新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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虹の橋

 

 

 

 カミュ達を乗せたラーミアは、アレフガルド大陸をゆっくりと飛ぶ。別れを惜しむ少女の心に配慮するかのように、アレフガルドという大陸を見通すように速度を緩めてリムルダール近辺へと向かって飛んでいた。

 ラーミアとの最後の旅を満喫するようにその羽毛に身体を埋めていたメルエも、温かさに瞳を閉じ、緩やかな眠りへと誘われて行く。そんな少女を咎める者は誰もいなかった。行きはその眠りを妨げたサラでさえ、苦笑を浮かべながらも軽くその身体を揺すり、少女が完全に眠りに就いた事を確認すると、優しくその茶色の髪を撫でる。そして、その後にカミュへと向き直ったサラは、懐から一枚の紙を取り出し、彼へと差し出した。

 

「カミュ様、これを」

 

 突然差し出された一枚の紙に驚いたカミュであったが、そこに記されていた物を見て、表情を厳しく変化させる。横から覗き込んで来たリーシャは、それが何か理解出来ずにサラへと顔を向けた。

 そんな二人の表情を見て笑みを浮かべたサラは、その紙に記された一つの文様について語り出す。指先で辿るように描かれたそれは、カミュならば一目で解る物であり、この長い旅路で何度も目にして来た契約の為の魔法陣であった。

 

「聖なる祠の壁面に描かれていた魔法陣です。あの場所に居た方が誰であったかを想像すれば、その魔法陣は……」

 

「……勇者しか行使出来ない呪文か?」

 

 サラの言葉を遮るように発したリーシャの言葉に、当代の賢者が頷きを返す。聖なる祠という場所が何を祀っていた場所なのかという事は、あの虚ろな青年を見ればある程度は想像出来るだろう。

 精霊神ルビスを祀る祠だと考えていたサラであったが、あの場所の祭壇と、そこに描かれた一つの魔法陣がその考えが間違っている事を示していた。

 誰の目にも触れないようにひっそりと描かれていた魔法陣を誰が描いたのかは解らない。だが、あの場所に描かれた物であれば、古の勇者に纏わる物である可能性は高いとサラは感じていたし、それが確信に近い物であると考えてもいたのだ。

 

「メルエが起きている時に渡してしまうと、自分も試してみると騒ぎ出すでしょうから」

 

「……そうだな。メルエにとって、魔法だけは誰にも譲れない物だからな」

 

 視線を眠っているメルエに向けたサラは、小さく微笑む。サラの言葉通りの出来事が想像出来たリーシャもまた、苦笑に近い表情を浮かべた。

 今までも、勇者のみが行使出来る呪文を見ては、『ずるい』と頬を膨らませていたし、回復呪文などの契約が完了するサラを見ては、『何故自分には契約が出来ないのだ』と怒りを露にしていたのだ。魔法こそが自分の存在価値という根本的な想いがある少女にとって、その契約に必要な魔法陣を見れば、例え可能性が零であっても、試さないという選択肢は存在しない。それを誰よりも知っているサラは、メルエが眠っている事を確認してからカミュへとそれを差し出したのだった。

 

「ラダトーム国王からも、一つの契約魔法陣を預かっている」

 

「え? そうなのですか?」

 

 少女の眠りを温かな目で見つめる二人に、カミュは衝撃的な言葉を紡ぐ。

 カミュ達がラダトーム国王と謁見したのは、僅かに一度。その時にそれを託されたという事にサラは驚きを隠せなかった。

 サラが王太子とバルコニーで会話をしていた際に、カミュと言葉を交わす国王の姿を見ていたリーシャも、国王が彼に何かを渡していたという現場を見ていない。故にこそ、二人は大きな驚きを表したのだ。

 

「あの宴の翌朝に、国王の使いという人間から託された」

 

「それで、その呪文の契約は済んでいるのですか?」

 

 そんな二人の疑問は、カミュが紡いだ次の言葉で解決する。確かに、カミュだけは男性である為に別の部屋であった。それ故に、翌朝に使いの者が部屋に訪ねて来ていたとすれば、リーシャ達が知らないのも道理である。

 そして、そんな小さな疑問が解決した後で浮かび上がる大きな疑問は、サラが口にしたようなその契約の有無であった。カミュだけが使用出来る呪文というのは、ここまでの旅で幾つかあったが、彼女達がそれを知るのは、大抵彼がそれを行使した時であった為、サラはその契約が未だに済んでいないのではないかと考えたのだ。

 しかし、その問いに対して小さな頷きを返したカミュを見て、サラは驚きを示す事になる。ラダトーム城へ登城してからの日数を考えると、既に一年以上が経過していた。その間で危機的な状況は何度もあり、その時に彼がそれを行使しなかったというのが、理解出来なかったのだ。

 

「契約は、一度目の塔探索時の後で完了した」

 

「……あの後か」

 

 そして、そんな疑問もまた、彼の口から答えが告げられる。その言葉を聞いたリーシャは、何処か複雑そうな表情を浮かべながらも納得した。

 ルビスの塔と呼ばれる、精霊神ルビスが封じられた塔の一度目の探索は、彼等にとって苦い思い出となっている。それはリーシャやサラにとっても同様であった。

 自分達の力が及ばず、メルエという幼い少女の決死の力によって救われた日。それはカミュやリーシャにとって、己の非力と無力を実感した日でもあり、サラは己の奥底に眠る暗い闇と直面した日でもある。

 カミュがあの日に感じた己の非力に嘆き、苦しんだ後、前を向いて立ち上がるまでにどれだけの時間を有したかは解らない。だが、それでも、自分よりも先にその嘆きから立ち上がった事を知っているリーシャだけは、その決意の証として契約を完了させたカミュを理解したのだ。

 

「未だに行使には至っていないがな」

 

「それ程の呪文なのですね……」

 

 契約が完了しても即座に行使出来る訳ではない。契約とは、その者がその呪文を行使する資格を有していると証明する物であり、それを行使するには、それに見合った力量が必要となる。その力量に達していなければ、本来は契約すらも出来ないのだが、力量が達していたとしても、その心や精神の状況によっては行使が不可能な場合もあった。

 以前、カミュがベホイミやベホマを行使した際がそれに当たる。彼自身、契約は疾うの昔に済んでいたが、彼の心の変化を待っているかのように行使は不可能であった。だが、その心の成長、そしてその在り方の変化を経て、他者を癒すその呪文の行使が可能になっている。自分自身を癒す為だけに覚えたホイミとは、その在り方が異なっていた証であろう。

 

「この魔法陣が古の勇者様に纏わる物だとすれば、ラダトーム王家に伝わっていた物よりも契約や行使が困難な物なのかもしれませんね」

 

「……この魔法陣に至っては、どのような物かさえも解らないのだな」

 

 ラダトーム国王から授かった魔法陣には、おそらくその名やその用途も記されていただろう。だが、サラが差し出した魔法陣は、祠内に密かに記されていた魔法陣を描いた物であり、その魔法陣から成される呪文の名や効力は書かれていなかった。

 呪文の名が解らなければ、例え契約が完了したとしても唱える事が出来ない。その効力を知らなければ、どのような時に行使する物なのか、何の役に立つ呪文なのかさえも解らないだろう。それは、この魔法陣の呪文が意味を成さない事を示していた。

 だが、そんなリーシャの落胆とは正反対に、サラの顔には笑みが浮かんでいる。

 

「カミュ様が契約を済ませた時、その名も効力も自ずと解ると思いますよ。カミュ様は、全てを託されたのですから」

 

「ちっ」

 

 笑みを浮かべるサラの言葉を聞いて、リーシャは『なるほど』と納得の笑みを浮かべるが、当の本人であるカミュは不快そうに眉を顰めて舌打ちを鳴らした。

 彼自身、あの青年が誰であろうと興味はないのだろう。何を言われようとも、彼は彼の意志で歩み続け、彼の意志でこの場に立っている。そこに誰かの意思が介入したという認識などある筈もなく、あってはならない。それが『勇者カミュ』という人間の想いであろう。

 それでも尚、彼を見て来た二人の女性にしてみれば、誇らしい事に他ならない。彼女達が信じ続けて来た青年が、世界からも、神や精霊からも、そして何よりも古から謳い告がれる勇者からも認められた存在となっているのだ。それを誇らずして何を誇れと言うのか。それが彼女達の偽らざる本心なのかもしれない。

 

「一度リムルダールへ戻るのだろう?」

 

「町での最後の休息になるかもしれませんね」

 

 再度確認するように口を開いたリーシャに対して、カミュは素っ気無く頷きを返す。ラーミアという巨鳥の背中から見える景色が変化した事を物語っていた。

 巨大な森を抜け、聳え立つ山脈を越えると、平原の向こうに湖が見えて来る。その湖の中央に浮かぶようにリムルダールという都市があった。周囲を真っ黒に染め上げる闇の中でぽっかりと浮かぶように輝く光は、サラ達に一時の安らぎを与えるかのように優しい瞬きを放っている。それは、既に『人』としての枠をはみ出してしまった彼女達が帰る事の出来ない場所なのかもしれなかった。

 

「森の出口近辺に降りてもらいたい」

 

 カミュの言葉に了承するように首を動かしたラーミアは、高度をゆっくりと下げて行く。上の世界と呼ばれる場所で復活を果たした神鳥との別れは間近に迫り、それを最も残念がっていた少女は今では夢の中へと落ちていた。

 羽毛に包まるように寝ているメルエの身体を抱き上げたリーシャは、その身体をゆっくりと揺らす。だが、やはり幼い身体でカミュ達の旅に同道しているメルエには、野営での眠りでは取れない疲労が溜まっていたのか、目を覚ます事はなかった。

 それでも、眠っている間にラーミアとの別れが済んでしまっていたという事になれば、彼女が泣き叫ぶ事が解り切っているだけに、リーシャは何度かその身体を揺り動かす。それでも、野営の時に地面で眠っている際には、少し揺らしただけで瞼を上げるメルエが、何故か首を動かすだけで目を覚まさない。暖かく優しさに満ちた羽毛から、これもまた大きな慈愛に満ちた腕の中へと移動したメルエにとって、そこは身も心も安心出来る場所だからなのかもしれない。

 

「この先、貴方達に会う事は二度とないでしょう。それでも、貴方達がこの世界に再び陽の光を戻すその時を、楽しみにしていますよ」

 

「す、少し待ってくれ。このままの別れでは、メルエが哀しむ」

 

 メルエを起こそうと必死なリーシャであったが、無常にもラーミアの足が地面へと着いてしまう。足を折り、翼を広げた事で背中から全員が降りざるを得なくなった。カミュに続き、サラが地面へと降り、メルエを抱き上げたままのリーシャもそれに続く。

 別れの言葉を告げるラーミアを見上げたリーシャの眉は情けなく下がっていた。眠っていたメルエを起こさずにラーミアとの別れを終えてしまったとすれば、メルエからの非難を受けるのはリーシャとサラになるだろう。そんな目に浮かぶ光景に彼女は情けない声を出して神鳥を引き止めた。

 上の世界では精霊ルビスの従者と伝えられ、アレフガルドでは神の使いとも謳われる不死鳥に対しての口ぶりではないが、それだけ彼女が必死なのは理解出来る。そんな女性戦士の必死な嘆願に応えるように、神鳥はその大きな嘴を眠る少女の頬へと近づけた。

 

「…………むぅ…………」

 

「メルエ、お別れです。貴女の成長を楽しみにしていますよ」

 

 心地良い眠りから強引に引き上げられた事に不満を露にするメルエに向かって、澄んだ青色の瞳が語りかける。眠たそうに半開きだった瞳は、その大きな青い瞳を見て覚醒した。

 次第に何が起こっているのかを理解したメルエの瞳に溢れんばかりの涙が溜まって行く。別れの時は泣かないという約束など忘れてしまったかのように、眉を下げた少女の瞳から次々と涙が零れて行った。

 ジパングでイヨと別れる時も、イシスでアンリ女王と別れる時も、何よりカザーブでトルドと別れる時も涙を見せなかった少女が、その別れに涙する。それは、この別れが永遠の別れになる事を彼女も解っている事を示していた。

 トルド達との別れは、彼女にとっては一時の別れとして受け取っていたのだろう。カミュ達が二度と会えないと口にしても、今まで何度も再会出来た者達との別れは、再び会う為の挨拶に過ぎない。だが、トルドの娘の霊体との別れや、この神鳥との別れは、真の離別となる事を幼くともメルエは理解しているのだ。

 

「……メルエ、泣いていないで、笑顔で『さようなら』をしましょう?」

 

「もう二度と会う事は出来ない。それでも、ラーミアの心にはメルエが居て、メルエの心にもずっとラーミアは居る筈だ」

 

 大粒の涙を溢すメルエの頬を布で拭いてやりながら、サラは優しい微笑を向ける。だが、メルエの年頃では、悲しい別れを笑顔で過ごす事は難しかった。大声を張り上げる事はないまでも、すすり泣くように嗚咽を漏らし、止まらない涙を流し続ける姿は、とても痛々しい。それでもその小さな身体を抱き上げているリーシャは、メルエの瞳を覗き込み、言葉を紡ぐ。

 決して優しい言葉ではない。現実を現実として受け入れ、それでも前へと進むように呼びかける言葉。それは、この一行で最年長の女性が何度も何度も他の三人を引き上げて来た言葉であった。

 悲しい別れは避けられない。だが、その別れが糧となり、この少女の心を更に成長させる事を信じて止まない。少女の茶色い髪を優しく撫でる手は、とても大きく、とても温かい。涙を流すメルエはリーシャを見上げ、鼻を啜りながらもラーミアへと視線を移した。

 

「…………ありが……とう…………」

 

「貴方達が私をこの世界へと導いてくれた事を誇りに思います。肉体は滅びても、何処かの世界で貴方達の魂と再び巡り会う事がありましょう」

 

 涙声の礼を述べると、それ以上は無理と言わんばかりにメルエはリーシャの肩へと顔を埋めてしまう。それを微笑ましく見つめたラーミアは、ゆっくりと翼を広げた。

 飛び立つ準備に入った神鳥が巻き起こす風が吹き、カミュ達は数歩後ろへと下がって行く。徐々に地面から離れて行くラーミアの足を追って視線を上げたカミュ達の頭に、直接神鳥の言葉が響いて来た。

 魂に導かれて世界を渡る神鳥という伝承を持つラーミアらしい言葉に、カミュは静かに頷きを返す。リーシャの肩から顔を上げたメルエは、未だに流れ落ちる涙をそのままに、頭上で羽ばたくラーミアに向かって大きく手を振った。

 最後の別れを示すように、数度旋回したラーミアは、そのまま一筋の光となって闇に包まれたアレフガルドの空へと消えて行く。その光の筋を見失わないように、全員が真っ黒に染まった空を見上げ続けた。

 

「……行ってしまわれましたね」

 

「…………ぐずっ…………」

 

「ほら、メルエも涙を拭け」

 

 光の筋が闇に溶け込むように消えた後も見上げ続けていた一行であったが、サラが呟いた言葉でその静かな時間にも終止符が打たれる。再び溢れて来た涙と鼻水で汚れたメルエの顔をリーシャが布で拭き取ってやり、そのまま少女の身体を地面へと降ろした。

 今生では二度とは会えない相手との別れ。それは、この小さな少女の心にどんな影響を及ぼし、どれだけの成長を促すのか。そんな成長の途中に居る少女の行く末を楽しみに感じながらも、リーシャはその小さな手を取った。

 彼等の前には、『人』の営みを表す灯火が輝いている。神鳥が発するような神々しい光ではないが、それでも温かさと優しさを持つ輝き。一行は、その輝きを守る為に再び歩き出した。

 

 

 

 リムルダールで一泊した一行は、ゆっくりと身体を休め、リムルダールの西の外れにあると云われる岬に向かって行動を開始する。リムルダールが浮かぶ湖の北側を通り、真っ直ぐに西へと向かって歩き続ける中、何度か魔物と遭遇はするが、どれもがここまでの旅で何度か遭遇した魔物ばかりであった。

 熊系の最上位に立つダースリカントや、リムルダール地方の守護神として建造された石像が命を宿した大魔人などであったが、それでもカミュ達の進軍を止める事は出来ない。だが、並の人間であれば、この大陸を縦断する事など出来る筈もなく、これらの魔物達によって命を奪われているだろう。

 魔物達との遭遇率の高さに、サラは改めて『人』の世界の衰退を理解する。これだけの魔物が横行すれば、『人』の往来は反比例するように減少して行くだろう。人間という種族が生み出す経済は、動きが停滞してしまえば廃れて行く。経済が廃れれば、そこに生きる者達の生活水準も低下して行き、全てを止めてしまうのだ。

 

「……また山か」

 

「地図上ではこの山を超えれば海岸に出る。海岸の外れに岬がある筈だ」

 

 上の世界での旅との比較にはなるが、このアレフガルドでは山を越えるという旅路が多い。既にリムルダールを出てから二日以上の時間が流れており、二度の野営を経てこの場所まで来た彼らとすれば、ここから再び山を越えて辿り着くとなれば、更に数日の時間を有する事に辟易とした想いを抱いてしまっても仕方がない事であろう。

 地図上では、この山を越えた向こうに広い海岸のような場所が広がっており、その先に魔の島とを結ぶような岬が描かれている。実際は、マイラの村のある方へ向かって行き、更に北側から回り込んでも向かえる場所なのだが、距離や時間を考えると、この山を越える方が遥かに良いという結論に達したのだった。

 

「歩きながら、枯れ木を少しずつ拾って行きましょうね」

 

「…………ん…………」

 

 うんざりしたような表情をするリーシャの横で、サラは手を握るメルエに向かって微笑みを向ける。そんな姉のような女性の言葉に、少女は大きく頷きを返した。

 リムルダールでの休息の際には、ラーミアとの別れを引き摺って塞ぎ込んでしまったメルエであったが、リムルダールを出る頃には、以前よりも逞しい光を宿す瞳を持つようになっている。再びあの神鳥と出会える時に、この少女がメルエという名の人間である可能性は限りなく低いだろう。魂が他の肉体に宿り、ラーミアとの記憶が欠片も残っていない筈である。それでも、この少女はその時を心から楽しみに待つのだ。いつか再びあの神鳥と巡り会えるその日を。

 

「メルエ、大丈夫か? カミュ、そろそろ野営の準備を始めよう」

 

「わかった」

 

 山道に入り、山の中腹辺りまで歩いた頃にサラの手を握るメルエの足が重くなり始める。元々幼い身体を酷使してカミュ達の旅に同道しているメルエである為、リーシャやカミュだけではなく、サラよりもその疲労が限界に達するまでは早い。いつもはメルエをリーシャが抱き上げて進むのだが、平坦な道ではなく、元々闇に包まれた山道であれば、魔物との戦闘という危険を考えた場合は無理をする必要性がないのだ。

 それを承知しているカミュは、周囲の木々の中で休めるような箇所を探し始め、適当な場所でサラやメルエが拾い集めた枯れ木を集めて火を熾し始める。燃える炎の暖かさに疲れが溢れ出したメルエは、こくりこくりと舟を漕ぎ始めた。

 

「この先は、休める都市などはない筈だ。上の世界のように、ラーミアで直接バラモスの居城に入れた時とは違う。休息を細かく取りながら向かう」

 

「そうだな。岬に橋を架ける事が出来ても、向かうのは『魔の島』と呼ばれる場所だ。ゾーマの居城に辿り着くまでに更に強力な魔物達との戦闘があるだろうからな」

 

 眠りに就いたメルエを横たえたリーシャは、カミュの言葉に相槌を打つ。確かにカミュの言葉通り、バラモス城へ向かうのは、ランシールの町からラーミアに乗り、そのまま城内に乗り込む事が出来た。だが、ラーミアの口から直接語られたように、直接魔の島へと向かう事が出来ない以上、魔の島からゾーマの居城までの距離も徒歩で進まなければならない。魔の島とまで呼ばれる場所であり、全てを滅ぼす大魔王の居城のある場所である為、強力なアレフガルドの魔物達の中でも更に強力な魔物が生息している筈である。それは、これまで以上に厳しい戦いが待っているという証であった。

 カミュ達の戦闘は、前衛二人だけで乗り切れる程の甘い戦いではない。後方支援組のサラとメルエという二本柱があってこそ成り立つ戦いであり、四人の内誰かが欠けただけでも、即座に全滅という絶望の未来が手を伸ばして来る。幼いメルエに無理をさせ、それらの戦闘時に失う事は絶対に避けなければならない事柄であった。

 それは、メルエという年端も行かない少女の力を、彼等三人が心から信頼している証でもある。

 

「カミュ……私達は、遂にここまで来たのだな」

 

 深い眠りに入ったメルエの隣で、サラもまた眠りに就いた頃、火に薪をくべたリーシャが炎を見つめながら小さな呟きを漏らす。それは、何処か誇らしげでありながら、何処か寂しげに感じる小さな声。しかし、闇と静寂が支配する山の中では、驚く程に良く響いた。

 アリアハンという小さな島国を出て、既に六年以上の時間が経過している。あの時、十六という歳になったばかりであった少年のような勇者は、今では二十二という立派な青年に変化していた。今では背丈もリーシャより高くなり、身体つきもしっかりとした筋肉を宿した肉体になっている。あの頃、『絶対に勇者と認めない』と思っていた相手は、今や神も精霊も、神鳥も古の勇者でさえも認める真の勇者となっていた。

 

「まだ終わった訳でもなければ、始まってさえいない」

 

「ふふふ。そうだったな。だが、私達はその入り口まで辿り着いた。もう、細い糸を手繰る旅は終わりだろう? 残るはゾーマの許へ辿り着き、それを討ち果たすだけだ」

 

 死を迎える前の儀式のような言葉にカミュは眉を顰める。まだ、彼等の旅は終わった訳ではない。そして、その目的との戦いが始まった訳でもない。そこへ辿り着くという最大の試練が残っているのだ。

 だが、リーシャの言う事も一理ある。最早、暗中模索の時期は過ぎ去ったのだ。残るは無心にゾーマへと向かうだけである。並み居る強敵を退けて、全ての元凶である大魔王ゾーマへ向かうという目的だけが残っているのみなのだ。

 カミュやサラのように、必死に前だけを見て歩いて来た者達には、リーシャの本当の気持ちは解らないかもしれない。全ての仲間達に等しい慈愛を向け、全ての者達の成長を目の前で見届けて来た彼女だからこそ、この時、この場所で、自分達の歩んで来た道を振り返ったのだろう。

 

「カミュ、これだけは言わせてくれ。もう、サラもメルエも、そして私も、何があろうと心を折る事はない。何があろうと道を踏み外す事もない。だが、もし、万が一、私達の心が折れる時があるとしたら、それはお前が倒れた時だけだろう。お前の『死』だけは、絶対に認めないし、許さない」

 

「……それは、イシスのピラミッドで聞いた」

 

 サラは、ルビスの塔での挫折の後、『賢者』としての完成を迎えている。己の心の奥にある闇と向き合い、それを全て認め、受け入れた事で再び前へ踏み出していた。この先、彼女は何度でも悩み、苦しむだろう。それでも彼女の心が揺らぐ事は二度とない筈だ。

 同じく、メルエという少女もまた、自分がリーシャやサラと何かが違うという事を知っている。その違いを恐れ、大好きな者達へも打ち明けられなかった物を、彼女はその小さな胸に事実として受け入れた。竜の因子を持ち、自分だけが竜の姿に変化出来るという事実を受け入れ、その力もまた、大好きな者達を護る力として認めたのだ。彼女もまた、この先で死の呪文を受け入れるような状態に陥る事はないだろう。

 リーシャという人間だけは、世界中の生物全てが恐れる『死の呪文』という絶対死の呪いを一度たりとも受け入れた事はない。この一行の中で最も強靭な心を持っていたのは、彼女なのだろう。感情という物を表に出す事の多い彼女ではあるが、その芯となる部分は誰よりも強い。そんな彼女であっても、唯一心が折れる可能性がある事、それが『勇者カミュの死』という物であった。

 だが、リーシャのそんな真剣な投げ掛けをカミュは鼻で笑うように斬り捨てる。小さな笑みを浮かべて薪を火に放り投げた彼は、四年以上も前の出来事に対して口にしたのだ。

 

「そうか……そうだったな。あの時に、お前に唯一残っていた『死の自由』も私達が奪ってしまったのだな」

 

「レーベに置いて来るべきだったと何度も後悔した」

 

 イシス国が管理していたピラミッドと呼ばれる王家の墓を探索していた時、メルエとリーシャを庇って彼は腹部に致命傷を受けた。それをまだ僧侶であったサラが覚えたてのベホイミで救済し、彼は一命を取り留めたのだ。

 その時も、泣きつかれて眠るメルエと、疲労と安堵で眠るサラの横で、二人は会話をしている。その時に彼は小さな笑みを浮かべて、『死の自由もないのか』と呟いたのだ。それを思い出したリーシャは優しい笑みを浮かべ、それに対しての皮肉を聞いて、小さな笑い声を上げる。

 互いが互いを認めず、常に争いを続けていたアリアハン大陸で、彼はリーシャやサラを置いて一人で旅立とうとしていた。あの時は直情的に怒りしか湧いて来なかったリーシャであるが、今ではあの時のカミュの優しさを理解出来る絆を持っている。絶対の死の代名詞であるバラモス討伐の旅に巻き込まないようにという配慮があったのだろうと彼女は考えていたのだ。

 

「置いて行かれなくて良かった。レーベで別れてしまっては、私はメルエに会う事が出来なかったからな」

 

「ああ、共に旅を続けてくれた事を感謝している」

 

 しかし、そんな優しい気持ちは、小さく呟かれたカミュの言葉に吹き飛んでしまう。彼が何を言ったのか、そしてそれがどんな意味を持つ言葉だったのかが、瞬時に理解出来ない。呆けたようにカミュへ顔を向けるリーシャの目に、炎へ薪を入れる彼の横顔が映っていた。

 そこに何の照れも、気負いもない。本当に当然の事を当然に口にしたように、いつも口にする食事の前の言葉や、誰かに会った時の挨拶のように、彼はそれを口にしたのだろう。それが、どれ程の変化なのか、どれ程の出来事なのかを彼は理解してはいない。だが、彼と共に歩んで来たリーシャという女性だからこそ、その言葉は胸に染み入るように入り込んで行った。

 

「馬鹿者……。こんな時に、そんな事を言うな」

 

 何故か解らないが、無性に照れ臭くなり、そして涙が溢れて来る。自分がその言葉を口にした訳でもないのに、何故自分がこれ程に恥ずかしく、そして嬉しくなるのか。そんな理不尽な状況に対する怒りなど、彼女の胸に湧き上がる喜びが瞬時に消し去ってしまう。溜まらず、彼女はそのまま地面へと横になって瞳を閉じた。

 何故か溢れて来る涙が地面を濡らして行く。だが、その顔には笑みが浮かび、彼女はゆっくりと眠りへと落ちて行った。

 

 

 

 

 その後、二度ほどの野営を経て、一行は二つの山を越える。その先は本当に広い砂浜が広がっており、遠く向こうから潮の香りと共に波の音が聞こえていた。

 海が近いという事もあるのだろうが、この広い砂浜は何処かドムドーラ周辺にある砂漠に近い。おそらく、魔の島と呼ばれる場所と接しているこの地域は、瘴気の影響で草花が育たなくなっているのだろう。草花が枯れ、その場所に生命がなくなれば、大地も枯れ果てる。魔の島と呼ばれる場所にゾーマがいる限り、この砂漠化は進み、いずれアレフガルド全土を覆う事になる筈だ。

 砂浜に下りて砂を掬い上げるメルエを見ながら、サラはそんな危機感を感じていた。

 

「カミュ、どっちだ?」

 

「このまま西へ向かう」

 

 『たいまつ』の炎を地図へ掲げたカミュは、後方に見える山々と目の前に広がる砂漠と見比べ、方向を確定する。太陽の昇らないアレフガルドで東西南北を把握する事は難しいが、地図上の位置関係から理解し、再び歩き出した。

 海に近い砂浜とは異なり、砂漠化している場所に生命体は少ない。砂に隠れて潜む蟹や貝等の生命を期待していたメルエは、幾ら掬い上げても何も出て来ない事に頬を膨らませていた。湿り気を帯びない砂は、メルエが掬い上げる度に風に乗って漂う。昔は生命の拠り所となっていた土であっただろうそれを見たサラは、世界の脆さを痛感していた。

 

「……何もないところだな」

 

「魔の島から来る瘴気の影響でしょう。ゾーマを倒しても、この場所に生命が戻る事はないかもしれません」

 

 砂地に足を取られながらも前へ進んでいた一行であったが、『たいまつ』で照らされている周辺に木も石もなく、見渡す限り砂漠が広がる光景にリーシャが呟きを漏らす。それに応えるサラの表情は悲痛に近い物であった。

 魔の島と呼ばれる大魔王ゾーマの拠点から漂う瘴気は、その量も質もバラモス城から漂う物よりも上である。ある程度離れたこの場所でさえも、息が詰まるような感覚に襲われる程の物であり、それを数年間受け続けて来た大地は枯れ果て、砂漠と化している。一度枯れ果てた大地が戻る事はない。神や精霊の力を以ってしても、可能であるかどうかが定かではなかった。

 大魔王ゾーマという、この瘴気の元凶を討ち果たしたとしても、この大地が元の状態に戻るという保証は何処にもないのだ。

 

「……メルエの口に何か布を当ててやれ」

 

「そうだな、私達も布で口元を覆うべきかもしれない」

 

 砂地の道幅が徐々に狭くなるにつれ、その瘴気の濃さが増して行く。それは本来であれば『人』が多く吸い込んで良い物ではないのだろう。先頭を歩くカミュがその足を止め、後方にいるリーシャへと指示を出した。

 最も年少であるメルエの成長を妨げる恐れもあり、何よりもその命を脅かす可能性さえもある。それを理解したリーシャは、全員が布を口に当てるようにと革袋から綺麗な布を取り出した。

 リムルダールで衣服と共に洗濯をした布は、石鹸の香りが漂う物で、それを口に当てられたメルエは最初は嫌そうにしていたが、すぐに大人しく自分で口元を押さえるようになる。だが、そんな三人の行動は、『賢者』と呼ばれる女性の言葉で無駄に終わった。

 

「トラマナ」

 

 静かに発せられた詠唱と共に、サラの魔法力が一行を覆うように展開さえ、彼等の周囲が神聖な空気に満ちて行く。視界が歪む程の瘴気の中でも前方に『たいまつ』の明かりが届き、一歩歩く毎に身体を蝕むように浸透する不快感を払って行った。

 サマンオサ大陸に存在した『ラーの洞窟』周辺を支配する毒沼で行使したその呪文は、瘴気などから行使者達を保護する壁となる。緻密に展開された魔法力の壁は、外の空気を濾過し、神聖なものへと変える効果を持っているのだ。

 その呪文は、メルエも行使出来る物ではあるが、まだそこまで考えが及ばない。そんな自分が許せないのか、先程まで良い匂いの布を当ててご機嫌だった筈の彼女の頬は膨れ、不満そうにサラを見上げていた。そんな、まるで『指示してくれれば、自分が行使したのに』というような視線に苦笑を浮かべたサラは、その小さな手を握る。

 

「この場所からゾーマの城まで距離があります。交代でトラマナを行使しましょうね」

 

「…………ん…………」

 

 自分と交代で行使を続けながら進む事を提案するサラに対し、メルエは不承不承に頷きを返す。この幼い少女も、トラマナのような魔法力の緻密な操作が必要な呪文に関しては、サラの方が上である事を痛い程に理解しているのだろう。それでも、誇りであり自信の表れでもある『魔法』という神秘に関してだけは、『魔法使い』として譲れないのだ。

 そんな頼りになる呪文使いの二人のやり取りに微笑みを浮かべたリーシャは、同じように優しい瞳を向けるカミュへ合図を送る。それを見た彼も頷きを返し、再び西へと歩み始めた。

 幸いな事に、この砂漠で魔物と遭遇する事はなかった。既に死地と化したこの砂漠では、魔物でさえも生息出来ないのか、偶然が重なっただけなのかは解らないが、カミュ達の鼻に海からの潮の香りが届くまで、魔物の影を見る事はなかったのだ。

 

「カミュ、行き止まりだぞ」

 

「……微かに向こう岸が見えますね」

 

 細くなって行く砂地の果て、それは本当に断崖絶壁の場所であった。

 魔の島を護るように渦巻く海流が、荒れ狂ったかのように岬に打ち付け、大きな波飛沫を上げている。海面までの高さはそれ程ではないが、それでもそこへ飛び込んでしまえば、二度と浮き上がる事が出来ないと想像出来る程に波が高く、吸い込まれるような闇の奥に凄まじい程の海流の音が響いていた。

 その場所に立って初めて、対岸に微かに見える陸地がある事に気付く。『たいまつ』の頼りない明かりでも映る程の距離である。もし、何の手段もないとすれば、泳いで渡る事が出来る距離だと認識してしまえる程度の距離でもあった。

 

「オルテガ様は、本当に泳いで渡られたのかもしれないな」

 

「この場所に橋が架かっていない以上、それ以外に方法はないのかもしれません」

 

 リムルダールの武器屋で聞いた話では、この場所に男性が立っていたという。それがオルテガであるという確証はないが、リーシャやサラは、その男性がアリアハンが誇る英雄であるという確信があった。

 そして、カミュ達が手に入れた『虹の雫』という道具をオルテガが入手しているのであれば、この場所に橋が架かっている筈であり、虹色に輝く橋がない以上、彼が魔の島に渡る手段は一つしかないという事になるのだ。

 対岸の岬までは確かにそれ程の距離はない。だが、それでも飛び越えて行ける距離でもない。通常の海であっても、数刻の間泳ぎ続けなければ渡れない距離である。この荒れ狂う龍のような海流の中、人間が泳ぎきる事が出来るかと問われれば、否定的な答えしか口に出来ない距離であった。

 

「もし、本当に飛び込む程の馬鹿だとすれば、既に海の藻屑だ」

 

「……カミュ」

 

 リーシャやサラの心配を余所に、吐き捨てるように言葉を漏らしたカミュは、足元に『たいまつ』を向け、岬の先端へと足を進める。物悲しい表情を浮かべたリーシャを見たサラは、いつも自分がして貰っていたように、そっと彼女の背中に手を置いた。

 サラの中では『勇者』という存在はカミュ唯一人であり、オルテガとはアリアハンの『英雄』である。そこに因果関係は存在せず、オルテガという父親とカミュという息子の関係にまで口を出すつもりはないのだ。親子が相容れない事は悲しい事であるという事は理解していても、その関係に自分が割って入るつもりはなく、その関係が自分達の目的である大魔王ゾーマの討伐には影響しないとさえ考えていた。良くも悪くも、カミュとサラの境界線はそこまでの物であり、それは仲間としての絆とは別の物であるのだ。

 だからこそ、そんなカミュ親子の関係性にまで心を砕くリーシャに尊敬に近い想いを抱く。何処までも人の心の奥深くにまで手を伸ばそうとするこの女性戦士に、サラもメルエも何度も救われて来た。魔王討伐という目的には直接関係せずとも、その人間の根本的な闇に手を伸ばして引き上げて行く。その結果、目的を果たす為に必要な成長を彼女達は何度も何度も遂げて来たのだ。

 

「…………いく…………」

 

「この先は、リーシャさんが持つ『虹の雫』が必要になります。私達三人をいつも掬い上げて下さったリーシャさんの想いが……」

 

 何時の間にか握られていた小さな手は、彼女を母親のように慕う少女の物。じんわりと浸透して来る温かさが、少女が浮かべる笑みのように心へと届いて行く。自分達を護る為に、導く為に、常に尽力して来た、母のような姉のような女性戦士の背を、二人の仲間が押して行った。

 何度も壊れかけた絆を、離れないように繋いで来たのは彼女である。

 レーベの村で最初に迎えた離散の危機は、彼女が文字通り体当たりでカミュへぶつかった事で乗り越えた。

 奴隷商に売られた少女を救う為に行動しようとするサラの未来を予見し、それでも尚、自身の価値観や考えが変わって行く事を恐れないという道を指し示している。その後、再びカミュと衝突し、それでもサラという人間が前へ進もうと立ち上がったのは、目の前に差し出されたリーシャの手があったからだろう。

 メルエが魔道士の杖を媒体として上手く使えずに行き詰った時も、サラが僧侶の資格の有無に悩んだ時も、メルエが自身の親の愛という物を初めて知り、それを失った事に心を閉ざし掛けた時も、何時もその傍に立ち、彼女達の心を抉じ開け、殻に閉じ篭もり始めた彼女達を強引に引き上げたのは、この女性戦士なのだ。

 

「ああ……。皆の想い、皆の願いを橋へと変えなければな」

 

 幼いと思っていた魔法使いに手を引かれ、頼りなかった筈の賢者に背中を押されたリーシャは、少し涙交じりの呟きを吐き出し、胸元から小さな欠片を取り出す。闇に包まれた大地の濃い瘴気に覆われた場所でも、その虹色の輝きは色褪せてはいなかった。

 ゆっくりと首から取り外した彼女は、大事そうにそれを両手で包み込み、満面の笑みを浮かべるメルエに向かって微笑みを浮かべる。岬の先端に立っていたカミュは、後方から近付いて来た彼女に場所を譲り、後方へと下がって行った。

 先端に立ったリーシャは、晴れやかな表情の中で涙を浮かべ、虹色に輝く雫を真っ黒な空へと掲げる。そして、アレフガルドに一筋の光が差し込んだ。

 

「うわぁ」

 

「…………ほぅ…………」

 

 サラとメルエが感嘆の声を上げる。それ程までに幻想的で、神秘的な光景が、彼等の前に広がったのだ。闇に包まれた漆黒の空にぽっかりと空いた穴から、一筋の光が降り注ぎ、虹の雫を持つリーシャごと包み込んで行く。空から降り注ぐ光は、虹の雫を通って、断崖絶壁の岬の先へと虹色に輝く光で照らし出した。

 その幻想的であり、神秘的な光景に目を奪われたカミュ達三人は、その現象を生み出している宝玉を持つ女性から視線を離してしまう。いや、正確に言えば、眩いばかりの光に包まれた彼女を見る事が出来なくなっていたのだ。

 

「……私を三人の勇者と巡り合わせて頂いた事に、多大なる感謝を」

 

 小さな小さな呟き。それは彼女の心の奥底にある喜びと感謝。

 アリアハンという小国の身分の低い貴族の家に生まれ、実力も名声もあった父親の背中を懸命に追い、それでも届かないと嘆いていた頃、彼女の運命は大きな変革を迎える。

 世界に轟く英雄の息子と共に受けた勅命は、彼女の考えていた物とは大きく異なる道筋を辿った。多くの衝突、多くの悩み、大きな悲しみに大きな喜び。様々な試練を乗り越え、彼女は今この場所に立っている。小さな辺境国の下級貴族として終える筈だった彼女の人生は、青天の霹靂のような勅命と数奇な巡り合わせによって、世界中の誰も歩む事の出来ない道を辿る事となった。

 数多いる貴族、数多いる騎士が生涯経験する事のない苦悩や苦痛も味わった。それでもその道を歩んだ事に後悔などない。そこにあるのは、心からの感謝。数多いるアリアハン宮廷騎士の中で自身が選ばれた事への感謝。自分達の旅に同道しようと申し出た頼りない僧侶への感謝。自分達と巡り合うまで懸命に生きて来た少女と、それを護って来た多くの愛への感謝。武器を振るう事しか出来ない自分を隣に立つ者として認め、共に歩んでくれた青年への感謝。

 そして、何よりこの者達と巡り合わせてくれた世界と、それを生み出した創造神、そしてそれを守護する者達への感謝。

 その想いは、彼女の双眸から雫となって零れ落ちた。

 

「橋が……」

 

 リーシャの双眸から落ちた雫は、虹の雫を通した七色の光を反射し、対岸へと向かう虹色の架け橋を架けて行く。

 異なる価値観、異なる想いを繋ぎ止めて来た者の想いが、再びアレフガルドと魔の島を結んだ。空から降り注いでいた光の筋は消え、既に周囲は闇を取り戻している。それでもその橋は虹色に輝き、まるで彼女達の輝ける未来へと続く架け橋のようであった。

 全ての輝きを放ち終え、七色の輝きを失った虹の雫は、涙のような形状をそのままに静かにリーシャの掌に納まる。そんな雫を再び大事そうに両手で包み込んだ彼女は、鎖を首から提げて雫を胸の中へと仕舞い込んだ。

 

「これは、生涯に渡って私の宝物だ」

 

 胸に手を置いて振り返った彼女の笑みは、目の前に架かった虹色の橋よりも美しく輝いていた。誰もが見惚れる程の笑みに、メルエが満面の笑みを浮かべて駆け寄って行く。飛び込んで来るように駆けて来る少女を抱き上げたリーシャは、もう一度虹の橋の向こうに見える瘴気の島へ視線を送った。

 

 これが最後の旅となるだろう。最終決戦の場所へと渡る橋は、多くの想いを背負って来た者達を常に見続け、常に支えて来た者の想いによって架けられた。

 虹色に輝く橋は、彼等の旅が終わる頃にどのような名に変わって行くのだろう。旅の終わりが彼等の死であれば、この橋もまた消え去るに違いない。だが、彼等がアレフガルドに朝を取り戻す事が出来るのであれば、この橋もまた伝承の一部として語り継がれるのかもしれない。

 

 

 




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