新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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リムルダール②

 

 

 

 預言者の居た建物から出た一行は、大きな道を挟んだ向かいにある武器と防具の看板を掲げる建物へ歩いて行く。買い物という単語に胸を躍らせるメルエは満面の笑みを浮かべているが、その笑顔がすぐに曇る事を予感しているリーシャとサラは、苦笑を浮かべた。

 メルエの着用している装備品に関しては、最後に購入したのがエルフの隠れ里にあった『天使のローブ』である。それ以降、数多くの町や村を訪れてはいるが、メルエの物を購入した事はないのだ。肩から掛けているポシェットを繕う為に糸や布や、肌着などを購入した事はあっても、武器や防具を揃えた事はなかった。

 それは、メルエの持つ『雷の杖』という武器と、『天使のローブ』という身を護る防具が彼女にとって最強装備である事を物語っている。元々、魔法使いという職種は、魔法力に特化する反面、体力が低い。力が弱く、重量のある武器や防具を装備する事が出来なかった。その中でも、メルエという魔法使いは例外である。まだまだ身体が出来上がっていない幼子である為、成人した魔法使いよりも装備出来る物は更に絞られて来るのだ。

 『雷の杖』というのは、メルエの為に造られた武器であるように、今では彼女の手となっている。それ以降も店先で幾つもの杖を見てはいるが、メルエという少女の心を掴んだのは、悪戯という行動に直結する『変化の杖』だけであった。

 『天使のローブ』には、死の呪文に対する抵抗力があると云われている。そのローブを模る糸一本一本に、温かな願いと想いが編み込まれており、他者の死を願う理不尽な呪文に抵抗し、跳ね返すとエルフの隠れ里では伝えられていた。そんな逸話を知る彼等は、絶対にメルエからこのローブを取り上げる事はないだろう。それは、死の呪文によって一度死を迎えている少女の姿を見ているからである。あの姿を見た彼等ならば、メルエが他の装備を纏う事を許さないに違いない。

 

「メルエの物は売っていないかもしれませんよ?」

 

「…………むぅ…………」

 

 それでも、落胆するメルエの姿を見たくはないサラは、手を繋ぐ少女に事前に釘を刺す。だが、その言葉を聞いた少女は、明らかな不満を顔に出し、頬を膨らませて『ぷいっ』と顔を逸らしてしまった。

 新しい物を買って貰えるというのは、子供でなくとも心が躍る物である。それに加え、今までの短い人生の中で、何一つ買い与えられて来なかった者であれば尚更であろう。

 カミュ達と出会い、家族のような愛を貰い。そして、自分の身の回りに必要な物を買い与えられて来た少女は、そんな小さな我儘を覚えてしまう。不満を顔に出し、駄々を捏ねれば何らかの譲歩を引き出す事が出来るかもしれないという小さな小さな我儘。

 その我儘をぶつけられる者にとっては小さいと流せる物ではないが、権力も資金も持ち合わせていない幼子にとっては、そんな小さな我儘が唯一の抵抗であり、手段なのだろう。メルエの姿に困惑するサラとは異なり、リーシャは優しい笑みを浮かべながらメルエの帽子を取って頭を撫で付けた。

 

「いらっしゃい」

 

「品物を見せてくれ。この店の逸品などがあれば、それも見せて欲しい。それと、ここで魔物の部位は買い取って貰えるか?」

 

 リーシャとサラがメルエと格闘している間に、先頭のカミュが武器屋の扉を開く。カウンターに入っていた店主が営業的な笑みを浮かべ、それに対して簡潔にカミュが答える。

 先程の宿屋で、彼らの所持金の多くを失っている。その為、剥ぎ取った魔物の部位を店主に渡し、買取を頼む。このアレフガルド大陸で暮らす者達では倒す事の出来ない魔物達の部位は、かなり貴重な物であり、一瞬驚きの表情を浮かべた店主ではあったが、即座に査定を行い、カミュに金額を提示した。

 提示された金額を交渉する術は勇者や戦士にはない。世界を代表する賢者となったサラであっても、その術を持ち合わせてはいないのだ。故に、彼等は提示された金額で了承する他ない。それが不当に安い金額なのか、それとも適正なのか、はたまた希少性を重視した高い金額なのかも解らないまま受け取る他なかった。

 

「うちでしか取り扱っていない物となれば、この四品だろうね。それぞれ説明しようか?」

 

 ゴールドを受け取ったカミュはそれを革袋へ入れ、想像以上に重くなった革袋を腰へと下げる。一つの袋では入り切らないゴールドを三つに分けた事を考えると、この店主は持ち込んだ部位に対してそれ相応の価値を付けたと考えて良いだろう。

 カウンターからゴールドがなくなった事を確認した店主は、カウンター奥から一つの品物を運んで来る。カウンターに置かれた物は一振りの剣。とても細身の剣であり、カミュの持つ王者の剣の半分以下の厚みしかなかった。

 鍔の部分は、鳥が羽ばたくような姿で作られており、それは抽象的な王者の剣の鍔とは異なり、はっきりとした姿で模られていた。

 

「これは、(はやぶさ)の剣と云う。とても軽くしなやかな剣で、熟練の者であれば、敵が行動する前に二度三度と剣を振るう事が出来ると云われているよ」

 

「……なんとも頼りない剣だな」

 

 自慢気に剣を持って語る店主の言葉に、リーシャは素直な感想を口にする。確かに軽くしなやかであり、尚且つ鋭さを持つ剣であれば、素早い攻撃を繰り出す事が出来るだろう。だが、その有用性を発揮出来るのは、対人の戦いだけではないかとリーシャは考えていた。

 この細身の剣では、動く石像や大魔人のような魔物とまともにぶつかる事は出来ず、反対に剣が砕けてしまっても可笑しくはない。故にこその感想であったのだろう。

 武器という枠であれば、カミュの武器はこの先で変化する事はないだろう。神代の金属と現代の人の想いが込められた武器は、カミュという勇者にとって最高の物であり、至上の物であるのだ。そして、リーシャの持つ魔神の斧もまた、それと同様に彼女の中では至上の物であるのかもしれない。

 

「サラが持ってみるか?」

 

「いえ、私にはこのゾンビキラーがありますし、私が肉弾戦をする所まで来れば、その剣では心許ないです」

 

 リーシャがカウンターに置かれた剣を再度見てから後ろにいるサラへ声を掛ける。しかし、そんなサラの答えは、それを完全否定する物であった。

 サラもまた、リーシャの手解きを受けた者であり、今ではその力量も騎士に遅れを取るような物ではない。むしろ、カミュやリーシャを除けば、世界最高の剣士という称号を手にしても可笑しくはないのだろう。それでも、上位の魔物には敵わない。彼女が剣を振るって前衛で戦う時は、勇者と戦士が既に亡き者になっている時だけであり、そのような絶望的な状況で振るう剣としては、この『隼の剣』では心許ない事は事実であった。

 元々剣を装備出来ないメルエに持たせる訳にも行かず、メルエ自身も剣に興味を示す事なく、周囲に掛かっている武器や防具を見上げている。

 

「そうですか……残念ですが、仕方がありませんね。それでは、この剣はどうですか?」

 

 購入の気配がない事で、店主は隼の剣を奥へと仕舞って行く。そして、再度戻って来た彼は、もう一振りの剣をカウンターへと置いた。

 先程の隼の剣とは異なり、その外見はシンプルな物であり、何の装飾もない一振りの剣である。しかし、その剣の厚みはカミュの持つ王者の剣と大差はなく、重厚な厚みと大気さえも斬り裂く程の鋭さを持っていた。

 鍔にも装飾はなく、真っ直ぐに延びた物であり、全体的に鋼鉄色をした物である。何の変哲もないその剣にサラは首を傾げるが、それとは異なり、カミュとリーシャは、その剣に真剣な眼差しを向けた。

 

「これも一品物で、『バスタードソード』と云います。通常の剣よりも頑丈に出来ておりますから、斬る事にも突く事にも優れている剣です。特殊な力などは何も保持していないので、斬る事と突く事しか出来ませんが、それでも並みの剣とは比べ物にならない逸品です」

 

「確かになかなかの剣だな」

 

 店主の説明に大きく頷きを返したリーシャは、その剣の力を認める。重厚感ある剣である為、カミュやリーシャのような者でしか扱う事は出来ない。先程の隼の剣とは異なり、サラでは振る事も出来ないだろう。

 そうなれば、このバスタードソードと呼ばれる剣の結末も見えて来る。前述したように、彼等二人には己と最後まで共にする相棒が既に存在しており、如何に優れた武器であろうと、今の武器を大きく超える程の物でなければ必要性は皆無に等しかった。

 

「これも……駄目そうですね。ふむ……では、この盾など……如何でしょうか?」

 

「おい、大丈夫か?」

 

 カミュとリーシャの表情を見た店主は、商人としての経験を発揮させ、商売が成立しない事を察知し、カウンター奥へと引っ込んで行く。そして、代わりに持って来た物を見たカミュは、その品物の異様さに手を貸そうと歩み寄った。

 ふらふらと覚束ない足取りでそれをカウンターに置いた店主は、額に滲んだ汗を拭い、乱れた息を整える。既にカウンターに乗っている事も信じられない程の大きさを誇るそれは、奇妙な楕円の形をした盾。緑色に染められた表面に金で枠取られていた。

 

「ふぅ……これは『オーガシールド』と呼ばれる盾です。何でも、古の怪物であるオーガという巨人族が持っていた盾と云われています」

 

「巨人族の盾か……どうりで大きい筈だ」

 

 その大きさは、リーシャ一人をすっぽりと覆う事の出来る程であり、盾と言うよりは壁に近い物である。試しにカウンターから持ち上げたリーシャは、そのずっしりとした重量に少し驚きながらも自分を覆うような盾を掲げてみた。

 確かに、守りとしてはこれ以上の物はないだろう。カミュの持つ勇者の盾のような特別な謂れがなければ、この盾以上の防御を持つ物は存在しない事が解る。だが、彼等の目的は己の身を護る事だけではない。勿論、己の身と仲間の身を護らなければならない事も事実だが、それだけでは駄目なのだ。

 

「これは、動き回る戦いには適さないな。籠城戦や攻城戦には威力を発揮するだろうが、この先の戦いでむしろ邪魔になる可能性が高い」

 

「まぁ、そうだろうな」

 

 カウンターへ戻した盾を見やり、リーシャは己の感じた事を口にする。そして、カミュもまた、それに同意を示した。

 彼等の目的は大魔王ゾーマの討伐であり、ゾーマが籠る城の制圧ではない。前衛二人の片方が盾役となって攻撃を凌ぎ、一人が攻撃を一手に担う事で打ち倒せる程、破壊と絶望の王は優しい相手ではないだろう。二人の内、一人でも欠ければ、たちまち全滅への道筋が開けてしまう可能性が高かった。

 そんな一行にとって、この盾は有用性に欠けている。それを聞いた店主は大きく肩を落とした。彼としても、己の店にある良い品物を選んで並べて来たのだが、三つの内、全てが却下されるとなれば、商人としての誇りを大きく傷つけられる結果となってしまっているのだろう。

 そして、最後の望みを掛けて店主は奥から一つの商品を運んで来る。

 

「これも駄目ですか……他にあるとすれば、この兜だけですね」

 

「これは……何というか……」

 

 しかし、そんな店主のささやかな願いは、その品物を見たサラの引き攣った表情が打ち壊してしまった。

 その兜は、本当に立派な物である事が解る。それこそ、一国の宮廷騎士隊長が装備するに相応しい代物であろう。その金属は重厚な物であり、鈍い輝きを持つ。ミスリルヘルムよりも頑丈である事が一目で解った。

 ただ、サラが絶句する理由はその頭頂部にある。

 

「この鶏の鶏冠のような飾りは、どうにかならない物か?」

 

「いえ、このグレートヘルムはこのような造りですので……」

 

 宮廷騎士隊長などのように上層部に入った者達は、自分の権威を示すように他者とは異なった飾りを付ける事がある。宮廷の厨房などでも、その権威や地位によって帽子の高さが異なっていたり、教会でもその法衣を彩る色素によって身分を示したりなど様々ではあるが、『人』という種族は得てして他者との差別化を図りたくなるのだ。

 このグレートヘルムという名の兜もまた、もしかするとこのアレフガルド大陸に於ける地位の高い存在の為だけに造られた兜なのかもしれない。その名を示すように、他者との違いを見せ付ける為の兜という印象しか受けなかった。

 その構造、その金属を見れば、この兜の有用性が確かである事も解る。おそらくカミュの被っている『光の兜』よりは数段落ちるだろうが、それでもリーシャの装備する『ミスリルヘルム』よりは上であろう。だが、それでも唯一装備出来るリーシャは、このグレートヘルムを手に取る気はなかった。

 

「これが駄目となると、当店でお勧め出来る物は何一つありません……」

 

 アリアハンという小さな島国の宮廷にも、グレートヘルムという名の兜は存在していた筈である。だが、リーシャの知るそれは、以前上の大陸の武器屋で販売していた鉄化面のような兜であった。

 頭部から顔までをすっぽりと覆い、目の部分に細い切れ込みが入っていて視界を取る物である。また、口元の部分には細かな穴が空けられ、通気性を確保した物が、本来のグレートヘルムであるとリーシャは記憶していたのだ。ただ、使っている金属は良い物で鋼鉄、悪い物であれば青銅のような物であり、今目の前にある物よりも遥かに心許ない兜であった。

 しかし、自らの権威を象徴する為に、この兜が作られたとすれば、顔面を全て覆ってしまえば本末転倒である。幾ら有用な物であろうとも、誰が被っているのかが解らなければ意味を成さないのだ。故にこそ、名前には『グレート』と付けながらも、形状は全く異なる物としたのだろう。

 だが、自身の権威や地位に興味のない者からすれば、ただただ恥ずかしいだけの装飾でしかない。リーシャが固辞する気持ちも解るというものだ。

 断られた店主からすれば、自信を持って取り出した商品全てを否定された事で商人としての力量さえも否定された気分になってしまったのだろう。だが、これが生半可な冒険者風情の者達から言われたのであれば、この店主も反論したに違いない。それだけの自信を持つ商品でありながら、カミュ達にそれを口にしないのは、彼等四人の力量を無意識に把握したのだろう。それこそ、彼の商人としての力量を物語っていると云えるのだが、それを気付けという方が無理なのかもしれない。

 

「……すまないな。良い品だとは思うのだが、今の俺達には必要のない物のようだ」

 

「いえ、お気になさらず。最近では珍しいお客様でしたので、私も張り切り過ぎてしまっただけです」

 

 意気消沈してしまった店主の姿を見たカミュは、何処か罪悪感を感じ、軽く頭を下げる。そんな優しい姿にリーシャは頬を緩めた。

 カミュに向かって慌てて手を振る店主の言うように、このリムルダールの武器屋に人が訪れる事は少なくなっているのだろう。特に、上の世界の人間よりも力の弱い者達が多いアレフガルドでは、この店主が先程取り出して来た物の中で使用可能な物といえば、隼の剣しかない筈である。売れない商品を在庫しているという状況が続いていただけに、彼もまた意欲を燃やしていたに違いない。

 

「良い物をご紹介出来なかっただけでは商人の恥です。何かお話出来る事でもあれば良いのですが……」

 

 だが、流石はアレフガルド大陸一の都市であるリムルダールで商売をする人間である。上客を繋ぎ止め、その後もまた縁を繋いで行く為に、笑みを浮かべて口を開いた。

 今まで周囲を見渡していたメルエも、これまでと異なり何も購入しなかった事に首を傾げて近付いて来る。彼女は自分が買って貰えないのに、誰かが買って貰えるからこそ膨れるのであり、誰もが平等であれば不平を口にはしなかったのだ。

 そんなメルエを抱き上げたリーシャは、カミュと店主の会話へ意識を移す。今度ばかりは譲るつもりがないのか、店主は笑みを浮かべながら熱い視線をカミュへと向けていた。

 

「何か、この町で変わった物などあったら教えて欲しい」

 

「変わった物ですか……難しいですね。変わった物ではなく、変わった人ならば、町の外れに何でも『鍵』の研究をしている老人がいるとか……。それと、向かいにある建物の二階には各地を歩き回った囚人が捕まっていますね」

 

 カミュが口にした曖昧な問いかけに困ったような表情を浮かべた店主であったが、それでもその問いかけに答えを出す。

 このリムルダールという町は、アレフガルド首都であるラダトーム王都から実質的な移動距離では最も離れている。マイラの村南に造られている海底洞窟が繋がればかなり移動距離は短くなるだろうが、現状では最も離れた都市と言っても過言ではないだろう。

 ある意味では大魔王ゾーマの居城から最も近しい取り残された都市と言っても良い筈である。そんな場所でこれ以上の情報を仕入れるのは困難であると考えたカミュが出した抽象的な問いかけであったのだが、返って来た答えは少し興味を抱く事柄であった。

 

「それと、この話は私がお客様から聞きましたので、信憑性は薄いのですが……何でも、このリムルダールの西の外れにある岬に年老いた男が立っていたそうです」

 

「なに!? それは本当か!?」

 

 だが、カミュとサラが次の目的地を決めた頃に呟かれたもう一つの情報が、それまでメルエと共に笑みを浮かべていたリーシャを豹変させる。

 リムルダールの西の外れといえば、先程の預言者が『虹の橋が架かる』と口にした場所である。その場所に立つ年老いた男となれば、宿屋の親子から聞いた英雄オルテガ以外には存在しないだろう。

 カミュが生まれた頃には二十台半ばから後半であったオルテガである。そのカミュも既に旅を始めて六年の月日が経ち、二十二という歳になっている。であれば、オルテガの年齢は五十に近いと考えられた。

 この時代、五十といえば既に体力の峠を越えて久しい。その姿を見た人間が『年老いた男』と感じていても可笑しくはないのだ。

 

「まさか……オルテガ様は本当に泳いで渡った訳ではあるまいな」

 

「さぁな。会った事もない人間の考える事など解る訳がない」

 

 勢い良くカミュへと視線を向けたリーシャの問いかけは、即座に斬り捨てられる。

 未だに西の外れに虹の橋は架かっていない以上、その年老いた男が橋を渡って大魔王の城へ向かった訳ではないだろう。そうなれば、岬から海へと飛び込み、そのまま泳いで対岸へ渡ろうとしたと考えるのが普通であった。そして、その方法で迎える結末は、特殊な海流に吞み込まれての『死』である可能性が高い。その不安をリーシャは口にしたのだ。

 だが、あくまでも他人であると云う立ち位置を崩さないカミュは、その不安を一蹴する。確かに、カミュはオルテガの記憶など欠片もないだろう。顔も憶えていなければ、声も知らない。思い出も残っておらず、あるのは、その人物の名が生み出す弊害の記憶だけだった。そんな人間の考える事など、解ろう筈がない事は事実である。

 そして、そんな事を口にするカミュへ、リーシャはただ哀しそうな瞳を向ける事しか出来なかった。

 

「貴重なお話をありがとうございました」

 

 そんな微妙な空気に終止符を打ったのは、それまで口を閉ざしていたサラであった。

 最早、この店主から聞く話はない。本来であれば、この店主から得た情報の人物と会う必要性も薄いのであるが、この状況で町を出るよりはと、サラは全員を促して武器屋を出て行く。釈然としない表情でありながら、それを気遣うメルエに苦し紛れの笑みを浮かべたリーシャも武器屋の扉を開いて外へと出て行った。

 その後、武器屋の店主の話にあった、預言者の居る建物の二階へと続く梯子を掛け、小さな扉を開いて中へと入って行く。先程、預言者を訪ねた時には掛かっていた梯子は外されており、今では二階部分に誰もいない事が解っていた。

 

「何だ、お前達は? 飯の時間じゃないだろう?」

 

 そして、その扉を開いた先には、小さな牢屋が存在していた。その牢屋は、簡単な物でありながらもしっかりとした鍵が取り付けられており、その中に一人の男が寝そべっている。扉が開かれた音で起き上がった男は、入って来た歪な一行を訝しげに眺め、口を開いた。

 その瞳は明らかに濁っており、この男の出生も人生も良い物でない事が解る。そんな男の姿にリーシャはメルエを自分の後ろに隠すように立ち、サラもまたその横へと立った。突然の行動に驚いたのはメルエであり、視界が遮られてしまった事で、リーシャとサラの隙間から牢屋の中を覗くしか出来ない事に頬を膨らませる。しかし、そんな少女の不満など取り合う事なく、カミュが牢屋の前に立った。

 

「このアレフガルド各地を回っていたと聞いた。何か面白い情報はないか?」

 

「ああ? 何でそんな事をお前達に教えてやらなければならない? 俺をここから出してくれるのか?」

 

 カミュの問いかけに対して物怖じせずに答える囚人ではあったが、別段、彼の力量がカミュ達と同等という訳ではない。むしろ、目の前に立つ歪な四人の姿を見て侮り、本来の力の差を見る事が出来ない程度の実力しかないのだろう。

 カミュは、相手を威圧するような空気を出してはいない。そしてサラも不快そうに顔を歪めてはいても、その感情に魔力を乗せたりはしない。メルエなどは、カミュ達に害意を向けられない限りは、意味不明な男に対して興味を示す事はなく、牢屋に入っていたのが薄汚い男だけであった事で、既に興味さえも失っていた。

 だが、根本が『騎士』という職にあるリーシャは、その男の態度と言動に憤りを感じ始める。牢にはいると云う事はそれ相応の罪を犯した者であり、もし冤罪での投獄であるならば、このような態度を取る事はないと考えていたからだ。

 

「カミュ、時間の無駄だ。このような木っ端に構っている暇はないぞ」

 

「……そうだな」

 

 僅か一度の会話で見切りをつけたカミュとリーシャは、そのまま背を向ける。サラにしても、ここで有用な情報が手に入るとは最初から考えておらず、周囲を見渡しているメルエの手を引いて扉のノブに手を掛けた。

 最早、行く先は決定している。まずは、南東の小島にある聖なる祠へ向かい、そこで『虹の橋』という謎を解いて、西の外れにある岬へ向かう。そこで橋が架かれば、そのまま大魔王ゾーマの居城へ最後の決戦に向かうのだ。

 ここまで明確な道筋が出来上がっている中で、他にどのような情報が必要だというのか。実際は、カミュもそれを理解しているのだろう。それでも、小さな情報が彼等の命運を変えて来たという経験があるだけに、どんな細い糸でも手繰り寄せようと考えているのだ。

 

「待て。そうだな……大魔王の神殿の玉座の後ろには、秘密の入り口があるらしいぜ」

 

 そんなカミュ達の努力は、予想の斜め上から降りて来る事となる。

 既にカミュ達全員が己に背を向けた状態にも拘らず、男は呟くように言葉を繋げた。それを聞いたカミュ達は勢い良く振り返り、口を開いた男の顔を凝視する。僅かな蝋燭の炎で細かな表情までは見えないまでも、その男が浮かべている厭らしい笑みだけは、カミュ達にもはっきりと確認出来た。

 その情報が真実か否かは解らない。むしろ、カミュ達を弄ぶ為だけに口を開いた可能性も高い。何を口にしても牢屋から出る事が出来ないという状況で、この男が有用な情報をカミュ達に与える利がないからだ。

 

「お前は、ゾーマのいる城へ行った事があるのか!?」

 

「ああ、あるぜ」

 

 リーシャはその情報の真偽を確かめるように問いかけたが、それに対しての男の回答を聞いて、全員が男に対しての興味を完全に失った。

 間違いなく、この男の答えは『嘘』である。相手の力量も解らない人間が『魔の島』と呼ばれる場所へ赴き、生きて帰れる訳がない。万が一逃げ果せたとしても、その心には深い爪痕が残っている筈であった。

 魔の島には、カミュ達が一度は絶望した竜種以上の魔物が犇いている筈である。その中を掻い潜る事が出来る程の力量を持っていれば、このような牢屋に掴まるような事はないだろう。大魔王ゾーマの居城は、圧倒的な魔法力を持つ訳でもなく、力を隠している訳でもない只の男が気軽に向かえる場所ではない。

 もし、この男が自身の膨大な力を隠し通しているとしても、そのような男ならば誇らしげに魔の島へ行った事がある事を吹聴する事はないだろう。故にこそ、カミュ達全員が、一瞬の内に興味を失ったのだ。

 

「行こう、カミュ。本当に時間の無駄だった」

 

 もし、男が発した情報が真実だとしても、この男が自らの身で入手して来た物ではないだろう。先程の男の口調からも、伝聞である事が解り、これ以上問いかけても更なる情報が手に入る訳ではない事は明らかであった。

 もしかすると、この後の旅の中で有用な情報と成り得るかもしれないが、それでもこの男との会話に時間を割く必要性は何処にもない。リーシャに言われるまでもなく、既にカミュは扉から半身を出しており、そのマントの裾を掴み直したメルエもまた、外へと出て行った。

 闇が支配する牢屋に一人残された男の表情が徐々に変化して行く。先程までの厭らしい笑みから、怯えたような表情へと。それは、この男が発していた言葉が只の虚栄であった事を明確に示していた。

 何も知らないという状況でも、己の誇りを護ろうとする凡人の虚栄心。何処かで聞いた事があったように思えた情報をただ口にしたに過ぎないその自己満足は、彼の自尊心を満足させはしたが、後に残ったのは虚無感だけであった。

 静かに閉まった扉が、再び彼を闇だけが覆う小さな牢獄へと縛り付ける。このアレフガルド大陸の闇が払われようとも、この男の周囲の闇だけは未来永劫晴れる事はないだろう。

 

 

 

 二階の梯子を全員が降りた事を確認したカミュは、その梯子を外す。外した梯子を離れた場所に立てかけた後、カミュは町外れの一軒の建物に向かって歩き出した。

 その建物は、町の中央から見えているにも拘らず、中央から徒歩で向かう事は出来ない。一度町の入り口付近まで戻り、町の外周のような石畳の通路を歩いて北側から大きく回っていかなければならなかった。

 ほとんどの者が町の中央で生活している為か、この通路を歩く人間は皆無に近く、人通りの少ない道を四人は歩いて行く。そんな街道を歩いて行くと、北側に植えられた大きな木が見えて来た。その木にもたれ掛かるように一人の男性が立っている。

 然して気に留める必要性を感じる物ではないが、人通りが皆無な外周の石畳で、何故立っているのかが気になったサラが近付いて行った。

 

「ここで何をされているのですか?」

 

「え? ああ、彼女を待っているんだ。プレゼントを渡そうと思って、町外れで待ち合わせをしているのさ」

 

 カミュもそのマントの裾を握っているメルエも男性を気にも留めないが、近付いたサラが口を開くと、大事そうに掌にある物を眺めていた男性が驚いたように顔を上げる。そして、待ち人でなかった事に多少の落胆の色を滲ませながらも、笑顔を浮かべてサラの問いかけに答えた。

 この様子であれば、婚姻の申し込みでもするつもりなのだろうと察したサラは、優しい笑みを浮かべて、男の答えに頷きを返す。男の様子を見る限り、脈がない賭けではないのだろう。既に互いが互いを支え、この先の約束も交わしているに違いない。今日は、その確認と、男の覚悟を示す為の待ち合わせだと思われた。

 柔らかな笑みを浮かべ、『末永くお幸せに』と、一足飛びの祝福を投げかけるサラに対して、男は面を食らったように大きく目を見開く。

 

「え? あ、ありがとう。このプレゼントも、僕の精一杯の気持ちなんだ。喜んでくれるといいのだけれど……」

 

「大丈夫ですよ。気持ちが籠っていれば、女性は喜ぶと思いますよ」

 

 何処か心が温かくなるのを感じながら、このような未来ある若者が幸せに暮らせる世界を取り戻す為にも、大魔王ゾーマの討伐が必須である事をサラは改めて感じる。そんなサラの笑みを見た男性は、多少顔を赤く染めながらも嬉しそうに頷くのだった。

 サラが立ち止まってしまった事によって動きが停止した一行であったが、会話が終了した様子を見て、再びカミュが歩き出そうとする。しかし、その歩みは、次に男性が発した言葉によって停止してしまった。

 

「伝承に残る『賢者の石』という物が手に入れば、自信を持って渡せるのですが……」

 

「……賢者の石ですか?」

 

 『賢者』という単語に反応したサラが一歩男性へと近付く。上の世界では当たり前のように伝承として残っていた古の賢者という存在は、このアレフガルドでは余り聞かなくなっていた。それは、このアレフガルド大陸に賢者はおらず、伝承として残る逸話が無い為だとサラは考えていたのだ。

 だが、その名称が冠の石があると云う。それは当代の賢者であるサラには聞き逃せない物であった。賢者という名称は、伊達や酔狂で名乗れる物ではない。少なくとも、上の世界では『自称勇者』は存在していても、『自称賢者』は誰一人存在しなかった。

 『勇者』という存在はその立証が難しいが、『賢者』の立証は容易い。神魔両方の呪文を行使出来なければ、虚言である事が即座に証明出来るだろう。そして、虚言だった時にリスクは、勇者とは比べ物にならない。数多居た自称勇者の中には、旅の途中で行方不明になった者も多い。それは勿論、途中で魔物に敗れて死んで逝った者も多いだろうが、その中には途中で勇者を名乗る事を止め、何処かの集落に住み着いた者も少なくない筈だ。だが、『賢者』はそうは行かないだろう。賢者ではない事が露見する時は、周囲の期待が最高潮になる時だけだからである。

 誰かを救う為に回復魔法を要求される時かもしれない。そして、同時に魔物を退ける為に攻撃呪文を打たなければならないかもしれない。そのような時に全ての期待を裏切った場合、その者の命さえも危うくなる可能性は高いのだ。

 

「はい。何でも、数多くの呪文を使いこなす『賢者』という人が持っていた物だそうです。多くの者達の傷を癒し、何度でも使えると伝えられています」

 

「何度でも使える回復の石ですか……」

 

 男性の話を聞く限りでは、おそらく、話の中に出て来る賢者は紛い物ではないのだろう。何度でも使用可能な回復呪文と同等の効果を持つ石など、常識では考えられない道具である。そのような道具を所持していたとなれば、それは古の賢者である可能性が高かった。

 古の賢者の一人である、メルエの曽祖父がその人であるかどうかは定かではないが、このアレフガルド地方にも賢者という存在が居た可能性が出現する。上の世界で『賢者』の石という道具についての逸話が残っていない事から考えるに、このアレフガルドで生まれた逸話である可能性もあった。

 ただ、人は信じたい物を信じるという傾向を持つ。上の世界でも、賢者の持ち物の一つとして限られた地方で語り継がれていたかもしれず、単純に上の世界では所持品よりもその賢者の能力や、その能力を記した書物の方の伝承だけが残っていたという可能性もあった。

 その場合、その所持品の伝承を知る者達が、このアレフガルドへ辿り着いているという事が前提となる。

 

「何の代償もなく、回復が出来る物となれば、既にこの世にはないのかもしれないな。それを巡って人類の戦いが起きかねないぞ」

 

「もし、本当に存在するのだとすれば、悟りの書と同様に何処かに封印している可能性は高いだろうな」

 

 驚くサラを余所に、男性から少し離れた場所でリーシャとカミュが口を開いた。

 無限の回復方法となれば、それは魔法を越えた神秘である。平時であれば、その神秘を入手しようと国家間の抗争に発展していても可笑しくはない。それが人類の浅ましさだと言えばそれまでだが、国家に属して来たリーシャから見れば、それは国家の威信を賭けた抗争だと結論付けられた。

 その噂が流れれば、それを所有した国家が随一の国家となる。それを見逃す事が出来る程、国家の上層部は甘くはないのだ。

 故にこそ、カミュの言う通り、『悟りの書』と同様に何処かに封印されている可能性は高い。『悟りの書を手に入れれば、賢者にもなれる』という伝承は、ルビス教会が隠し持つ秘め事である。故にこそ、国家間には出回らず、一部の僧侶達だけがガルナの塔を目指していた。それと同様に、賢者の石という物が、一部の地域の人間しか知らなかった情報であれば、争いの種と成り得る物を封印したと考える方が妥当であろう。

 

「……貴重なお話をありがとうございました」

 

 これ以上の話は必要ないと感じたサラは、男性に頭を下げてカミュ達の許へと戻って行く。その背で聞いた『それにしても、彼女は遅いな』という男性の呟きに対し、サラは男性の想いが成就するように静かに祈りを捧げた。

 男性と別れた後もリムルダールの外周にある石畳を歩き続けた一行は、北西の端に立つ一軒の家へと辿り着く。リムルダールの町の中でもそこそこの大きさを持つ家屋であり、周囲の闇の中でも明るく光る灯火が、この家屋の中に人が居る事を物語っていた。

 

「どなたかな?」

 

 扉に付いた金具を叩くと、中から一人の老人が顔を出す。顔に刻まれた無数の皺が、老人の年齢を示しており、かなりの年数を重ねて来た物である事が解った。

 顔を出した老人は、歪な四人の若者に首を傾げるが、足元に居る幼い少女が頭を下げる姿を見て表情を緩める。怪しい人物がこの時代に町へ入る事が出来ないという絶対の自信の下に、老人はカミュ達を家屋へと誘った。

 中に入るとまず、様々な道具が散ばった乱雑な部屋が目に付く。奥にある机には飲み物が置かれており、道具が散ばった場所が作業場である事が窺えた。どちらかというと、マイラの村にある武器屋の鍛冶場に近いが、その規模は小さい。手先で何かをしていると想像出来る範囲で道具は置かれており、金属の削り屑などがその作業机の近くに零れていた。

 

「鍵の研究をされているとお聞きし、一度拝見出来ればと伺いました」

 

「それはそれは。年老いた男の道楽ですわ。どんな錠でも開けてしまうような鍵を作りたくての」

 

 椅子に腰掛けたカミュは、早々に本題を切り出す。何か飲み物を用意しようとしていた老人は、その言葉に嬉しそうに顔を緩め、作業机にあった小さな鍵を手に取った。

 その鍵は、小さく粗末な物であり、とてもではないが全ての錠を開ける事が出来るとは思えない。どんな錠をも開けてしまう鍵を持つカミュ達から見れば、彼らが初めに手に入れた『盗賊のカギ』にも遠く及ばない物である事がはっきりと解った。

 盗賊バコタと呼ばれる、アリアハン大陸屈指の盗賊がその全てを注ぎ込んで作成した鍵は、簡単な錠前であれば容易に開錠してしまう程の物であったのだ。その鍵を生み出した為に彼はその生涯を無残な形で終わらす事となるが、その結末を知っているからこそ、カミュ達はこの場所を訪れたのかもしれない。

 

「どんな錠でも開ける鍵とは……。ご老体は盗賊でも始めるつもりなのか?」

 

「盗賊? ほっほっほ。そのような事を言われたのは初めてじゃ。皆、そのような鍵は出来ないと鼻で笑う者達ばかりじゃが、お主達はまるでそのような鍵があるという事を知っているようじゃ」

 

 そんな警戒を意味して口を開いたリーシャであったが、逆にその言質は、模索中であった老人の琴線に触れてしまう。どのような錠も開ける鍵など、現実を知る者達ならば不可能だと思うだろう。鍵穴の仕組みを知っている者であれば尚更であり、一つ二つの鍵を開ける事の出来る鍵であれば可能であっても、全ての物というのは不可能である事を知っているのだ。

 だが、リーシャの言葉は、それを不可能であるという前提に発した物ではない。むしろそれが存在するという事を前提に発した言葉であった。どんな錠も開けられる鍵であれば、他者の家や宝箱など全てを盗む事が可能である。故にこそ、それを忠告するつもりで発した物であったのだが、先走りし過ぎた事は否めなかった。

 

「いやいや、すまん、すまん。少し、熱くなってしもうた。盗賊など始めるつもりはない。ただ、このぐらいの家におると、あちこちに鍵が掛かっておっての……その鍵を何処にしまったか忘れてしまう為、一つの鍵で全部開ける事が出来ればと思ったのが切っ掛けじゃな」

 

「そうですか……。それでも、それを生み出す事は大きな危険を孕みますよ。特に貴方の身にとっては、良い事ではないと思います」

 

 完全にカミュ達が警戒色を出した事に気付いた老人は、おどけるように言葉を発する。しかし、警戒を解くような事をしないサラは、老人に忠告という形で苦言を呈した。

 老人の言葉を信じていないという訳ではない。彼の言う通り、当初はそういう想い付きで始めた物であろう。だが、それが行き着く先は決して幸福な末路ではない。彼一代では完成しないかもしれないが、その鍵が完成すれば、彼の一族は大罪人としての末路を歩むか、利を奪おうと目論む者達によって命を奪われるという末路になるかの厳しい未来が待っているに違いなかった。

 この老人は、そんな未来にまで考えが及んでいないのだろう。故にこそ、サラは厳しい表情で苦言を口にしたのだ。

 

「家の中だけで使う物じゃからな、そこまで大げさな物ではなかろう。一度だけでも、上の世界という場所から来た人間が言っていた『魔法のカギ』という物を見てみたいものじゃ」

 

 だが、そんな賢者の声は届かない。この老人からすれば、カミュ達など若輩者に過ぎない。どれだけ立派な鎧を纏ってはいても、どれだけ威圧感のある武器を持っていたとしても、人生という旅に於いては、この老人の三分の一も経験していないのだ。そのような若者達の苦言など、一つの事に集中する年老いた耳に届く訳がなかった。

 夢見るように天井を見上げ、老人がその単語を口にした時、カミュ達三人はそれを悟る。自分達が何を言っても彼が今の研究を止める事はなく、そして万が一にも成功しないであろう研究に残りの人生を注ぐであろうという事を。

 呆れたように溜息を吐き出した三人は、その単語がつい数年前までは自分達の間で頻繁に交わされていた物であるという事を失念していた。そして、その道具が今、何処にあるのかという事も彼等は気にもしていなかったのだ。

 

「…………ある…………」

 

 故にこそ、今まで興味を持たずに部屋を見渡していた少女が、肩から下げたポシェットに手を入れ、それを取り出してしまった事に対しての反応が遅れてしまう。

 『魔法のカギ』という神秘は、『最後のカギ』を手に入れた時点で、ポシェットの中の肥やしになっていた。それ以降は陽の目を見る事もなく、ずっとメルエのポシェットの中で過ごしていたのだ。

 そんな鍵が遂に表へと出てしまう。作業の為に点された沢山の明かりが、まるでメルエの手だけを照らしているかのように、『魔法のカギ』が光を反射していた。

 

「おお! それが魔法のカギか!?」

 

「メルエ!」

 

 それに逸早く反応を示したのは老人であり、即座にメルエに近付いてその手にある鍵を覗き込む。しかし、もっと近くで見ようと、鍵へ手を伸ばした時、それは瞬時に消え去った。

 老人の動きで我に返ったサラが、誇らしげに掲げるメルエの手から『魔法のカギ』を奪ったのだ。部屋を照らしていた光が消え、残るは絶望に近い表情を浮かべる一人の老人だけとなる。縋るようなその視線から逃げるようにサラはメルエの手を引き、そのポシェットへ『魔法のカギ』を押し込んだ。

 今はまだ、この老人の想いも純粋な物なのかもしれない。本当に単純な理由だけで、この鍵を追い求めている可能性は高い。だが、その心が何時闇に覆われるかは誰にも解らないのだ。出来上がった瞬間に、彼の純粋な想いに邪な考えが入り込まないとは断言出来ない。『人』というのは、それだけ弱い者であるという事を誰よりも知っているのは、彼等三人なのかもしれない。

 

「今一度、少しで良いから見せては貰えないだろうか?」

 

「……あれが『魔法のカギ』だと思うのは勝手だが、そのような不可思議な物を私達が持っている筈がない」

 

 カミュの背へとサラとメルエが隠れてしまった事で、老人はカミュへ向かって懇願するように手を合わせる。しかし、そんな老人に放たれたカミュの言葉は冷たく突き放す物であった。

 彼の中でも、この老人が目指す先がとても危険な物であるという結論に達したのだろう。ガライに『魔道書』を渡す事や、マイラの村の武器屋に『雷神の剣』を渡す事も認めた彼にしては珍しいが、それは根本的な違いがあるのかもしれない。

 『雷神の剣』を使うという事は、あの武器屋には不可能な事柄である。そして、あの武器屋であれば、他者に譲る事はないだろう。それこそ、数代先になれば解らないが、それでもあの武器屋であれば、子へ伝える事をせずに何処かへ隠してしまう可能性が高いという考えに至ったのかもしれない。

 ガライに関しては、彼の目的が他者を救うという物であった。その思いも何時変化するかは解らないが、魔物さえも聞き惚れる程の音色を奏でる者であれば、その想いが捻じ曲がる可能性は低いだろう。そして、彼は必ず、あの『魔道書』をサラへ返還しに来るという根拠のない自信がカミュにもリーシャにもあったのだ。

 そして、何よりも異なるのが、ガライや武器屋の場合、それを悪用しようとすれば、カミュ達がその首を貰い受け、対処が出来るというものかもしれない。それが、この老人に関しては不可能なのである。

 武器屋が雷神の剣の力に魅入られたとしても、それを使用する事は出来ず、それを悪用しようとすれば、カミュ達が奪いに行く事は可能であろう。同様にガライが魔道書を悪用し、その力に溺れたとしても、サラやメルエには遠く及ばない以上、彼を誅す事は容易い。

 

「諦めて下さい。どんな鍵も開けてしまう鍵が際限なく使えれば、人は必ず悪しき思いに囚われます。それが貴方でなくとも、そんな鍵があると知れれば、その悪しき心に呑まれた者達が貴方からそれを奪おうとする筈です」

 

 『その時に、貴方は対処が出来ますか?』という言葉を敢えて口にせず、サラは視線を落とした。

 ガライや武器屋が悪しき心に染まる時、それを誅するのはカミュ達である。あの武器屋が雷神の剣を他者へ公言しない以上、その存在は伝承のままであるし、呪文の行使出来ない者達がガライから魔道書を奪う事は不可能だろう。だが、この老人の心が初めの頃のままだったとしても、それが完成された時に襲い掛かって来る略奪者から護る術がないのだ。

 伝承のままであれば良い。何処にあるかも解らず、誰が持っているのかも解らない。そして万が一カミュ達が持っていると知れても、メルエがカミュやリーシャから離れない限りはそれが奪われる事は絶対にないだろう。だが、この何の力も持たない老人やその子孫が生み出した場合、この場所を襲う者達が出て来る可能性は高かった。

 

「……突然の訪問、大変申し訳ありませんでした」

 

「あ……あ……」

 

 最早、これ以上この場所にいるべきでないと感じたカミュは、静かに頭を下げて扉を開ける。それに追い縋るように手を伸ばす老人を避け、リーシャ達三人もまた表へと出て行った。

 静かに閉じて行く扉は、老人の夢を遮る重い壁のように、カミュ達の距離を遮って行く。外へ出た三人の表情も優れない物であり、それを見上げていたメルエも、自分が起こした行動が彼等にそのような顔をさせてしまっているという事を察して眉を下げた。

 

「来るべきではなかったな……」

 

「もし、本当に盗賊のカギのような物を作ろうとしているのでしたら、何とかお止めしようと思ったのですが……」

 

 暗い表情をしたリーシャは、この場所へ来た事を後悔していた。あの部屋の中にあった作りかけの鍵を見る限り、この老人が生きている間に真に迫る物が生まれる事はなかっただろう。全く進まない鍵の研究を引き継ぐほど、彼の子孫達も物好きではない筈だ。となれば、いずれ、リムルダールの鍵の研究は廃れ、消滅して行ったに違いない。だが、魔法のカギを一度でも見てしまえば、ここまで研究を続けて来た老人は、何かを掴むかもしれなかった。

 メルエの行動を責める事は出来ない。考え過ぎた結果、この場所を訪れてしまった彼等に非があるのだ。メルエは呼びかけに応じただけであり、それを無闇に見せてはいけないという事を伝え忘れていた彼等の落ち度である。

 

 老人に僅かな希望と、大きな絶望を与えてしまった事を悔やみながら、彼等はリムルダールを後にする。

 次代へと繋がる物語の中に、何時しか、このリムルダールの鍵屋が登場する事があるかもしれない。その時、この老人が天寿を全うしている事を、祈る事しか彼等には出来なかった。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
年末までにあと二話……
頑張って描いて行きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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