新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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大魔王ゾーマ③

 

 

 

 吹き飛ばされ、地面に倒れ伏すリーシャへと駆け寄ろうとしたカミュが再び反対側の壁へと吹き飛ばされる。強烈に壁に衝突した彼は、盛大に血液を吐き出し、床を真っ赤に染め上げた。

 闇が支配するフロアに設置されている燭台には真っ黒な闇の炎が燃え盛り、先程以上に絶望的な闇がカミュ達全員を包み込んで行く。

 圧倒的な力の差。ここまで辿り着いたという実績によって培われた彼等の小さな自信が、急速的に萎んで行き、僅かに灯り始めた希望の炎も比例するように消え失せて行った。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 魔王バラモスとの戦闘時に感じた恐怖が幼い少女の胸に甦って来る。自分以外の全てが倒れ伏し、護る事が出来なかったという自責の念と、最早自分を護ってくれる者がいないという絶望的な状況を思い出したメルエの足が震え、立ち上がる事さえ出来なかった。

 そんな少女の姿を見たサラもまた、掛ける言葉も、打開する為の行動も思い浮かばずに立ち尽くす。最早、何度目になるか解らない祈りを奉げて賢者の石を起動するが、その回復の光が前衛二人に届く頃には、再び彼等の身体が弾き飛ばされていた。

 大魔王ゾーマの放つマヒャドの威力も抑え切る事が出来ておらず、周囲の気温は加速度的に下がって行く。吐く息も白くなり始めた頃に吐き出された凍えるような吹雪が一行の身体を縛りつけ、それを打開する為の灼熱呪文の詠唱さえも侭ならない。

 カミュ達勇者一行の進退はここに窮まっていた。

 

「ふははははは。良い表情だ。僅かばかりの希望に彩られていた瞳は濁り、絶望の闇へと染まって行く。これ程に美しい色があろうか」

 

 巻き起こる冷気の嵐の中、立ち上がりかけたリーシャを再度後方へと吹き飛ばしたゾーマが、愉悦に染まった声を発する。常に希望を捨てる事なく、一行の前に立ち続けて来た青年もまた、立ち上がった所を闇の腕にて殴りつけられた。

 勇者の盾と呼ばれる神代の防具を掲げ、その闇に抗おうとする彼ではあったが、周囲を支配する冷気によって身体は悴み、上手く動く事が出来ない。掲げる盾こそ凍りついてはいないが、生身の身体は、脳からの命令に忠実に動く事は出来なかった。

 

「メルエ、ベギラゴンで炎の壁を作ってください」

 

 リーシャとカミュが自分達の方へ吹き飛ばされた事を幸いに、サラは自分達と大魔王ゾーマとの間に炎の壁を生み出す事をメルエへ指示する。その壁がある間に、カミュとリーシャを回復させようとしていたのだ。

 だが、甦った絶望と恐怖は、サラよりもずっと幼く小さな身体を縛り付ける。頷きを返したものの、足の震えが止まらずに立ち上がれない。自分の背丈よりも大きな杖を前へ突き出すが、詠唱の言葉が出て来ないのだ。

 炎の壁を生み出す事が出来ないメルエを見たサラは、自分自身でベギラゴンを唱えようとさざなみの杖を前へと突き出す。だが、それよりも前に吐き出されていた猛烈な吹雪が、カミュ達全員を凍えさせた。

 

「きゃぁぁぁ」

 

 吹雪による冷気の風は、サラとメルエの身体ごと後方へと吹き飛ばす。雪の結晶が身体に付着し、その体温を急速に奪って行く。後方で倒れ伏したサラは、傍に倒れるリーシャへとベホマを唱え、自分達の周囲を囲うようにベギラゴンを詠唱した。

 巻き起こる灼熱の炎がカミュ達四人を囲うように燃え上がり、ゾーマから襲い掛かる冷気を遮断する。全てを燃やし尽くす程の火力を誇る灼熱系最上位の炎であっても、大魔王ゾーマを前にすれば、暖を取る為の手段に過ぎないのだ。それを理解してしまうと、恐怖から足が動かなくなる為に、サラは敢えて考えないようにリーシャの回復へと向かった。

 サラの後を這うように近付いて来るメルエの心は弱り切っているのだろう。最大の保護者であるリーシャやカミュは、彼女にとって母と父に近しい。その二人が何度も叩きのめされ、立ち上がって攻撃する事さえ出来ないという状況は、彼女の心の奥にある勇気の炎を掻き消してしまうだけの光景であったのだ。

 

「メルエ、この炎も長くは持ちません! 気をしっかり持って! 貴女は、誰が何と言おうと、人類最高位の魔法使いです。この私が保証します。メルエならば、単独で魔王の呪文さえも掻き消す事の出来るだけの才能を持っている筈です。恐い気持ちも解ります。逃げ出したい気持ちも解ります。でも、今、メルエしかカミュ様達を護る事の出来る人間はいないのですよ!」

 

 回復呪文を唱えるサラへ近付いて来たメルエの眉は完全に下がっている。不安と恐怖に押し潰されそうな少女の瞳に、今サラの姿は映っていないのかもしれない。

 カミュもリーシャも未だに意識を取り戻していない。縋り付くようにリーシャの身体へ近付く少女の肩に手を乗せたサラは、振り向いた彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて語り出した。

 その声は、彼女にしては珍しい程に強い物であり、まるで叱責しているかのような語気である。サラはそのように語気を荒げている事に自己嫌悪に陥りながらも、この人類史上最高位にいるであろう魔法使いを叱咤した。

 サラ達を囲う炎の壁の暖気は薄れ始めている。サラという人類唯一の賢者が放った最上位の灼熱呪文であっても、ゾーマが発する冷気を留める事は僅かな時間しか出来ないのだ。彼女は、それを理解し、認めざるを得ない。それと同時に、自分の無力さに唇を噛み締めていた。

 

「私では……私では抑える事も出来ません。メルエ、お願いします。カミュ様達が立ち上がるまで、私達を護って……」

 

 人類を救う『賢者』だと祀り上げられても、神魔両方の呪文を行使出来る、呪文に特化した存在だと謳われても、彼女一人では大魔王の呪文に対抗する事さえ出来ない。彼女が得意とする補助呪文の全ては、大魔王が発する凍て付くような波動によって、無に還される。攻撃呪文の威力は大魔王の足下にも及ばず、メルエという稀代の魔法使いが打ち消し損ねた余波を防ぐ事しか出来ないのだ。

 ここまでの旅路で、何度、自分の無力を嘆いた事だろう。何度、他者の能力を羨んだ事だろう。それでも、自分を奮い立たせ、自分が出来る精一杯の事をやり続けようと決意を固めて、前へ前へと歩んで来た彼女の心が折れた。

 絶望の闇に閉ざされ、頼りにする勇者と戦士が倒れ、回復の呪文の効果も、神代の道具の効果も追いつかず、立ち向かう為に打つ手さえ見つからない。頬を伝って行く涙は、哀しみや恐怖の為ではない。自分の無力さを嘆き、憤る、そんな悔しさの涙であった。

 

「…………サラ………すぐ……なく…………」

 

 そんなサラが妹のように愛する少女は、当代の賢者でさえも人類史上最高と評価する『魔法使い』である。どれだけ恐怖に苛まれようと、どれ程に絶望を刻まれようと、大好きな者達の危機には、必ずその心を奮い立たせ、立ち上がって来た勇士の一人であった。

 年端も行かぬこの少女を、勇者一行の一角と認めない者は多くいるだろう。どれ程に魔法力を有し、どれ程に強力な呪文を使いこなそうとも、彼女の名は、勇者一行として残っていかないかもしれない。

 それでも、ここまでの旅路の中で、彼女もまた、強大な敵に立ち向かって来た勇者の一人なのだ。

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 先程まで下がり切っていた眉を上げ、小刻みに震えて命令を利かなかった足を強引に動かした彼女は、長く共に戦って来た相棒を振るう。真の主の心を受けた杖先のオブジェの瞳が光り、先程サラが行使した物と同呪文だとは思えない程の灼熱の炎を生み出した。

 サラのベギラゴンの炎が消滅に向かい、それを突き抜けて来る凍えるような吹雪を、メルエの放った灼熱の炎が飲み込んで行く。その火炎は凄まじく、吹雪を飲み込んで尚、消滅する事もなく、闇に閉ざされかけたフロアを明るく照らし出した。

 

「…………メルエ……まもる…………」

 

 その決意の言葉に呼応するように、彼女の指に嵌められた小さな指輪が輝きを放ち、内なる魔法力を回復させる。しっかりと地面に立った少女の足の震えは既に止まっており、決意に燃えた瞳からは絶望の色さえも消え失せていた。

 あのルビスの塔から戻ったマイラの村で感じた絶望に比べれば、今の状況など、メルエという少女にとっては些細な物である。自分が大好きな者達から拒絶されるという、死よりも辛い出来事から比べれば、大好きな者達と共に死ぬ程度の恐怖など、あってないような物であった。

 あの朝、意を決して聞いた問いかけに、号泣しながらも永劫の確約をくれた姉のような存在の心が折れ掛けている。嬉し涙でもなく、哀しい涙でもなく、痛みに耐える涙でもない涙を流してまで、自分に向かって願いを口にした。

 『サラを泣かせたのは誰だ!』

 『大好きな、大好きな姉を虐めたのは誰だ!』

 そんな少女の怒りは、魔法という神秘となって、世界に姿を現していた。

 

「ほぉ、余と呪文を競おうとでもいうのか?」

 

 全ての冷気を飲み込んだ炎が役目を終えたように消滅し、その残り火で照らされたフロアの視界が晴れる。そして、先頭に立つ少女の前に、先程まで恐怖と絶望を撒き散らしていた圧倒的な存在が見えて来た。

 杖をしっかりと握った少女は、その燃えるような瞳を真っ直ぐゾーマへと向ける。大魔王という魔族だけではなく全ての頂点に立つ程の存在と、歴代最高位の賢者と謳われた者の末裔であり、人類史上の頂点に立つ魔法使いとの対峙。それは、新たな戦いの幕開けでもあった。

 

「マヒャド」

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 全体を覆う程の冷気を発する、氷結系最上位の呪文をゾーマが唱え終わる前に、それを打ち消すようにメルエが大魔王が生み出した最上位の火球呪文の詠唱を完成させる。

 空中に浮かび上がった巨大な魔法陣の中央から飛び出した火球の熱気が、襲い掛かろうとする氷の刃諸共に大魔王を飲み込もうと突き進んで行った。

 その火球の凄まじさは、メルエと共にここまで魔法という神秘を追い駆けて来たサラでさえも見た事のない物。周囲の大気さえも燃やし尽くすのではないかと思う程の熱量は、マヒャドによって生み出される氷の刃を次々と飲み込み、冷気のど真ん中に道を作るように飛んで行く。

 

「流石は、世界に名を轟かせる者の末裔よ!」

 

 だが、それでも大魔王ゾーマには届かない。

 マヒャドで生み出される氷の刃を溶かし尽くしても、大魔王が振るう闇の腕を突き破る事は出来ず、闇に覆われ、その勢いを失う。全てを融解する程の熱量を持ち、全ての呪文の中でも最上位の威力を持つその呪文であっても、大魔王ゾーマに傷を与える事は出来なかった。

 闇が支配していたフロアを明るく染め上げた火球は消え失せ、再び闇がフロア全体を覆い始める。悔しそうに唇を噛み締めたメルエが再び杖を強く握り、眼前の大魔王の動きを注視した。

 

「ふむ……。ここまでメラゾーマを操るとは、予想外であった。まさか、余の腕にその痕を残すとはな」

 

「え?」

 

 しかし、メルエの予想は外れ、ゾーマは追い討ちの攻撃を繰り出す事はなかった。回復呪文をカミュ達へ掛け続けていたサラは、そんなゾーマの呟きに驚きの声を上げる。その呟きが真実だとすれば、深い闇の更に奥に、大魔王ゾーマの本体があり、先程のメラゾーマでその身体を傷つける事が出来たという事になるのだ。

 それは、ここまでの絶望的な戦いに、僅かな光明が差した事を意味している。大魔王ゾーマという絶対唯一の存在に対しても、自分達の攻撃は効果があるという証明になるからだ。

 だが、それでも賢者サラは軽挙には出ない。その言葉こそが、ここまでと同様に自分達を惑わせる為の言葉である可能性を否定する事が出来なかったからである。

 『大魔王ゾーマも傷つけられる』という考えは、サラ達の希望となる。その一筋の希望に目が眩み、全体の闇の深さを忘れた時、何時の間にか周囲は闇に染まり、再び深い絶望へと落とされるのだ。希望を見つけた者が陥る絶望の淵は、果てしなく深くなる。それこそが大魔王ゾーマが望む愉悦である事をここまでの戦闘で深く刻まれているサラだからこそ、この場面で逆に心が冷めて行ったのだ。

 

「マヒャド」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 そして、サラの考えが的確である事を証明するように、大魔王ゾーマが最上位の氷結呪文を唱える。間髪入れず、メルエが杖を振るい、最上位の灼熱呪文で相殺しようと動き出した。

 覚醒を果たしたメルエの灼熱呪文は凄まじく、大魔王が放った冷気と拮抗しているように見える。元々、火炎系の呪文よりも氷結系の呪文を得意とするメルエではあるが、人類史上最高の『魔法使い』と称される才能を持っているのだ。人類で、彼女以上の火力を魔法で顕現させる事が出来る者は誰もいないだろう。

 だが、それでも大魔王までは届かない。炎の壁を作っても、それで氷の刃を防いでも、術者である大魔王を傷つける事は出来ず、むしろ冷気の余波がメルエの持つ雷の杖に霜を降ろして行く。氷竜の因子を受け継いだ彼女だからこそ、その冷気の中でも凍り付く事なく動いてはいるが、通常の人間であれば、身動きが出来なくなる程の冷気であった。

 

「…………むぅ…………」

 

「フバーハ」

 

 寒さに強いとはいえ、メルエもまた人間である事に変わりはない。凍りつくような冷気を受ければ寒さを感じるだろうし、真っ赤に染まった手は、思うように動かなくなっているだろう。どれ程の決意があっても、どれ程に強い怒りがあっても、彼女が願う未来を勝ち取る事が出来ない事に幼い少女は不満の声を漏らした。

 しかし、そのような余裕は戦闘中に長く続く訳はなく、即座に生み出された凍えるような吹雪が前面に立つメルエに向かって襲い掛かる。それを察したサラが再び霧の壁を生み出すべく、フバーハという呪文を詠唱するが、その冷気全てを防ぐ事は出来ず、メルエの身体は凍えて行ったのだ。

 

「ふはははは。呪文合戦も、余の勝ちであるな」

 

 その言葉は、圧倒的な威厳を持ち、そしてそれ以上の余裕を感じる。大魔王ゾーマにとって、勇者一行との戦闘など、勝敗を決する程もない余興なのだろう。それを敢えて、『自分の勝ちだ』と口にするのは、愚かにも自分に呪文合戦を挑んで来たメルエを嘲笑う事を目的としているのだ。

 努力を重ね、希望を見出し、それに向かって突き進む者を蹴落とす存在。希望を持った者が落ちる場所は、全てが闇に閉ざされた絶望の谷底である。その谷底に突き落とす為の呪文が、大魔王によって発現された。

 悴んだ身体で杖を振るう事が出来ないメルエの眼前に、無数の氷の刃が生み出される。その全てが、メルエに向かって鋭い切っ先を向け、空中に停止していた。

 

「さらばだ、竜の王族の末裔よ」

 

 大魔王の言葉と同時に、天井を埋め尽くさんばかりの氷の刃が、一斉に幼い少女に向かって降り注ぐ。その刃の数量は、先程までのマヒャドとは比べ物にならない。咄嗟に最上位の灼熱呪文を唱えたサラであったが、生み出された炎の海を突き抜けて、無数の刃はメルエの身体を目指して飛んで来た。

 手は残されていない。人類史上最高の魔法使いは凍えて動けず、人類唯一の賢者の放った灼熱呪文は氷の刃全てを融解させる事は出来なかった。

 サラの目には、メルエに襲い掛かる氷の刃の動きがとても緩慢に見える。ベギラゴンの炎を突き抜けて来た氷の刃の輝きを見たサラ自身が発した声も、自分の耳に入って来るのが異常に遅く感じ、その声自体も自分の物とは思えない奇声であった。

 伸ばす手は届かず、足が床に打ち付けられたように動かない。メルエを護る絶対的な防御呪文をサラは行使する事が出来ず、モシャスを唱えていないメルエがその呪文を行使する事など不可能である。そもそも、そんな呪文の行使をしている猶予は残されていないだろう。

 自分が感じる時間の流れと、メルエの目の前に迫っている氷の刃の速度は異なっているのではないかと錯覚する程に、それは一瞬の出来事だった。

 

「…………カミュ…………」

 

 サラの周囲の時間が再び正常な流れへと戻ったと同時に、メルエの呟きがフロアに響いた。

 幼い少女の前には、盾と剣で氷の刃を砕き切った勇者の背中があり、その横には、同じように盾と斧で氷の刃を吹き飛ばした戦士の背中がある。それが、全てを物語っていた。

 回復呪文を唱え終える前にメルエの戦いに意識を向け、それを援護しようとサラが動いた時には、既にこの二人は動き出していたのだろう。未だに癒え切れぬ傷を抱えたまま、彼等二人は戦いに再び身を投じたのだ。

 

「すまないな、メルエ。随分、待たせてしまった」

 

「…………ん…………」

 

 振り向きもせずにメルエへ謝罪の言葉を漏らすリーシャの斧には、未だに霜が付着しており、力の盾に付着した氷も溶け切れていない。それでも自分の目の前に立つ二人の背中以上に頼もしい物など、彼女にとってこの世にはなく、嬉しそうに頬を緩めて頷きを返した。

 ベホマという最上位の回復呪文で癒されているとはいえ、氷竜の因子を持つメルエでさえも凍えそうな冷気の中で動く事など本来は出来る訳がない。光の鎧という神代の鎧を身に纏っているカミュならば、幾らかは軽減されるだろうが、リーシャは別であろう。

 それでも毅然と立つその姿こそ、真の英雄足り得る資質を秘めた者ならではなのかもしれない。

 

「何度立ち上がろうとも、同じ事よ。しかし、そこまでしてもがき生きる姿、滑稽でありながらも余を愉しませる。その先にある絶望の強さを思えば、哀れではあるがな」

 

 何度傷つこうとも、何度死に瀕しようとも、常にこの一行は立ち上がり、道を切り開いて来た。

 魔王バラモスは、その諦めの悪さに恐怖し、苛立っていただろう。だが、目の前の大魔王ゾーマは、そのもがきさえも愉悦としている。この大魔王はそれ程に余裕を持っているという証拠であった。

 これ程にカミュ達が痛め付けられ、活路を見出せぬ状況に追い込まれているにも拘らず、ゾーマは余力さえも残した状態での戦闘であるのだろう。それがどれ程に絶望的な状況かを理解出来ないカミュ達ではない。それでも、この場から逃げ出す事が出来ない以上、戦い、勝利するしかないのだ。

 

「カミュ、ここに来る前にお前に話したように、私は絶対に生を諦める事はない。だが、それだけでは生き残れないのかもしれないな」

 

「……『死ぬな』としか言えない」

 

 オルテガを救う時、リーシャはカミュへ宣言している。絶対に生きる事を諦める事なく、絶対に死を受け入れる事はないと。だが、この大魔王を目の前にして、自分が発した言葉が如何に無責任な物であったかを思い知った。

 圧倒的な力を前にして、気を抜けば即座に絶望に飲み込まれてしまうだろう。何度勇気の炎を灯しても消し飛ばされ、立っている事も難しい状況が続く戦闘の中で、『死』という最悪の状況を回避する為には、生を諦めないという覚悟だけでは足りない事を痛感したのだ。

 それをカミュも理解しているのだろう。悲痛の面持ちをした彼は、言葉少なに返す事しか出来なかった。

 

「そろそろ幕引きとしよう。僅かな希望に縋り、もがき生きる様を十分に愉しませて貰った。その褒美を与えねばなるまい。味わった事のない絶望を、余から貴様等に送ろう」

 

 勇者一行が全員揃っても、この状況を変える事など出来はしない。絶望的な不利な状況であり、全滅という未来しか見えない危機的な状況を変える事は出来なかった。

 どんな強敵との戦いでも、その状況ごと引っ繰り返すような強力な呪文を行使して来た少女が、自身の得意分野である呪文で大魔王に敗北し、その少女を護るように常に前線で武器を振るい続けて来た戦士の身体は、フロアを埋め尽くす冷気によって凍り付いている。どのような危機に瀕しても、僅かな光明の道を見つけ、その頭脳で仲間を導いて来た賢者も、この絶望的な状況から抜け出す道筋が見えず、どんなに苦しい時でも、諦める事なく仲間の勇気を奮い立たせて来た勇者でさえ、『死』という最悪の結末を覚悟せずにはいられなかった。

 

「まずは、鬱陶しいまでに、諦めの悪いその心を折ってやろう」

 

 高らかに宣言をした大魔王ゾーマの闇の腕が一瞬の内に先頭に立っていたリーシャの身体を叩き潰す。床に叩き伏せられたリーシャが苦悶の声を上げる隙もなく、その身体は更に真横へと吹き飛ばされた。

 カミュ達一行の身体は、冷気によって動きが鈍くなっており、その攻撃に反応が遅れる。そして、吹き飛ばされ、血液を大量に吐き出したリーシャは、薄れ行く意識の中で、瞬時に迫って来た大魔王の影を見た。

 巨大で絶望的な闇に包まれたように視界は暗く染まり、彼女の意識はそこで途切れた。

 

「リーシャさん!」

 

 大地の鎧という神代の鎧を纏っているとはいえ、その鎧は全身を覆っている訳ではない。三度目の床への衝突を経て戻って来たリーシャの身体を見たサラは、悲痛の叫びを上げ、余りの状態にメルエは絶句した。

 最早、彼女の四肢が、正常に動く事はないだろう。右腕はあらぬ方向に折れ曲がり、左腕は二の腕の骨が見える程に斬り裂かれて血溜まりを作っている。右足は骨さえも斬られて、僅かな肉と骨で何とか繋がっているような物であり、左足もまた、肉から折れた骨が突き出しているような状態であった。

 一瞬の内に一人の仲間がこの世から去る程の重傷に陥る。心の隅に僅かに生まれた絶望という感情を突かれ、絶望的な状況が、真の絶望へと変わって行ったのだ。

 

「良い表情だ。やはり、貴様等の諦めの悪さは、その女によって支えられておったか」

 

 サラやメルエの表情は、全てを無くした程に歪んでいる。どんな状況でも表情の変化が乏しいカミュでさえも、何かを悔やむように眉を顰めていた。

 カミュとサラは、この一行の要となっている人物はリーシャだと考えている。四人を繋げる為の楔を打ち込んだのがメルエという少女であっても、その楔を鎖で繋いだのはリーシャという女性戦士なのだ。

 勇気の象徴はカミュであるし、その背中で一行を支え、導いて来たのもカミュである。それでも、その一行の心を一つに纏めて来たのは、間違いなく彼女の功績であった。

 既に、彼女がいなくとも、三人が仲間を蔑ろにする事はないだろう。突然指揮系統を失ったようにバラバラに勝手な行動を始める事もない筈だ。だが、何があろうと、どんな場面であろうと、絶対に生を諦めず、死を受け入れなかったのは、彼女唯一人なのである。

 カミュは、一度死の呪文で死を受け入れた。サラもまた、死の呪文を受け入れた事もあるし、それを救う為に自己犠牲に走った事もある。最もそれを受け入れないと思われたメルエでさえも、完全に死という結末を迎えていたのだ。

 そんな『生への執着』の象徴のような支柱が折れた。

 

「はっ! すぐに回復を!」

 

「させぬわ! 次は貴様だ!」

 

 凄まじい姿になってしまったリーシャの身体に呆然としていたサラが我に返り、慌てて回復呪文を唱えようと駆け寄るが、その行動は大魔王によって遮られる。突如として吹き荒れた冷気に動きが鈍り、付着する氷の結晶に動きを止められると同時に、彼女の目の前に大きな闇が姿を現した。

 全てを失ったように佇むカミュの脇を擦り抜け、賢者の目の前に現れた大魔王は、再びその闇の腕を突き出す。薙ぎ払われたのではなく、突き出された闇の腕は、サラの腹部へと突き刺さり、臓物を傷つけ、背中から姿を現した。

 盛大に血液を吐き出したサラの瞳から急速的に光が失われて行く。死に直結する程の傷を受け、倒れ伏したサラの身体から溢れ出るように血液が海を作り出した。水の羽衣という美しい衣服が裂け、青色のそれを血液が真っ赤に染め上げる。何度か痙攣を繰り返すその姿は、幼い少女に先程以上の怒りと、絶望を刻み込んだ。

 

「…………サラ…………」

 

 その呟きは、カミュの耳に最後まで届きはしない。リーシャとサラの惨状に呆然としながら歩み始めた少女の姿が、一瞬の内にカミュの前から消え失せる。それと同時に轟く轟音が、彼女の小さな身体が残っていた柱に衝突した事を物語っていた。

 元々『魔法使い』という職を持つ者は、体力が少ない者が多い。その中でも異質の魔法使いであるメルエは、魔法力を体力へ変換する事で、カミュやリーシャのような強靭な者達と共に旅を続けて来たのだ。故にこそ、彼女の物理耐性は、最弱と言っても過言ではないだろう。

 血液を大量に吐き出し、強かに打ちつけた頭部からも真っ赤な血液が溢れ出す。それを嘲笑うかのように、柱から床へと落ちて来る彼女の身体が、再び闇の腕に攫われた。

 

「メルエ!」

 

 ようやく、事の成り行きを理解したカミュが我に返った時には、彼の目の前に体中から血液を流し続ける少女の身体が叩き付けられる。

 既に意識はなく、その魂までも遠くへ連れ去ろうとしている事は明らかであった。彼の周囲には、彼と長く旅を続けて来た者達の瀕死の身体が転がる。それは、彼が歩んで来た長い旅路の終わりを意味していた。

 彼は間違いなく、この世の『勇者』である。その行動、その結果、全てが彼が『勇者』である事を物語っていた。

 だが、彼がアリアハンを旅立ったその時も『勇者』であったかと問われれば、それは『否』である。彼はこの長い旅路を経て、『勇者』と成った者であり、彼を『勇者』としたのは、彼の傍で共に歩み続けて来た三人の女性であった。

 彼女達がいなければ、彼がここまでの旅路で残した功績は、今の半分も満たないだろう。彼女達が共にあったからこそ、彼は動き、結果を残して来たのだ。

 彼を『勇者』として留めていた最後の楔が抜けた時、そこに立つのは、二十歳を越えた程度の青年でしかない。

 全てが今、終わりを迎えようとしていた。

 

「どうした、カミュよ! 余が邪魔なのではなかったか? 最早、貴様も戦う理由などなくなったか? ならば、その運命を呪い、この世に絶望し、この我が腕で息絶えるが良い!」

 

 瞬間的に、カミュの視界全てが真っ白に埋め尽くされる。続いて、口を開く事も出来ない程の冷気が襲い掛かり、光の鎧を纏っていない身体の部分の感覚が失われて行った。

 指の感覚は既になく、絶望の闇と死の冷たさで五感が消え去って行く。同時に襲って来た浮遊感と、身体に響く衝撃で、自身が大魔王ゾーマの攻撃をそのまま受けている事を知った。

 だが、既に痛覚さえも麻痺している彼に、それに抗う力など残されてはいない。最早、何度目かも解らない程の衝撃を受け、前後左右の感覚さえも失った時、ようやくその衝撃が止んだ。

 

「ごぼっ」

 

 身体の内部から盛大に何かを吐き出した時、ようやく彼は自身の身体を襲う耐え切れない程の激痛で意識を取り戻す。剣を握っていた筈の右腕には命令が届かず、命令の届いた左腕も、僅かに指先が動くのみ。立ち上がる気力も、抗う気力も既に失われ、微かに戻った視力が、傍で倒れる三人の女性の身体を映し出した。

 命の灯火が微かに揺れる程度にしか残らない三つの肉体が、フロアを埋め尽くす闇へと呑まれて行く。

 

「ふははははは」

 

 最大の愉悦を味わった大魔王の高らかな笑いがフロアに響き、それを脳の奥深くに刻み込まれながら、カミュの意識もまた、闇へと飲まれて行った。

 全世界の希望の灯火が、消えようとしている。

 多くの者が種火を継ぎ入れ、絶やさぬようにして来た、最後の希望の炎。頼もしく赤々と燃え盛っていたその炎が、巨大な闇へと呑み込まれ、消滅しようとしていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
全滅エンドです……

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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