新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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第二十二章
魔の島


 

 

 

 虹色に輝く橋にカミュが足を掛ける。今にも消え失せてしまいそうな程に幻想的な橋ではあったが、しっかりと足を踏み締める事が可能であり、それに続くサラやメルエが乗っても揺れ動く事さえもなかった。

 神秘に彩られた橋を物珍しそうに触るメルエに微笑みながら、この橋を生み出す最後の欠片となった女性をサラは見上げる。その女性戦士は、先程まで浮かべていた涙を既に拭っており、凛とした表情で前に見え始めた魔の島を見つめていた。

 

「ここからは、今まで以上に厳しい戦いになる筈だ」

 

「わかっているさ」

 

 先に橋を渡り切った青年に続いて魔の島へ足を踏み入れた彼女は、表情を引き締めて言葉を紡ぐ。それに大きく頷きを返した青年は、『たいまつ』を掲げながら地図へと視線を落とした。

 そこは、島を外敵から護るかのように険しい山脈によって覆われた場所。この場所に希少金属を産出する鉱山があると言われても納得が出来る程、見渡す限りが山であった。

 その中で橋を渡った左手に見える山は、人が入った事のある場所なのか、それとも魔物が通る場所なのか、獣道のような山道が見えている。道はそれしかない。故に、その道を歩むしか他にないのだ。

 

「メルエとサラの呪文があるとはいえ、瘴気に覆われた島だ。魔物の強さも然る事ながら、戦闘の仕方も考えなければならないだろうな」

 

「そうですね。足元も悪く、視界も悪いです。ただ、私とメルエの魔法力の一部をトラマナに取られている状態ですが、それに関しては然程影響はないでしょう。一度放出した魔法力を操作するだけの事ですから」

 

 漆黒の山道を歩き出した一行の隊列は常に変わらない。先頭をカミュが歩き、中盤をメルエの手を引いたサラが歩く。最後尾に後方にも警戒を向けるリーシャが続く隊列である。どれ程に警戒をしても足りないと思える場所ではあるが、それでも周囲へ目を向けるリーシャの前方を歩くサラとメルエは、絶対的な安心感を有していた。

 昼か夜かもわからない闇の山道を一行は休憩を挟みながら進んで行く。しかし、その山道の中腹に、まるで彼等の行く手を遮るように二体の石像が立ち塞がっていた。

 今はまだ動かない。この魔の島と呼ばれる場所を清める為に建立された、古の英雄を模った石像ではあるが、大魔王ゾーマの本拠地である魔の島の濃い瘴気を受け続けている為、魔物として命を持っている可能性は高かった。

 その前に立った一行は、手に持つ『たいまつ』をその二体の石像へと掲げる。そして、それを見て一斉に戦闘態勢へと入った。

 

「ギャォォォォォ」

 

 まるで石像の身体に巻きついた蛇のような身体が、一気に宙に浮く。カミュ達に向けられた大きな瞳と、口元から見える鋭い牙が、その魔物の生態を明確にしていた。

 勇者の洞窟などで遭遇した龍種。火竜の上位に君臨する火の化身とも伝えられるその龍は、長い身体を宙に浮かせ、今にも全てを焼き尽くす火炎を吐き出そうと口を開いていた。

 盾を掲げようとするカミュの後方へと滑り込んだサラとメルエは、呪文の詠唱へと入って行く。今、カミュ達に敵意を向けているサラマンダーは一体ではあるが、その横に二体の石像がある以上、それらも何時動き出すか解らない。万全の態勢に入った一行の戦闘が始まった。

 

「グオォォォォ」

 

 大きく開かれたサラマンダーの口から燃え盛る火炎が吐き出される。この山の全ての植物を燃やし尽くしたのではないかと思える程の強い火炎を、カミュを勇者と認めた盾が防いだ。

 神聖な壁のように炎を防ぐその盾は、通常の金属とは異なり、火炎の熱によって変色する事はなく、青白い光を発しながら火炎を退けて行く。己の最大の攻撃をいとも容易く防いだ人間に戸惑いながらも、サラマンダーは一端距離を取ろうと身体を動かした。その隙を突いて攻撃を加えようと動き出したリーシャは、横合いから突如唸りを上げた風に力の盾を掲げる。凄まじい圧力を受けた彼女は身体を持ち上げられ、そのまま少し離れた場所へと弾き飛ばされる事となった。

 カミュ達の懸念通り、石像の一体が動き始めたのだ。魔の島にて瘴気に曝され続けた石像は、その身体さえも変色させ、魔人のように顔を歪めながら拳を振るう。並の人間であれば、受けた瞬間に身体が弾け飛ぶ程の威力を誇る拳である。吹き飛ばされたリーシャが勢いを殺しながらも着地した事だけでも異常であった。

 

「グモォォォォ」

 

「メルエ!」

 

 カミュに対して火炎は有効ではないと判断したサラマンダーは、体勢を立て直そうとしているリーシャに向けて大きく口を開く。しかし、そのような行為を許す程、この一行の後方支援組が呆けている訳ではなかった。

 賢者である女性の指示が轟き、それに応えるように小さな少女が大きな杖を振るう。既に詠唱は完成しているのだろう。杖を前方へと突き出したと同時に、杖先にあるオブジェの嘴が開かれた。

 

「…………マヒャド…………」

 

「え?」

 

 しかし、その少女が生み出した現象は、指示を出した賢者の想像を遥かに超えた物であった。闇に包まれた山道に、呆けたような女性の声が響く。その顔には驚きと困惑が浮かび、予想もしていなかった光景に我を忘れていた。

 メルエと呼ばれる少女が振るった杖先からは、ここまでの旅で何度も目撃して来た圧倒的な冷気が迸っている。そこまでは、尋常ではないまでも、サラ達がいつも見ていた光景であった。

 しかし、彼女が呆けた理由はその後にある。生み出された冷気はサラマンダーの周辺で固形化し、氷の刃となって空中に展開された。静止した無数の氷の刃は、再度振るわれた少女の杖の合図によって、一斉にサラマンダーへと降り注いだのだ。

 避ける事も出来ず、無数の氷剣がサラマンダーの身体に突き刺さる。凄まじい苦悶の雄叫びを上げたサラマンダーであったが、氷剣が突き刺さった部分から一気に凍り付き、身体全体が凍り付いた所で、地面へと落ちて砕け散った。

 それは、呪文使いとして最高位に立つ賢者であっても不可解な光景であったのだ。まるで冷気を自在に操っているかのようなそんな神秘の体現に、サラは言葉を失ってしまう。呪文に対して常に考えを巡らせている彼女であってもそうであるのだ。カミュやリーシャからすれば、本当に茫然自失となっても可笑しくはない物であった。

 

「…………イオナズン…………」

 

「へ?」

 

 そして、そんな不思議な空気を醸し出した戦場は、魔法使いの少女の独壇場となる。サラマンダーが一瞬の内に戦場から消え去り、二体の石像とカミュ達との距離が離れた事を確認した彼女は、再度大きく杖を振るった。

 間抜けな声を上げるサラの声など、一瞬の内に消え去る。全ての音が消え去り、耳鳴りがする程に大気が歪んで行く。そして、全ての闇を払うかのような光を発した瞬間、その場にある全てが文字通り消し飛んだ。

 行使者であるメルエの傍に居たサラへ爆風が届く事はないが、それでも目の前の光景が一瞬で変わった事に気付いたのは、眩い光で眩んだ視界が戻った後となる。山肌に残っていた枯れ木も、近くにあった大きな岩も、そこには何一つ残されてはいなかった。勿論、その場で動き回っていた石像も、足先の名残を残すだけで、只の石屑となっている。先程まで、確かに敵が居た戦場とは思えない光景に、サラは只絶句する事しか出来なかった。

 

「……自分を認め、受け入れ、それでも前へ向かおうとする者は、ここまで成長するものなのか?」

 

「……いや、劇的な変化ではないだろうな。元々、メルエにはこれだけの力が備わっていたという事だろう。古の賢者と謳われる者達の中でも、異常な力なのかもしれないが」

 

 圧倒的な勝利を奪い取った少女が生み出した光景に、リーシャは小さな呟きを漏らす。しかし、そんな驚きを含んだ呟きは、彼女の隣に立っていたカミュの言葉で現実を突きつけられる切っ掛けとなった。

 メルエという少女に関しては、昔から常人を越える魔法の才能を発揮しているが、今のマヒャドの効果に関しては更に異常だとリーシャは見ている。だが、それはその才能が開花した結果ではなく、元々これだけの力を備えていた者が、経験と思考によって大きな力を発揮したという事だとカミュは考えていた。

 メルエの祖先が古の賢者であるという事はカミュ達も知っているが、これだけの才能と能力を持つ者が、古の賢者達の中にも存在しなかったのではないだろうか。もし、マヒャドの進化系統が先程メルエが行使した物であるならば、それは『悟りの書』に記載されている筈であり、それを持つサラがあれ程に驚愕する筈がないからだ。

 

「メ、メルエ、今のマヒャドは何ですか!? どのように行使すれば、あのような形で顕現するのですか!? 私にも教えてください!」

 

「…………いや…………」

 

 呆然とイオナズンの跡地を眺めるカミュ達とは異なり、我に返ったサラは、満足そうに杖を仕舞ったメルエの肩に手を乗せて、今の現象について問い質す。その表情も口調も真剣な物ではあったが、それを見たメルエは『ぷいっ』と顔を背けて拒絶の意志を示していた。

 このマヒャドは、自身の力という物とメルエが真剣に向き合って生み出した物なのだろう。幼いながらも、自分に何が出来るのか、どうすれば仲間達を守れるのかという事を、彼女なりに日々考えているのだ。

 氷竜の因子を受け継いだ彼女にとって、氷結呪文というのは他の攻撃呪文よりもその身に馴染み易いのかもしれない。ベギラゴンやメラゾーマを更に進化させる事は一朝一夕には出来ないだろうが、マヒャドという最上位氷結呪文を試行錯誤しながら彼女なりに昇華させた結果であった。

 

「氷の刃を生み出すなんて、どう考えても無理ですよ!? そんな事、悟りの書にも記載されていません。メルエ、意地悪しないで、私にも教えてください」

 

「…………いや…………」

 

 攻撃呪文は、メルエの専売特許であった。だが、サラが賢者となってからは、メルエが行使出来る魔道書の呪文は全てサラも行使出来るようになっている。悟りの書に記載された中で幾つかはメルエにしか契約も行使も出来ない物もあったが、それでもこの姉のようで好敵手であるサラよりも優れている部分が減ってしまった事は事実であった。

 自己に目覚めたばかりの少女にとって、自分だけが可能であったという特別感が失われる事に不満を持っていたのかもしれない。ドラゴラムのように、自分が人間ではないのかもしれないという恐怖を感じる物でない限り、彼女は『自分だけが出来る』という特別感を持っていたかったのだろう。

 故に、必死の懇願に対しても一向に首を縦に振らない。顔を背けた方向に移動するサラから逃れるように、反対側へ顔を背ける少女の姿は、傍から見れば苦笑を誘うような滑稽な姿であった。

 

「メルエ、そんな意地悪をするな。いつもサラから色々教えて貰っているのだろう? それに、そんな意地悪ばかり言っていると、もうサラはメルエの為に魔法陣を描いてくれなくなるかもしれないぞ」

 

「…………むぅ…………」

 

 そんな二人の呪文使いが織り成す滑稽な寸劇を見て、ようやく起動を果たしたリーシャが近付き言葉を掛ける。

 メルエは未だに全ての文字が読める訳ではない。いや、正確には文字は読めるが単語が解らないのだ。それが何を示す物なのか、その文字の集合体が何の事を表しているのかが解らない。文字も書けるが、自分が口にする言葉を書く事が出来るだけで、文章を書くまでには至っていなかった。

 故に、彼女は悟りの書に描かれている言葉の意味を全て理解出来る訳ではない。その効果や行使方法、詠唱の意味などをサラから教えを受けなければ、行使する事も出来ないのだ。

 メラゾーマの魔法陣を解読した頭脳を持っている故に、魔法陣を描き、契約する事は出来るだろう。それでもそれが記された書物はサラが所有しており、上記の理由もあって、サラが描く魔法陣の中に入るというのが、メルエの契約方法として既に確立していたのだった。

 

「アレはメルエだから出来た芸当だろう。マヒャドを行使する魔物でも、あのような形で行使する事は出来ない筈だ」

 

「……そんな」

 

 サラを擁護するリーシャに対し、カミュはメルエ側に付く。メルエが特別であるという事を物語るようなその言葉に、サラは項垂れ、メルエは嬉しそうにカミュのマントの中へと入り込んだ。

 賢者となり、魔法という神秘について常に考えを巡らせているサラにとって、今目にした光景は別世界を見せられたような物だったのだろう。その落胆振りは流石のカミュでも気の毒に感じる程の物であり、そのマントから顔を出した少女の眉も下がってしまう。

 魔法の師でありながら好敵手でもあり、対等の立場でありながら大好きな姉であるサラの姿を見たメルエは、ゆっくりとマントの中から出て来た。

 

「…………むぅ…………」

 

 だが、サラの前まで来たメルエは、何処か困ったように眉を下げ、唸り声を上げてしまう。何かを話そうとしているのだが、どう伝えれば良いのかを迷っているかのようなその姿に、顔を上げたサラは何かに思い至った。

 メルエの姿に理解が及ばないリーシャは首を傾げ、何となくではあるが察しが付いたカミュは溜息を吐き出す。

 

「もしかして、メルエも説明出来ないのですか?」

 

「…………むぅ…………」

 

 頬を膨らませた少女の姿が、サラの問いかけが正しい事を物語っていた。

 メルエの才能は頭抜けた物である。その才能だけで行使していた魔法も、彼女が魔法力の流れやそれの調節を知る事で、考えて行使する事が出来るようになっていた。だが、この少女は教えを請う事はあっても、誰かに教えた事はない。自分がどのように考え、どのように魔法力を流し、どのように魔法を顕現しているのかを他者へ伝える術を持っていないのだ。

 おそらく、感覚だけで行使した物ではない事は確かであろう。彼女なりに考え、試行錯誤を繰り返し、あのマヒャドを生み出した事に間違いはない。だが、それを他者へどのように伝えるべきなのかという事が解らないのである。それが他者と接する機会が余りにも少なかった少女の限界なのだろう。

 

「まぁ、追々練習して行くしかないな」

 

「そんな時間は私達には無いのですが、仕方ありません」

 

 困り顔をしながらも、申し訳なさそうにサラの衣服を握るメルエを見て、リーシャが結論を口にする。そして、その言葉にサラ自身も不本意ながらも首を縦に振るしかなかった。

 このままサラが我を押し通そうとすれば、自分の不甲斐なさにメルエは涙を溢してしまうだろう。そして、それが尾を引けば、メルエの心は傷つき、先程のマヒャドを行使しなくなるかもしれない。それは戦力として大幅に減少してしまうのと同意であった。

 故に、サラはメルエの手を衣服から剥がし、それを優しく握り締める。自分が大人気なかった事を認め、それを少女に伝える為に。

 

「メルエ、ごめんなさい。メルエが余りにも凄い呪文を唱えるから、驚いてしまいました。今度私がマヒャドを行使するところを見て、気付いた事があったら教えてくださいね」

 

 

「…………ん…………」

 

 メルエと目を合わせるように屈み込んだサラは、優しい微笑みを浮かべて彼女に願う。その願いを聞き入れた少女は、大きく頷きを返した。

 そんな二人を見つめながら、リーシャはこの最終局面まで来て尚、この二人が成長を続ける事に驚きながらも喜びを感じていた。

 最上位の呪文を覚えただけではなく、それを更に昇華しようとする考えに驚き、そして、その理由が大事な者達を護る為であろう事に嬉しさを感じる。おそらく、今は驚きや羨望に近い感情を持っているサラも、この先でまだまだ成長を続けるだろう。実際に大魔王ゾーマを目の前にした時、この二人は今とは全く別人のようになっているかもしれないとまで考えが至った所で、リーシャは自分の荒唐無稽な想像に思わず笑みを溢してしまった。

 

「行くぞ」

 

「ああ」

 

 そんなリーシャの笑みを見たカミュは、ゆっくりと歩き出す。未だに山の中腹を越えたばかりであった。魔の島の南方に向かって歩いている一行ではあったが、山道はそのまま西へと向かうように続いている。魔の島の外周を巡るように伸びた山道は、二回の野営を終えた後に終わりを迎えた。

 だが、そこで待っていた物は、想像を絶する光景であり、それを見たカミュやリーシャは眉を顰め、サラは言葉を失う。メルエですら、そこから発せられる不快な雰囲気に眉を下げ、カミュのマントの中へと逃げ込んでしまった。

 

「……大魔王の瘴気というのは、ここまで大地を侵してしまう物なのか?」

 

「この大地が元の生命力を戻すのに、どれ程の時間が必要なのでしょう……。この場所に生命が戻るのに、どれだけの時間を要するのでしょう……」

 

 そこは正に地獄であった。

 周囲の大地は枯れ果て、砂漠化を通り越して毒沼のようになっている。大地から沸き立つように吹き上がる瘴気は、大地に溜まった毒沼を泡立てていた。

 『ぼこぼこ』と不快な音を立てながら湧き出す瘴気が、その場所から全ての生命を奪っている。既に生き物など皆無であり、そこに生命があった名残のように枯れ木が毒沼に浮いていた。砂漠化した場所にも草木は残されていないが、それでもそこで生きる者達は僅かに残っている。だが、この場所は既に命を育む力も残されていなかった。

 その原因がこの場所に居城を持つ大魔王の力である事は明白である。精霊神や竜の女王よりも強いその力に耐える事の出来る生命は少ない。力の弱い者から倒れ、どれ程に生命力を持つ者であっても、長期間その瘴気に晒された事で死を迎えていた。

 

「一刻も早く大魔王を倒さなければ、アレフガルド全土がこのような姿になってしまうだろうな」

 

「はい」

 

 その光景は、常人であれば絶望に落とされ、心を折ってしまう程の物である。だが、最早何があろうと立ち止まらないと誓ったリーシャや、賢者として完成を迎えたサラにとっては、新たに強い決意を生み出す要因となった。

 このアレフガルド大陸を始めとした全ての世界は、『人』だけの物ではない。動植物もエルフや妖精、そして魔物達でさえも生きて行く為に必要な場所なのだ。大魔王という存在の為に、数多くの生命体が暮らす場所を失くして良い筈がない。

 大魔王ゾーマにどのような思惑があるのかは解らない。だが、アリアハンでその声を聞いたリーシャは、全てを滅ぼすと口にした大魔王が、生命が活動出来る場所を残すとは思えなかった。ならば、彼女達はそれを阻むしかないのだ。

 

「カミュ、あれがゾーマの城なのか?」

 

「そうだろうな」

 

 その毒沼だらけの大地の向こうに、赤く燃え滾るような建物が見える。周囲に真っ赤な炎を張り巡らせたその城は、ここまで見て来たどんな城よりもおぞましく、どんな城よりも巨大であった。

 その城を遠目に見ているだけで、恐怖に足が竦みそうになる。そこから生み出される圧倒的な存在感が、自分達が力の弱い人間であるという事を明確に思い出させるのだ。

 それでも一歩、また一歩と毒沼だらけの大地を踏み締めて歩き出すカミュの背中を見て、リーシャとサラも互いに頷き合って足を前へと踏み出す。踏み締める大地が瘴気で脆くなっており、踏み締めるには頼りなかろうとも、その足取りは確かな物であった。

 

「ゾーマ城への最後の関門か」

 

 しかし、そんな一行の足取りは、ゾーマ城へ続く一本道の途中で強制的に止められる。呟くような宣戦布告を発したカミュは王者の剣を抜き放ち、それに続いてリーシャ達三人も戦闘態勢へと入って行った。

 一行が戦闘の意志を見せた事によって、そのゾーマ城を護るように立ちはだかる門番が大気が震える程の雄叫びを発する。五つの首から伸びる五つの頭部。それぞれの口を大きく開けて放つ咆哮は、魔の島全土の大気を振るわせた。

 勇者の洞窟の最下層で遭遇したその異形の化け物の名は『ヒドラ』。龍種とも竜種とも異なるその魔物は、主であるゾーマの居城を護る門番のように、カミュ達へと襲い掛かって来た。

 

「あの洞窟とは違う。今は全ての呪文を放てる状況だ。苦戦はしないだろう」

 

「そうだな。私達もこのような所で足踏みしている場合ではない」

 

 このアレフガルド大陸でも上位に入る魔物であろう。それでも、カミュ達は勇者の洞窟内でこの魔物を討ち果たしている。それも、メルエやサラの呪文行使が不可能という極めて厳しい状況下でだ。

 今、改めてその異形を見ても、『ヤマタノオロチ』と相対した時のような恐怖はない。ルビスの塔で遭遇したドラゴンという竜種の上位種へ抱いた絶望感もない。あるのは、確信に似た力の差であった。

 『この魔物には負ける事はない』という想いが、一行全員の胸に湧き上がる。それは慢心でも傲慢でもなく、彼等の経験と修練の結果なのだろう。大気さえ奮わせる咆哮に揺れる心はない。その恐ろしい姿に惑わされる想いもない。以前に遭遇した頃よりも遥かに成長した一行の戦闘が始まった。

 

「呪文は極力使わず、魔法力を温存してくれ」

 

「わかりました」

 

 剣を構え直したカミュの申し出に、サラは神妙に頷き、メルエは若干不満そうに眉を動かす。

 既に大魔王ゾーマの居城が目の前にあるのだ。見えている城の大きさから考えれば、あの城の内部を相当歩き回る事になり、そこでの戦闘やその後に控える最後の決戦を考慮すると、生命線であるサラやメルエの魔法力は極力温存しておきたいという考えは当然であろう。

 そして、呪文が一切使えない状況下で一行は一度この魔物を討ち果たしている。そしてあの頃よりも力量が大きく上がったカミュやリーシャにとっては、それ程困難な事ではない。

 

「グオォォォォ」

 

 大きく開かれた口の中で渦巻く火炎を見たカミュは、勇者の盾を掲げて足で大地を踏み締める。毒沼化している緩い大地に食い込んだ足に痛みが走る中、吐き出された火炎は盾を避けるように大地を乾かして行った。

 それを待っていたかのように飛び出したリーシャが巨大な斧を振るう。その斧の切っ先がヒドラが持つ一つの首筋に入ったと同時に、激しく体液が吹き上がった。

 既に竜種の鱗さえも斬り裂く事の出来る武器を持ち、その力を有した者の会心の一撃。賢者が放つ補助呪文がなくとも、一つの首程度であれば両断出来る威力を誇っていた。

 首を支えている骨さえも斬り裂き、首を支える事の出来なくなった一つが毒沼の大地に落ちる。傷口から瘴気の毒が入り込み、その首は瞬く間に朽ち果て、骨だけの存在へと成り変わって行った。

 

「メルエ、もう一度トラマナを」

 

「…………ん…………」

 

 そんなヒドラの一つの首の末路を見たサラは、慌ててメルエに呪文行使を指示する。自分が行使をしても良いのだが、今度は自分の番と言って聞かない少女はそれを不満に思うだろう。故に、サラは少女にその杖を振るわせた。

 傷口から入った瘴気の毒は、魔物の中でも上位に入るヒドラさえも骨へと変えている。もし、トラマナという呪文によってカミュ達が護られていなければ、彼等は戦闘どころか行動さえも出来ずに朽ち果てていただろう。

 サラは、自分達が世界を滅ぼす事さえも可能な大魔王の懐に入り込んでいる事を改めて実感する。この先は、自分達の勝利か死の二択しかないという事実を否が応でも感じずにはいられなかった。

 

「ふん!」

 

 そんな呪文使い二人の格闘の間も、前方では巨大な化け物と二人の人間の戦いは続いている。既に白骨化した部分の毒が本体に及ばないように首の骨を踏み砕いたヒドラは、残る四つの首でリーシャへと襲い掛かった。

 巨大な頭部から覗く牙を力の盾で弾いた彼女は、その首目掛けて斧を振り下ろす。その隙に横合いから出て来たもう一つの頭部は、カミュが突き出した王者の剣を受け、眉間に風穴を空けた。

 更に二つの首が戦う力を失って地面へと落ち、傷口から入り込んだ瘴気の毒によって白骨化して行く。勇者の洞窟では絶体絶命の危機に落とされる事はないまでも、ある程度の苦戦をしたヒドラという強敵も、今ではカミュ達に傷一つ付ける事すら叶わない。先程の炎で若干の火傷はあるものの、身体の傷は皆無であり、体力が奪われている様子さえなかった。

 

「グオォォォォ」

 

「下がれ!」

 

 三体の頭部を失ったヒドラは、怒りの咆哮を上げる。このアレフガルドに生息する魔物達の中でも、この咆哮を聞いて身を竦ませない物がどれ程いるだろう。それだけの力を有した魔物であろうとも、今の勇者一行の歩みを止める事は出来ないのだ。

 長い首を何度も振りながら怒りを露にするヒドラに向かおうとしていたリーシャは、カミュの言葉に振り返り、その瞳を見て後方へと飛ぶ。カミュが何をするのかは解らないまでも、何かをしようと動いている彼に全面的な信頼を置く事の出来る絆を彼女は持っていた。

 リーシャが下がり、カミュとヒドラの距離が空く。その隙を見逃さないとでも言うように、ヒドラの残る二つの頭部が同時に大きく口を開いた。中に見えるのは燃え盛るような火炎。激しく燃える火炎は、飛び出す瞬間を待つように渦巻いている。

 それを見て尚、カミュは動こうとはせずに、右手に持つ王者の剣を高々と天へと掲げた。

 

「今こそ、その力を示せ」

 

 呟くような言葉は闇に溶け、それと同時に天に掲げた王者の剣が眩いばかりの光を放つ。神代から残る希少金属を打ったのは『人』。想いと神秘によって生み出されたその剣は、全てに認められた勇者を新たな主とした時に、その力を取り戻していた。

 剣の放つ光に誘われたように、漆黒の闇に包まれた空に稲光が現れる。天の怒りとも伝えられる稲妻は、空に光の線を描きながら、恐ろしいまでの轟音を鳴り響かせていた。

 勇者専用の呪文の中に、稲妻を操る物がある。ライデインという名で伝えられたその呪文は、対象に向かって天の怒りを振り下ろす物であった。それと同等の事を神代の剣が行うのかと考えたサラは、真の勇者のみが持ち得る剣にそれが備わっていても不思議ではないと考える。

 だが、そんな彼女の想像を遥かに超える現象が目の前に展開された。

 

「グオォォォォォ」

 

 ヒドラが二つの口から炎を吐き出すの同時に、一際大きな雷鳴が鳴り響く。ヒドラの叫び声が雷鳴によって掻き消え、吐き出された炎の明るさは、王者の剣が発した神々しい輝きによって包み込まれた。

 轟く雷鳴が、その場全ての空気を斬り裂いて行く。

 ヒドラの周囲全ての大気が真空の刃となって襲いかかり、その強靭な鱗を斬り裂いて行った。噴き出す体液は毒沼に溶け、吐き出された炎は真空の刃によって掻き消される。最後に縦と横に合わさり、十字に切られた真空の刃が、ヒドラの胴体に風穴を空けた。

 

「バギクロスと同じ力を……」

 

 王者の剣が生み出した力は、サラが持つ魔法の一つである『バギクロス』と同等の物に見える。真空の刃を生み出し、その刃は竜種の鱗さえも斬り裂いた。それだけの効果を、人の想いが生み出した剣が生み出す。それは、神秘を顕現する神代の武器と同等の力を持っているという事になるだろう。古の勇者が所有していた時にも同等の力を有していたか解らないが、それでも『人』が生み出した物が神が生み出した物に並ぶという、不敬にさえ成り得る物であった。

 ジパング出身の鍛冶屋は、この剣を生み出した後、『同じオリハルコンを手に入れたとしても、二度と造り上げる事は出来ない』と話している。それは、オリハルコンを融解させる程の熱を持つ『太陽の石』を持っていないという理由だけではないだろう。彼は、この世界で唯一の勇者であるカミュの為だけに剣を打ったのだ。

 創造神も精霊神も、元の所有者である古の勇者も認め、この世界さえも認めた勇者が所有する剣だからこそ、この王者の剣は神秘を内包した形で完成したのかもしれない。『人』の手によって新たに生まれ変わった剣は、人々の想いだけではなく、神々や世界の想いさえも込められているのだろう。

 

「雷は去ったな」

 

「……あの雷は、剣の解放によって呼び寄せられたというよりは、カミュ様が剣を開放する為に発した力によって呼び寄せられたように見えましたね」

 

 ヒドラと呼ばれる魔物の亡骸が瘴気に包まれ白骨化して行くのを見届けたリーシャは、そのまま視線を空へと向ける。先程まで荒れ狂うように轟音を轟かせていた稲光は、闇の中へ吸い込まれるように消えていた。

 大いなる神秘を顕現した剣の衝撃から立ち直ったサラは、先程までの出来事を思い出しながらリーシャの言葉に補足をする。王者の剣は、バギクロスという最上位の真空呪文と同等の神秘を生み出していた。だが、サラがその呪文を唱える時には雷鳴が轟く事はなく、空に稲光が走る事はない。故にこそ、それは剣の力ではなく、剣を解放しようとした者の力だと考えたのだ。

 元々、ライデインという雷呪文をカミュは行使出来る。だが、遥か昔に、それの上位呪文の可能性を彼は語っていたし、今の状況を考えると、勇者自らが雷を呼んでいるかのようであった。雷雲が上空にある時しか行使出来ないライデインとは異なり、自身の都合に合わせ雷雲を呼び寄せ雷を落とす。雷を『使役』するのではなく、『支配』する魔法。カミュという勇者は、その呪文を己の物とし始めているのかもしれない。

 

「これで、ゾーマの城へ続く道は開けた。カミュ、最後の戦いだ」

 

「ああ」

 

 サラの言葉に不穏な空気はない。故にこそ、リーシャはその事実を気に止めなかった。カミュの力が上がっている事は、常に共にある彼女が誰よりも理解している。そして、古の勇者が残した魔法陣や、ラダトーム国王から下賜された書の存在を知っているだけに、それがこの先の戦闘を良い方へ導く物だと信じてもいた。

 リーシャは魔法という神秘に強い憧れを持っている。だが、サラのようにその神秘を深く追求して解明したいとは微塵も思っていなかった。それは、魔法という物を知る者と知らぬ者の違いなのかもしれない。

 

「メルエ、ここから先は常にトラマナを唱え続けなければなりません。魔法力の残量には気をつけてくださいね」

 

「…………ん…………」

 

 そんなリーシャの瞳を見たサラも、その魔法に関しての思考を中断する。もし、その魔法が雷魔法の上位呪文だとしても、サラやメルエには絶対に契約も行使も出来ないだろう。後に名を残す英雄や勇者しか行使出来ない呪文として括られるそれらは、如何に呪文使いとしての才能を持つサラやメルエであっても、行使出来ない以上は解明する事など不可能なのだ。

 故に、サラは隣で不思議そうに首を傾げているメルエに微笑みを向ける。最早、今の二人にとって、トラマナを行使する事など苦にもならないだろう。彼女達の魔法力の総量から考えれば、何度トラマナを行使しようとも枯渇する事などあり得ない。行使に費やした魔法力の消費量よりも、休憩で回復する魔法力の量の方が多い程であった。

 それでも、この先で更に険しくなる戦闘を考えて、彼女は妹のような少女へと忠告を発する。既に魔法力の調整を我が物にした彼女にとっては無意味な忠告のようではあるが、表情を引き締めた少女は、大きく頷きを返した。

 

 六年以上もの旅の果てに、遂に辿り着いた最後の拠点。それは、このアレフガルドという世界どころか、遠い異世界までをも絶望の色に染め上げる力を有した大魔王の居城。

 勇者達が死闘の末に討ち果たした魔王バラモスなど小者の一人。世界を守護する精霊神や竜種の女王さえも退ける程の者が拠点とする城は、そこから発せられる瘴気によって歪んでいた。周囲には燃え尽きる事のない炎が揺らめき、城を浮き上がらせるように照らし付けている。生命体であれば、その城の景観だけでも本能が恐怖の鐘を打ち鳴らすだろう。それでも、彼等は震える足を一歩、また一歩と進めて行く。

 決して晴らされる事はないと考えられていた闇に、小さく細い光の筋が入り込んで行った。

 

 

 




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