、静かに口付けを施す。精霊神の唇が触れた淡い青色の石は、闇に包まれた塔全体を照らす程の輝きを放ち、一気にその輝きを飲み込んで行った。

 そして、全ての輝きを飲み込んだ命の石は、少し大きな円形の形へと姿を変えて行く。いつの間にか現れた鎖のような物でペンダントのような形へと変化したそれをルビスはカミュの首へと掛けた。

 眩く輝くその石は、まるでルビスの愛を体現するかのように温かな光を放っている。精霊の聖なる愛を封じ込めたそれは、カミュだけではなく、この一行を護る守りとなるのだろう。

 

「…………ラーミア…………」

 

「そうです。メルエの言う通り、その鎧や盾に刻まれているのは、不死鳥ラーミアの紋章。ラーミアに守護者と認められた者だけが、その鎧を纏う事が出来ます。その守りもまた、私とラーミアの愛の証。必ずや貴方の身と道を護ってくれるでしょう」

 

 カミュの首に掛けられた命の石であった物にもまた、ラーミアの紋章が大きく刻み込まれている。不死鳥ラーミアの加護と、精霊ルビスの愛。それを一身に受けた者を、『勇者』と呼ぶ事が出来るのかもしれない。

 嬉しそうにその守りを見つめ、手を伸ばすメルエの頭に手を乗せた精霊ルビスは、そのまま全員の顔を見渡し、柔らかな笑みを溢す。それは正しく精霊の神が浮かべる天女のような笑みであり、人々の心に勇気と希望を与える力強い笑みでもあった。

 

「カミュ、この先で貴方は大きな試練にぶつかるでしょう。今、この場所で私と対面した事よりも大きな物です。そこで貴方は決断をする事になります。ですが、何も恐れる事はありません。何も迷う事はありません。貴方の心のまま、そしてその心の奥にある強い意志のまま進みなさい」

 

 メルエの頭から手を離したルビスは、そのまま身体を浮き上がらせる。徐々に離れて行くルビスの姿は、まるで天上へと還って行くようにも見える。本来の居場所へと戻るという事は、この地を恐怖と闇で支配する大魔王ゾーマを放置するという事に他ならない。

 精霊ルビスと竜の女王が手を組んでも滅ぼす事が出来なかった存在を、最も矮小な種族である人間の手に委ねるのだ。それは、アレフガルドのみならず、世界を見捨てると同意の物と見ても可笑しくはない。だが、この場に居る誰もが、その考えには至らなかった。

 何よりも、精霊ルビスが浮かべる微笑みと、カミュ達を見つめる瞳が、絶対の信頼と自信に満ちている事が誰の目にも明らかであったからだ。

 

「その試練を超える事が出来る貴方であれば、この世界から闇を払う事など容易き事。大魔王ゾーマを討ち果たし、この世界に平和が訪れる日を楽しみにしています」

 

 ゆっくりと溶けて行くように消えるルビスの言葉が、先程以上に強く脳へと響いて来た。見上げるように首を上げたメルエが、消えて行くルビスに向かって手を振る。それに応えるように柔らかな笑みを浮かべたまま、精霊ルビスの姿は虚空へと溶けて行った。

 放心したように見上げていたサラは、ここまでの旅で感じてきた苦労が無駄でなかった事を知り、再び大粒の涙を溢す。自分達の旅の全てを、力を失いながらも見つめ続けてくれていた精霊神に感謝し、胸で手を合わせた。

 相手が精霊神であろうと、無邪気な姿を崩さないメルエに微笑んだリーシャは、再び闇が落ちた塔内部に『たいまつ』の炎を掲げ、その少女の頭に手を乗せる。温かな手に目を細めたメルエが微笑み、それを見たカミュが苦笑を浮かべた。

 カミュの胸にはラーミアを模った紋章が記された円形の石が輝いている。それは、彼等が歩んで来た六年の旅の成果であり、結果であった。

 

 人々が崇め、敬う大いなる存在。数多居る精霊達の神と伝えられたその存在を見る事の出来る者など、有史以来初めての事なのかもしれない。しかも、その言葉を賜るとなれば、歴史上でも唯一となるのだろう。

 この世界で生きる全ての者達を等しく愛する精霊神であっても、その愛の証を与えられた者は唯一人。精霊ルビスという存在を憎み続けて来た青年は、その首に愛の証を下げ、不死鳥ラーミアの加護によって身を護られる。

 彼の歩む先に続く未来は、大いなる愛と加護によって護られているのかもしれない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
これにて、二十章も終了になります。
いよいよ、二十一章。最終章の前章になると思います。

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