新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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リムルダール③

 

 

 

 翌朝、起きたリーシャは、夜中にサラのベッドから自分のベッドへ移動して来た筈のメルエがいない事を不思議に思い、部屋着から着替えて階段を下りて行く。宿屋の出口へ差し掛かった頃になって、ようやく重い物を振る風切り音が聞こえて来た。

 宿屋の裏手に位置する場所へ向かうと、そこには剣を振るカミュと、それを傍にある石に腰掛けながら見つめるメルエの姿を見つける。カミュが外へ出た音で目を覚ましたメルエは、懸命にドアを開けて彼の後を追ったのだろう。

 リーシャの姿に気付いたメルエは、嬉しそうに微笑みを浮かべ、部屋着のままで彼女の許へと駆けて来る。

 

「メルエ、部屋着のままで出て来ては駄目だろう? それを汚しては駄目だ」

 

「…………ごめん……なさい…………」

 

 嬉しくなって近付いたにも拘わらず、同時に叱られてしまった事で少女の眉が下がる。謝る事を覚えたばかりの子供のように、その言葉にどれだけの真剣さが込められているのか解らないながらも頭を下げるメルエを見て、リーシャはその茶色の髪を撫でた。

 『大丈夫』という言葉とは異なり、『ごめんなさい』という謝罪の言葉は、彼女にとってそれ程の重みを有してはいない。『ごめんなさい』という言葉で全てが許される訳ではない事を、彼女は身を持って知っており、ただ口にするだけでは意味のない事を知っていた。故にこそ、その言葉を口にする時は、自分が悪い事をしてしまったのだと理解しているという事ではあるのだが、色々な事を覚え始めた少女にとって、拳骨を伴わないお叱りの言葉がどれ程の効果を発揮するものなのかは定かではなかった。

 

「カミュ、朝食が終わったら、オルテガ様の部屋に行こう。オルテガ様の旅の話を聞かなければ」

 

 部屋着を汚さぬようにとメルエを抱き上げたリーシャは、一心不乱に剣を降り続けるカミュに向かって口を開く。

 昨日は、結局咽び泣くオルテガを強引に部屋へと押し込め、湯桶を渡して彼女は部屋から出て行った。カミュと自分の会話を聞いていた事を知っている彼女は、今のオルテガがどれ程に苦しんでいるのかが想像出来る。意図せぬ中で最愛の者を傷つけ、それによって自身が恨まれる事になったという事実は、心が壊れてしまう程の衝撃だっただろう。

 許す、許されるの問題ではなく、この親子は一度真剣に己の胸の中にある想いをぶつけ合うべきだとリーシャは思っていた。

 

「……俺には必要ない」

 

「カミュ……」

 

 しかし、返って来た答えは、リーシャの望む物ではなく、完全なる拒絶。彼にとってその場は必要な物ではなく、むしろ忌避したい場であったのだ。

 昨日話した内容の全てが無意味であったのかと考えたリーシャは、哀しみを帯びた声を吐き出す。この親子の蟠りが簡単に解けるとは思ってはいない。それでもその糸口は見えたのではないかと考えていた。だが、それはリーシャの独り善がりだったのかもしれない。

 落胆を示すリーシャを不安そうにメルエが見つめる中、王者の剣を振る事を停止したカミュが振り返る。そこにある表情を見て、リーシャは息を飲んだ。

 宿屋の篝火に照らされたその表情は、この六年以上の旅の中で一度も見た事のない物だった。哀しみに暮れている訳でもなく、怒りを宿している訳でもない。不快を感じている訳でもなく、無表情な訳でもない。

 

「……俺は、大丈夫だ」

 

 どこか晴れやかで、とても優しい笑みを浮かべる顔がそこにはあった。

 彼が優しさを表情に出す事は珍しくはあっても皆無ではない。だが、これ程に晴れやかな笑みを浮かべたのは、リーシャの記憶が正しければ一度もなかった筈だ。

 その笑みを見て、驚き固まってしまったリーシャであったが、彼の胸の内はその僅かな一言で十分に理解出来た。それは、リーシャの腕の中にいる少女の微笑みが証明している。

 

「…………カミュ……だいじょうぶ…………」

 

「そうか……そうだな。だが、最後ぐらいは言葉を交わせよ」

 

 メルエのという少女の中で『大丈夫』という言葉が特別な意味を持っている事は理解していた。だが、そんな彼女の中で最も信用出来ないのが、目の前の『勇者』と呼ばれる青年が発する『大丈夫』なのだ。

 彼が幾ら『大丈夫』と口にしても、メルエはそれを信用しない。最終確認をするようにサラへ視線を向ける姿を、リーシャは何度も目撃していた。絶対的な保護者であり、他の誰よりも強い信頼を彼に向けるメルエではあったが、この言葉だけは、最も信頼の薄い相手であったのだ。

 そんな感覚を持つメルエが、彼の言葉を追認するように頷いて見せ、リーシャに向かって微笑みを浮かべている。それは、リーシャにとっては他の何よりも信頼度の高い行動であった。

 だからこそ、彼女はこの場を引き下がる。親子の会話が実現しない寂しさはあっても、彼が全てを飲み込み、全てを認めて尚、しっかりと前を向いて歩き出した証明であったからだ。

 残るは、その胸に罪悪感を抱える事になった彼の父親である。本来は、息子と直接対峙しなければ解決しない問題ではあるが、こうなっては自分がその場に立つしかないのだとリーシャは覚悟を決めるのだった。

 

 

 

 朝食を済ませたリーシャは、食堂から去って行くカミュの背中を見届けて、サラとメルエを率いてオルテガの部屋へと向かう。オルテガ分の朝食を別に用意して貰い、意を決してオルテガの部屋の扉をノックした。

 返って来た小さな声は、この中にいる者の精神状態を明確に表している。出来る事ならば、今は誰にも会いたくはないのだろう。その気持ちは十二分に解るリーシャであったが、心を鬼にしてドアを開いた。

 

「オルテガ様、お話は出来ますか?」

 

「あ、ああ」

 

 既に目を覚ましていたオルテガは、部屋着のまま部屋に設置されている椅子に腰掛けて虚空を見つめていた。この姿を見てしまうと、彼を蘇生せた事が自分達の独善的な行いだったのかもしれないとさえ考えてしまいそうになる。あのまま事実を知らないまま生涯を終えてしまった方が、彼にとっては幸せだったのではないかと思ってしまうのだ。

 そんな事を一番考えてしまうのは、やはりリーシャの後ろでオルテガ分の朝食を運んでいるサラである。命を司る程の神秘を行使出来る彼女だからこそ、一行の中の誰よりも『死』と『生』という物の重さを知っていた。

 

「改めて名乗らせて頂きます。私は、元アリアハン宮廷騎士隊長クロノスの娘リーシャと申します。そして、こちらが賢者サラ、そしてこの少女が魔法使いのメルエです」

 

「……クロノス殿の? もしや、城下でいつも剣を振っていたあの女の子か?」

 

 オルテガの対面に立ったリーシャが、己の名を名乗り、そして後方に控える二人の女性を紹介する。だが、その名乗りに反応して顔を上げたオルテガの言葉に、逆に彼女の方が驚いてしまった。

 オルテガの記憶が戻った事は理解している。だが、たった一度会話をした程度の幼子を憶えてくれているとは思わなかったのだ。それに加え、彼女の父親は宮廷騎士隊長ではあったが、貴族としての位は低く、既に英雄と名高いオルテガの記憶に残る程の名声を得ていた訳ではない。幼い頃に彼女がオルテガに話し掛けられた時には確かに彼が父の名を口にしたのを憶えてはいるが、それでも長く記憶を失っていたオルテガが覚えていてくれているとは思ってもいなかった。

 

「そうか……君達がカミュと共に歩んでくれたのだな。ありがとう……」

 

 自分の前に立つ二人の女性と一人の少女に、オルテガは深々と頭を下げる。この世界に男尊女卑のような考えは薄い。だが、やはり通常の女性は腕力では男性には勝てず、主要な地位などは男性が占める割合が高かった。

 オルテガは平民であっても、世界を代表する『英雄』である。全世界の誰よりも強靭な身体を持ち、強力な呪文を行使すると謳われた男であった。故にこそ、自分の半分も生きていない、しかも女性に対して頭を下げるという姿は、サラにとっては驚きに値する物であったのだ。

 

「オルテガ様がネクロゴンドの火口で命を落とされたと伝えられた後、アリアハン国王の勅命を受けたカミュと共に魔王バラモス討伐の旅に同道しました。カミュは、魔王バラモスを討ち果たし、その後ろに居るゾーマを倒す為に、このアレフガルドへ来ています」

 

「……そうか」

 

 リーシャの言葉を聞いたオルテガが再び肩を落とす。自身が死んだ事になっていた十数年間、息子が歩んで来た道の険しさを思い出したのだろう。辛そうに歪められた顔を見たサラは、テーブルの上にお盆を置き、椅子を三つオルテガの対面に用意した。

 メルエを座らせたリーシャが近くの椅子に座り、未だに顔を上げないオルテガへと視線を送る。それは幼い頃から憧れた相手に贈る輝きに満ちた物ではなく、どこか問い詰めるような厳しさを備えていた。

 

「私達の旅の途中で、何度かオルテガ様の軌跡を見ました。オルテガ様は上の世界で既に記憶を失っていたとも聞いています。この二十年の間で何があったのか教えて頂けませんか?」

 

 静かな問いかけではあるが、それに対する答えの中に『拒否』という物は許されてはいない。ゆっくりと顔を上げたオルテガは、若い頃から比べて皺の多くなった手を握り締めてゆっくりと頷きを返した。

 カミュ達四人も長く辛い旅を続けて来ている。だが、それでも五年という時間で魔王バラモスを打倒し、僅か二年で大魔王の許へ辿り着こうとしていた。

 それに比べ、オルテガがアリアハンを出てから既に二十年以上の時間が経過している。一人旅であったり、カミュ達の時のような巡り会わせがなかった事を差し引いても、その時間の長さは異常であった。

 

「アリアハンを出た私は、情報を集めながら旅を続けた。死ぬつもりはなかったが、死に最も近しい旅だという自覚はあったつもりだ。だからこそ、同道の申し出は極力断り、援助だけを受けて来た」

 

 ゆっくりと語り始めたオルテガの話を聞いて、リーシャは昨夜に思った文言が頭に浮かぶ。カミュとオルテガというのは似た者親子なのだ。

 太陽と月という正反対の印象を持つ二人ではあるが、それは陰と陽という隣り合わせの側面。元は同じ物なのかもしれない。

 自身が敢えて死ぬつもりはなくとも、『死』という物が最も近い場所にいるという自覚は持っている。故にこそ、その場所を歩く自分の傍に他人を置こうという考えに至らない部分などは、カミュもオルテガも同様だったのだろう。

 もし、オルテガにも、リーシャやサラのように強引について行こうとする者が存在していたら、歴史は変わっていたかもしれない。そう感じてしまったリーシャを責める事が出来る者は誰もいなかった。

 

「思うように情報も集まらず、魔物達の凶暴化が激しくなると、船旅も侭ならなくなった。それでもネクロゴンドの奥にバラモスの居城があるという僅かな情報の中、ようやく私はその場所へと辿り着いた」

 

 カミュ達の旅は、細い糸を手繰るような道であった。そこに確信がある訳でも、確証がある訳でもない。ただ、耳に入る情報全てを一つ一つ確かめる事で一歩ずつ前進して来たのだ。

 確かに、オルテガが旅立った二十年以上前は、カミュ達が旅立った時よりも魔物の凶暴化は小さかっただろう。獣が魔物化する事も少なく、強力な魔族なども存在しなかった。だが、それでも全てを一人で成そうとするには、魔王バラモスの討伐という目標は余りにも大き過ぎる。

 船もカミュ達は自分達の思う場所に向かう事の出来る物をポルトガで授かったが、オルテガは定期船などに乗りながら移動していたのだろう。定期船から外れるような場所に至っては、彼自身が手配した小舟などで向かっていたに違いない。故にこそ、彼の足跡は点々としていたのだ。

 

「ですが、オルテガ様は、ネクロゴンド火山で亡くなったというのが、アリアハンに齎された物でした」

 

「ああ、それは、乗船していた船から小舟を借りてネクロゴンド火山へ向かった為に、その船員達が口にしたのだろう。火山を越えた先には川が流れていて、その浅瀬を探す為に上流へ向かって歩き続けた。もしかすると、あの船は私が戻って来るのを待っていてくれたのかもしれないな」

 

 ネクロゴンド火山を登ったカミュ達は、確かに山の反対側に川が流れているのを見ている。それも、リーシャの腰に吊るされていたガイアの剣が大地に還った事で噴火した火山の溶岩によって埋め尽くされ、そして平野に変化していた。

 オルテガがあの場所に辿り着いた二十年程前には、その川も大きくはなく、上流に向かえば浅瀬もあったのかもしれない。時は人だけではなく地形さえも変化させる。カミュ達が辿った道と、オルテガが辿った道では、場所は同じでも景色は全く異なるのかもしれない。

 

「バラモスの居城へ入る際に、私は賢者と呼ばれる男性に会った。私よりも少し年齢が上かという外見をした男だったが、会得している呪文の数もその威力も私の想像を超えていた」

 

「……メルエの曾お爺様」

 

 しかし、バラモス城に話が及ぶと、それまで静かに聞いていたリーシャもサラも驚きで顔を上げる事となる。古の賢者と語られる者の一人であり、ダーマ神殿にも足を踏み入れ、教皇さえも跪く者が登場したからだ。

 しかも、それはサラの予想が正しければ、今不思議そうに彼女を見上げている少女の曽祖父に当たる人物である。竜の因子を受け継ぐ一族の中で、呪文の才能に恵まれた者であり、悟りの書という書物に、メルエの名を書き残し、そして彼女に向けてドラゴラムという神秘を残した者であった。

 時間軸から考えると、メルエの両親をテドンへ置いた後で向かったのだろう。この賢者もまた、オルテガやカミュと同じような考えを持ち、魔王バラモスへと立ち向かったに違いない。

 

「私達の周りには、残される者達の想いを理解しようとしない馬鹿が多過ぎる」

 

「……リーシャさん」

 

 一つ大きく息を吐き出したリーシャが、話を続けようとするオルテガの言葉を遮って、信じられない暴言を吐き出す。それに驚いたのは、何か考えるように思考に沈んでいたサラであった。

 六年間共に歩んだカミュに向かって言う事も、見た事のない賢者に対して言う事も理解出来る。だが、今、彼女の目の前で口を開いているのは、アリアハンの英雄であった。リーシャのような騎士を目指した者達からすれば、憧れ以上の憧れであり、場合によっては国王や精霊ルビスよりも強い信仰さえ持つ者がいる程の存在なのだ。

 そんな相手に向かって、『馬鹿』という言葉を使うなど、信じられないと考えても何も可笑しくはなかった。

 

「……貴女の言う通りだ。英雄だ何だと囃し立てられても、私は、息子一人幸せに出来ない大馬鹿者だ」

 

「そういう意味ではありません。オルテガ様も、その賢者も、そしてカミュも、その大望を成した後で生きる意思があれば何も言いません。ですが、貴方達にはそれがない。『自身を犠牲にしてでも』という想いだけは、私は許せません」

 

 リーシャの言葉を全て肯定するように肩を落とすオルテガに向かって、彼女は更に嚙み付く。

 彼女もまた、アリアハン時代にはオルテガを崇拝していた一人だ。いや、この旅の中でずっと彼女だけはオルテガという英雄を崇めていたのかもしれない。

 その想いは今でも変わらないだろう。オルテガという男は、彼女の憧れであり、目指すべき目標の一つなのだ。だが、その崇拝の対象であっても、彼女が絶対に譲らない一線を越えてしまえば、彼女は火を吹く。それこそ、彼女が彼女である所以なのだろう。

 この旅の中で、彼女が一貫して譲らない一線とは、『自己犠牲』という物への嫌悪であった。カミュがその想いを全面に出した時も、サラがそれを行おうとした時も、彼女はそれまでの旅で見た事がない程に怒りを露にした。

 そして、何よりも彼女は絶対に自分の生を諦める事はない。どれ程の怪我を負っても、死に至る程の火傷を全身に負っても、彼女は生にしがみ付き、回復呪文の全てを受け入れて復活して来た。誰かを護る為に傷つく事はあっても、死に直結するような怪我を負わないのは、彼女自身が生を手放そうとしていなかったからだろう。

 

「そうか、私は自分の幸せを諦めていたのか……」

 

 自分に対して厳しい言葉を発した女性戦士を驚いたように見上げたオルテガは、長い時間で凝り固まった物が溶け出したような、そんな何とも言えない表情を浮かべる。彼自身はそのつもりがなかったのかもしれない。だが、彼が想い描いていたのは、彼の妻と息子の幸せという一点であり、そこに自分の存在が入り込む事はなかったのだ。

 今更ながらにそれに気付いた彼は愕然とする。息子が辿る幸せの道を見届ける気持ちもなく、その姿を妻と共に見るつもりもない。病や寿命であれば致し方ないだろう。だが、彼には共に歩く未来を選択する事も出来たのだ。それでも、旅立つ当初から、『己の身と引き換えでも』という想いがあった事は否定出来なかった。

 メルエの両親は最後の最後まで生を諦めなかった。身も竦むような魔物達が襲い掛かって来る中、何とかして生きようともがき、それでもそれが成されないと解った時、父親は妻と娘を救う為に己の身を差し出している。サラの両親も同じであろう。彼女を救う為に己の身を犠牲にはしているが、最後の最後まで足掻き、そして散っていた。

 同じように見えても、それは全く異なる物。共に生きようともがいた結果と、最初からそれを諦めて死地へ飛び込む行為では雲泥の差があるのだ。

 

「申し訳ありません。話の腰を折ってしまいました」

 

 深々と頭を下げるリーシャではあったが、その表情を見る限り、怒り収まらずという状態なのだろう。不満を隠しきれずに『むすっ』とした表情を露にし、胸の前で腕を組む彼女を見たサラは、先程の驚きを越え、何処かリーシャらしいと微笑んでしまった。

 この場で自己犠牲の善悪を論じる事は不毛である。それを理解しているからこそ、リーシャも口を閉じたのだ。だが、元来の気性の根本は変わらない。どれだけ成長しようとも、変わらない。彼女自身の尖った角が取れ、人間的に丸くなったとしても、やはりそういった部分は変わらないのだろう。サラは何故かそれが面白く、そして嬉しかった。

 

「いや、君がいてくれたからこそ、カミュも生きていられたのだと、心から思う。お礼を言わせて欲しい。本当にありがとう」

 

「いえ、私は何もしていません……」

 

 先程まで不満顔だったリーシャの表情が一気に変化する。頬を赤く染め、大きく手を振る彼女の姿に、微笑んでいたサラは噴き出してしまい、それを見ていたメルエもまた花咲くような笑みを浮かべた。

 だが、リーシャの反論に対して、肯定する者はこの場に誰一人としていない。彼女こそがカミュをここまで成長させた立役者であり、彼に『生きる』という事の大切さを教えた者だからだ。

 サラもメルエも、リーシャという人間がいなければ、この旅を続ける事は出来なかっただろう。何度も何度も思っているが、改めて他人からそれを言われてみると、やはり『リーシャこそが要なのだ』という想いが強まって行くのだった。

 

「私は、その賢者と共にバラモスの許へと向かい、そこで絶望を味わった。私が考えていた以上に、その力は強大であり、恐怖だったよ。私一人では敵う訳もなく、賢者の力を以ってしても、それを倒す事など不可能だった」

 

 魔王バラモス。その存在を彼女達は知っている。その圧倒的な魔法力と、威圧感を彼女達は目の当たりにしていた。

 そこまでの四年の旅を経て、心身共に成長していると実感していた矢先、その姿を視界に入れた途端、彼女達の自信は消え失せている。それ程の圧倒的な力を前にしても彼女達が前を向いて立ち上がれたのは、常に彼女達に前に立ち続けて来た一人の青年がいたからだった。

 どんな圧力にも屈せず、どれ程の絶望にも挫けない。そんな『勇者』がいたからこそ、彼女達は魔王バラモスという圧倒的な強者に立ち向かい、討ち果たす事が出来たのだ。

 だが、如何に竜の因子を受け継ぐ賢者がいたとしても、『勇者』の背中を知らない英雄には、圧倒的な暴力を前にして勇気を奮い立たせる術はなかったのだろう。サラは、改めてカミュとオルテガの違いを見た気がした。

 

「震える足を必死に動かし、強大な呪文を避けてはいたが、全滅は時間の問題だっただろう。私と同じ考えだった賢者は、バラモスの攻撃を受けて意識が朦朧としている私をバシルーラで外へと弾き飛ばした」

 

「バシルーラですか? あの場所は地下だった筈ですが……」

 

 懸命に戦って尚、自身の力が届かないという事を知った時の絶望と恐怖も、彼女達は知っている。ルビスの塔でドラゴンと戦った時、その感情が溢れんばかりに彼女達の胸を占拠していた。

 だが、その先でメルエの曽祖父である賢者が取った行動に、サラは首を傾げる。バシルーラという呪文を知らない訳がない。それどころか、その呪文は魔王バラモスとの戦闘の際に、何度となく登場していた。だが、一度たりとも、その呪文を受けた誰かがバラモス城から弾き出されたという事はない。何故なら、あの場所は池の中央に出来た地下室のような場所だったからだ。

 

「地下? いや、私達は魔王城の玉座の間のような場所で戦っていた筈だ」

 

「では、あの地下は、バラモスが後に作ったという事でしょうか……。もしかして、魔王の爪痕である、異世界への入り口を護る為に……」

 

 サラは、魔王バラモスは上の世界の征服を進めるよりも、大魔王ゾーマの復活を優先していたのではないかと考えている。そうでなくては、台頭から二十年近く経過して尚、人間が滅びていないという現実を説明出来ないのだ。

 魔王バラモスという存在の強大さは、その目で見た者ならば嫌でも理解する。カミュ達のように成長を続け、特殊な力に目覚めていかなければ、あのネクロゴンドに生息する魔物達と戦う事も出来ないだろう。そして、そんな魔物達が人里へ襲いかかれば、全ての町や村はテドンのように滅びる事は明白であった。

 村や町が滅びれば国家が保てる事はない。全ての国家が藻屑と消えるのにそれ程時間は必要ではないだろう。魔物の数が人間より少ない訳ではない。一斉に号令が掛かれば、人里など一飲みにされても可笑しくはないのだった。

 

「バシルーラで外へと飛ばされた私は、ネクロゴンドの山奥で傷を癒していた。傷を癒しては魔物と戦い、戦っては再び傷を癒すという行動を繰り返しながら、もう一度バラモス城へ辿り着いた時には、何年も経過していただろう。だが、それでも私の力はバラモスには届かず、瀕死の状態の私を嘲笑うかのように、再びバラモスのバシルーラによって城から弾き出され、ムオルという村の近くまで飛ばされた」

 

 そこでようやくカミュ達の旅の中で聞いた疑問が一つ解ける事となる。熱を出したメルエを抱えて急遽訪れる事となった小さな村で聞いた予期せぬ名。カミュ達が訪れる八年前に倒れていたとされる英雄の名前を聞いた時、リーシャはその生存を確信したが、他の者達は半信半疑であった。

 アリアハンを出て一年が経過しており、オルテガが死亡した事が公に告知されてから十六年以上の月日が流れていたのだ。そんな中、生存を思わせるような話を聞いても、自称オルテガという偽物である可能性の方が高く、それを信じる事など到底不可能であろう。特に、以前は自称勇者という者が蔓延していた時代である。希望的観測を抜けば、それを信じる者など誰もいないと言っても過言ではなかった。

 

「……バラモスは、私など歯牙にも掛けていなかった。共に戦ってくれた賢者を名乗る男を葬った以上、既にゾーマの脅威はなくなったとも語っていた。その時、初めてバラモスの上に更なる脅威がある事を知ったのだ。バラモスを倒そうとも、ゾーマを滅ぼさなくては世界の平和など訪れる事はないのだと」

 

「やはり、バラモスはメルエが竜の因子を持っている事に気付いたのですね。竜の因子を持つ人間を脅威と看做していたからこそ、メルエのお婆様を殺し、メルエのお母様も殺した……。魔法力も持たない人なのにも拘わらず襲ったのは、その力が目覚める可能性を恐れた為だった……」

 

 バラモスにとって、全世界の英雄であるオルテガであっても恐れるような存在ではなかったのだろう。それよりも、竜の因子を受け継ぐ人間が持つ秘められた力の方が脅威だったのかもしれない。

 世界最高種族と言われる竜種と、全生物の中でも高い繁殖力を誇る人間の遺伝子を持つ生命体であれば、その力が解放された時の恐ろしさは強かったのだ。メルエの祖先は、多くの子を残して来た訳ではないのだろう。だが、何処かで分家が生まれ、そこから枝分かれのようにその因子が広がり始めれば、瞬く間に数は増え、魔族さえも超越する存在が生まれる可能性もある。

 バラモスは、メルエがメラゾーマを行使した瞬間から、その異常な才能に執着を見せた。その身に代えてもメルエを葬ろうとする意志さえも見せている。それがメルエの身体に眠る太古からの因子が原因だとすれば、カミュの懸念は的を射ていたという事になるだろう。

 

「ムオルで傷を癒した私は、再びバラモスの城を目指したが、その頃には船の往来もなく、バラモス城へ向かう方法も無かった。あの場所へ辿り着くのに更に数年の時間を費やし、城へ渡る橋が落ちている事に絶望した。泳いで渡ろうと考えたが、瘴気の強い水に呑まれ、流れ着いたのがあの大穴のある場所だったのだ」

 

 黙って話を聞いていたリーシャは、目の前で肩を落とす男性の凄まじさを改めて感じる。通常の人間であれば、身も心も折れていても可笑しくはない。何度も絶望を味わい、自分では絶対に敵わないと知りながらも、その相手に向かって行ける者はそうはいないだろう。

 リーシャ達には、彼女達の心を奮い立たせる背中が見えていた。いつでも彼女達の前に立ち、護り続ける勇気の象徴が。だが、オルテガの前には何もない。彼自身が勇者であると考えても良いのかもしれないが、リーシャから見たオルテガは英雄としての眩さは有っても、勇者としての輝きはなかった。年齢の影響とも考えられず、それはやはり生来の魂の輝きなのだと、今では理解出来る。

 故にこそ、リーシャはオルテガの凄まじさを知ると共に、彼の無謀とも言える戦いが、自己犠牲の精神の上にある物だと再認識するのだった。

 

「その大穴の前で、恥ずかしい事だが、私の足は一歩も踏み出す事が出来なかった。その先にゾーマという存在がいるのだと理解していても、そこへ踏み込む勇気が湧いて来なかったのだ」

 

「……当然だと思います」

 

 ギアガの大穴と呼ばれる異世界への扉を前にして、サラ達もまた、その異様な程の瘴気に心が飲み込まれている。メルエやサラはあの飲み込まれそうな闇に足が竦み、カミュでさえも一筋の光もない闇を前にして足を止めた。

 それ程の闇の前に唯一人で立ったオルテガの心が折れてしまったとしても何も不思議ではない。それだけ大きく、深い闇だったのだ。

 サラの頭には、あの場所に立った時の恐怖が蘇っているのだろう。魔王バラモスを打ち倒したという確かな実績を持った彼女達でさえも、それ程の恐怖を味わった場所であった。

 

「だが、あの時、突如として地面から湧いて来た魔物に足を取られ、そのまま私はこのアレフガルドへ落ちた。本当に恥ずかしい事だが、あの時感じた恐怖と衝撃で、私は記憶を失ってしまったのだろう。アレフガルドで目覚めた時、私は自分の名前さえも曖昧な状態だった」

 

「それ程の経験を経て尚、オルテガ様はゾーマを目指したのですね」

 

 自身の名さえも朧気にしか思い出せない状態で、オルテガはゾーマという悪の根源を目指した。時系列を追って行くと、オルテガがアレフガルドへ辿り着いたのは、カミュ達から数年前と考えて間違いないだろう。その頃には既に闇に閉ざされたアレフガルドで、彼はゾーマという存在を再度知り、世界の平和の為に歩み出したのだ。

 それは、『異常』である。胸や頭の奥隅に、旅立ち当初の想いが残っていたと言えば聞こえは良いが、まるで何かに突き動かされているように旅を続ける彼は、人ではなく人形のようにも見えた。

 

「そして、あの場所で今度こそ死を迎えるのだと思った時、記憶が渦を巻いて脳に蘇ったのだ」

 

 アレフガルドに着いてからのオルテガは、真っ直ぐにゾーマ城へと向かったのだろう。マイラの村やルビスの塔へ向かう事なく、ラダトームから西へ進み、そのまま南下して行ったに違いない。ドムドーラ、メルキドを通ってリムルダールへと辿り着き、そして西の岬へと足を掛けたのだ。

 あの巨竜と戦っている時のオルテガの姿を見る限り、彼があの激流の渦を泳いで渡ったと考えて良いだろう。もしかすると、オルテガはルーラなどの移動呪文の契約が出来ていないのかもしれない。その呪文さえあれば、上の世界では定期的にアリアハンに戻る事も可能であったろうし、アレフガルドでも拠点を構える事が出来た筈だからだ。

 

「私の旅はそういうものだった」

 

 言葉にすれば短い。だが、その二十年以上の長い旅の中で、彼は相当な苦しみを味わって来たのだろう。最後にオルテガが発した一言が、その辛く苦しい旅路を明確に物語っていた。

 何度も挫け、何度も倒れ、それでも前へと踏み出して歩み続けて来た二十年。その在り方は、何処かサラを思わせる。彼女もまた、既に『英雄』と称されても可笑しくはない実績を残しているのだろう。

 椅子に座りながら前屈みになったオルテガは、その両手を合わせ、顔付近へと近付ける。苦悩するように瞳を閉じ、眉を顰めた彼の姿は、悲痛そのものであった。

 

「……私は二十年という時間を使い、何を成したというのだ。我が子に苦難の道しか残せず、その存在さえも記憶から無くし、挙句に大魔王を倒すどころか、そこへ辿り着く事さえも出来なかった」

 

 硬く握っていた両手を広げ、顔を覆うようにした彼は、そのまま再び嗚咽を漏らす。確かに、オルテガは英雄として、全世界の期待を背負って旅立ったにも拘わらず、結果的に何も残してはいなかった。

 上の世界で諸悪の根源と謳われた魔王バラモスを倒したのは、彼の愛息子であるカミュであり、そこに至るまでの道程に存在した様々な厄災を払って来たのもまたカミュである。オルテガという名は世界に轟く英雄の物であるが、結果を見れば、彼は上の世界でも何一つ残してはいなかった。

 アレフガルドという大陸に来てもそれは変わらず、精霊神ルビスという存在を解放し、未来に続く光を取り戻したのも真の勇者である。辛辣ではあるが、オルテガという英雄が歩んだ二十年以上の旅路は、無駄な時間と切り捨てられても可笑しくはないのだ。

 

「私達の歩んで来た道は、オルテガ様が切り開いてくれた道でもありました。要所要所で聞くオルテガ様の軌跡が、私達の歩みが間違っていない事を示してくれたのです」

 

 しかし、六年以上もの長い旅を続けて来たリーシャにとって、オルテガはやはり先駆者である。その軌跡は、暗中模索を続けながら歩んで来た彼等の道標となっていた。

 ノアニールという村で初めて聞いた彼の名は、その後に向かうべきアッサラームやイシス国へとカミュ達を誘う。その名を追って行けば、イシス国にある『魔法のカギ』へと辿り着き、彼等に新たな世界への入り口を指し示した。

 細く頼りない糸のような情報を元に歩み続けて来たリーシャ達にとって、その糸が正しい事を証明するように聞かされるオルテガの名は、本当に心強い響きを持っていた事だろう。唯一人、カミュだけはその名を聞く度に顔を顰め、何かに耐えるような姿を見せていたが、決してオルテガの歩んで来た二十年以上の旅路は無駄ではなかったという証明でもあった。

 

「カミュは本当に大きくなっていた。宙を掴むように動いていた小さな手も、まだ見ぬ未来を見るように輝いていた瞳も……。私は、あの子の成長の軌跡を何一つ知らない。父親として、これ程に恥ずべき事があるだろうか……」

 

 オルテガの歩みを肯定するリーシャの言葉も、今の彼には届かない。彼の胸を覆い尽くすように広がった罪悪感は、ゾーマの生み出す闇のように、彼の心を蝕んでいた。

 我が子の成長の軌跡は、親の成長の軌跡でもある。生まれたばかりの子供を見て、自身が親である事を自覚し、その子が寝返りを打つのを喜び、一つの生命である事を再認識する。這って動き回る姿に微笑みながらも、その行動力の高さに心を乱されるだろう。

 立ち上がり、言葉を発する姿を見て、親は自身の子供の頃を思い出す。そして、その頃の自身の親と現在の自分と比べ、気を引き締め直すのだ。

 親から受ける愛情を子が忘れないのは、試行錯誤を繰り返し、何度も自己嫌悪に陥りながらも、それでも子と向き合おうと努力を続ける親の背中を見ているからである。

 その軌跡が、オルテガとカミュの間にはなかった。

 

「カミュは、知らず知らず、オルテガ様の背中を追って来ましたよ。彼は認めないでしょうが、英雄オルテガではなく、父親であるオルテガの背を彼は追って来たのです。だからこそ、カミュの心は歪まなかった。どれ程に苦しい時間を過ごしても、人間そのものを憎む程の行いを受けても、オルテガ様の背を追う事で、彼の心の奥底にある芯は歪む事がなかったのでしょう。例えそれが憎しみという感情であっても……」

 

 サラやメルエが口を挟めるような空気ではない。オルテガの正面に座るリーシャだけが、今の彼に言葉を投げかける事が出来る存在であった。

 リーシャの言葉は、オルテガを慰めるような物ではない。むしろ追い討ちを掛けるような物である。だが、それもまた紛れもない事実であった。

 アリアハンを出た頃のサラは、とてもではないがカミュの性根が歪んでいないとは思えなかった。だが、旅を続けて行く内に、その心の奥にある優しさを理解出来るようになる。それは、リーシャという女性の存在があったからこそ気付く事が出来た物かもしれないが、それでもその心が醜く歪んでいると思う事はなくなった。

 

「……憎まれても当然だろう。私がアリアハンに残り、傍に居てやれたならば、そのような経験をする事はなかったのだから」

 

「ですが、そうであれば私達は出会う事は出来ず、このメルエも命を失っていました。それに、今でも魔王バラモスは健在であり、ゾーマの復活によって上の世界もまた、このアレフガルドのように闇に包まれていたでしょう」

 

 サラはここまで来て、ようやく気付く。リーシャの言葉はとても残酷で厳しい物なのだという事を。彼女は、何を言おうとも、オルテガの懺悔を受け入れないのだ。

 罪を犯したと罪悪感に苛まれる者は、そこから逃げ出す為にその罪を吐き出す。そしてそれを肯定して貰い、糾弾される事を望む。その気持ちをサラは誰よりも理解出来た。

 彼女もまた、この長い旅路の中で何度となく罪悪感に苛まれて来ている。だが、今思い出せば、その時には必ずと言って良い程にリーシャが傍に居たが、彼女はサラの懺悔を受け入れ、サラを糾弾する事は一度もなかった。

 罪を吐き出し、己の心を軽くする事を許さず、その重さを背負いながらも立ち上がる事を要求する。それがどれ程に残酷な事であり、どれ程に厳しい事であるのかを理解出来る人間は、この場でサラとオルテガだけであろう。

 

「オルテガ様、過去は過去です。それは最早変える事など出来ません。どれ程に悔やんでも、泣き叫んでも、あの頃に戻る事など出来はしないのです」

 

 当たり前の真実。だが、避ける事も逃げる事も出来ない事実。それをリーシャは敢えてオルテガへと突き付ける。

 そういう過去を彼女もまた持っており、何度も何度もその事実を突き付けられて前に進んで来た。そんな彼女だからこそ、それを他者へと告げる事が出来るのかもしれない。彼女自身、幼い頃に何度も過去のやり直しを願って来たのだろう。父親が死に、己の境遇が悪くなればなる程、その願いは強くなったに違いない。だが、時間は止まってもくれなければ、巻き戻ってもくれない。無常に過ぎ去って行くのみで、自身は歳を重ねて行くのみである。故にこそ、彼女は立ち上がり、前へ進んで来た。

 本来であれば、親と娘ほどに年齢が離れているリーシャが、オルテガに向かって口を開く内容ではない。だが、それでも彼女は言わなければならなかった。その理由は、続いて開かれた口から発せられた言葉に全て集約されていたのだ。

 

「今のカミュを見てあげて下さい。カミュの成して来た偉業を褒めてやって下さい。貴方の代わりではなく、貴方の加護ではなく、彼が自分で切り開いて来た道を見てやってください」

 

 リーシャの瞳は真剣な光を宿している。だからこそ、オルテガはその瞳から視線を外す事が出来ない。そして、彼女が今語っている言葉が、彼女がこの場を設ける理由であった事を理解した。

 彼女はこの言葉をオルテガに伝えたかったからこそ、この場を設けたのだろう。過去を悔やみ、泣き叫んでいたオルテガの姿を見ていた彼女は、オルテガの瞳が過去へと向かってしまうという事を知っていたのだ。

 今朝のカミュを見る限り、彼の瞳は既に未来へと向かっている事は確かであろう。過去を捨てた訳ではない。過去を許した訳でもない。それを全て受け入れ、飲み込み、そして未来へと向かって歩き始めたのだ。

 過去を見る者同士の対話は罵り合い、憎しみ合いになる。過去を見る者と未来を見る者の対話は全く嚙み合わず、物別れとなるだろう。過去を受け入れ、現在を知り、未来を見る者達の対話だけが結果を生み出すのだと長い旅路の中でリーシャは理解していた。

 

「私は、オルテガ様は『英雄』だと今でも思っています。ですが、カミュは『英雄』ではありません。誰もがその功績を知る訳ではありませんし、彼自身がその武勇を誇る訳でもありません。眩い程に輝く太陽のような華々しさはないですが、光の届かない場所で苦しむ者達にも手を伸ばす事の出来る月のような輝きを持つ男です」

 

「……リーシャさん」

 

 真っ直ぐにオルテガを見つめて語るリーシャの想いに、サラの胸が熱くなる。彼女達の頭には、アリアハンを出てからの六年以上に渡る長い旅路が思い返されていた。

 何度も何度も衝突を繰り返しては突き進んで来た旅路の中で、カミュが放つ優しい輝きに救われて来た者達は数多く居る。しかし、その誰もが、彼に対して、英雄に持つような近寄り難い気持ちを持っている者は居ないだろう。

 その口数の少なさ、表情の乏しさから、人を寄せ付けない空気を持ってはいても、自然と町や村へと溶け込んで行く。やがて皆が彼を受け入れ、彼の持つ『必然』という波に共に乗り込んで行くのだ。

 『月』のような輝きを持つ青年。自らが眩い光を放つのではなく、周囲を輝かせ、暗い夜道を歩く者達へもその光を届かせる者。それが彼女達の信じるカミュという人間であった。

 

「カミュは『勇者』です。数多く居る自称の者達ではなく、彼だけが『勇者』であると私は信じています。誰も成し遂げる事の出来なかった偉業を成す者は彼だと信じていますし、彼しかいないと思ってもいます。そして、その『勇者』は、間違いなくオルテガ様の息子でありました」

 

 『オルテガの息子』という言葉で締め括ったリーシャの想いは、サラにも解らない。アリアハンを出る時に、リーシャがカミュを『英雄の息子』として認めていなかった事を知るのは、カミュ本人だけであるからだ。

 長い旅路の果てで辿り着いた答え。英雄オルテガの息子であるカミュではなく、勇者カミュの父親がオルテガだったという単純な言葉遊び。だが、その違いは、リーシャやカミュにとっては雲泥の差であったのだ。

 英雄オルテガの息子という事をカミュが誇るのではなく、勇者カミュの父親である事をオルテガが誇るべきであるという、そんな想いをリーシャは持っているのかもしれない。彼女がメルエやサラを誇りに想うように、年長者が年少者を誇りに思える喜びを伝えたかったのだろう。

 

「……カミュは幾つになったのだろう?」

 

「アリアハンを出てから六年以上が経過しています。二十二になっている筈です」

 

 十六の誕生日に、彼は『魔王バラモスの討伐』という無謀な勅命を受けて旅立った。それから六年以上の時間が経過しており、彼は二十三という歳に足を掛ける程に成長している。

 赤子の頃のカミュしか知らないオルテガにとって、成人を迎え、自分が旅立った頃とそう変わらない年齢の男を突然息子として認識するというのも難しいだろう。

 だが、リーシャの言葉を聞いたオルテガは、柔らかな優しい笑みを浮かべて、嬉しそうに頷きを返した。その瞳を見て、彼の視線の先が変わって来ている事をリーシャは理解する。過去ではなく未来へ、という想いが、少しずつオルテガの胸に湧き上がっている証拠でもあった。

 

「君は幾つになった?」

 

「わ、私ですか!? いえ、ここまでの話に、私の年齢は関係がないと思いますが」

 

 しかし、過去の後悔を飲み込んだオルテガの言葉は、リーシャの予想の遥か上を指し示す。突然振られた話題に驚きの表情を浮かべた彼女にオルテガは微笑み、その微笑みを見たリーシャは、からかわれたのかと憮然とした表情へと変化させた。

 この辺りも、オルテガとカミュは似た者親子なのかもしれない。英雄と名高い男ではあるが、冗談などを口にしない堅物という訳ではないのだろう。憮然とするリーシャを見て少し微笑んだオルテガは昔に想いを馳せるように天井へと視線を向けた。

 

「カミュが生まれた頃に、一度城下で剣を振るう君と話した事があったな……。あの時、君は大体四つか五つくらいだっただろうから……」

 

「……今年で二十七になります」

 

 思い出すように呟くオルテガの姿に観念したリーシャは、溜息を吐き出すようにその年齢を呟く。柔らかな笑みを浮かべながらオルテガは頷くが、その横でサラは驚きの表情を浮かべていた。

 彼女自身、年齢を口にしたのは初めてであったのだ。年上である事は解ってはいたが、正確な年齢は解っていなかった。そして、それが自分と三つか四つほどしか変わらない事に、サラは驚愕したのだろう。

 アリアハンを出た頃を考えると、今のサラよりも三つ程若いという事になる。果たして、今の自分があの頃のリーシャよりも年長としての考えを持っているのかと問われれば、首を傾げざるを得なかった。

 

「サラ殿と、メルエ殿だったかな? 我が息子と共に歩んでくれてありがとう。息子の心を取り戻してくれて、本当にありがとう」

 

「…………ん…………」

 

 先程までの悲痛の表情が消え、柔らかな笑みを浮かべるオルテガを見ていたメルエが、花咲くような微笑みを浮かべる。そして、笑みを浮かべたメルエが次に行う行動と言えば、一つだけであろう。

 既に着替えを済まし、旅立つ用意をしているメルエの肩からは、長い間愛用しているポシェットが掛かっている。その中へ手を入れた彼女は、あの石の欠片を取り出すのだった。

 淡い青色の光を湛えるその欠片はとても小さい。だが、その小さな欠片に込められた想いは、とても重く、大きな物でもあった。様々な者達の手に渡って来たその欠片は、その場所その場所で形を変えている。メルエの想いを受け取った者達の中には、それを大事に持ち続ける為に加工する者もいるし、そのままの形で大事に保管する者もいた。

 そんな欠片を手に乗せたメルエは、眩しい笑みを浮かべながらオルテガに近付き、自分の手の倍の大きさもあろうかというオルテガの手にそれを乗せる。驚いたオルテガが手に乗せられた小さな欠片と、微笑みを浮かべる少女とを見比べた。

 

「それは、ニーナ様がカミュの無事を願って作成した、サークレットに嵌め込まれていた『命の石』の欠片です。ガルナの塔という場所で、死の呪文を受けたカミュの身代わりとなって砕けました。メルエはそれを拾い集め、カミュという大事な者を護ってくれたその石の欠片が、自分が大事に想う多くの者達を護ってくれるようにと新たに願いを吹き込んだ物です」

 

「そうか……彼女はカミュを護ってくれたのだな」

 

 何かに耐えるように、手の中の石の欠片を握り締めたオルテガの悲痛な表情を見ていたリーシャは、何かを決意したようにもう一度表情を引き締める。それを察したメルエは再びサラの横へと戻り、サラもまた、黙ってリーシャの横顔を見つめた。

 ここからリーシャが語る内容は、先程彼女がオルテガに向けて語った事に矛盾する事になるかもしれない。『過去を見るな』というような内容を話したばかりで、再びこの話題を入れる事に抵抗はあった物の、これを話さなければオルテガは生涯思い違いを続ける事になると考えたのだ。

 

「オルテガ様、ここから語る内容は、カミュから聞いた彼の幼少時代の話です。『過去を見ず、今を見て欲しい』と言いましたが、カミュの過去を正確に知らなければ、前を見る事も出来ないと思いました。私やサラの記憶も少し混じってはいますし、推測の部分もあります。そして、全てがカミュの視線からの物になりますので、それを前提に聞いてください」

 

「……聞かせてくれ」

 

 リーシャの真剣な表情にオルテガは表情を引き締め、身構える。それを見た彼女は、小さく頷きを返した後で、ゆっくりと語り始めた。

 何故、カミュがオルテガの後を継いでアリアハンを旅立つ事になったのかという、彼が赤子の頃からの話から始まり、彼が少年の時代から討伐隊に放り込まれた事、そしてそこで受けた虐待に近い行為。何より、そこまでに彼が受けていた、祖父による過剰な程の扱きは、他者から見ても愛のある物ではなかったという事。

 旅立ったカミュが成した偉業の数々を語り、魔王バラモスを討ち果たしたにも拘わらず、彼がアリアハンという国に戻らなかった事を語る。

 リーシャの言葉を黙って聞いていたオルテガの瞳から流れ落ちる涙は、彼女が話し終わるまで止まる事はなく、それでも彼は気丈に顔を上げ、真っ直ぐにリーシャを見つめてその話を聞き続けた。

 全てを話し終えた時、既に一日が終わりを告げる頃になっていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
予想以上に長くなってしまったので、もう一話描きます。
この章も、次話がラストになります。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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