新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

260 / 277
ゾーマ城④

 

 

 

 マントゴーアを退けたカミュ達は、そのまま通路を奥へ奥へと進んで行く。左に折れた先にあった狭い通路を抜け、再び広い通路へと出た。

 真っ直ぐに伸びた直線の通路は、燭台に灯された明かりによって薄暗くはあるが全貌が見えている。敵影はなく、ただ濃密な死の臭いだけが漂っていた。

 ここまで来ると、一行の間でも会話が激減している。幼いメルエであっても、雰囲気を察したのか、口を開く事なく、真剣な表情で黙々と歩き続けていた。死の臭いが濃くなって行くという事は、それが大魔王ゾーマの場所へと近付いている証拠でもある。そして、それは最終決戦が間近に迫っているという証拠でもあった。

 

「ふぅ……そう易々と先へは進ませて貰えないか」

 

 真っ直ぐに伸びた通路の行き止まりが見え、それを再び左に折れた瞬間、カミュが持つ『たいまつ』の炎に照らされた異形が見えて来る。その通路は横幅も広く、天井も高い。カミュ達四人が横並びになって、その倍以上の幅がある通路であった。

 そのような広い通路の先が見えなくなる程の魔物の影。それは、上層部で遭遇した大魔人のような巨大な敵である事の証であった。

 カミュ達だけではなく、魔物側も勇者一行の襲来に気付いているようである。警戒を怠らずに周囲の燭台へ炎を移し、最後に持っていた『たいまつ』を前方へ放り投げた。

 床に落ちた『たいまつ』の炎によって照らし出された魔物は一体。だが、その姿はカミュ達にとっても思い返したくはない物の姿であった。

 

「ギモォォォォ」

 

 最早、それは雄叫びとは思えない。何処から発し、何処を通って音を形成しているかさえも解らない不快な音。動く度に乾いた音が響き、何故それが動けるのかすらも理解出来ない物であった。

 竜骨が生前の形を模り、その無念を利用されて大魔王に使役された姿。マイラの森でカミュ達が遭遇し、サラが自己犠牲の呪文を行使しようと考える程に追い込まれた相手である。それと同じ姿をした物が一体。カミュ達の行く道を遮るように立ち塞がっていた。

 マイラの森で遭遇したスカルゴンよりも上位の竜種なのか、それとも怨念が強いのか、その竜骨の色は化石のように暗い。薄暗くはあっても明かりによって照らされた骨は、白骨とは言えない色をしていた。

 

「あれも氷竜の成れの果てなのか?」

 

「いや、氷竜とは限らないだろう。だが、上位の竜種の成れの果てである事だけは確かだ」

 

 各々の武器を構え、状況を把握する為にカミュとリーシャが口を開く。スカルゴンは氷竜の片鱗を見せている。吐き出す吹雪は、ドラゴラムを行使したメルエには敵わなくとも、強力な物であった。それと同等かそれ以上の敵だとすれば、大魔王に挑むカミュ達にとって厄介な物である事は確かである。そして、それが火竜であろうと、氷竜であろうと、後方支援組二人の援護がなければ打倒出来ないというのも事実であった。

 魔法力は温存したい。それでも惜しめば命を落とすだろう。先へ進まなければならず、しかし、先に進めば大量の魔法力が必要な場面になる事は確実。その進退極まる状態が今のカミュ達なのかもしれない。

 

「……徐々にではありますが、私の祈りの指輪に力が戻って来ています。あと何度、祈りに応えて下さるかは解りませんが、魔法力に対する備えとしては頼るしかありません」

 

「……わかった。援護を頼む」

 

 カミュ達の意図を悟ったサラは、自身の指に嵌められた指輪を見ながら答える。それは希望的な観測である事が否めないながらも、カミュ達にとって縋るに値する答えでもあった。

 魔法力も枯渇し、その代わりに生命力さえも注ぎ込んだサラの全てを戻した物は、最早カミュでさえも否定する事は出来ない。精霊神ルビスという象徴的な存在をその目で見て、賜った言葉をその耳で聞いたリーシャやサラは勿論、何度もその指輪に救われて来たメルエもそれを頼りにしているのだ。

 方針が定まったカミュがリーシャに視線を送り、それに頷きが返って来たのを見て、一気に駆け出す。

 

「メルエ、イオ系は駄目ですよ」

 

「…………ん…………」

 

 臨戦態勢に入ったカミュ達を見送った二人は、詠唱の準備へと入って行く。この城の部分がどれ程の強度を持つのか解らないが、それでもメルエの放つイオナズンに耐え切る事は出来ないかもしれない。最悪この場所で生き埋めになる可能性さえもある危険を敢えて冒す必要はないのだ。

 竜骨に肉薄したカミュが放つ輝く剣筋が煌く。自分達の倍はあろうかと思われる大きな竜骨への一撃は、その大腿骨へと吸い込まれて行った。

 しかし、如何に王者の剣といえども、生物最強種である竜種の骨を一刀で両断出来る訳がない。多少なりとも傷を付けてはいるが、それでも抉る事さえ出来なかった。

 

「カミュ、下がれ!」

 

「ブハァァァァ」

 

 大腿骨から剣を抜いたカミュは、リーシャの声で後方へと飛び、勇者の盾を構える。それと同時に盾を持つ手さえも凍りつくような吹雪がカミュを襲った。

 リーシャの予測通りに氷竜の片鱗を見せた竜骨は、吹雪を寄せ付けないようなカミュの盾を見て、大きく腕の骨を振るう。吹雪に対処していたカミュは、その腕を避ける事が出来ず、壁へと吹き飛ばされた。

 追い討ちを掛けようとする竜骨とカミュの間に入り込んだリーシャがその尾骨を斧で弾き返し、倒れ込んだカミュの身体を担ぎ上げる。そのまま後退するリーシャを援護するように、メルエが中級の火球呪文を竜骨に向けて放った。

 極大呪文であるメラゾーマであれば、リーシャやカミュも巻き込んでしまう可能性を考えた結果なのだろう。それは、魔法力の消費量の節約にもなり、竜骨を牽制するには十分な威力を誇っていた。

 

【ドラゴンゾンビ】

古代の竜種の骨が、それに宿った怨念に従って仮初の命を宿した物と云われている。吹雪のような物を吐き出す為、それは絶滅種となった氷竜の成れの果てだと考えられていた。同様のスカルゴンよりもその怨念の強さも、年月の長さもあり、大魔王ゾーマの居城に存在する為に魔法力の影響も大きい。その為、スカルゴンよりも全体的な能力が一段上にあり、上位種と考えられているが、竜骨の魔物に上位も下位もなく、あるとすれば生前の氷竜としての格だけだろう。

 

「相当な相手だな……」

 

「だが、マイラの森でアレに似た奴を三体相手するよりは楽だろう」

 

 メルエの放ったメラミによって、若干融解した竜骨を見たリーシャはその凄まじい程の力に感嘆の意を示す。しかし、自身に回復呪文を掛けながら立ち上がったカミュは、マイラの森で遭遇したスカルゴン三体を二人で相手した時よりは楽であると口にした。

 あの時、メルエは死から戻って来たばかりであり、深い眠りに就いていた。サラは魔法力の枯渇から生還したばかりであり、その後で自己犠牲の呪文を行使しようとしたが、それをカミュに差し止められた後、これまた深い眠りに落ちて行った。

 カミュとリーシャという二人だけで、氷竜の成れの果てを三体相手取っていたのだ。確かに目の前で咆哮のような奇音を発するドラゴンゾンビが吐き出した吹雪の方が強いとは云えども、今は勇者一行が全員揃っている。負ける要素は何一つなかった。

 

「ベギラゴン」

 

 拮抗した状況の中、再び吹雪を吐き出そうとしたドラゴンゾンビに向かってサラが詠唱を完成させる。同時に巻き起こった熱風がカミュ達とドラゴンゾンビの間に着弾し、激しい炎が立ち上った。

 冷気と炎がぶつかり合う音が響き、蒸気によって視界が悪くなる中、カミュが盾を掲げて突進して行く。最上位の灼熱呪文が生み出す熱風を抜け、その手に持った剣を振り下ろし、ドラゴンゾンビの大腿骨へ再び衝撃を与えた。

 一度目で傷をつけた部分に再度与えられた衝撃は、竜種の骨に亀裂を生じさせる。だが、粉砕するには至らず、カミュの身体は大きく振るわれた尾骨によって弾き飛ばされた。

 再度壁に激突したカミュを視界に納めながらも、大腿骨の同じ箇所にリーシャが斧を振るう。魔神が愛した戦斧の一撃に耐えられず、ドラゴンゾンビの大腿骨が砕け散った。

 

「カミュ!」

 

 既に立ち上がっていた勇者に向けて叫ばれた言葉は、大腿骨を失い、前のめりに倒れ込もうとするドラゴンゾンビへの追い討ちの要求である。それに応答する訳でもなく、勇者は無言で駆け出した。

 このドラゴンゾンビの竜骨は、同系のスカルゴンの物よりも硬い。だが、同じ箇所を攻撃すれば、決して砕く事の出来ない物ではなかった。通常の人類ではおそらく無理であろう。竜骨の加工だけでも数日掛かる程の物である。それを戦闘中に砕くという事自体、偉業なのだ。

 落ちて来た巨大な竜の頭蓋骨目掛けてカミュが剣を振り下ろす。その一瞬に狙いを付けていたかのように、後方からメルエがバイキルトという武器強化呪文を唱えた。

 

「うおぉぉぉ」

 

 人類最高位の魔法使いの魔法力によって強化された武器を頭蓋骨の眉間へと突き刺し、渾身の力を込めて振り抜く。神代から伝わる勇者の剣は、竜種最上位に君臨した氷竜の亡骸を粉砕して行った。

 最後の足掻きを見せるドラゴンゾンビは、尾骨を振り回し、カミュを引き剝がす。しかし、その頭蓋骨の大半を砕かれた竜種の成れの果てにそれ以上の力は残っていなかった。周囲を凍り付かせる吹雪を巻き起こしながら、骨に残っていた怨念が霧散して行く。轟音を響かせて、巨大な竜骨が床へと崩れ落ちて行った。

 

「ベホマ」

 

 怨念によってこの世に繋ぎ止められていた竜骨が形を崩して行く。風化するように砂に変わったドラゴンゾンビを見届けたカミュは、傍で同じようにドラゴンゾンビの消滅を見ているリーシャの身体に最上位の回復呪文を唱えた。

 カミュとは異なり、魔法力への耐性がない彼女は、ドラゴンゾンビが吐き出す吹雪によって身体の一部が凍傷のような状態になり掛けている。それでも重量のある斧を振り抜いた事によって肌は裂け、そこから鮮血が溢れていた。

 裂傷や凍結部分なども癒え、再び十分に動ける事を確認したリーシャはカミュへと礼を述べ、近付いて来たメルエに笑みを返す。先程の戦闘でも、メルエの行使した呪文の数々がカミュ達二人を助けていた。今までもそうして強敵との戦闘を超えて来ている。魔法力の温存に意識が向かい過ぎていた事を改めて認識し、カミュとリーシャは互いに苦笑を浮かべた。

 

「カミュ様、進みましょう」

 

 メルエとは異なり、サラは呪文行使をかなり抑えている。カミュは意識的に自分で回復呪文を唱え、彼女に唱えさせていなかった。

 基本的にカミュとサラではその魔法力の量に差があるとはいえ、対メルエ程の差はない。だが、行使出来る呪文の数に限って言えば、カミュとサラとの差はメルエとの差の倍近くになるだろう。大魔王ゾーマとの決戦の中で、サラが数多くの呪文を行使しなければならない状況に直面するのは必定である。それ故に、カミュはそこまでの場面での傷の治療などは、自身の手によって行っていたのだった。

 

「この通路の先に階段のような物があれば、そこは地下四階だ。あの竜種の骨が最後の関門である可能性もある」

 

「そうだな……。再度気を引き締めて行こう」

 

 ドラゴンゾンビという魔物は、強敵である。もし、あれが一体ではなく、二体三体と出現していれば、カミュ達は再び全滅の危機に瀕していたかもしれない。それ程の強敵が行く手を遮るように立ち塞がっていた事を考えると、カミュの言葉にも頷けた。

 慎重に奥へと進む毎に、その死臭は濃くなって行く。濃密な死臭はこの先で待ち受けているであろう大魔王が放つ物なのか、それともこの先で多くの死骸がある為なのかは解らない。もしかすると、その死臭はカミュ達へ訪れる死の先触れである可能性さえもあった。

 勿論、彼等に死ぬつもりなど微塵もないだろう。大魔王ゾーマの打倒という偉業を勝ち取る為にここまで進んで来たのだ。だが、それでも彼等の頭の中に『全滅』という二文字がないとは言い切れない。その可能性もある事は承知しており、その可能性の方が高い事も知っている。それでも勝利を信じて、彼等はその階段を下りて行った。

 

 

 

「グオォォォォォ」

 

 その咆哮が聞こえたのは、彼等全員が階段を下り切る前であった。大気を震わせ、地さえも震わせる程の咆哮。勇者一行を全滅の危機にまで追い込んだドラゴンという竜種が上げる物よりも、更に凄まじい咆哮が響き渡る。それは新たなる竜種との遭遇を予感させる物であった。

 即座に各々の武器を抜き放った一行は、慎重に燭台へと炎を移しながら通路を歩いて行く。真っ直ぐに進むと巨大な鉄扉があり、その扉が無理やり抉じ開けられたように破壊されていた。

 それは、魔物が強引に破壊したような物でもなく、竜種が爪などで斬り裂いたような物でもない。まるで武器によって破壊したような人為的な物のように見えた。魔物や魔族がこの扉の奥へ向かう時にどうしていたのかは解らないが、カミュ達以外の人間がこの奥へと進んだ可能性が見える。そして、その人物がこの咆哮の主と相対しているとさえ考えられた。

 

「カミュ、急ごう」

 

 その可能性が何かという事に気付き始めた一行であったが、何故か動こうとしないカミュを見て、リーシャが声を掛ける。それはリーシャにしか口にする事が出来ない言葉であった。サラにもメルエにもこの青年の背を押す事は出来ない。メルエはこの可能性の話に気付いてはいないだろうが、それでもカミュの纏う雰囲気が変わってしまっている事には気付いていたのだ。

 リーシャが先頭を切って巨大な鉄門を潜り抜け、その後ろをサラが抜ける。心配そうな瞳をカミュへ向けたメルエがその手を握ってゆっくりと歩き出した。

 

「急げ!」

 

 門を抜けると、道は右に折れ、漂う死臭はより濃さを増して来る。水流の音が遠くから聞こえ、それを遮るように竜種の咆哮が聞こえて来ていた。

 何かを察したリーシャは、メルエの手を引いて緩慢に歩くカミュへ声を掛ける。そのままメルエを抱き上げた彼女は、もどかしそうにカミュの手を握り、通路を駆け出した。

 右に折れた道はすぐに左に折れ、そして即座に右へ折れる。そして、その曲がり角を曲がり切った瞬間、彼等の視界が一気に開けた。

 

「!!」

 

 通路の先には巨大な橋が架かっており、その下を瘴気に汚染された地下水が凄まじい音を立てて流れている。そして、その橋の向こうに、巨大な竜種の姿が見えていた。

 それは、このゾーマ城の城門前でカミュ達を待ち受けていたヒドラに酷似した竜種。五つの首を持つ巨竜であり、その体躯は毒々しく紫色の鱗が光っている。巨大な口を開けて叫ぶ咆哮は、目の前の橋さえも震わせ、濁流を増長させていた。

 足が竦む程の咆哮を目の前で受けたサラは、何かに気付いたようにメルエへと視線を向ける。竜の因子を持った少女は、ヤマタノオロチや竜の女王に対して、必要以上の怯えを見せていた。それは動物的な本能から来る恐怖だったのだろう。その心配をしてしまう程に、目の前の竜種は圧倒的な力を有しているとサラは感じていたのだ。

 

「メルエ?」

 

 だが、彼女の心配は杞憂に終わる。リーシャの腕に抱かれた少女の瞳に怯えなど微塵も見えない。その小さな身体の何処にも震えはなく、むしろ言いようのない怒りさえも感じる程の何かを発しているようであった。

 問いかけるサラへ振り向いた少女の顔を見て、この世で唯一の賢者の心にも覚悟が宿る。目の前の圧倒的な竜種は、打倒出来ない相手ではないと。

 ヤマタノオロチという強敵と戦った時とは、サラやメルエの力量も魔法力も、比較にならない程に上がっている。もしかすると、今のメルエがヤマタノオロチと相対しても怯えを見せないかもしれないが、あれが本能的な恐怖だとすれば、メルエという竜の因子を受け継いだ少女の中で、五つの首を持つ巨竜は、竜の女王やヤマタノオロチよりも下位の存在なのだろう。

 メルエの中に宿る竜としての本能を信じるのであれば、あの巨竜程度はカミュ達の相手ではないという事になる。サラはそれを事実として受け取ったのだ。

 

「あれは……あの竜種と戦っているのは、オルテガ様か!?」

 

 巨大な竜種に目が向かっていたサラは、その巨竜の足下で武器を振るっている人間らしき影に気付きもしなかった。だが、先頭でカミュの腕を握っていたリーシャは、その存在に気付き、呆然と立ち止まってしまう。

 巨竜の足下では、リムルダールで販売していたバスタードソードのような大剣を持った男が、五つある首の攻撃を辛うじて避けながら、攻撃を繰り出していたのだ。

 その姿は、大魔王ゾーマという最強の存在に立ち向かう事の出来るような物ではない。その身体には強固な鎧を纏っている訳ではなく、リーシャの持つ力の盾のような円形の盾を持っているだけ。衣服はアリアハンでも売っているような旅人の為に用意された、布の服よりも若干丈夫な程度の物。大魔王どころか、竜種と戦うのさえも無謀と思える装備であった。

 

「カミュ、早く!」

 

 巨竜に向かって大剣を振るった男が、一つの首が吐き出した火炎に巻かれる姿を見て我に返ったリーシャは、青年の腕を取り、懇願するように走り始める。しかし、巨竜と男がいる対岸へと渡る橋は大きく、長い。駆けても駆けてもその差は縮まらず、彼女の心は焦燥感に蝕まれて行った。

 あの男がオルテガであるかどうかは解らない。カミュ達の場所からではその姿は小さくしか見えず、それが人間であるかどうかも断定出来ない。それでもリーシャはそれがこの青年の父親であり、アリアハンで生まれた者であれば誰もが知る英雄であると確信していた。

 その英雄が今にも倒れそうな状況にまで陥っている。その事が信じられない事ではなく、何処か当然の事のように感じている自分を不思議に思いながらも、リーシャはカミュの腕を握ったまま橋を渡り始めた。

 

「グォォォォ」

 

 男が何かを叫び、駆け出したリーシャの横の空気が薄くなる。真空の刃となった風が、そのまま巨竜へと襲い掛かった。

 それは、賢者となったサラが行使する最強の真空呪文であり、カミュの持っている王者の剣が内包した力。バギクロスと呼ばれる最上位の呪文を男が巨竜に向けて放ったのだ。

 しかし、その真空の刃は、巨竜の表面上の鱗を傷つけはするが、肉まで達してはいない。多少体液が流れ出てはいるが、致命傷となるような物ではなく、無闇に怒りを煽る結果にしかならなかった。怒りに燃えた十の瞳に射抜かれた男は、その内の二つの口から発せられた炎に飲み込まれて行く。それを見たリーシャは絶句した。

 

「リーシャさん!」

 

 これ程に橋が長いと感じた事はない。実際に巨大な川に架かる橋のように大きく長い物ではあるが、自分の足がこれ程にもどかしく思った事は、今までに一度もなかった。

 炎に包まれた憧れの英雄の姿を見て、放心してしまったリーシャではあったが、サラの声に我に返った時、その放心理由が『絶望』ではない事に気付く。

 アリアハンに生まれた子供達は、例外なくあの英雄に憧れた。英雄に憧れ、少年少女達は剣を振るい、魔法力を持つ者は呪文修得に努力していた。その頃、メルエよりも更に幼い少女であったリーシャは、声までも掛けて貰っている。あの頃は全く解らなかったが、誰もが憧れる英雄から直に声を掛けて貰ったという事実が、彼女よりも年長の少年少女達の嫉妬心を煽り、リーシャという少女への対応が決まったのかもしれない。

 魔物が横行し、魔王バラモスの力が増して行く中、それらを打倒出来るのは、この英雄しかいないと幼い頃は思っていた。絶対的な強者であり、太陽のような眩い輝きを放つ英雄だけが、あの世界を平和に導けると信じていたし、それ以外の者達など彼の足下にも及ばないと確信していた。

 だが、今、炎に飲み込まれて行った男性を見ても、彼が目の前の巨竜に敵わない事は明白であり、それをリーシャも理解している。それが客観的な事実であり、揺るがない真実であった。

 それでも、あの英雄が死んだという表明を聞いた時のような絶望感はない。もう二度と平和は訪れず、人間は全て滅びるのだという、目の前が真っ暗になるような深い絶望を感じる事はなかった。

 

「……カミュ」

 

「行くぞ」

 

 情けなく眉を下げ、救いを求めるように振り向いた先は、彼女が心から信じる一人の青年。六年以上も長い間共に駆け、共に戦い、共に泣き、共に笑って来た者。乏しい感情表現の中にも、喜怒哀楽がある事を知り、それの一つ一つに自分が一喜一憂している事を感じながら、何度も何度もぶつかり合い、深く信頼する事になった『勇者』である。

 深い溜息を吐き出した彼は、今まで自分を引っ張っていた腕を逆に取り、長い橋を駆け出す。女性戦士に抱かれた少女は、真っ直ぐに巨竜を睨みつけ、既に臨戦態勢に入っていた。その後ろを駆ける賢者もまた、回復呪文の詠唱の準備に入って行く。

 

「グギャァァァ」

 

 炎の海と化した橋の向こうで、その炎から飛び出した男性を待ち受けていたは、巨大な竜の口であった。

 一体の首が男に襲い掛かり、その左足に喰い付く。真っ赤な血液を撒き散らし、大腿部へ食い込んだ巨竜の牙は、脆い人類の足を食い千切って行った。

 左足を根元から食い千切られ、床へと投げ出された男性は、全身を強打し、大量の血液を吐き出す。苦痛に歪んだ表情を浮かべながらも自身の患部に手を当て、詠唱を紡ぐと、大いなる淡い緑色の光に包まれ、傷口が塞がって行った。

 しかし、傷口は塞がっても、失われた片足が戻る事はない。剣を支えに立ち上がろうとする男に、巨竜の首が振るわれる。盾でその牙の脅威を防ぎはしても、踏ん張りの利かない男は反対側の壁に吹き飛ばされた。

 

「カミュ……カミュ」

 

 その光景を見ていたリーシャが、自分の腕を握って走る青年の名を何度も呼ぶ。先頭を走る青年の表情は見えない。それでも目の前で父親が死ぬという状況を見る事しか出来ない辛さを想像するだけでも、彼女は目を閉じてしまう程に心を痛めていた。

 未だに橋の中腹まで届かない。目の前に見える場所へルーラで飛ぶ事は出来ないだろう。ただ走る事しか出来ない自分達をもどかしく思いながらも、懸命に走る事しか出来なかった。

 壁に身体を強打し、先程以上の血液を吐き出した男は、それでも懸命に立ち上がり、右腕を天井に向けて掲げる。人差し指で天を指し、身体に残った魔法力を放出し始める。その姿を一行は、見た事があった。

 船を手に入れ、初めての航海に出た直後に遭遇した嵐の中、カミュという青年が『勇者』である証明のように唱えた呪文。荒れ狂う雷雲が空を覆う中、天の怒りと呼ばれる稲妻を落とした英雄だけが許される呪文であるライデインの詠唱型式であった。

 

「……やはり、あの呪文は」

 

 しかし、天に伸ばした指先を真っ直ぐ巨竜へと振り下ろした男ではあったが、膨大な魔法力は霧散し、何の効果も示さない。朦朧とする意識の中で、己の持つ最強の呪文を唱えたのであろうが、カミュが語った内容が真実だとすれば、この場所に空がなく、雷雲さえもない状態ではその効果は発揮されないのだ。

 絶望的な光景にサラはカミュが語った内容が真実であった事を改めて知る。何度もその雷呪文を唱える事の出来る場面はあったし、その呪文の強力な一撃が必要な場面もあった。それでも、カミュは数回程度しか、その呪文を行使して来てはいない。それは、その状況が整っていなかったのだと改めて理解したのだ。

 最後の一撃さえも空振りに終わった男に残された力は既にない。力なく腕を落とし、そのまま前のめりに倒れた男の右腕を、巨竜の足が踏み抜いた。

 

「うぎゃぁぁぁ!」

 

 近付いた事によって、フロア全体に響き渡る程の男の苦痛の叫びが聞こえて来る。朦朧とする意識が、とてつもない重量によって武器を持つ右腕が踏み抜かれて潰れて行く痛覚で覚醒されたのだ。

 巨竜の足が上がると、そこには無残に踏み潰され、原型さえも留めていない肉の塊が現れる。肩口から血溜まりに沈み、最早男には身動き一つする力も残されていなかった。

 勝ち鬨のような咆哮を上げ、血溜まりに沈む男に何事かを告げた巨竜は、通路の奥へとゆっくりと移動を始め、何処から現れたのか解らない闇の中へと消えて行く。最後まで駆け寄って来るカミュ達の存在に気付かなかったのは、それだけ、この男との戦闘に意識を向けていたという事であろう。つまり、あの巨竜でさえも警戒する力をこの男が持っていたのか、あの巨竜の力がその程度の物であったのかのどちらかという事になる。

 

「カミュ、急げ。急いでくれ」

 

 最早、カミュに腕を引かれる形になっていたリーシャは、自分の足が思うように動かず、宙を浮いているような不確かな感覚に襲われながらも、カミュに対して懇願する。その腕の中にある少女は、巨竜が消えて行った方向へ厳しい視線を向け、何処か怒りに似た感覚を示していた。竜の因子を持つ者として、何処か相容れない物を先程の巨竜が持っていたのかもしれない。

 回復役であるサラは懸命に駆け、橋を渡る。ようやく橋の三分の二程度を渡った頃、その男の容貌がはっきりと視認出来た。

 この一行の中で、英雄オルテガの姿を見た事のある者はリーシャ一人である。息子といえども、カミュは一度もその姿を見た事はなく、顔さえも知らない。その偉業と伝承だけを聞いているサラもまた、その容貌などは解らなかった。メルエなどは、その存在自体を知っているかどうかも怪しく、時折名前が出て来ていた者が、今にも息絶えそうな男と同一である事を理解しているかも怪しい。

 

「サラ、早く診てくれ!」

 

「!!」

 

 橋を渡り切り、ようやく横たわる男の身体を仰向けに動かしたリーシャは、叫ぶように賢者を呼ぶ。それに応えて屈み込んだサラは、男の身体を診た瞬間、眉を顰めた。

 助かるような傷ではない。既に生命の大半を手放してしまった人間を救う術など、『人』という種族に許されてはいないのだ。自分の身体が動いた事で、うっすらと開かれた瞳は焦点が合っていない。最早、光を感じる事さえも出来ないのだろう。右腕は潰れ、左足は付け根から食い千切られている。それ程の傷を受けて尚、今も息をしている事自体が、この男の異常性を示しているだけであった。

 

「誰か……誰かそこにいるのか?」

 

「オルテガ様!」

 

 自分が抱き抱えられた事を感じたのか、残っていた左腕を微かに動かし、瀕死の男が口を開く。焦点の合わない黒目を動かしてはいるが、その色も徐々に失われており、何かを映し出す事はないだろう。それでも、男は懸命に口を開いた。

 ようやく見つけた祖国の英雄の名を叫ぶリーシャ。その傍に屈み込み、身体に残った生命力の無さに絶望するサラ。その光景を不思議そうに見つめるメルエ。そして、消え行く命を冷たく見下ろすカミュ。

 四人全員が様々な想いで見守る中、その男が震える声を少しずつ発して行った。

 

「何も見えぬ……。何も聞こえぬ……。も、もし、そこに誰かいるのなら、どうか伝えて欲しい……。今、全てを思い出した……私は、アリアハンのオルテガ……」

 

「!!」

 

 独白を開始する男に、カミュの瞳が鋭く細められる。どんなに、この男がオルテガであるとリーシャが口にしても受け入れなかった彼も、死を間際にした状況で発した名乗りを信じない訳には行かなかった。

 そして、それが真実であれば、彼がこの世で最も憎んで来た相手がそこに居るという事になる。それは、彼の胸の奥に燻り続けて来た憎悪を燃え上がらせるには十分な燃料であった。

 知らず知らずに背中の剣を抜き、それを握る手に力を込める。魔物相手の死など認めたくはないという想いが、彼にそのような動きをさせているのだが、そんな自分を見上げる幼い少女の瞳を見て、彼は手に込められた力を少し緩める事になった。

 

「もし、そなたがアリアハンへ行く事があったのなら……その国に住むニーナという女性を訪ね、その息子のカミュに伝えて欲しい……」

 

「オルテガ様、やはり貴方は……」

 

 懸命に口を動かす男の生命力が徐々に消え失せて行く。傍でサラが唱えるベホマを受け入れる様子もなく、その魂は徐々に肉体という器から離れ始めていた。

 オルテガと名乗る男の口から、その妻と息子の名前が出て来た事で、リーシャの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。溢れ出る涙は、オルテガの左腕に落ちるが、最早、その雫の暖かささえもオルテガが感じる事はないだろう。

 そして、最後の力を振り絞って男が告げた言葉に、リーシャの涙腺は完全に崩壊する事となった。

 

「へ、平和な世に……出来なかった……こ、この父を許して欲しい……と」

 

 言い切った男は盛大な血を吐き出し、動いていた左手が床へと落ちる。瞳から完全に光は失われ、それは動かぬ肉塊へと変わって行った。

 アリアハンが誇る最強の英雄の死。既に死んでいる事になっていた者が生きており、そして彼等の目の前で死んで行く。これ程に残酷な事があるだろうか。再び灯った希望の炎は、出会った瞬間に吹き消えてしまったのだ。

 その希望の種類は、上の世界にいた頃とは異なるかもしれない。だが、それでも、リーシャにとっては唯一残っていた希望でもあったのだ。

 

「ちっ」

 

「サ、サラ、何とかしてくれ! あの蘇生呪文を唱えてくれ!」

 

「あの呪文は、ザキやザラキなどで強制的に剥ぎ取られた魂を呼び戻す呪文です。死者を甦らせる呪文など、この世にありません!」

 

 憎しみの対象が、自身の目の前で他者の手によって息絶えた事に苛立ちを露にしたカミュが盛大な舌打ちを鳴らし、その音さえも聞こえないかのように、リーシャはサラへと声高に叫ぶ。だが、世界で唯一の賢者であり、古から伝わる多くの呪文が掲載された書物に選ばれた女性でも、死者をこの世に呼び戻す方法など持ち得ない。それは、人類だけではなく、この世界で生きる全ての生命には余りある力であるのだ。

 涙を溢しながら、それでも縋りつくリーシャに、サラは眉を顰める。彼女としても、人命を救いたいという想いは人一倍あるのだ。この死体が英雄オルテガであるからではなく、何処の誰であろうと、サラの想いは変わらない。それでも出来る事がない事を誰よりも悔しく想っているのも、彼女自身であった。

 

「何か、何か方法はないのか!? ようやく、ようやくオルテガ様の想いを聞いたのだ。やっと、カミュが前を向けるんだ! サラ、何とかしてくれ!」

 

 自分の肩を掴み、何度も揺するリーシャの姿に、サラは唇を噛み締める。何とかしたい想いは変わらない。その事をリーシャは誰よりも知っているだろう。それでも尚、自分の知識も思慮もサラに及ばない事を理解して、叫び続けていた。

 不安そうにこちらを見つめるメルエの姿を見たサラは、何かを考えるように俯き、ずっと胸の奥に封印していた扉を開ける決意を固める。それは、開ける事がない事を願い続けて来た扉であり、決して開きたくはない扉でもあった。

 

「一つだけ……一つだけ方法はあります」

 

「何!? 何だ? 何が必要なんだ!? 出来る事ならば、なんでもする。教えてくれ!」

 

 意を決したように顔を上げた賢者の瞳は、リーシャを射抜く程に鋭い。だが、その瞳に気圧される事なく、リーシャは口を開いた。

 サラが口にする以上、そこには何らかの後ろ盾がある。それがリーシャがこの長い旅の中で経験して来た事であった。

 彼女は余程の事がなければ、確信のない事は口にしないようになった。旅を始めた頃は失言の多い僧侶であったが、視野が広がり、賢者としての責任の重さを感じて行く中で、本当に思慮深い女性へと成長している。

 そんなサラが、今まで頑なに口を閉ざしていたのだから、この場になってもまだ、確信を得られていない事であるとは想像出来るが、それでも一抹の希望を持って口を開いたのだろう。彼女を良く知るリーシャだからこそ、それは縋るべき価値のある物だと理解したのだ。

 

「カミュ様、まだ『世界樹の葉』は持っていますか?」

 

 リーシャの問いかけに、サラは一人だけ立ったまま死体を見下ろしている青年へと声を掛ける。それに釣られるように、リーシャやメルエもまたカミュへと視線を動かした。

 『世界樹の葉』とは、上の世界のジパングの北辺りに広がる広大な森の中央に聳える巨大な樹木が落とした一枚の葉である。導かれるようにその場所へ足を運んだ一行がその樹木の偉大さに驚いている時、遥か上空に広がる枝から一枚の葉がカミュの手へと落ちて来たのだ。

 それが何を意味する物なのか、その時カミュ達には解らなかった。だが、良く思い出せば、あの場面でサラだけが何かを口篭り、そしてそれを飲み込んでいる。まるで禁忌を口にする事を恐れるように飲み込んだ彼女は、リーシャの問いかけに対しても頑なに口を閉じ、その内容を今まで語る事はなかった。

 

「世界樹の葉には言い伝えがあります。教会にあった書物に記載されていたものですから、その真偽は定かではありませんが、どれだけ時間が経過しようとも瑞々しさを失わないその葉を磨り潰し、それを口に含む事が出来たなら、どのような状態の死体であっても甦ると」

 

「……生き返るのか?」

 

 サラが何を言おうとしているのかが解らないまでも、自分が望む事ではない事を悟った険しいカミュの表情を見ていたリーシャは、サラが語り出した内容を耳にすると、弾かれるように顔を戻す。

 既にオルテガが息を引取ってから時間は経過している。世の常識であれば、その魂は精霊神ルビスの御許へと戻っている筈だった。だが、サラの知識が本物だとすれば、そのような状態の者でもこの世に蘇るという事になる。

 葉を磨り潰し、それを口に含ませなければならないとすれば、死後の硬直が始まる前でなければならず、ましてや白骨化したような遺体では不可能である事を示していた。ならば、甦る可能性を考えると、時間はない。それを悟ったリーシャは、再びカミュへと顔を向けた。

 

「カミュ、早く世界樹の葉を!」

 

「断る」

 

 しかし、リーシャが振り向き様に発した言葉は、即座に斬り捨てられる。一切の考慮もなく、間を空けず返した言葉は、彼の明確な拒絶を示していた。

 サラはその答えを予想していた故に、カミュに対してそれを要求していなかったが、リーシャにとっては予想外の答えだったのかもしれない。彼と共に歩み、彼の心に踏み込んで来た彼女だからこそ、この状況であれば、世界樹の葉を出してくれると考えていたのだ。

 決して、彼が持つ父親への憎悪を軽く見ていた訳ではない。彼の苦しみを、彼の悩みを軽んじていた訳でもない。だが、今の彼ならば、その憎悪を越え、苦悩を越え、更に前へと進んでくれるものだと信じていた。

 

「カミュ、何を言っているんだ? 早く、世界樹の葉を……」

 

「断る!」

 

 余りにも予想外の出来事だったのか、リーシャは震える手をカミュへと伸ばし、そこに世界樹の葉を乗せてくれるように改めて要求する。だが、それに対して、先程以上に声を張り上げて断るカミュを見て、眉を下げた。

 彼の境遇が自分と同じ物だとは思わない。生まれてすぐに母親を亡くした彼女ではあるが、母親の愛情を疑った事はなく、厳しい父親の愛情を疑った事もなかった。『母が生きていてくれたら』と何度望んだか解らない。『父が生きていてくれたら』と何度涙を溢したか憶えてもいない。それ程に、彼女にとって親とは大きな存在であった。

 死して尚、それらを甦らせる方法があったのならば、彼女はどれ程の苦労も苦労と思わずに、その方法を求めて歩き続けただろう。どれだけ望もうとも、叶えられないからこそ、彼女は親の死を飲み込み、それでも前へと歩もうと決意したのだ。

 

「……ここで、オルテガ様を見捨ててしまえば、お前のその憎しみも、これまでの悲しみも苦しみも、誰に訴えるのだ? お前がずっと抱えて来た想いを誰に伝えるのだ? 今しかないんだぞ? これを逃したら、お前は今まで抱えて来た苦しみや悲しみ、憎しみよりも大きな後悔だけを抱えて行く事になる。だから、早く世界樹の葉を」

 

 アリアハン城下町で彼の母親であるニーナと会話した時、彼の想いは永遠に誰にも伝わらないのだと感じていた。だが、アリアハンへ帰るつもりのないカミュに、その想いをぶつける相手がもう一人いる。それが父親であるオルテガであった。

 ニーナへの想いよりも、オルテガへの想いの方がカミュ自身も強いだろう。肉親だからこそ許せない子供の想いを、肉親だからこそ親へぶつける事が出来るのだ。その唯一の機会を逃しては、彼の中でずっと燻り続けて来た火種は、永遠に燃え上がる事もなく、生涯に渡って彼を苦しめる事になる。リーシャは、それだけは許せなかった。

 

「断る! 何故、それ程に貴重な物をこんな奴に使わなければならない! 俺がこの手で殺してやりたい程の奴を、何故貴重な物を使ってまで生き返らせる必要がある!?」

 

「……カミュ」

 

 正確に言えば、リーシャはカミュの中に棲み付いていた闇を甘く見ていたのかもしれない。彼は、メルエの境遇を知った時、『親を他人として見るようになった』と口にしていたが、それは母親であるニーナや、祖父の事であった事をリーシャは悟った。

 顔も知らず、声も知らない父親は、他人として見る事さえも出来ずに、憎しみの対象としての想いだけが膨れて行ったのだろう。そのような闇を抱えていながらも、真っ直ぐに、そして優しさを失わずに生きて来た彼に改めてリーシャは敬意を持った。

 カミュの怒声に驚いたメルエはサラの陰に隠れ、彼とリーシャの間に割って入れないサラは、ただその成り行きを見守る事しか出来ない。それでも、自分が出来る事をと、オルテガの遺体に回復呪文を唱え続け、死体の傷みを遅らせていた。

 

「……カミュ、その葉を使用する事がなかったのは、この時、この場所で使用する為だったんだ。その為に、その葉はお前の手に落ち、今はお前の腰に下がっている。メルエを失いそうになった時も、サラが死力を尽くしてくれた。今がその奇跡の葉を使う時だ」

 

「ふざけるな! この先は、今までとは比べ物にならない程の魔物や魔族が蔓延る場所だ。その先には全てを滅ぼす大魔王との戦いが待っている。これまでと同じように誰も死なないという保証が何処にある!? こんな奴に使った為に、アンタ達の誰かの死を救えなければ、それこそ生涯悔いる事になる!」

 

 今まで、どれ程にその心へ踏み込もうとしても、彼がこれ程に心を開いて己の想いを語った事などない。初めて聞く、カミュの想い。その内容に、サラは驚き目を見開く。

 仲間として認められている事は感じていた。戦いを越える毎に深まる絆を信じてもいた。だが、自分達が彼の中でそこまで大きな存在になっている事をサラは初めて理解する事にある。六年以上もの旅の中で、何度も何度も衝突し、傷つけ合った。互いの距離感を測りかね、心の境界線を越えてしまった事もある。何度も後悔し、何度も過ちを繰り返し、何度も何度も悩み苦しんで来た。

 その全ての過程は、決して無駄な道ではなかったのだ。知らず知らずに流れ落ちる涙は、決して悲しみの涙ではないだろう。むしろそれは喜びに近い哀しみ。カミュの心を知り、その想いに喜び、その切なさに哀しむ。

 そんな彼の全てを引き出し、今も尚、彼と共にあるリーシャという女性を、サラは心から尊い者のように思えた。

 

「……そうか。やはり、お前は私達を想ってくれるのだな」

 

 聞いた事もないカミュの怒声を聞いて尚、リーシャは嬉しそうに微笑みを浮かべる。本当に心からの喜びを表すようなその微笑みに、カミュは先程までの勢いを失ってしまった。

 そんな二人のやり取りを眺めながら、サラは小さな泣き笑いを浮かべる。人間の遺体の前に屈みながら浮かべる物ではないかもしれないが、不安そうに成り行きを見ていたメルエも、サラの表情を見て、ようやく落ち着きを取り戻していた。

 

「大丈夫だ。あの時、私はお前に言ったぞ? 私達は誰一人として、もう心を折るような事はない。心が折れなければ、サラやお前が回復してくれる。絶対に死を受け入れる事はない。お前は私達が護るし、私達はお前が護ってくれるのだろう?」

 

 立ち上がったリーシャは、今では自分よりも背丈が大きくなった青年の前に立つ。アリアハンを出た六年前は、自分の方が頭一つ分近く大きかった筈。それが今では、見上げる程ではないにせよ、カミュの瞳の場所の方が自分よりも高い位置にある。感慨深い想いが胸に湧き上がりながらも、リーシャは諭すように語り掛けた。

 生命力は自分で制御する事など出来ない。だが、実際に、リーシャは死に瀕する程の怪我や火傷を負っても、生を諦める事はなく、サラの唱える最上位の回復呪文を受け入れた。死を受け入れず、生にしがみ付く者だからこそ、回復役の想いを受け入れ、その呪文の効果を発揮する。

 腕を失おうと、足を失おうと、それでも生きようともがく者だからこそ、世界はその者を受け入れてくれるのかもしれない。

 

「私はここで約束しよう。メルエが信じる魔法の言葉を口にした以上、私は戦いの中では絶対に死なない。その寿命を全うするまで、私はこの世界に在り続けよう」

 

「…………メルエも……だいじょうぶ…………」

 

 そのような約束に何の意味もない事など、この険しく長い旅路を歩んで来た彼等ならば知っている。それでもリーシャはその言葉を口にし、この場で誓いを立てた。それに倣うようにメルエが立ち上がり、彼女が心から信じる魔法の言葉を口にする。

 この幼い少女にとって、『大丈夫』という言葉がどれ程に重い意味を持っているのかを知っているのは、リーシャだけなのかもしれない。その言葉をメルエへと教えたサラでさえ、これ程に重い言葉になっている事を知らないだろう。

 アッサラーム近くの森でメルエを背にして戦った時、ピラミッドで倒れたカミュを治療した時、この旅の中で彼女は何度もその言葉を口にし、そして本当に『大丈夫』にして来た。それを見続けて来た少女にとって、この短い単語は、絶対の自信の裏付けであり、それを成さなければならない誓いの言葉でもあるのだ。

 

「さぁ、カミュ。世界樹の葉を」

 

「くそっ!」

 

 慈愛の微笑みと、その瞳から流れる一筋の涙。それが悲しみや憐れみの涙ではない事をカミュは誰よりも理解している。彼女はようやく辿り着いたカミュの心の奥底を見て、そしてそこに希望を抱いた。

 彼が持つ闇は、大魔王ゾーマが生み出すような漆黒の闇ではない。幾筋もの光が差し込む闇であり、既にそこには闇を晴らすだけの光が集まっているのだという事を知り、歓喜の笑みを浮かべる。そして、彼女がそこへ辿り着く為の最後の一歩を踏み出す為に、彼自らその手を差し伸べて来たという事にリーシャは涙したのだ。

 言いようのない苛立ちと、悔しさに苛まれ、カミュは世界樹の入った革袋を床へと投げ捨てる。受け取ろうと手を伸ばしていたリーシャは、その行動に怒りを表す事なく、手の掛かる子供に対するように苦笑を浮かべて、床から革袋を拾い上げた。

 

「サラ」

 

「……はい。メルエ、擂り鉢を」

 

「…………ん…………」

 

 拾い上げた革袋をそのまま渡し、受け取ったサラは、メルエが持つ薬草用の擂り鉢を要求する。袋から取り出した一枚の大きな葉は、既に数年という月日が経過して尚、カミュの掌へ落ちて来た時と同じ瑞々しさを保っていた。

 広大な上の世界の匂いさえも漂わせる葉をメルエが磨り潰す間、サラは遺体へ回復呪文を掛け続ける。回復呪文で遺体の状態が維持出来るかどうかは定かではないが、何もしないよりは良いと考えたのだ。

 

「リーシャさん……。大変言い難いですが、世界樹の葉を使ってもオルテガ様が生き返るという保証はありません。最悪の場合を考慮に入れてください。そして、この状況になれば、蘇生の成否に拘わらず、一度リムルダールへ戻らなければなりません。魔法力的にも、精神的にも、私達は戦える状況ではありませんから……」

 

「わかった。サラ、頼む」

 

 懸命にメルエが潰す葉が、緑色の液体へと変化して行く。繊維など初めから無かったかのように葉の面影さえも消えて行く様は、神秘的な光景であった。

 それを横目にサラは、オルテガの蘇生の成否に拘わらず、戦略的撤退を提案する。確かに、オルテガへの回復呪文も数はかなりの回数に及んでいた。それに加え、彼女達が最も頼りとし、大魔王を倒す為に不可欠な『勇者』の心が、壊れ掛けている。とてもではないが、最深部を目指して歩き続け、そして大魔王ゾーマという最凶最悪の存在に立ち向かえる状態ではなかった。

 そして、それを理解しているリーシャは、大きく頷きを返し、全てをサラへと託す。カミュという『勇者』が機能しない今、この一行の頭脳は賢者であるサラなのだ。彼女が物事を考え、指針を決め、行う。カミュの時と異なるのは、それをリーシャが了承するという過程がある事ぐらいだろう。

 

「…………できた…………」

 

「ありがとうございます。では……リーシャさん、オルテガ様を起こして貰えますか? 何が起きるか解りません。そのまま口の中へと入れて行きますが、気を緩めないで下さい」

 

「わかった」

 

 完全に液体と化した世界樹の葉を受け取ったサラが、リーシャの支えで起き上がったオルテガの遺体の口を開き、そこへ注いで行く。エメラルドグリーンに輝く液体が、周囲の瘴気さえも弾き返し、神々しい光を放ちながらオルテガの体内へと入って行った。

 その全てがオルテガへと注ぎ込まれた瞬間、既に魂さえも失った筈の遺体全体が眩いばかりの光を放つ。支えていたリーシャは余りの光に視界を奪われ、サラは空になっていた擂り鉢を床へと落としてしまった。

 

「……これは」

 

 眩い光がオルテガの身体全体を包み込み、そして失った身体の部位までも作り出して行く。巨竜によって食い千切られた左足を付け根から光の粒子が生み出し、踏み潰された右腕は光の粒子が入り込む事によって復元されて行った。

 最上位の回復呪文であるベホマでも欠損部分の再生は出来ない。何度もサラがオルテガへ回復呪文を唱えていた為、付け根の傷痕は綺麗に塞がっており、右腕は踏み潰された場所を切り離すように内部で塞がっていた筈。それにも拘わらず、全ての光がオルテガの中へと吸い込まれた後には、彼の生前と変わらない綺麗な五体へと戻っていたのだった。

 

「……息も戻っています」

 

「本当か!? オルテガ様は生きているのか!?」

 

 信じられない神秘を目の当たりにして、サラは茫然自失となりながらも、光を納め終えたオルテガの鼻先に耳を近づける。そして、小さくはあるが、正確な呼吸の音を聞いて顔を上げた。

 この長い旅の中で、彼等が解明出来ないような不可思議な事を何度も経験して来ている。だが、世界樹の葉が生み出した神秘は、その中でも一際大きな物であった。故にこそ、リーシャは未だに信じられない表情を浮かべ、サラへと問いかける。それに対して、もう一度大きく頷いたサラを見て、ようやくリーシャは腰を抜かしたように脱力した。

 メルエが生きていた時や、サラが生きていた時のように泣き出す事はない。幾ら、この英雄が幼い頃の憧れだとはいえども、彼女との間に絆がある訳ではないのだ。だが、彼女を襲う安堵感と疲労感は確かであり、これは、オルテガへ向けられた物ではないという事を彼女自身が気づいてはいないのかもしれない。

 

「カミュ、ありがとう。前を向く勇気を出してくれて……。そして、私達を想ってくれて、本当にありがとう」

 

「ちっ」

 

 振り向いたリーシャの笑みを見たカミュは、大きく舌打ちを鳴らす。彼の中では未だに消化不良な部分が残されているだろう。だが、それでもその胸の内にある全てを曝け出してしまった事実は消えず、そういう行動を取る以外に何も残ってはいなかったのだ。

 そんな彼を見て、再びリーシャは小さな雫を瞳から溢す。晴れやかな笑みを浮かべながら、喜びの涙を流す姿は、同じ女性であるサラから見ても美しく、それが嬉しい事であると気付いたメルエが彼女に抱きついて花咲くように笑っていた。

 

「一度戻ろう。メルエ、頼めるか?」

 

「…………ん…………」

 

 抱き付いて来たメルエの頬に自分の頬をつけて微笑んでいたリーシャは、その小さな身体を剥がし、未だに意識の戻らないオルテガを担ぎ上げる。要請を受けたメルエは大きく頷いて呪文の詠唱準備に入り、それを見たサラはメルエの手を握った。

 反対側の手を握ったリーシャは、未だに眉を顰めているカミュに向かって、微笑みながら手を伸ばす。大魔王の居城で浮かべるような表情ではないが、彼女の気持ちを考えれば、それ程の出来事だったのだろう。

 

 精霊神ルビスが口にした、カミュに訪れる最後の試練。その内容に関しては、リーシャだけが朧気ながらも理解していた。そしてだからこそ、今の彼ならば乗り越えて行けると考えていたのだろう。だが、その試練は、彼女が考えていたよりもずっと高く険しい物であった。

 大丈夫だと信じてはいても不安は残る。その中で、勇者が胸に封じていた闇が想像以上の物であると知った。だが、その闇へ差し込む多くの光の筋を見て、再び希望の炎が点る。そして、見事に彼はその試練を乗り越えて見せた。

 彼の胸の闇が完全に晴れるまでには、まだ時間を要するだろう。それでも、リーシャは彼を信じ続ける事が出来る。彼の心の中に、他者を想う光があるのだから。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
考えていたよりも長い一話になってしまいました。
おそらく、賛否両論ある回だと思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。