新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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バラモスブロス

 

 

 

 カミュ達の目の前でひび割れた空間が弾ける。広がった亀裂が破裂するように割れ、それは現れた。

 カミュ達四人が忘れる事のないその姿。上の世界を恐怖で覆いつくしていた魔王。長年、多くの者が討伐に向かいながらも、その誰もが辿り着く事さえ出来なかった、魔の頂点と考えられていた存在である。

 醜い姿を隠すような余裕のある衣服を纏い、弛んだ贅肉を覆い隠している。頭部に突き出た瘤のような物も、その不気味な色をした舌も、人間とは異なる本数の指も、なにもかもがあの場所で遭遇した時と同じ姿をしていた。

 ただ、その肌の色はどす黒く、生者の雰囲気も持ち合わせてはいない。あの時奪った両腕も再生されてはいても、その瞳の光は暗く、まるで意識さえも失っているかのようであった。

 

「……バラモス」

 

「我は魔王バラモス。いや、ゾーマ様のお力によって再度機会を与えられた故、同一の存在ではないだろう」

 

 瞳の光は暗くとも、その意識は保っているのだろう。暗い瞳をカミュに向けたバラモスは、自身の名を名乗った。

 この魔王の姿は、生前の物と遜色はなく、その圧倒的な魔力はその頃よりも上であろう。雄叫びのような高笑いがフロアに響き渡り、その巨体を揺らしていた。バラモスの体躯は、カミュやリーシャの倍近い。その巨体が揺れる為、フロア全体が地響きを立てている。

 カミュやリーシャは、その誇らしげに吼える物から漂う微かな死臭を感じていた。皮膚も肉も腐っているようには見えないが、それでも隠し切れない死臭と腐臭。それがこのバラモスだった物の実態を明確に物語っていた。

 

「我の名は、バラモスブロスである!」

 

 既に、上の世界でカミュ達に敗れた魔王は存在せず、自分こそはその兄弟であると高らかに宣言する存在を見ながら、その脳までも腐敗しているのではないかとカミュ達は感じていた。

 如何に強大な魔法力を持っているとはいえ、大魔王ゾーマが死者を完全に生き返らせる事が出来るとは思えない。生前のバラモスでは耐えられない程の魔法力をその身体に注ぎ込んでいる可能性は高く、その為に魔力こそ生前よりも高くなっているが、知能などの余分な機能が低下しているのだろう。

 あの広大な上の世界全てに恐怖を撒き散らし、数多くの強者を退け、英雄オルテガでさえ触れる事も叶わなかった魔王が、このような浅慮な宣言をする筈がない。このバラモスブロスの言葉通り、最早、魔王バラモスはこの世に存在していないのだ。

 

「バラモス……いや、バラモスブロスであったか? 余の記憶が正しければ、『竜の因子を受け継いだ賢者の血は絶えた』と報告を受けた筈だが?」

 

「ゾ、ゾーマ様……それは」

 

 先程まで自身の内から漲る力を誇示するように高笑いをしていたバラモスブロスの身体が硬直する。後方から響く声は、とても静かでゆったりとした物にも拘らず、それは聞く者の身体の奥底にある根源を揺さ振る程に激しい何かに満ちていた。

 言い淀むバラモスブロスがカミュ達から視線を外すが、その隙を突く事さえも出来ない。このフロアの支配者が誰であるのか、そしてこの世界の命運を誰が握っているのかを、その声が明確に語っていた。

 

「良い。余は過程は問わぬ。今ここにその血を受け継ぐ者がいる……それだけの事だ。ならば、何をするべきなのかは解っておろうな?」

 

 新たに強大な力を得たバラモスブロスは、先程までの高揚感など霧散したように表情を歪める。

 魔王バラモスであった頃、古の賢者であるメルエの曽祖父を自ら倒し、その血を受け継ぐ孫をテドンで殺したとミニデーモンから報告を受けた。故にこそ、彼は未だに力を取り戻してはいないゾーマに、竜の因子を受け継ぐ血は途絶えたと報告を入れたのだろう。

 だが、魔王城にて、カミュ達と対峙した際に、その因子の影を感じた。その頃はドラゴラムを修得していても行使する事がなかったメルエではあるが、バラモスが大魔王より授かった最上位の火球呪文を見ただけで解読し、あろうことか行使した姿を見て、バラモスは確信したのである。

 古の賢者の中でも特出した魔法力を持ち、その呪文の威力は魔族よりも優れ、魔王と並ぶ程と云われた血。大魔王ゾーマからすれば、その因子も恐れるような物ではないのかもしれない。だが、その配下であるバラモスを始めとする多くの魔族から見れば、それは脅威以外の何物でもなかった。

 今、ゾーマがバラモスに対して語った通り、メルエの中に流れる血などどうでも良い事なのだろう。問題は、排除したという報告を受けたにも拘らず、それが自分の目の前に現れたという事実だけであった。

 

「そ、即座に、その首をゾーマ様に奉げます!」

 

 その言葉を発したバラモスブロスが振り返る。動く巨体に床は揺れ、幼いメルエは尻餅を突いた。そして、顔を上げた彼女に大きな影が差す。

 見上げる程に大きな巨体は、真っ直ぐにメルエを見下ろしていた。標的と化した少女を一握りに殺そうと睨みつけ、それに向かってバラモスブロスが手を伸ばした時、バラモスブロスとメルエの間に一つの影が割り込む。

 伸ばされた腕に大きな斬り傷が生まれ、そこから腐敗した体液が噴き出した。

 

「き、貴様!」

 

「生き恥を晒すな」

 

 元魔王と少女の間に割り込んだのは、その魔王を討ち果たした勇者。その当時よりも飛躍的に力量を伸ばし、その手には全世界の生命の願いを具現化させた剣を握っている。その希望の光が、魔王であった者に対して、その在り方を否定するような事を口にした。

 斬り付けた腕の傷口から噴き出した腐敗した体液が泡立ち、それを修復して行く。生前のバラモスが持っていた能力の一つではあるが、その能力も低下しているのか、傷の修復速度は遅くなっていた。

 見下ろすように睨み付けるバラモスブロスに対しても引かない勇者は、斧を手にして近寄って来た女性戦士を片手で制す。まるで先程のメルエのように一人で戦うという意思表示のように見え、それにリーシャとサラが驚きを示した。

 

「カミュ、それは無理だ」

 

「……いや、俺がやる」

 

 カミュの隣に出て来たリーシャは、彼の行動を諌める為に口を開くが、視線をバラモスブロスへ固定したままの彼は、その諫言を跳ね除ける。その瞳を見たリーシャは、小さな溜息を吐き出した。

 大魔王ゾーマという存在を前にして張る意地ではない。バラモスブロスという相手を倒さなければ、ゾーマと戦う権利さえも得る事が出来ないというのは事実であるが、それでもカミュという存在を失う可能性があってはならないのだ。

 バラモスブロスがキングヒドラよりも強敵である事は確かであろう。仮にも魔王として君臨した過去を持つ存在であり、今のその姿はその当時よりも更に負の力が増しているようにも感じる。如何にカミュが人外の力を有する『勇者』であっても、たった一人で戦いを挑んで無事である保証は何処にもないのだ。

 

「リーシャさん、メルエの時と同じです。カミュ様に任せるとしても、私達が援護をしないという訳ではありません」

 

「だが……」

 

 尚もカミュを止めようとするリーシャを制したのは、サラであった。頑固者の集まりであるこの一行の中で、最も頑固なのがメルエだとすれば、それに続くのはカミュであろう。それを誰よりも理解しているのはリーシャであるのだが、冷静にそのやり取りを見つめていたサラが口を開く。

 メルエの時も、竜となった彼女に任せるという選択を取った一行であったが、それでも彼女が傷つけば回復呪文を唱えていたし、もしも危機に陥ったとすればその間に入った筈であった。それは、カミュであっても同じであろう。例え、後にカミュから恨まれる事があったとしても、危機に直面すれば、リーシャ達が突入すれば良いだけである。

 騎士としての矜持がリーシャには残っているのかもしれないし、カミュという青年には男としての意地があるのかもしれない。だが、賢者であるサラや、魔法使いであるメルエには一対一に拘る理由はなく、それを遵守しなければならないという想いもなかった。

 

「忌々しい人間め! 貴様など、骨も肉も残らぬ程に我が滅してやろう!」

 

「……誰に敵意を向けたのかを思い知れ」

 

 魔王バラモスとの初対決の時から、バラモスのカミュへの評価は変わらない。この元魔王にとってはメルエという竜の因子を受け継ぐ存在だけが重要であり、カミュという勇者を重要視してはいなかった。

 そこがバラモスという魔族の限界だったのかもしれない。彼は、どれ程の地位を得ようとも、大魔王ゾーマの下僕であった。この魔族にとっての脅威は、その地位を危うくさせる存在であり、世界の希望となる者ではない。故にこそ、バラモスはメルエに執着したのだ。

 そのバラモスに対するカミュの言葉を聞いたリーシャは、場違いな溜息を吐き出す。その言葉を聞いてようやく、彼女はカミュが何故一人で前へ出たのかを察したのだった。

 彼がアレフガルドに来た理由は、メルエという少女の平穏の為である。極論から言えば、彼にとってアレフガルド大陸などどうなろうと興味はないのかもしれない。だが、その結果がメルエという少女の平穏を乱す物であれば、それを許しはしないのだ。まるで娘を想うように、妹を護るように、彼はその一点だけを望んでいる。その禁区へバラモスが踏み入ったのだった。

 

「全員仲良く吹き飛べ!」

 

「…………マホカンタ…………」

 

「マホカンタ」

 

 バラモスブロスが片腕を振り被る。その動作を見たサラとメルエが、早速動き出した。

 二人の杖が光を放ち、バラモスブロスと対峙するカミュと、自分達の隣に立つリーシャを魔法力で包み込む。それと同時にメルエは片手で自身へ同様の呪文を唱え、サラは杖を掲げてその内に秘められた効果を発現させた。

 魔王バラモスとの戦闘開始直後に使われた物と同様に、カミュ達の目の前の大気が一気に圧縮し、サラ達の詠唱が完成すると同時に弾け飛ぶ。ゾーマ城の最下層が揺れ、光と音が失われた。

 爆発による高温の熱を有した風が、カミュ達の前に立つバラモスブロスへ襲い掛かる。朽ち果てたような色の肌を焼かれたバラモスブロスは、爆風を鬱陶しそうに腕で払い、次の行動へ移ろうとしたところで、自分に向かって飛んで来る青白い光に気付いた。

 

「くっ……」

 

「うおぉぉぉ」

 

 爆風が跳ね返される勢いを利用して文字通りバラモスブロスへ向かって飛んだカミュは、光り輝く王者の剣を水平にしてその喉元へ向かって突き出す。

 青白く光り輝く鎧に刻まれた神鳥の姿、左手に装備した盾に刻まれた不死鳥の姿、そして願いを具現化した剣の鍔に描かれた霊鳥の姿が、光の翼を広げカミュを運んで行った。

 その速度はバラモスブロスの想定を大きく超えており、咄嗟に広げた掌を突き抜けた剣先は、その胸元へ深々と突き刺さる。光の槍となったカミュによって打ち抜かれたバラモスブロスの掌には大きな穴が開き、腐敗した体液が流れ出ていた。

 深々と突き刺さった剣を真っ直ぐに落ろそうと全体重を掛けたカミュは、振り払うように振り抜かれたバラモスブロスの手によって叩き落される。カウンター気味に入った一撃は、カミュの身体を床へ叩き付け、彼は真っ赤な血液を吐き出した。

 

「ぐっ……許さぬぞぉ! 骨さえ残らぬ程に燃え尽きろ!」

 

 掌の傷よりも胸元の傷の修復を優先したバラモスブロスは、塞がって行く傷口を庇いながらも大きく口を開く。その口の奥で渦巻く炎を見たカミュは、回復呪文を唱える事も後回しにして、青白い輝きを放つ盾を掲げた。

 ラーミアを模した象徴画が輝きを放ち、一気に吐き出された激しい炎を防ぐ。バラモスであった頃よりも強力な炎全てを防ぐ事は出来ないまでも、その勢いを大きく削ぎ、それを掲げる勇者の身体と、その後ろに控える三人の仲間達を護っていた。

 それでも防ぎ切れない炎の熱がカミュの肌を焼き、剣を握る右腕が焼け爛れる。だが、精霊神ルビスと共に封印されていた神代の鎧が、その火傷を徐々に癒して行った。

 

「小癪な人間め!」

 

 激しい炎を突き破り、再び剣を持って駆けて来るカミュを見たバラモスブロスの頭部に血管のような筋が浮かび上がる。怒りを隠そうともしないバラモスブロスは、突進して来るカミュに合わせるように拳を振り抜いた。

 だが、突き出された拳は、カミュの身体に当たる事なく、ゾーマ城最深部の床へと突き刺さる。凄まじい音と振動を響かせ、床に大きな亀裂が入っている事からも、バラモスブロスの一撃が強烈な物である事を物語っていた。

 

「ふん!」

 

 バラモスブロスの拳を回避したカミュは、そのままその巨体を支える足を横薙ぎに薙ぎ払う。王者の剣が光の筋を生み出し、その筋は強固な筈のバラモスブロスの皮膚を斬り裂いた。

 噴き出す体液と共に巨体が揺らぐ。そのまま追い討ちを掛けようとしたカミュであったが、突如横から現れたバラモスブロスの腕によって弾き飛ばされた。フロアを照らす闇の炎が灯る燭台へ直撃したカミュは、血液を吐き出しながら倒れ込む。しかし、間を置かずに自身へ回復呪文を唱え、追撃の炎を防ぐ為に盾を掲げた。

 

「リーシャさん、私達も参戦しますか?」

 

「いや……サラとメルエの魔法力を極力温存したい。もう暫くはカミュに任せる」

 

 一進一退というよりは、若干ではあるがカミュが圧され始めている事を感じたサラは、自分の前に立つリーシャへ問いかける。だが、カミュが一人で戦う事を最も反対していた筈のリーシャは、首を横へ振った。

 この先の戦いは、バラモスブロスの後方で静かに戦いを見つめる大魔王との激戦となろう。その時には、サラが持つ様々な補助呪文と、メルエの持つ圧倒的な火力が不可欠となる。それをカミュも理解しているのかもしれない。圧倒的な魔法力を持つ大魔王が相手となれば、最終的に物を言うのは、カミュやリーシャが持つ直接的な攻撃である事は間違いではないが、それでも彼等が持つ刃を大魔王へ届かせるのは、後方支援組二人の呪文である事は確かであった。

 しかし、バラモスブロスという敵が、いつまでもそのような状態を続けられる程に甘い相手ではない事も事実であり、自分達も参戦しなければならない状況になるとは考えてはいる。それでもまだその時ではないというのがリーシャの決断だった。

 

「そんなに心配そうな顔をするな、メルエ。カミュは大丈夫なのだろう?」

 

「…………ん……カミュ………だいじょうぶ…………」

 

 心配そうにリーシャを見上げるメルエの頭に手を置いたリーシャは、再びカミュとバラモスブロスとの戦闘へと視線を向ける。そして、その問いかけを受けた少女は、自信満々に大きく頷き、同じように絶対的保護者である青年へと視線を動かした。

 リムルダールでの最後の朝、カミュが発した『大丈夫』という言葉を初めてメルエが受け入れている。それまでは、一行の中の誰よりも信憑性のない言葉であった彼の『大丈夫』が、確固たる物へと変わった瞬間でもあった。

 その彼が満を持して前面へと立っている。無謀でも蛮勇でもなく、自信を持って一人で戦い始めた彼の力を彼女は信じていた。不安もあるし、恐怖もある。それでも、この少女の中にある特別な言葉を口にした時の彼の表情を思い出し、杖を握る手に力を込めた。

 

「鬱陶しい!」

 

「バイキルト」

 

 バラモスブロスが吐き出した炎を防ぎ切ったカミュは、その拳を掻い潜ってバラモスブロスへと肉薄する。近付くカミュを振り払うように振るわれた腕を避け、唸りを上げる蹴りをも回避した。

 そして、避け際に振るう王者の剣を、後方から援護の魔法力が覆う。光り輝く神代の刃に、人類唯一の賢者が放った魔法力が加わり、その攻撃力を大幅に上げた。

 一本の光の筋となった剣撃は、バラモスの左足の付け根を大きく斬り裂き、大量の体液を噴き出させる。裂傷の入った足では、巨体を支える事が出来ず、大きく崩れるようにバラモスブロスの身体が傾いた。

 

「甘いわ!」

 

 身体が落ちて来た事で一気に勝負を掛けようと駆け出したカミュの目の前の空気が一気に圧縮する。その呪文の効力に気付いたメルエとサラが詠唱に入る時には、歪んだ大気が一気に弾け飛んだ。

 凄まじい爆発音と凄まじい熱がフロア全体を覆い尽くす。爆発の煙が周囲を包み込む中、青白い輝きが上空に跳ね上げられていた。爆風によって弾き飛ばされたカミュはそのまま床へと落ち、光の鎧の能力によって徐々に身体が癒えて行くが、それでも爛れた皮膚がすぐに回復する事はなく、王者の剣を支えにゆっくりと立ち上がる。そして、それを待っていたかのように振り抜かれたバラモスブロスの拳を受け、壁に直撃した。

 

「ぐっ」

 

「…………リーシャ…………」

 

 バラモスブロスが放ったイオナズンは、後方で見守っていた三人にも被害を及ぼす。メルエを庇うように前に立ったリーシャの身体は、爆風の熱によって爛れ、吹き飛んだサラは大きな柱に背中を強打していた。

 マホカンタという呪文も、さざなみの杖の効力も間に合わず、勇者一行は瞬く間に崖っぷちに追い詰められる。カミュに攻撃を任せていたという理由はあるが、魔王バラモスの唱えるイオナズンという呪文に対する警戒が弱かったというのが最大の理由であろう。

 背中を強打したサラが大量の血液を吐き出す。内臓を傷つけてしまったという事が明確に解るその行為を見て、メルエがあの時の恐怖を思い出してしまった。

 全員が倒れ伏し、彼女の絶対的な保護者であるカミュさえもバラモスの暴力によって打ち伏せられる。その光景は、その三人によって光を与えられ、愛を与えられた少女にとって、絶望以外の何物でもなかった。

 自分の目の前に立つ女性戦士は、あの時とは異なり立ってはいるが、盾を翳す腕も、斧を持つ腕も、痛々しい程に焼け爛れている。焦げ臭い匂いを放ちながらハラハラと床へ落ちる髪は、輝くような金色ではなく、炭化したような色をしていた。

 後方に弾き飛ばされた賢者は、あの時のように脊髄を傷つけた訳ではないのだろうが、床へ倒れ伏し動く事が出来ない。拳によって殴りつけられた勇者もまた、立ち上がろうとしてはいても、剣を支えにしなくてはならない程の状態であった。

 

「…………サラ…………?」

 

 しかし、大魔王ゾーマの魔法力によって安易な増強をしたバラモスとは異なり、勇者一行は、バラモスを討ち果たしてから更に二年以上の時間を掛けて成長を続け、様々な神秘と向き合って来たのだ。

 泣きそうに眉を下げていたメルエの瞳に映る保護者達が淡い緑色の光に包まれる。目の前の戦士の火傷が消え、立ち上がろうとしていた勇者が駆け出した。そのような神秘を施せる人間など、メルエが知る限りは一人しかいない。

 そして、振り返ったメルエの瞳に映った姉のように慕う人物は、これまで彼女が知るそれではなかった。まるで、ルビスの塔という場所で見た精霊神ルビスのように神々しく輝き、聖なる祠で見た儚い青年のような存在感を持っている。

 頭に付けたサークレットに嵌め込まれた濃い青色をした宝玉は、その人物を包み込むような輝きを放ち、その輝きをカミュ達全員にまで届かせている。それは、彼女の力を誰よりも知るメルエにとっても、とても神秘的な物に映った。

 

「……ルビス様、ありがとうございます」

 

「…………サラ…………!」

 

 リーシャとメルエの許へ戻ったサラは、胸の前に手を合わせ、最早この世界にはいない精霊神への祈りを奉げる。その姿に感極まったメルエは、大好きな姉のような存在の腰へと抱き付いた。

 未だに完全に傷が癒えた訳ではない状態のリーシャが振り返り、サラの表情を見て何かを感じたように頷く。それに対して笑顔を見せたサラの視線の先には、再びバラモスブロスへと剣を振るう勇者の姿があった。

 

「そのサークレットに嵌め込まれた宝玉が、リムルダールで話に出た『賢者の石』なのだな」

 

「おそらくは……。ダーマ神殿にて、教皇様からこのサークレットを頂いた時、これはメルエの曽お爺様である古の賢者が残した物だと教えられました。『賢者様の知識と、ルビス様のお力が助けとなろう』という言葉の意味が、ようやく理解出来ました」

 

 リムルダールの町で町外れに居た青年が語った『賢者の石』という存在。何度も使用可能な回復の石。そのような奇跡のような物が実在するとは信じていなかった。

 古の賢者という存在が、このアレフガルドでも語り継がれているのであれば、その力の強さを誇張する為に作られた逸話なのだろうと考えていたのだ。

 だが、その石は実在する。背中を強打し、倒れ伏したサラの瞳に、同じように床に伏すカミュの姿と、全身に火傷を負っても立ち続けるリーシャの姿が映った。そしてその視界の端で、絶望の色を宿した瞳を向けるメルエの姿が見えた時、サラもまたあの絶望的な戦闘を思い出したのだ。

 あのような絶望を再びメルエに味合わせてならない。その一念で、立ち上がるよりも回復呪文を先に唱えようとしたサラの頭部から神々しい光が放たれたのは、その時であった。

 サラの修得しているベホマラーという呪文のように、彼女から離れた相手に対しても回復の光を注ぎ、その傷を癒す。その力は、最上位の回復呪文であるベホマには届かないまでも、ベホイミよりも上位に値するだろう。祈りに反応する『祈りの指輪』のように、『賢者の石』もまた、装備者の願いに反応する物なのかもしれない。

 

「何度も何度も忌々しい!」

 

「何度も相手をしてやる程、俺達も暇ではない!」

 

 バラモスブロスにとって、カミュ達こそ脅威であろう。バラモスブロスもまた、修復能力を有してはいるが、カミュ達のように、瞬時に完全回復が出来る訳ではない。何度倒そうと、何度吹き飛ばそうと、絶望に苛まれる事なく向かって来る人間の姿は、恐怖を感じる程に異様な姿であろう。

 忌々しそうに眉を顰め、向かって来るカミュに向かってバラモスブロスは拳を振るうが、先程派手に斬られた足の傷は癒え切っておらず、踏ん張りが効かない。腰の入らない拳が脅威になる事はなく、簡単に避けたカミュが、上段から王者の剣を振り下ろした。

 伸び切ったバラモスブロスの腕に入った剣先は、そのまま全体重を掛けた一振りによって真下へと抜けて行く。腐敗した体液を噴き出しながら、太い腕が床へと落ちて行った。

 

「グオォォォォ」

 

 斬り飛ばされた腕の痛みと、それによる怒りでバラモスブロスが雄叫びを上げる。そして、その怒りを吐き出すように口を開き、カミュに向かって激しい炎を吐き出した。

 だが、最早、カミュにとって炎など恐れる程の物ではない。真っ直ぐに掲げられた勇者の盾は、激しく燃え盛る炎を横へと受け流すようにカミュを護り、その身体に炎を届かせる事はなかった。

 炎の切れ目を見たカミュは、王者の剣を握り直し、真っ直ぐに剣を突き出す。足の修復が間に合わないバラモスブロスの胴体部分を覆う緩やかな布を突き破り、剣は肉を貫いた。

 腹部を突き刺され、そこから溢れる夥しい量の腐敗した体液が床を満たして行く。即座に修復に入るが、それを遮るようにカミュは剣を突き下ろした。

 

「き、貴様!」

 

 バラモスブロスにとっては、二度目となる死への恐怖。増強された力を以ってすれば、魔族さえも圧倒する魔法力を有する賢者の末裔だろうが、自分を討ち果たした勇者を名乗る人間だろうが、瞬時に消し去る事が出来ると考えていた。それにも拘らず、蓋を開けてみれば、続く劣勢。所々で呪文使い達の援護があったといえども、基本的に矮小な人間との一対一の状況の中で圧し負けている事に、怒りと焦りが浮かぶ。

 振り抜かれた腕を勇者の盾で防御したカミュであったが、その勢いを殺す事が出来ず、再び壁付近まで飛ばされた。追い討ちを掛けるようにその場所に向かって再度バラモスブロスが手を振り抜く。瞬時に圧縮する大気が、大爆発を起こし、床や天井の石を弾けさせ、土埃を巻き上げた。

 イオナズンという最上位の爆発呪文の影響をまともに受けてしまえば、如何にカミュであろうと五体満足にはいられない。だが、巻き上がる土埃を見つめている三人の女性に動揺はなかった。むしろ、杖を突き出した状態の少女を庇うように、二人の女性が一歩前に踏み出している。それは、青年自身が無事である事を物語っていた。

 

「何処へ行った!」

 

 爆発が引き起こした土埃が消えた後、そこにカミュの姿はなく、ひび割れた床石が散乱しているだけ。それに気付いたバラモスブロスは、鈍い動きで周囲を見渡す。先程貫かれた腹部へ自己修復機能を回した為、足の傷は未だに癒えていないのだ。

 周囲を見渡してもその姿は確認出来ず、バラモスブロスが怒りの叫びを上げた時、サラとリーシャの後ろに控えていた少女が杖を高々と掲げる。バラモスの方からその姿は見えず、前方を見ている二人もまたその姿を確認出来なかった。

 小さく呟くように紡がれた呪文は、サラでさえも聞き取る事が出来ず、誰も見る者の、聞く者のいない中、その呪文の詠唱は完成する。

 

「え?」

 

「カ、カミュ……」

 

 突如サラとリーシャの肩を掴んで前へ出て来た人物の姿を見た二人は、驚愕の言葉を発した。

 何故なら、先程爆風に巻き込まれた筈のカミュが、彼女達の後方から現れたからだ。カミュが生きているという自信はある。それは、バラモスブロスがイオナズンを唱える直前に、メルエがマホカンタを唱えているのをサラもリーシャも聞いているからであり、その爆風の余波がバラモスブロスの身体を多少なりとも傷つけているからであった。

 だが、瞬間移動のように、自分達とメルエの間に割り込んで来ているなどとは予想も出来ない。特にリーシャとしては、カミュが態々メルエを危険に晒すような行動を取る筈がないという思いもあった。

 それでも、サラとリーシャの間を割って出て来たのは、紛れもなくカミュそのものである。その姿形はカミュそのものであり、口を開いていない為に声は聞く事が出来ないが、見間違いなどという程度の物ではない。何から何まで同じ姿をした青年が荒れ狂うバラモスブロスの前に一歩踏み出した。

 

「そこか!?」

 

 だが、怒りに駆られたバラモスブロスは、その違和感に気付かない。初見は驚愕の声を上げたリーシャとサラであったが、一歩前へ踏み出した青年の姿を見て、その明確な違いを理解した。

 一歩前へ踏み出した勇者の姿をしたそれは、彼が身に着けていた神代の鎧も盾も持ってはいない。そして、手には剣ではなく、彼の身長よりも低い杖を握っていたのだ。その杖は、一行の内で唯一人が持つ事を許された物。その杖は所有者としてその少女を認め、その少女しか扱う事の出来ない物となっていた。

 そこから導かれる結論は、一歩前に出た者はカミュではなく、その姿を模した魔法使いの少女であるという事実。それが『悟りの書』に記された最後の呪文の効力である事を理解したサラは、改めてこの少女の異常性に驚きを表した。

 

「消え失せよ!」

 

 振り下ろされた拳がカミュに変じたメルエを打ち抜こうとする時、彼女の前に盾を掲げた女性戦士が割り込む。カミュ本人であれば、彼女が割り込む事もなかっただろう。だが、杖を持った勇者という奇妙な姿から全てを察した彼女は、その拳に耐えるだけの力はないと判断し、自らが攻撃を受ける為に前へ出たのだ。

 周囲の風の唸りが聞こえる程の拳が一直線に振り下ろされる。リーシャの瞳には、全ての速度が緩慢に見える程に緩やかに時間が流れ、来る衝撃に備える為に、床を力一杯踏み締めた。

 振り下ろしの攻撃は、本来は受けてはいけない攻撃でもある。上から全体重を掛けた攻撃というのは、受けてしまえばそれを弾き返す以外に方法はなく、攻撃者よりも腕力が上でなくては、徐々にその刃が受けた者へ迫るからであった。

 だが、そんな覚悟を決めたリーシャの意識は、一瞬の内に刈り取られる事となる。

 

「…………アストロン…………」

 

「え?」

 

 杖を持った勇者がその杖を振り抜く。そして、紡がれた言葉を聞いたサラは、先程以上の驚きを以って固まってしまった。

 紡がれた詠唱は、世界広しといえども勇者と呼ばれる人間にしか行使する事の出来ない絶対防御の呪文。どれ程に魔法力の才能を有していても、どれ程の魔法力の量を有していても、絶対に行使する事など不可能な筈の呪文であったのだ。

 しかし、サラの考えを否定するように、杖から発した魔法力は盾を掲げたリーシャを包み込み、その身体を何物も受け付けない鉄の塊へと変えて行く。完全に鉄と化した女性戦士像に向かって振り下ろされたバラモスブロスの拳が派手な音を立てて衝突した。

 何かが砕けるような音が響き、拳を形成していた骨が砕け、腐った体液が飛び散る。唖然とするサラを余所に、戦闘を終了させる最後の瞬きが煌いた。

 

「うおぉぉぉ」

 

「二度と会う事はないだろう」

 

 バラモスブロスの視界に入った確かな煌き。それは、全ての生命体の願いの結晶となる剣が放つ輝きであった。

 爆風を利用して高く跳躍したカミュが、重力に従って加速しながら落ちて来る。飛翔する神鳥のように鋭い輝きは、一気にバラモスブロスとの距離を詰め、その首へ剣を突き入れた。

 一閃。その言葉が当て嵌まる程に鮮やかな剣筋は、バラモスブロスの首を斬り裂き、その剣を持った人間が着地を果たす。カミュに向かって放ったバラモスブロスの苦悶の声の余韻が木霊する中、ゆっくりとした動作で剣に付着した体液を振り払ったカミュが言葉を漏らした。

 その言葉から遅れる事数秒、上の世界を恐怖に陥れ、ゾーマの力で甦った強者の首がゆっくりと床へと落ちて行く。まるで朽ち果てた果実のように落ちた首は、バラモスブロスという強者を支えていた魔法力が放出される契機となった。

 

「…………カミュ…………!」 

 

 既に呪文による変身が解け、元の姿に戻っていたメルエが、剣を鞘へ納めた青年へと抱き着く。『大丈夫』という魔法の言葉を心から信じていたのだろうが、それでも信頼と心配は別の物であるのだろう。嬉しそうに微笑みながらも涙を浮かべる少女の姿を見て、ようやく勇者にも小さな笑みが戻った。

 そんな二人の様子に頬を緩めたリーシャであったが、倒したバラモスブロスの末路を見て、再び顔を顰める。その視線の先を見たサラもまた、口元に手を当てて、その惨状から目を背けた。

 

「……なんて惨い」

 

 バラモスブロスであった物は、やはり正確に甦った訳ではなかったのだ。

 膨大な瘴気と魔法力によって、無理やり身体を形成されただけであり、その肉も皮膚も、既に腐敗が進み、彷徨う亡者となっていたのだろう。

 首を落とされた事で、バラモスブロスを形成していた魔法力と瘴気は霧散し、身体を維持する事が不可能となった。腐敗していた肉は、溶けるように崩れ、その奥にある骨だけが見えている。崩れ去る肉が放つ腐敗臭は強いが、全て瘴気となって闇の炎に吸い込まれて行った。

 魔王バラモスという強者の誇りと、自我を知っているカミュ達だからこそ、憐れみさえも感じるその末路に顔を顰めたのだ。

 

「よもや、モシャスまで使いこなすとは……。尚更に、その血筋を残したバラモスの罪は重いの」

 

 腐肉が全て消え失せ、残った骨が床へと崩れて行く。散乱したバラモスであった骨の向こうから、再び巨大な闇が声を発した。

 キングヒドラの時のように、カミュ達を嘲笑うような賞賛はない。だが、その余裕は些かも崩れる事なく、大きな威圧感を感じるものの、そこに殺気が含まれる事はなかった。

 他人事のようにメルエが行使した呪文を讃え、その血筋の持つ力を評価する。それでも、そこに何ら脅威を感じている様子はなく、ただ、その血筋を残してしまった部下の失態に困惑しているように装っていた。

 

「メルエが行使した呪文は、モシャスというのか?」

 

「…………ん…………」

 

「悟りの書の最後のページに記されていた呪文です。本来は、変化の杖のように姿形だけを変える呪文であり、古の賢者の一人が遊び心で残したのだと考えていましたが、まさか、変化した相手の持つ呪文などさえも行使出来るようになるとは……。おそらくですが、メラゾーマの魔法陣を読み解いたメルエだからこそ出来る芸当なのだと思います」

 

【モシャス】

サマンオサ国が所有していた国宝『変化の杖』のように、行使者の姿を変える事の出来る呪文である。だが、エルフや魔物、動物などという物にさえ変化出来る変化の杖とは異なり、呪文行使者がよく知る相手の姿にしかなれないという制限がある。ただ、変化する相手を深く知っているのならば、その効果の限界はない。その力やその能力さえも模写する事が可能であり、熟練者となれば、自身が行使出来ない呪文でさえも模写出来ると云われている。

 

「改めて、賛辞を送ろう。余興としては、十分であった」

 

 カミュ達一行の間の会話を遮るように発せられた大魔王の言葉は、最終決戦の開幕を示している。ようやく辿り着いた大魔王ゾーマという存在との対決に、武器を持つ全員の手に力が籠り、何も持たない手にはじっとりとした汗が噴き出した。

 だが、全員の死力を尽くした訳ではないとはいえ、魔族の最頂点に君臨すると言っても過言ではない相手との二連戦を経て尚、大魔王ゾーマの座る祭壇までは届かない。そして、それを断言するかのように掲げられたゾーマの手が、再び強い圧力を生み出した。

 

「だが、罪重き者には、その罪を濯ぐ機会を与えてやらなければなるまい。その苦しみも悲しみも、全て余の愉悦となろう」

 

 燭台に灯った全ての闇の炎が暴れ出す。噴き上がる瘴気の濃さは、キングヒドラ、バラモスブロスという強敵を葬ったカミュ達であっても、身動きさえ出来ない程に強かった。

 最悪の夢は終らず、覚める事もない。どれ程に踏み込んでも、どれ程に斬り込んでも、大魔王ゾーマの場所まで届かない。それでも彼等は一歩ずつ前へと進むしかなかった。

 それがどれ程の恐怖を感じる物であろうと、どれだけ険しい道であろうと、この場所まで辿り着いた彼等に、最早、後退という選択肢は残されていないのだ。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
GWも終わり、何とか今月中にもう一話と考えています。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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