新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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キングヒドラ

 

 

 

 暗く湿った階段は永遠を感じる程長く続いた。最終の下層へと繋がっている事は、一段一段踏み締めるカミュ達が最も理解している。トラマナという防壁に護られていて尚、肌に刺さるような傷みを与える瘴気の濃さ、そして強まって行く闇の気配が彼等に全てを伝えていた。

 下層に近付くにつれ、カミュ達が持っていた『たいまつ』の炎が弱まって行く。風など吹いておらず、『たいまつ』の布に染み込ませた油も切れてはいない。それでも闇に呑まれるように、その炎は収縮して行った。

 そして、先頭のカミュが階段を降り切り、その場所に足を着けると同時に、『たいまつ』の炎は完全に消え、周辺全てが深い闇に閉ざされる。

 

「!!」

 

 しかし、カミュ達全員が床に足を着けた瞬間、そのフロアにある全ての燭台に炎が灯った。

 眩しさに目が眩む程の炎の数。カミュ達だけではなく、この場所の全てを燃やし尽くす程の炎が吹き上がり、燭台から天井まで吹き上がる。身構えるカミュ達を嘲笑うかのように踊り狂った炎は、燭台という燭台全てに炎を灯し終えた後、沈黙した。

 階段付近から正面に見えるのは、大きな祭壇。そして、その祭壇の上に置かれたおぞましい玉座に座る巨大な影。それが何かなど、今のカミュ達に解らない訳がない。漆黒の闇のようなその影が放つ威圧感、そして絶対的な存在感が、今まで見て来たどんな魔物や魔族よりも強い事が、最後の決戦を物語っていた。

 

「貴様がカミュか。我が生贄の祭壇へよくぞ来た」

 

 その影から発せられた言葉が直接カミュ達の脳へ響き渡る。その声を聞いた瞬間、全員の身体が小刻みな震えを発し始めた。

 それは武者震いのような勇ましい物ではない。単純な強者に対する恐怖であり、生物にとって最も重要な生存本能の表れであった。

 カミュでさえも、その場所から一歩たりとも踏み出す事が出来ない。強大な敵と何度も対峙し、それを打ち破って来た彼等四人も、その心全てを飲み込む程の闇を前にして、身体を硬直させてしまったのだ。

 アレフガルド大陸にあるラダトーム国王をして、『小者』として語られたバラモスの存在を思い出す。あの時は、カミュもリーシャも、何も知らない国王だからこそ、そのような発言が出来るのだという想いが心の何処かにあった。だが、今、その存在を目の前にして、あの国王の言葉が真実である事を理解する。

 この巨大な存在から見れば、確かにバラモスなど小者であろう。カミュ達の力量が上がっている事を差し引いても、あの時のバラモスなど比べ物にならない程の圧倒的な力を有しているように見えたのだ。

 

「ふはははは。余を前にして恐怖する事は恥ではない。矮小な人間風情であれば尚の事である」

 

 恐怖に強張り、動く事さえ出来なくなった四人を嘲笑うかのように、影が放つ不快な笑い声が響く。その余裕は、この圧倒的な力があってこそのものなのだろう。カミュ達四人をわざわざ誘い、この場所へと導いたのも、世界の希望となっている光の心に深い絶望を植え付ける為の物だったのかもしれない。

 姿形ははっきりとは見えない。その強大な力がカミュ達の視界を遮っているのか、祭壇に座る大きな影は何かに歪んでいるように揺らめいていた。

 リーシャの額から大粒の汗が流れ落ちる。サラの足は小刻みに震え、唇は色を失い、歯さえも嚙み合わない。ここまでの旅で、強大な竜種以外にこれ程の恐怖を見せた事のないメルエでさえも、その存在から隠れるようにサラの腰へ手を回していた。

 それでも、彼だけは、一歩前へと足を踏み出す。彼こそが勇気の象徴であり、世界の光。そして、怯える三人をこの場所まで歩ませた『勇者』である。

 

「ほぉ……。余を前にして、それでも前へと踏み出すか。余への生贄として相応しい」

 

 一歩、また一歩と踏み出すカミュの背中が、三人の女性の心に勇気を植え付ける。何度も恐怖し、何度も立ち止まって来た彼女達を、勇気付け、奮い立たせて来た背中。青白く輝く鎧を身に纏い、全世界の生物の想いを込めた剣を握るその者の姿が、リーシャ達にも前方の強大な影にも異様に映っていた。

 だが、絶対の強者である大魔王ゾーマにとって、その勇気は蛮勇にも等しい物にしか見えない。近付いて来るカミュの姿を、生きの良い生贄としか見ていなかった。

 

「余は全てを滅ぼす者である。全ての命を我が生贄として奉げよ。その見返りに、絶望で世界を覆い尽くしてやろう」

 

 踏み出すカミュの足が止まる。だが、それは彼の意図ではなく、強制的な物。大魔王ゾーマの発した言葉と同時に生み出された膨大な瘴気がフロアを包み込み、勇者の歩みを止めたのだ。

 不快な笑いを発しながら大きく手を広げた影は、フロア全体の空気を変えて行く。先程まで赤々と燃えていた炎は、真っ黒な闇の炎となり、周囲を照らし出した。視界が遮られる事はないものの、その異様な光景は、再びカミュ達の胸に恐怖を呼び覚まして行く。

 

「生贄とは奉げられる物である。カミュよ、余の生贄となれ」

 

 玉座から僅かに腰を上げた影は、階段と祭壇の間まで進んでいたカミュを弾き飛ばす。バシルーラを受けたかのような抵抗出来ない力によって吹き飛ばされたカミュは、リーシャに受け止められた。

 階段付近まで戻った一行の目の前の大気が歪む。奥の祭壇が霞んで行く程の空間の歪みに、カミュが身構えた。剣を抜き、構えを取る彼の姿に、その横へ並んだ戦士もまた斧を取る。恐怖に犯されていた足の震えを強制的に止めた賢者が杖を構え、それを見上げた少女の瞳に勇気の炎が灯った。

 

「出でよ、我が僕。この者達を滅ぼし、その苦しみ、その哀しみを余に奉げよ!」

 

 何かを召還するように手を広げた影から発せられる瘴気が一際大きくなる。闇の炎が大きく吹き上がり、カミュ達の目の前の歪みが強くなって行った。

 歪みが強くなるに従って、大気に亀裂が入って行く。亀裂は徐々に大きくなり、ゾーマの発した最後の一言を受けて大気が割れた。ひび割れた大気が割れ、何かが弾け飛ぶと同時に、カミュ達の前に巨大な生物が現れる。その姿を見た全員の目が細まる程にそれは既知の物であった。

 強固な鱗で守られた巨大な体躯を持ち、その胴体から伸びる長い首は合計で五つ。それぞれの首の先にある頭部は鋭い牙を持ち、猛々しい雄叫びを上げていた。

 

「我が名はキングヒドラ。大魔王様に仕えし竜種の王である」

 

 四つの首が奇声のような雄叫びを放つ中、中央の首がカミュ達を見下ろして尊大な言葉を発する。人語を話す魔族や魔物を多く見て来たカミュ達であるからこそ驚きもしないが、その流暢な人語は、この竜種もまた、竜の女王やその周囲にいた側近達と同様に、人型になる事さえも可能な上位種である事を物語っていた。

 しかし、その尊大な宣言に一人の少女が眉を顰める。その言葉を正確に理解している訳ではないのだろう。それでも、その言葉の何かが、この幼い少女の心に引っ掛かり、怒りにも似た感情を呼び起こした。

 吼える四つの首がうねるように動き、周囲に炎を撒き散らす。凄まじい熱量を誇る炎が周囲を赤く染める中、幼い少女が大きな杖を持って、一歩前へと踏み出した。

 

「……メルエ?」

 

「…………メルエ……やる…………」

 

 自分よりも前に出て来た少女に戸惑いを見せたカミュの言葉に、彼女は小さく決意の言葉を溢す。その瞳に宿る炎は、何を言われても、何をされても揺るがない程に強く、カミュでさえも呑まれそうになる程の輝きを有していた。

 竜の因子を受け継いでいる事を受け入れた少女にとって、竜種の王とは、ヤマタノオロチであり、竜の女王である。あの強く誇り高い者達こそが竜種の頂点であり、彼女の心の奥底にある恐怖を引き上げる程の存在が『王』と名乗るに相応しい者なのだ。

 キングヒドラと名乗る竜種を見た時、彼女が恐怖を表す事はなかった。それは、竜種としての格がメルエの祖先である氷竜よりも下である事を示している。自身よりも下に位置する格を持つ者が、竜種の王を名乗る事など許せる筈がない。そして、誇り高い竜種が、例え強大な力を有しているとはいえ、大魔王の下僕として名乗りを上げるなど、言語道断の行いであった。

 故に、彼女は憤る。恐れすら抱いた自分の中に流れる因子であっても、彼女の祖先が脈々と受け継いで来た想いでもある。それを理解出来るだけの旅を彼女は続けて来た。それは、カミュとの剣の勝負に負けた時に浮かべたオルテガの笑顔が、最終的な着地点だったのかもしれない。

 父が託した想い。それを受け入れるか否かは別としても、人間とはそういう流れと繋がりを持っているからこそ、繁栄して来たのだろう。受け継がれる想いは力となり、受け継がれる力は想いとなる。それを彼女もまた理解し始めていたのかもしれない。

 

「メルエ、大丈夫ですか?」

 

「…………だいじょうぶ…………」

 

 メルエがこれから成そうとしている事を察したサラが、心配そうに声を掛ける。しかし、その問いかけにしっかりと頷き、その言葉を口にしたメルエを見て、サラは後方へと下がった。

 彼女がこの言葉を口にした以上、何を言っても引く事はないだろう。一行で一番の頑固者がこの言葉を口にしたのだ。ならば、サラが出来る事といえば、姉としてその姿を見守り、不測の事態に備える事だけであった。

 それはカミュやリーシャも同様であり、カミュに至っては、王者の剣を鞘へと納めている。リーシャだけは心配そうにメルエを見つめながら、斧を片手に戦闘態勢を崩さなかった。

 

「どうした、矮小な人間達よ。我が姿に恐れを為したか?」

 

 首をもたげてカミュ達を見下ろすキングヒドラの顔が歪む。竜種の表情の機微など、カミュ達には解らないが、それが嘲りの笑みである事は想像出来た。

 だが、この場面でそんな挑発に反応する者は誰一人としていない。杖を持った少女が更に一歩前へ出ると同時に、他の三人は一歩後ろへと下がった。

 驚いたのはキングヒドラであろう。この竜種には、自分が王であると名乗るだけの自信がある。その竜種の王に対して、ここまで進んで来た一人であると言っても幼子だけが前へと出たのだ。自身が侮られていると感じても可笑しくはなかった。

 案の定、怒りを吐き出すように四つの首が更に大きな雄叫びを発し、狂ったように炎を吐き出す。だが、その炎は全て、前に出た少女の杖の一振りで蒸発して行った。

 

「矮小な人間の分際で、この竜王に逆らうか!?」

 

「……竜王? お前はその器ではないな。未来の竜王は既に存在し、その力も器も、お前では遠く及ばない」

 

 年端も行かぬ少女によって己の吐き出す炎を遮られたキングヒドラは激昂するが、その言葉に当代の勇者が反応する。竜の王となる者は、その力だけではなく、それ相応の品格と器を有さなければならない。それをカミュ達は竜の女王に見たのだ。

 あの気高く、全てを包み込むような包容力を持った竜の王は、己を蝕む病に抗いながらも、世界を案じ、そこで生きる者達を自らの子と称していた。彼女はどれ程の怪我を負おうと、苦しみを味わおうと、大魔王ゾーマの下に付くような事はなかっただろう。そして、彼女が死を賭して産み落とした新たな王もまた、どれ程に強大な相手であっても、その身を屈する事はない筈だ。

 そして、また一歩とメルエが前に踏み出した事で、キングヒドラの怒りが頂点に達する。脆弱な生物だと馬鹿にしている相手に、最大限の侮辱を受けたのだ。竜の王を自負する己を、そのような器ではないと、人間如きに侮られた。『それに怒らずして、何が誇り高き竜か』と言ったところなのだろうが、それすらも、カミュ達にしてみれば蔑みに値する物であったのだ。

 

「骨すら残らぬように殺してやる! 竜王を敵に回した愚かさを悔やみながら死んで行け!」

 

「…………竜王……じゃない…………」

 

 五つの首が高らかに雄叫びを上げる。しかし、その言葉さえも幼い少女に切り捨てられ、キングヒドラは怒り狂った。

 カミュ達に向かって三つの首が一斉に炎を吐き出す。全てを焼き尽くす程の竜種の炎。それは、通常であれば脅威であり、勇者特有の絶対防御の呪文を行使する必要性さえもある攻撃である。

 だが、その炎を見てもカミュ達は微動だにせず、まるで哀れむかのような視線をキングヒドラへ向けていた。この竜種は『竜王』を名乗りはしたが、カミュ達から見ればその力は竜の女王には遠く及ばず、ルビスの塔で遭遇したドラゴンと比べても、大きな差のない物であったのだ。

 そして、この五つの首を持つ巨竜は、一人の少女の怒りを買った。竜の誇りを語るキングヒドラは、誰よりも竜種の誇りを知る少女の逆鱗に触れたのだ。それは、カミュ達三人から見ても、同情を向けざるを得ない蛮行。意気揚々とゾーマの下僕として登場したこの竜種の命は、風前の灯に等しい物であった。

 

「…………ドラゴラム…………」

 

 三つの首から放たれた炎が、先頭に立つ幼い少女を飲み込もうとした時に、件の少女が高々と杖を掲げ、その系譜を持つ者しか唱える事の出来ない呪文を紡ぐ。

 膨大な魔法力が幼い身体を包み込み、周囲を冷気が満たして行った。吹き荒れる暴風となった冷気は、襲い掛かって来る炎を飲み込み、蒸発させて行く。立ち上って行く水蒸気さえもその場で凍り付かせる程の冷気がフロアを支配して行く中で、キングヒドラの目の前に一体の銀竜が姿を現した。

 それは、幼い少女が何よりも恐れた力であり、彼女を愛する賢者の心の奥深くにあった潜在的な恐怖を呼び起こした力である。竜種と人との間に生まれた子の末裔である証であり、人間だけではなく、魔族やエルフでさえも唱える事の出来ない呪文であった。

 

「竜だと……。なんだ、それは」

 

 目の前に現れた銀竜の姿に、キングヒドラの動きが止まる。竜が人型になるという行動は、上位の竜種であれば可能なのかもしれないが、只の人間だと考えていた者が実は竜種であったなど、考えが及ぶ筈がなかった。

 正確に言えば、メルエは竜種ではなく、竜種の因子を受け継ぐ者の末裔なのだが、キングヒドラが知る由もない。目の前で竜に姿を変えた人間が、自分と同じような竜種であると考えてしまったのだ。

 しかし、その後ろに居る影は、そうではなかった。

 

「ほぉ……まだ生き残りが居たとはな。バラモスめ、余を謀っておったのか」

 

 フロア全体に響き渡るような声が、キングヒドラの巨体を震わせる。それが恐怖に近い感情の表れである事は理解出来た。

 竜王の器ではないとはいえ、人間界での最大の英雄であるオルテガを死に追いやった程の強者がこれ程に怯えるという事に、改めて大魔王ゾーマの力の強大さを知る。それ程の相手との戦闘が後に控えているのだ。キングヒドラ程度の相手に梃子摺っているようでは、彼等の勝利も、世界に光を戻す事も不可能であろう。

 そう考えたカミュの思考に同意を示すように、銀竜が雄叫びを上げる。巨大な牙を剥き出しにしてキングヒドラへ向けて上げた咆哮によって、周囲の大気が震え、闇の炎が大きく揺らいだ。

 五つの首を持つ巨竜と、最古の竜の生き残りとの戦いが始まる。

 

「竜種の面汚しが!」

 

「ギャオォォォ」

 

 人語を叫ぶキングヒドラと、咆哮を上げる銀竜。最早、どちらが人間で、どちらが竜種なのか判別が出来ない。五つの首の内の一つが炎を吐き出せば、それを相殺するように銀竜が冷気を吐き出す。キングヒドラの火炎と、氷竜となったメルエの吐き出す冷気では、冷気の方が威力は上であった。

 炎を吐き出した頭部の口元まで覆う冷気が、その口元を凍り付かせ、行動を停止させる。行動が止まった首に鋭い牙を突き刺した氷竜は、首を喰い千切るように振り回した。

 首から噴き出す体液の量が、牙が深く突き刺さっている事を物語っており、キングヒドラは苦痛と怒りの咆哮を上げる。氷竜の牙を抜こうと別の首が氷竜へと襲い掛かり、それを尾で撃退した氷竜であったが、縦横無尽に動き回る他の首によって左肩口を抉られた。

 

「……これが竜種同士の戦いなのか」

 

「……メルエ、無理をしては駄目ですよ」

 

 二つの巨竜同士の戦いの凄まじさにリーシャは声を失い、氷竜の肩口から噴き出す体液を見たサラは、氷竜となった少女の身を案じる。そして、先程氷竜が牙を突き刺したキングヒドラの首の一つの傷を見て、三人は驚愕する事になる。

 

「ちっ……治癒能力さえも持っているのか」

 

 大きな舌打ちを鳴らしたのはリーシャ。

 キングヒドラの首は、流れ出る体液の量から見ても致命傷に近い傷であった筈。だが、ぐったりと垂れ落ちた首の傷は、体液が泡立つように塞がって行ったのだ。それは、バラモスなどが有していた治癒能力に近い物であり、戦闘をする者にとっては厄介極まりない物である。

 対する氷竜の傷は塞がらない。先程抉られた肩口からは、未だに体液が流れ落ちており、致命傷とはならないまでも、足枷になる事は明らかであった。

 

「ベホマ」

 

「……そうですよね。メルエに任せるとは言いましたが、援護をしないという訳ではありません」

 

 たが、別段、それが脅威になる訳ではない。治癒能力が無いのであれば、それを補えば良い。補う力を持っている者は、後方に控えているのだ。

 手を翳して氷竜に向けて最上位の回復呪文を唱えたのは、当代の勇者。その行動に納得したような笑みを浮かべ、回復呪文の詠唱の準備に入ったのは、一行の回復役であり、頭脳である賢者であった。

 竜種の身体になったメルエに回復呪文が効果を示すのかは未知であったが、淡い緑色の光に包まれた氷竜の傷が塞がって行くのを見たリーシャは安堵の溜息を吐き出す。

 

「ぐぬぬぬ。全て焼き尽くしてくれるわ!」

 

 全てが自分の思い通りに行かぬ事に憤ったキングヒドラは、回復した首を合わせた五つの頭部全ての口から炎を吐き出す。炎の渦となって吐き出される火炎は、本来であれば、生物全てを焼き尽くす程の威力を誇る物だろう。

 だが、如何にキングヒドラが強力な竜種といえども、炎だけに特化した竜種ではない。対する氷竜は、雪原や氷土に生息する竜である。その吐き出す冷気は、例え本来の竜王が吐き出す炎であっても相殺する事が出来る程の力を有していた。

 吐き出された渦巻く火炎に向かって一気に吐き出された冷気は、その衝突によって全てを水蒸気に変えながら相殺して行く。高温の水蒸気がカミュ達の視界を塞ぎ、氷竜とキングヒドラの姿さえも見えなくなって行った。

 

「グオォォォ」

 

「危ない!」

 

 そんな高温の水蒸気の中、突如としてカミュ達の前に巨大な頭部が飛び込んで来る。長い首の一つがカミュ達に牙を向き、突っ込んで来たのだ。

 後方に居たサラの声に、最前に立っているカミュが盾を掲げるが、その牙を防ぐには間に合わない。大きな口にカミュが飲み込まれると思ったその時、勢いをつけて伸びて来た首が、それ以上の速度で床へと落ちた。

 何かを捻じ切るような不快な音がフロアに響き、勢いをつけた竜種の頭部が弾け飛ぶ。天井まで飛んだ頭部は、凄まじい音を立てて潰れ、大量の体液と共に再び床へと落ちて行った。

 

「……メルエ」

 

 高温の水蒸気によって生み出された霧が晴れたその場所には、一つの首を踏み潰した氷竜が大きな雄叫びを上げていた。

 カミュ達に向かって来た首を、上から力を込めて踏み潰し、その勢いで捻じ切っている。未だに動く首を踏みしめたままに大きく口を開け、大量の冷気を吐き出し、キングヒドラの一つの首を完全に封じ込めてしまった。

 怒り狂うキングヒドラの首が氷竜へと次々と襲い掛かる中、その一つを短い前足で掴んだ氷竜は、大きく口を開けて牙を突き刺す。暴れる首を前足で押さえつけ、尚を深く牙を突き刺す氷竜に向かって吐き出されたキングヒドラの炎は、氷竜が持つ大きな翼によって防がれ、その美しい銀の鱗には届かなかった。

 

「グギャァァァ」

 

 それが氷竜の雄叫びなのか、それともキングヒドラの悲鳴なのかは既にカミュ達には解らない。だが、喰い千切られたように落ちて来たキングヒドラの頭部が持つ瞳から光が失われて行った事が、キングヒドラの劣勢を物語っていた。

 だが、跳ねるように床で暴れ狂う首の一つの体液が泡立ち、その泡が徐々に頭部を形成して行くのを見て、カミュ達は声を失う。傷が癒えるという所までは想定内であったが、欠損部分の修復まで出来るとなれば話は別である。それは魔王バラモスが腕を再び生やした力と同等の物を持っている証拠であり、カミュ達がキングヒドラを侮っていた証拠でもあった。

 

「グオォォォォ」

 

 だが、そんなカミュ達の焦りを吹き飛ばすように、形成しかけた頭部に再び巨大な足を振り下ろした氷竜が雄叫びを上げる。それは、まるで勝利を確信したかのような咆哮であり、踏み潰され、弾け飛んだ頭部の体液が、キングヒドラの敗北を予知していた。

 回復するのであれば、回復する速度よりも速くに命を刈り取れば良い。それは弱肉強食という自然界の掟であり、竜種のような太古から生きる者達の絶対的な物差しの一つでもある。

 踏み潰された首は再び凍結され、キングヒドラの首も残り三つとなる。その状況になっても、後方に居る筈の大魔王ゾーマから横槍が入る事がない。絶対的な信頼をキングヒドラに置いているのか、単純にその戦いを見守るつもりなのかは解らないが、不気味である事だけは確かであった。

 

「許さぬ! 許さぬぞぉ!」

 

 キングヒドラの中央の首が氷竜へ怨嗟の咆哮を上げる。その瞳は怒りに燃え、既に焦点さえも定かではない。中央の首を護るように左右の首が炎を放ち、フロア全体を赤く染める中、その動きを冷静に見つめていた氷竜の尾が唸りを上げた。

 一体の頭部の側面に直撃した尾は、大きく撓りながら振り抜かれ、首を床へと落とす。落ちた傍からその頭部は氷竜によって踏み潰され、その足を退けようと動き出した首は、氷竜によって嚙み付かれた。

 キングヒドラの中央の頭部と、氷竜の頭部が睨み合う。既に踏み潰された頭部は再生する事も出来ずに沈黙している。未だに牙が突き刺さっている首も徐々に力を失い、だらりと垂れ下がった。

 

「終焉だな」

 

 それは、カミュ達の言葉ではなかった。

 遠く離れた生贄の祭壇にある玉座から発せられたその言葉は、竜の王を名乗るキングヒドラと、絶滅した太古の氷竜との戦いの幕引きを伝えていた。

 最早、理性さえも失ったキングヒドラは、一体の首を吐き出すように放り投げた氷竜に向かって牙を向ける。だが、一体の首しか残されておらず、その首と吐き出す炎という攻撃方法しかないキングヒドラが、竜種の最上位に君臨する氷竜に勝てる道理など存在していなかった。

 

「……ジパングで私達が起こした物は、本当に奇跡に近い物だったのですね」

 

 サラは、その戦いの終わりを眺めながら、五年近く前に戦ったヤマタノオロチという存在を思い出してた。

 ジパングという異教の国を脅かした産土神。それは、あの小さな島に太古から生息する一体の竜種であった。目の前で命の灯火を消そうとしているキングヒドラを越える八体の首と、八本の尾を持ち、吐き出す炎は一国を焼き尽くす程の威力を誇る正真正銘の化け物。それが、ジパングの国を絶望に追いやったヤマタノオロチという竜種である。

 メルエが怯えた竜種の内の一つ。今から考えれば、もし、先代国主であるヒミコがその力を弱めていなかったら、あの時のカミュ達では、どれ程の幸運があろうと、どれ程の加護があろうとも、勝利する事はなかっただろう。

 もしもの話になるが、ヤマタノオロチがジパングの外の世界を望んでいたとすれば、あれもまた、竜王の一角に位置するだけの存在だったのかもしれない。少なくとも、キングヒドラという竜種よりも上である事だけは確かであろう。

 

「オルテガ様は生きてはいたが、あれはお前の親の仇でもあるが、良かったのか?」

 

「……アンタは俺に何を求めている? 俺が殺そうと思っていた相手を先に殺したという恨みはあっても、仇と思った事はない。アンタがいる以上、俺がオルテガを殺せなかった事を考えれば、一度は殺してくれたあの竜種に感謝こそしているぐらいだ」

 

 氷竜の尾が唸りを上げ、キングヒドラの即頭部を殴打する。その勢いのまま巨大な体躯が壁に激突し、追い討ちを掛けるように氷竜の前蹴りがキングヒドラの腹部へと突き刺さった。

 その最後の攻防を見ていたリーシャは、一度息を吐き出した後で、隣に立つカミュへと問い掛ける。既に勝敗は決しており、大魔王ゾーマの横槍さえ入らなければ、メルエの勝利は揺るがないだろう。そして、あれだけの自信を持って少女がドラゴラムを唱えたのならば、それはその呪文を完全に修得している証拠であり、勝利後に戻る術も把握している証拠であった。故にこそ、リーシャは軽口を叩いたのかもしれない。

 それに対してのカミュの返しもまた、余裕を持っている証であった。

 

「グギャ……ォォ」

 

 腹部に突き刺さった氷竜の足は、キングヒドラの臓物を破壊したのだろう。残る頭部から大量の体液を吐き出したキングヒドラは、憎しみと恨みを宿した瞳を氷竜へと向けるが、最早、抗う術は残されていなかった。

 再び振るわれた氷竜の尾が、首の中央へと突き刺さり、キングヒドラは巨体ごと横倒しに倒される。それでも何とか抵抗を試みたキングヒドラの口が開くと同時に、氷竜は両足をその頭部目掛けて踏み抜いた。

 爆発するようにキングヒドラの頭部が弾け飛び、周囲に大量の体液と脳漿が飛び散る。先ほどまでキングヒドラが吐き出していた炎の海の中へと消えて行き、燃え盛る炎と共に消滅して行った。

 残る胴体に向かって大きく口を開けた氷竜は、その全てを凍結させる冷気を放ち、完全に氷漬けになったキングヒドラの身体を踏み抜く。砕け散る体躯は、その中身までも凍らされており、それはどれ程の炎によっても融解する事が無いようにさえ思われる程であった。

 

「ふむ。流石は、古の竜王の側近と云われた種族の末裔と言ったところか……」

 

 勝利の雄叫びを上げた氷竜の身体全体が光に包まれ、徐々にその姿を変化させて行く。光が収束すると共に幼い少女の姿へと戻ったメルエは、大きく息を吐き出した後、近寄って来たカミュ達に笑みを浮かべた。

 その時、闇の炎と、竜種の吐き出した炎によって照らし出されたフロアの最奥にある祭壇から、小さな拍手の音が響く。緩慢なその音は、相手を嘲笑っているようにも聞こえた。

 その音は、先程までの戦闘によって生まれた小さな余裕さえも掻き消す。この大魔王にとって、キングヒドラと勇者達の戦闘など、単なる余興に過ぎないのだ。

 氷竜となったメルエの圧倒的な勝利だったといえども、キングヒドラ自体は決して弱い訳ではない。このアレフガルド大陸の魔物や魔族の中では、単体では最強と言っても過言ではないだろう。それでも、大魔王にとっては単なる駒の一つでしかなく、そこに何の感情も湧く物ではないのだ。

 それがどれ程に恐ろしい事実なのかを知るのは、今、目の前で対峙しているカミュ達以外いないだろう。自分の額から頬へ流れ落ちる冷たい汗を感じながら、カミュはメルエを護るように祭壇と少女の間に入った。

 

「良い余興であった。その娘もまた、ここで朽ちるのだ。竜の因子を持つ人間であろうと、全ては余の生贄となる存在。その娘が生贄として奉げられた時の絶望もまた、余の愉悦となろう」

 

 警戒心を剥き出しにしたカミュを嘲笑するように揺れる影は、古の賢者の末裔であるメルエの存在を把握しても、それを歯牙にも掛けていない。むしろ、その少女の命が消え失せ、カミュ達の顔が絶望に歪む事への期待さえも口にした。

 下僕の一人であるキングヒドラを圧倒する力を見せて尚、大魔王にとってカミュ達四人は、相手をする価値さえもない存在なのだろうか。底知れぬその力に、再び恐怖が胸を突く。何度押し込めても、何度抑え込んでも、呼び覚まされる恐怖。それは、大魔王ゾーマという存在が、カミュ達の想像を遥かに超える強大さを持つ事を証明していた。

 

「だが、その因子が未だに残っているという事実は消えぬ。責任は取らせねばなるまい」

 

 そして、玉座にある強大な影が再び手を翳す。濃くなる瘴気が、再びあの厄介な状況を生む前触れである事を示していた。

 案の定、一歩踏み出したカミュの目の前の空間に歪みが生じ始める。先程、キングヒドラが登場した時よりも大きな歪みは、フロア全体にまで及び、空気そのものの時間が停止したように固まって行った。

 固まった大気に亀裂が入り、その亀裂は一気に広がって行く。ガラスが割れて行くような軋む音を響かせ、亀裂の隙間から濃い瘴気が噴き出して来た。

 それは新たな恐怖の前触れであり、カミュ達一行の肌を、経験のある威圧感が襲う。

 そして、それは現れた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
遂にゾーマの登場です。
その真価はまだ先ですが、遂にここまで来たかという感じです。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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