新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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大魔王ゾーマ④

 

 

 

 遠い記憶が甦る。

 初めて握った剣は、何だっただろう。

 祖父が厳しい表情で手渡したのは、アリアハンという国にある武器屋が扱う商品で最も高価な銅の剣だったかもしれない。溶かした銅を型に流し込み、凝固させただけの安易な武器が、アリアハンでは最も高い値で売られる武器であった。

 アリアハンが貧しい理由の一つに、宮廷に高位の呪文を会得している魔法使いがいないという物がある。高位の魔法が使えないから、その魔法の恩恵を受ける術がなく、武器の加工も生活水準も上がらないとも考えられた。

 それでも、豊かな自然と、資源に囲まれたこの辺境の島国は、一国として成り立っていたのだ。だが、魔物が凶暴化して行くにつれ、武器の需要は増えて行く。幸いな事に、国境である旅の扉を封鎖したアリアハンに強力な魔物が流れ込んで来る事もなく、銅の剣のような頼りない武器でも討伐が可能であった。

 それでも、他国から来ていた者や、宮廷に仕える者達の腰には、鉄製の武器や鋼鉄製の武器などが差さっており、その者達は憧れの的となっていた。

 

「甘い! そのような事で魔物が倒せるか!」

 

 物心ついた頃には銅の剣を与えられ、それを振るう事を義務付けられる。毎日毎日、朝起きてから夜寝るまで剣を振るわされ、身体中に痣が出来る程に打ち付けられた。

 そんな祖父の腰には、常に一本の鉄の剣が差さっていたように思う。あれは、祖父にとって宝物とも言える剣だったのだろう。国王から下賜された名誉ある剣。アリアハンでは珍しい高価な剣であった。

 今思えば、最初の頃はそんな自分の姿を、家の影から母親が見ていたような気もする。救いを求めるようにそちらに視線を送れば目を逸らされ、次第にその姿も見なくなった為に忘れる事にした。

 『何故、このような事をしなければいけないのか』という疑問を持つようになったのは、容赦なく打ち据えられて倒れ込んだ視線の先に、親に手を繋がれて町を歩く同世代の少年が見えた頃からだった。

 『自分の何が他の子供と違うのか』。そんな疑問が浮かび上がると同時に、毎日のように自分を木刀で痛め付ける祖父へ憎しみを持つようになる。

 『何故、助けてくれないのだ』、『何故他の子供達のように優しくしてくれないのだ』という怒りにも似た疑問は、祖父だけではなく母親にも向けられるようになった。

 

「カミュ、傷の手当を」

 

 残った痣が消える前に、新たな痣が付き、切れた傷が癒える前に、その傷が裂ける。そんなカミュの傷は、家に帰ると母親が手当てをしていた。

 幼い頃は、これを優しさからだと信じていた。いつか、自分を痛め付ける祖父へ抗議をしてくれ、この地獄のような毎日から救い出してくれると信じていたのだ。

 だが、そのような日は決して訪れる事はなかった。

 もっと頑張れば、この地獄から抜け出せるのかとも考えた。いつか手を伸ばしてくれるのではと期待した。だが、そんな望みは終ぞ訪れる事はなく、心が徐々に冷え切って行く。与えられるべき愛情の形が見えず、剣を持って喚く祖父が別の生物のように感じて行った。

 

「お前など、孫ではない!」

 

 憎しみを通り越し、全てを諦めたのは、そんな言葉を受けた瞬間だったのかもしれない。討伐隊という死と隣り合わせの部隊に放り込まれ、魔物と一人で戦い、必死の思いでルーラを唱え、家に辿り着いたカミュに待っていたのは、そんな祖父からの罵倒であった。

 魔物の爪や角での切り傷や刺し傷で血に濡れたカミュを一瞥した祖父は、そんな言葉を吐き出して、扉を閉めたのだ。あの時の絶望は、言葉には出来ない程の物だっただろう。最後の最後までしがみ付いていた『肉親』という繋がりを失った瞬間であった。

 その場で気を失ったカミュは、翌日に手当てをされた状態で目を覚ましたが、その手当てを誰がしてくれたかなど、既にどうでも良い事であった。いつものように怒鳴る祖父を見ても何の感情も持てず、心配そうに見つめる女性を見ても、それを母親だと認識する事さえも出来なくなっていたのだ。

 

「勇者カミュよ、これより、このアリアハンを旅立ち、『魔王バラモス』を討伐せよ!」

 

 それから数年経過し、十六という節目の歳を迎えた彼は、登城した謁見の間で、国王から勅命を受ける事となる。

 英雄と謳われたオルテガという人間の息子であるというだけで、誰も成し得ていない苦行へ放り込まれる理不尽さに憤る感情も捨て去った彼は、その勅命を粛々と受け入れた。

 共に旅をするとして付けられた女性戦士も、まるで生贄を奉げる為の儀式のように叫ぶ国民達も、何処か遠い別世界の生き物のように感じていた。

 生きる事も、死ぬ事も許されなかった十六年という月日を経て、ようやく手に入れた本当に自由な時間。もし、この旅の中で彼が死んでも、それは致し方のない事と処理されるだろう。彼の素性さえ他人の知るところでなければ、魔王討伐という目的の為に歩む必要さえないのかもしれない。

 

「どうぞ、このサラも勇者様の旅への同道をお許し下さい」

 

 だが、そんな彼の旅の始まりは、彼の望みとは掛け離れた物であった。

 国王から付けられた宮廷騎士。アリアハン教会から単独で飛び出して来た女性僧侶。この二人の登場によって、彼の旅は、当初に考えていた物とは大きく異なる物となる。

 出立時は、アリアハン国が自分に付けた監視役なのかとも疑った。『勇者』として旅立ち、魔王討伐までの道を真っ直ぐに歩む為の存在なのだと疑っていたのだ。

 だが、宮廷騎士を名乗る女性戦士の短絡さにその疑いを捨て、妄信的に教会の教えを信じる僧侶に、国との関連性を認める事は出来なくなる。

 

「名前は何という?」

 

「…………メルエ…………」

 

 本当の意味での彼の旅が始まったのは、この瞬間なのかもしれない。

 奴隷として売られた少女を、その頃僧侶であった者の甘い考えで救う事になり、その少女は、何故か自分達の旅に同道する事になる。それは、カミュという一人の青年の色の無い人生に、鮮やかな色を塗り付ける出会いとなった。

 天真爛漫というよりは、純粋無垢であった少女は、自分を救ってくれた相手であるカミュ達三人に対して徐々に心を開くようになって行く。大人とは異なり、雛鳥のような心を持っていた少女は、自分を護ろうとしている者達へ信頼を寄せるのに時間を要する事はなかった。

 乏しかった感情は、日を追う毎に豊かになり、よく笑い、よく泣き、その成長が目に見えて解かる程に顕著に現われるようになる。目に映る物全てが珍しく、全てが輝いているのだろう。そう思える程に、いつでも笑顔を浮かべて旅を続ける彼女の姿に、少しずつ、彼の心も変化して行った。

 

「お前は、変わり過ぎだ」

 

 メルエという少女が加わってからでも、四年以上の旅を続けた後、魔王バラモスという存在を間近に控えた船の上で、彼は女性戦士からその言葉を受ける事となる。

 彼の目には、周囲の三人の変化が顕著に映っていた。頑なで、短絡的だった女性戦士は、自身の短絡さを認め、カミュやサラといった頭脳派の人間達に考える事を委ねる。相変わらず、他人の心の中へ無遠慮に入っては来るが、角が取れたように雰囲気は丸くなった。

 僧侶から賢者へと転職を果たした女性は、妄信していた教えにさえ悩み、苦しむ。信じていた教えと現実の違いを切り捨てるのではなく、全てを受け入れて尚、それに悩み、苦しみながらも前へ進もうと決意を固めていた。

 誰一人信じず、孤独の中で生きて来たカミュにとって、四年以上の旅の中で変わって行く者達の姿が本当に眩しく思っていた。だが、それは彼女達三人の事であって、自分自身ではない。死を願う想いこそ薄れているものの、自分の考えや態度、そして戦う姿勢などは変わっていないと彼自身は考えていたのだ。

 それを、アリアハン城という最初の場所から共に旅をして来た女性戦士は容易く否定する。

 

「貴様だけは生かしてはおけん」

 

 激闘の末、世界を恐怖に陥れた魔王バラモスを討ち果たすその間際に、魔王は幼い少女へ手を伸ばし、執念の炎を瞳に宿す。その炎は自分の命さえも代償に差し出す程に暗く、根深かった。

 それを見た時、彼は何かに追われるような焦燥感を感じる。胸が騒ぎ、肌が総毛立ち、何かをしなければならないという焦りと、何をするべきなのかが解らないという恐怖に苛まれたのだ。

 バラモスの首を落とした時、自分の身体を支えていた全てが霧散して行くのを感じ、死を感じた。焦燥感に苛まれながらも、抗う事の出来ない安堵感があったのも事実。『ようやく開放される』という安堵感が焦燥感を上回り、生への執着を捨て、死を受け入れてしまった。

 

「私は、お前に生きていて欲しい……」

 

 精霊ルビスの力によって現世に繋ぎ止められた彼を待っていたのは、苦楽を共にして来た女性戦士の張り手だった。

 涙ながらに叫んだ言葉が彼女の本音なのだろう。そこまでの旅の中で何度も何度も衝突し、何度も不躾に心へと入り込んで来たのは、カミュという青年を現世に縛りつけようとしていた表れなのかもしれない。

 その心を知ろうとし、時にはそれを侮蔑し、時には慰め、時には諭し、常に彼の心の変化を彼女は追って来ていた。カミュにとっては怒りさえ覚える程の言動もあっただろう。彼女の価値観を押し付けていると感じた事もあっただろう。

 だが、それも彼女のこの一言に全てが集約されていた。彼女の願い、彼女の想いは、たった一つの単純な物であったのだ。

 

「大丈夫だ」

 

 だからこそ、カミュはその言葉を返す。この一行の中では今では特別な意味を持つその言葉を口にした者は、必ず、その通りの結果を出さなければならない。それは、最早、暗黙の決まり事であった。

 精霊ルビスの言葉を聞き、魔王バラモスを討ち果たした時の焦燥感が間違っていなかった事を悟っている。魔王バラモスの上にいる存在を倒さない限り、世界の平穏は訪れず、そしてその世界で生きようとする者達も死に絶えるだろう。その中でも、彼が最も重要視する『メルエ』という少女が真っ先に危険に晒される事が明白であった。

 ならば、彼の決意は一つ。このような場所で死んでいる場合ではなく、大魔王ゾーマを討ち果たすまでは死を受け入れるつもりもない。故にこそ、あの時、その決意を表す為に、彼はあの言葉を発したのだ。

 

「メルエ! 目を覚ましてくれ……頼む、目を開けてくれ……」

 

 そんな彼の願いや決意を嘲笑うように、大魔王ゾーマの強大な力は彼ら一行を絶望の淵へと落として行く。精霊ルビスが封じられた塔へ挑んだ彼らは、自分達の力の足りなさを実感する事となった。

 その窮地を救ったのは、彼が護ると誓った幼い少女であり、彼女に受け継がれていた血には、古の竜族の因子が流れていた。それは、良い結果だけではなく、一行の中に不穏な闇を運んで来る。

 蓋をし、必死に抑えて来た賢者の潜在的な恐怖心が噴き出し、二人の間に絶望的な隔たりを生み出した。その隔たりの結果、少女は絶望の淵を彷徨い、死の誘惑に負ける。

 その時、彼は全てを失った。生の目的も、旅の意義も、この世への希望さえも失くしてしまう。今思えば、この幼い少女の死という出来事は、未来へと続く道の大きな分岐点だったのかもしれない。

 

「その試練を超える事が出来る貴方であれば、この世界から闇を払う事など容易き事……」

 

 メルエという大事な少女を取り戻し、サラという未熟な存在は真の賢者と成った。結束を深めた一行は、再度あの塔へと挑む。精霊神ルビスという存在が封じられた塔へ挑んだ彼らは、困難を乗り越え、そして神代から伝わる古の勇者の装備品を手に入れ、その場に辿り着いた。

 復活を果たした精霊神は、自らがゾーマへ向かうのではなく、自身を解放した勇者達へと未来を託す。上の世界も、このアレフガルドも、既に神の手から離れた世界であり、そこで生きる者達が道を切り開くべきだとしたのだ。

 その時に告げられた『試練』を彼は理解出来なかった。様々な困難を乗り越えて来た自信があり、今更『試練』だと言われても、彼の心には全く響く事はなかったのだ。

 

「……カミュ、その葉を使用する事がなかったのは、この時、この場所で使用する為だったんだ」

 

 しかし、古の勇者が装備していた太古の剣を手に入れ、全てを揃えて挑んだ大魔王の居城で遭遇したその試練は、彼が考えていたよりも深く、辛く、苦しい物であった。

 憎む事しか出来なかった父親との対面。それは、想像以上の苦痛を彼に齎す。成長と共に増して行った憎しみは、彼が生きる為の理由付けでもあった。

 『何故、自分がこれ程に苦しまなければならないのか』という答えを、全て父親であるオルテガへぶつける事で、彼は何とか心を保護して来たのだ。しかし、既にこの頃には、彼の心は別の物にしっかりと護られていた。

 それを明確に理解したのが、この瞬間であったのかもしれない。自分を不安そうに見つめる少女の瞳。何処か諦めを含んだ賢者の瞳。そして、何よりも自分を信じて疑わない強い瞳を向ける女性戦士の瞳を見た時、彼は己の中の憎しみが、何か別の物に敗北した事を悟った。

 

「私は本当に嬉しかった……」

 

 他人に対しての興味を失ってから幾年が経過しただろう。自分へ向けられる複雑な感情が入り混じった物を意識する事を止め、『人間』という種族に対しての感情を切り離してからどれ程の月日を越えた事だろう。夜の闇に浮かぶ月から注ぐ淡い光だけが、自分を受け入れてくれる光のように見上げた夜を何度過ごして来ただろう。

 あの時、リムルダールという異世界の町で告げられた女性戦士の言葉は、偽りの感情を護り続けて来た壁を打ち砕いた。弱く、脆い、人間らしい想いを封じ込め、偽りの仮面を形成する為に聳え立っていた、大きく厚い壁は、何度も何度もそれを破壊しようと叩き続けて来た女性戦士が発した、僅か一行にも満たない言葉に粉々に粉砕されたのだ。

 その後に見せたはにかむような優しい笑みは、彼がずっと封じ込めて来た感情を溢れさせる。長く辛い旅の中で、カミュという青年が初めて涙を溢した。

 ロマリアで出会った少女が打ち込んだ楔は、頑なに閉ざされていた青年の心に風穴を開け、その穴から滲み出てしまった何かを感じ取った女性戦士によって、少しずつ、本当に少しずつ穴が抉じ開けられて行く。抉じ開けられる度に入って行く亀裂が、リムルダールという場所で限界に達し、そして砕け散った。

 

「……俺は、大丈夫だ」

 

 その言葉は、今までのように、不安を何かで覆い隠して語った言葉ではない。全てを曝け出し、久方ぶりに本来の瞳で世界を見つめた彼が、心から発した言葉であった。

 その言葉を聞いた少女は嬉しそうに微笑み、それを目にした女性戦士は困ったような微笑を溢していた。それは、本当の意味での、彼の人生の始まりだったのかもしれない。

 アリアハンで過ごした十六年は、カミュという青年の人生ではなく、偽りで覆われたカミュを模した人形の歩んだ時間である。そして、アリアハンを旅立ってから六年という旅路は、そんな人形が『人』になる為の旅だったのだろう。そして、自分が歩む目的や理由を自覚し、それでも尚、希望の光が差す未来へと踏み出した一歩が、本当の意味での彼の始まりなのだ。

 

「…………カミュ…………」

 

 自分を自分だと認めてくれる少女の笑みを護りたいと願い、彼の心は動き始めた。始まりはそんな小さな願いだったのかもしれない。少女の微笑みは、荒んでいた彼の心に大きな波紋を生み出し、変化を生み出す。

 そんな彼を真っ先に信じてくれたのは、彼と共に歩み始めた女性戦士であった。憎まれ口を叩き、時には鬱陶しい程に無遠慮な発言をし、他人の心に土足で踏み込んで来るような彼女がいたからこそ、彼は偽りの壁に覆われた自身の本心に辿り着く事が出来たのかもしれない。

 

「お前がメルエを想うのと同じぐらい、私やサラを想ってくれていたらと思うがな」

 

 皆の心を常に見つめ、心の傷でさえも無遠慮に触れ、殻に閉じ篭ろうとする者を無理やりにでも引き上げて来た彼女は、そんな皆の心が集結した証である『虹の雫』を握り締めて涙していた。生涯の宝だと胸にそれを仕舞って浮かべた微笑は、彼の心に残っている。

 そして、彼が敗北を味わったリムルダールでの一幕の後で浮かべたはにかむような笑みは、敗北による悔しさや悲しみを霧散させ、もう一度自分と向き合う勇気をくれた。

 長い旅路の中で、少しずつ変化をしていった彼の心は、彼を取り巻く三人の女性への考えも大きく変えて行く。

 教会の教えを妄信していた僧侶は、誰よりも現実と教えの相違に悩み、苦しんでいたし、それを乗り越えて『賢者』となった時には、自分と同じ道を歩むのではと案じた。だが、そのような彼の考えを否定するように、彼女は成長を続け、ここまでの旅を支え続けて来てくれている。

 幼く、無垢だった少女は、その純粋な心をそのままに、大きく成長していた。自身の中に流れる古代からの因子の存在を飲み込み、自分が他者と異なる事を受け入れて尚、カミュ達と共に歩み、その助けになろうと全力を尽くしている。

 

「その寿命を全うするまで、私はこの世界に在り続けよう」

 

 六年以上もの長い旅路の中で、何度も『人』の醜い部分を見て来ている。美しい心や行動も見て来たが、その比率は醜い部分の方が大きかった。もし、彼が一人で旅立ち、それを続けていたら、彼は旅の途中で『人』に対して絶望し、命を投げ出すように散らしただろう。

 そうならなかった最大の要因は、生という物を絶対に諦める事なく、自分が変わって行く事を否定する事もなく、常に真っ直ぐに前を見続けて来た彼女がいたからだ。

 いつの間にか大きくなっていたその存在は、今では、メルエという少女の未来を護るという目的と同等の大きさを持っている。彼自身が立ち上がる理由はメルエという少女であったとしても、その身体を支えてくれるのは、間違いなく彼女であろう。

 

 

 

「お前はまた、メルエを置いて行くのか!?」

 

 そんな怒声にも似た叫びを聞いた気がし、カミュは瞳を開く。周囲は、漆黒の闇が広がり、微かに燃える赤い炎が、周囲を薄暗く照らしていた。

 耳に入って来るのは、不快な高笑いと、微かに聞こえる不規則な息遣い。身体を動かそうと意識したと同時に襲い掛かって来る全身への激痛が、カミュの顔を歪めさせた。

 首を動かすどころか、指先を動かすだけでも、頭の芯へと激痛が響く。その度に目の前に火花が散るような光が見え、光の中に誰かの笑みが映り込んだ。

 身体は動かす事が出来ないが、目は開いた。視界は霞んではいるが、それでも見えない訳ではない。僅かな明かりの中で見える仲間達の惨状に顔を歪めながらも、最も傍で倒れる少女の息遣いが小さくなっている事に気付いた。

 

「くぅ……」

 

 悔しさと悲しみ、怒りと自責。様々な感情によって歪んだ瞳の先に、少女のポシェットから零れ落ちた小さな珠を見る。

 サラがラダトーム王太子から借り受けた『太陽の石』にも似た輝きを放っていたその石は、今では漆黒の闇に飲み込まれるように輝きを失いつつあった。

 竜の女王から手渡された時、眩いばかりの輝きを放った珠。世界全体にその光を轟かせる程の輝きを秘め、竜の女王の居城を覆い始めていた絶望と諦めの闇さえも飲み込んだ光を放ったその珠が、何かを訴えるようにメルエのポシェットからカミュの方へと零れていたのだ。

 

『そなたがその道を歩むのならば、この光の珠を授けましょう』

 

 竜の女王と対面し、大魔王ゾーマという存在の強大さと恐ろしさを聞かされ、それでもそこへ向かう為に歩むのかと覚悟を問われた。

 竜の女王と精霊神ルビスという二つの守護者が力を解放して尚、封じる事しか出来なかった程の強者。その存在の強大さを知らされた時、リーシャもサラも、諦めに近い絶望を感じていた。あの時感じた恐怖は、魔王バラモスを前にした時以上の物であっただろう。

 それでも、カミュは恐怖と絶望を振り払い、竜の女王へ頷きを返したのだ。

 

『この光の珠の輝きが世界を照らし、一時も早く平和が訪れる事を願っています』

 

 闇は必ず晴れる。

 明けぬ夜はなく、晴れぬ空もない。

 闇に覆われていようと、光は消えず、輝き出すその時を待っているだろう。

 光ある所に闇はあり、闇ある所にもまた、必ず光はあるのだ。

 

「ふはははは……む?」

 

 自分の傍に転がる『光の珠』へと、激痛に襲われながらもカミュは手を伸ばす。その微かな動きに、高笑いを続けて来た大魔王が気付いた。

 全ての希望を奪い、生への執着さえも手放す程の絶望を与えた事を確信している。その証拠に、他の者達は最早死を待つのみという状態になっており、残る生の時間を苦痛と後悔、そして絶望によって塗りつぶされていた。

 それでも、もがき生きようとする者。大魔王ゾーマは、それを忌々しく思いつつも興味を持ってしまう。動かす度に激痛に苛まれている事は見るだけで解る程に微々たる動きをしながらも、それでも何かしらの希望に縋ろうとする愚かな種族を見つめた。

 何を必死に掴もうと伸ばす手の先はゾーマからは見えない。倒れ付す竜の因子を持つ末裔の姿が見える為、死の前にその少女の手を取ろうとしているように見えた。『その手を引き千切り、更なる絶望を植えつけるのも一興ではあるが、ここまで辿り着いた褒美も与えねばなるまい』などと考え、ゾーマはその動きを静観する事にする。

 

「む!?」

 

 しかし、その小さな誤りは、全てを覆す大きな転機となる。

 必死に手を伸ばす『勇者』を名乗る青年の手が、突然光を放ち始めたのだ。それは、このフロア全てを覆う程の闇に抗うような輝きであり、灼熱の炎の明かりでさえも届かなかった闇を侵食して行く程の光であった。

 眩い輝きに顔を顰めたゾーマであったが、それを手にした青年の身体が癒えている訳ではないことに気付く。既に全身のあちこちの骨が砕け、伸ばしている左手ではない方は、動かす事も出来ない状態であろう。内臓も傷ついているのか、動く度に真っ赤な血液を吐き出していた。

 それでも傍にある剣を支えに立ち上がる青年に、ゾーマは不思議な感覚を覚える。それは、恐怖でも、敬意でもない。何か解らない物を感じたのだ。

 

「それ程にもがき、何を成そうとする? 最早、ここで息絶えた方が楽である事が解らぬ訳ではなかろう」

 

 それは、『疑問』だったのかもしれない。

 人間のような弱く脆い存在が、何かに縋り、もがき生きる様は滑稽であり、その果てに辿り着く絶望に歪んだ表情は、沸き上がる笑いを抑えられない程の愉悦であった。

 だが、そこに、『何故、それ程までに苦しみながらも生きるのか?』という疑問は生まれなかった。理解が出来ないと考える事はあれど、そのような低俗な存在の考えに対して関心を持つ事もなかったのだ。

 だが、今まさに両足で床を踏み、だらりと下がった右腕の脇に剣を挟んで立ち上がった青年の瞳に宿る何かは、今までゾーマが見て来た多くの生物の中でも異色に映った。生物は痛みを感じれば怯み、恐怖を感じれば竦み、絶望を感じれば折れる物である。

 剣の支えがなければ立っている事も出来ない状態であれば、今現在も身体を襲っている痛みは想像を絶する程の物だろう。何を期待し、何に縋り、何を以って彼が立ち上がるのかが、ゾーマには理解出来ず、それ程の苦しみと絶望を抱えてまでも折れぬ心に疑問を持った。

 

「……なん…ども……言わせる……な。お前が……邪魔…だ」

 

 呼吸さえも儘ならない程に身体を痛みつけられ、息を吐き出すだけでも激痛で顔を歪めながらも、その青年は、ゾーマを睨み付ける。頭から流れ落ちる血液が目に入り、まるで血の涙を流しているかのように見えるその瞳には、怒りや哀しみなど欠片も見えない。ただただ、目の前の障害である大魔王ゾーマだけを見つめ、そして、その答えを口にした。

 希望の光がその瞳に見えているとは思えない。絶望の闇が晴れているとも思えない。それでも目の前に立ち、真っ直ぐに見つめて来る青年の姿に、ゾーマの心が何かを感じ取った。

 

「今こそ……闇を晴らせ!」

 

 肺が正常に機能していない事を示すように息を漏らしながらも、カミュは激痛に耐えて、その命を告げる。唯一動く左腕を高々と突き上げ、その手に握る輝く珠へと全ての生物達の願いを注ぎ込んだ。

 瞬間的に輝きを増した『光の珠』は、溜め込んでいた全ての輝きを吐き出すように、フロアを覆い尽くす光を放つ。最早、眩いという次元の話ではない程の光が放流され、渦巻くようにフロアの闇を飲み込んで行った。

 

「ま、まさか……光の珠か!?」

 

 ゾーマの驚愕の声さえも光に飲み込まれ、全ての物が真っ白な輝きの中に埋もれて行く。闇の黒という色さえも塗り潰し、全ての色を消滅させた光は、再び『光の珠』へと戻るように吸い込まれて行った。

 埋め尽くす程の光の波が引き、カミュの視界が戻り始めると同時に、先程まで燃え盛っていた闇の炎は、真っ赤に燃え上がる炎へと変わり、燭台に次々と灯り始める。真っ赤に燃え上がる炎がフロアを照らし出した。

 

「なるほど……バラモスめ、優先順位を見誤りおって。竜の因子を受け継ぐ娘などよりも、受け継いだ魂さえも越える可能性を持つ者を、その前に滅するべきであったのだ」

 

 カミュは目の前に見えるその存在に驚愕した。

 このフロアで立っている者など、カミュ以外には大魔王ゾーマしか存在しない。となれば、彼の目の前に立つ存在こそが、本来の大魔王ゾーマの姿である事を示していた。

 左右に角を付けた兜のような冠を被り、その冠の中央には巨大な目のような物が生きているように動いている。死を連想するような青白い肌を持ち、目は吊り上るような三白眼。その目で見られるだけでも恐怖で身体が縛り付けられる程の眼光を放っていた。

 牙のように鋭い歯が飛び出し、突き出された手から伸びる四本の指の先には鋭い爪が伸びている。首からは、何の種族の物か解らない小さな頭蓋骨を吊るし、ゆったりとした衣服で身体を覆っていた。

 

「それで、カミュよ。余の纏っていた闇の衣を剥いだとはいえ、貴様一人で何が出来る? その満身創痍の状態で、まだ余を邪魔だと口にする豪気は認めよう。だが、頼る者達も既に息絶える寸前であり、その状態で貴様は何を成そうと言うのだ?」

 

 忌々しそうにバラモスを侮辱したゾーマは、再びその身体でカミュへと向き直る。ゾーマにとって、竜の因子を受け継いだ呪文使いといえども、脅威となる物ではない。メルエという存在が脅威となるのは、バラモスを始めとしたゾーマの下に就く魔族達であろう。それに対し、当初からカミュの名だけを呼んでいたゾーマは、この『勇者』という存在こそが、自分にとって最も障害と成り得る存在である事を認めていたのかもしれない。

 あれ程に巨大に感じていた闇の中身は、カミュやリーシャよりも大きくはあっても、巨大と言える程ではない。ゾーマが発した『闇の衣』という物がどういう物なのかは理解出来ないまでも、今の大きさが、本来のゾーマの姿なのだという事は理解出来た。

 だが、見た目が小さくなり、その姿と存在を正確に認識出来るようになったとはいえ、その存在から押し寄せる圧倒的な圧力は変わらない。いや、正確には圧力も脅威も増していると言っても過言ではないだろう。

 ゾーマの言葉通りに満身創痍であるカミュは、立ち続ける事さえも苦痛な程の激痛に顔を顰めながらも、沸き上がる恐怖を勇気で抑え付け、真っ直ぐにゾーマへ視線を投げる。そして、その疑問に真っ直ぐに答えた。

 

「……この六年……俺が一人であった事など、一度もない」

 

 それは、実質的な物ではないだろう。彼が仲間達と逸れた事はあるし、仲間達と離れて洞窟を一人で探索した事ある。それでも彼は、自身を一人だと認識した事はなかったという事であろう。

 ようやく訪れた死の自由を得る旅に突如入り込んで来た余計な存在は、いつしか彼の心にまで入り込み、その居場所を広げて行った。最初に割り込んで来た幼い少女を切っ掛けに、次々とその割れ目から入って来た者達が、彼という個人を侵し、変えて行く。

 いつしか、彼は常に一人ではなく、支えを受けて立つ者となった。一人逸れた時も、三人の女性の思考を分析し、その心を探るように旅を続けたし、一人洞窟に入った時も、常に何か見えない物に護られていた感覚があったのだ。

 

「き、貴様! その呪文は……」

 

 大魔王ゾーマの問いかけにはっきりと答えを返したカミュは、今は光を納めた『光の珠』を胸に仕舞い、そのまま左手を胸に翳す。まるで、大魔王ゾーマに敬意を表してるような、一騎士がする敬礼に近い格好をした彼は、蹲るように身体を折った。

 痛みに耐えるかのように、また身体の内にある力を凝縮するように屈んだカミュの身体から、抑える事の出来ない力が滲み出して行く。それは、彼の内にある魔法力。人類最高位に立つ呪文使い達に比べれば決して多くないまでも、通常の人間から比べれば何倍にもなる彼の魔法力が、凝縮するように一点へと集中して行った。

 その魔法力の動き、カミュの動きを見たゾーマは、何かを察したように手を翳す。彼がこれから起こす現象を阻止しようと、大魔王と呼ばれる物が、氷結系最上位の呪文を詠唱した。

 カミュの周囲を圧倒的冷気が支配し、吐き出す息さえも凍りつかせて行く。カミュの頭上に幾つもの氷の刃が生まれ、矮小な人間の身体を貫こうと矛先を定めた。それでも、胸に手を置いたまま、カミュは揺るがず、静かに顔を上げる。

 

「礼を言う。ようやく覚悟も定まった。俺は一人ではなく、一人でなければならない理由もない」

 

 古代の勇者を超える真の『勇者』と、絶対唯一の存在であり、恐怖の象徴とも言うべき『大魔王』の視線が交差する。覚悟を定めた希望と、覚悟を見届けた絶望の交差。それは、この世の奇跡を生み出し、顕現させた。

 カミュの瞳の奥にある炎を見届けたゾーマは、大きく右手を前へと振り下ろす。それと同時に、空中で静止していた氷の刃が一気にカミュへと降り注いだ。

 だが、その時、凝縮して行った『勇者』の魔法力が、一気に弾ける。それは、先程の『光の珠』の輝きと同等の光を放ち、爆発した。

 

「ベホマズン!」

 

 勇者が放った詠唱は、回復系の名。回復系最上位のベホマという呪文に酷似したその名を叫んだカミュの身体を中心に光が爆発する。その輝きの色が、彼が詠唱した物が回復系の物である事を証明していた。

 淡い緑色に輝いた光は、倒れ伏す三人の女性を全て飲み込み、その姿を隠して行く。そして、ゾーマが放ったマヒャドで生み出された氷の刃さえも、その光に飲み込まれ消滅して行った。

 マヒャドやベギラゴンという最上位の呪文であろうとも、その氷や炎を生み出すのは術者の魔法力である。カミュが発したような、まるで生命力さえも燃やしたような強大な魔法力の前では、全てが消し飛んでしまうのだろう。そう考えると、サラが放とうとしていたメガンテもまた、原理としては近いのかもしれない。

 

「ん……」

 

 巨大な淡い緑色の光の波に飲み込まれた仲間達が意識を取り戻す。既に虫の息と言っても過言ではない状態であった者達の傷を癒し、意識を現世へと連れ戻したのだ。

 ただ、この奇跡が回復呪文だとすれば、それは仲間達全てが絶対に生を諦める事なく、細く脆い糸を手繰り寄せて戻って来たと言えるのだろう。最も傷が深かった女性戦士の傷も癒え、骨さえも断ち切られていた足もまた、元の状態に戻っている。術者であるカミュの傷も全て癒え、腹部を貫かれた賢者の穴さえも塞いでいた。

 

【ベホマズン】

他者を認め、他者を想い、その全てを以って護ろうと決めた古の勇者のみが行使可能であった、回復系の特別呪文。行使を可能とする魔法力の量は膨大であり、魔法力の少ない者であれば、瞬時に昏倒し、死に至るとまで云われる、禁忌に近い大呪文である。

回復系を主とする僧侶や賢者でも、その呪文の契約をする資格はなく、アストロンやトヘロスのような呪文の契約を済ませた英雄であっても契約は出来ない。真の勇者でなければ契約は出来ず、その中でも更に選ばれた者しか行使は出来ない。

その効果は絶大であり、例え死に瀕する程の傷であろうと癒し、消滅さえしていなければ、失われた部位でさえも繋ぎ合わせるとさえ伝えられていた。

 

「まさか、その呪文を行使する者が、今の世に存在するとは……。認めよう、余は貴様を侮っておった」

 

 血に染まった床で死を待つだけだった者達がゆっくりと立ち上がり、勇者を中心に集って行く。その光景を見たゾーマは、驚く程に素直に自身の誤りを認めた。

 先程、もがくカミュを更なる絶望に落とす必要性をゾーマは感じなかった。それは、哀れみでも、優しさでもなく、単純な侮りからである。あの状態のカミュが何をしようと、あの状況が変化する事もなく、ただ死に向かうものと考えていたのだ。

 だが、ゾーマが初めて疑問を持った相手は、やはり只者ではなかった。『人』という愚かで脆弱な種族でありながらも、自身の最強の鎧である『闇の衣』を剥ぎ取り、そして死へ向かうだけの骸を再び戦場へと呼び戻したのだ。

 これを己の過ちと認めずに、何を認めると言うのだろう。慢心出来ない状況を作り出すのは、王ではない。だが、慢心して尚、その過ちを認めない者もまた王ではないのだ。

 

「認めよう、貴様は余が滅ぼすに値する強者よ。これまでの侮りと、遊びを詫びよう。そして、この先では、余の最大限の賛辞である絶望を贈ると誓おう」

 

 本来の姿を現した大魔王ゾーマの姿は、闇の衣を纏っていた頃に比べて遥かに小さい。だが、滲み出る圧力は、あの頃よりも増大していた。

 先程まで、カミュ達は間違いなく絶望の底に落ちていた。それを遊びと豪語し、これまでの攻撃を侮りと宣言する。そして、尚、これ以上の絶望を見せると誓うその存在は、間違いなく全てを滅ぼす大魔王と云われる者であった。

 絶望の淵から這い上がって来た勇者達の試練は終わらない。更なる恐怖と絶望との戦いが、再び始まろうとしていた。

 

 

 


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