新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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最終章
この道わが旅


 

 

 

 初めて出会った時、それは眩い程の光であった。暗く閉ざされた暗闇の中で、僅かな希望もなく、ただ訪れる痛みと苦しみを待つだけだった筈の未来を照らす眩い輝きは、目も開けられぬ程のあふれ出る光であったのだ。

 だが、その輝きに目が慣れて来ると、その光がとても優しい物である事に気付く。直視出来る程の優しく淡い輝きでありながら、常に自分の足元を照らし続けてくれると信じられる光。そして、その光に誘われるように寄り添う光もまた、とても心地良い物であった。

 

「メルエ」

 

 自分の名を呼ぶ声は常に優しく、自分の事を親身に考えてくれている事が滲み出ていると感じる程に暖かい。その声を聞く度に、冷たく凍りついていた胸に暖かな何かが湧き出て来るようにさえ感じていた。

 繋いだ手は常に暖かく、その手から相手の想いまでもが伝わってくるようで、自然と心が喜びによって満たされ、笑みが浮かんで来る。手から伝わって来る好意が、自分自身の瞳に掛かった曇りまで晴らし、今まで見る事さえしなかった周囲の景色が突然飛び込んで来た。

 歩く地面の土は茶色く、その土から生える草は鮮やかな緑。大空は何処までも果てしなく青く、そこに浮かんでいる雲は透き通るように白い。意味もなく大空を見上げながら回りたくなる程、その光景は神秘的で心を弾ませた。

 

「メルエ」

 

 何処に行っても、何処に居ても、その声は自分の耳には届いて来る。鮮やかな色とりどりの花々が珍しく、その花に集う虫達も珍しく、いつの間にか暖かな手から離れてしまい、心が不安に襲われそうになった時には、必ずその声が届き、また暖かな手にしがみ付いた。

 自分が生まれ、生きて来た世界がこれ程に様々な色を持っている事を初めて知った。嗅いだ事もない潮の香りを当初は不快に感じてはいたが、その大海原を見た時、そんな不快感は吹き飛ぶ。何処までも果てしなく続く青は、まるで見上げた空と同じようでありながら、その色は空よりも深かった。誰が動かした訳でもないのに立つ波は船を大きく揺らし、自分の身体も宙に浮く。それがとても不思議で、堪らなく面白かった。

 

「メルエ」

 

 歩く度に、波を越える度に見えて来る新たな世界は、常に心を弾ませる。まだ見た事のない場所や歩いた事のない場所、何日も、何週間も、何年も掛けて辿るその旅路は、世界そのものであった。果てしなき世界は、何処までも続き、常に自分の傍には暖かな手があると信じている。悪い事をすれば叱られるが、それでも常に優しく暖かな者達がいれば、自分は何処まででも行けるのだと思っていた。

 目も開けられぬ程の眩さから始まった旅は、常に自分を見つめる優しい光に変わり、自分が見た事もない物を映し出す光へと進化する。向けられた事のない好意や愛情、それが世界には溢れる程に満ちているのだと知ったのも、その光があってこそであろう。

 

「メルエ」

 

 いつの間にか呼ばれていた、自分に与えられていた名前。それがこれ程に暖かな物であるというのを知ったのも、旅が始まってからである。それまでは単純に自分を指す記号のような物であった。だが、自分に好意を向けてくれる者からその名を呼ばれる度に、心が暖かくなり、自然と笑顔が零れるようになって行く。

 父親という存在の意味も、母親という存在の意味も理解は出来ない。だが、無条件に向けられるその愛情、その好意、それは何物にも変え難い宝物となった。

 いつまでもこの者達と共に居たい。そう願い、その為に自身の出来得る限りの事をしようと誓った。自分自身に唯一ある、『魔法』という神秘の力を極め、その力を持って、その者達を護る存在となろうと歩み続けて来た。

 苦しく辛い時もあった。悔しく悲しい事もあった。痛みに涙する事もあった。それでも、周囲に白と黒しかない、色の見えないあの世界で生きて来た時よりも、ずっと嬉しく、楽しい経験となる。

 

「メルエ」

 

「…………ん…………」

 

 何度目かになるその呼びかけに、少女は無意識に反応する。しかし、瞳を開けてもそこは漆黒の闇しか見えず、目に飛び込んで来る筈の優しい光はなかった。

 無性に悲しくなり、不安になり、涙が目に溢れ始める。首を回し、先程までの呼びかけの元を探ろうとするが、そこには何一つなかった。鼻の奥が痛くなり、溢れた涙が零れ出す。暖かさを知った彼女にとって、この冷たい闇は恐怖以外の何物でもなかった。

 

「泣かないで、メルエ。貴女はここにいては駄目でしょう? 貴女にはまだまだ楽しい事も、嬉しい事も、悲しい事も、辛い事も経験して貰わなくてはね」

 

 溢れ出る涙を抑えるように目に手を置いた彼女の前に、朧気な光が現れる。眩しい程の輝きはなく、目を開けられない程の光ではない。それでもその光の先にある影をはっきりと見る事は出来なかった。

 それでも、その声には何か優しい力がある。まるで昔からその名を呼び掛けられていたような、それでいて一度も聞いた事のないような懐かしい声色。驚きと疑問によって止まってしまった涙が数滴足元へと落ちた時、ぼんやりとした光の影が増え始めた。

 

「メルエ、暫くのお別れだ」

 

「メルエ、幸せにおなりよ」

 

 次に耳に入って来たのは、先程とは異なる聞き覚えのある声。一つは、テドンという滅びの村で見つけた僅かひと時の幸せ。無条件に与えられる愛情と優しさを持った、とても暖かく、とても安心する声であった。父親という存在を知らなかった彼女に与えられた一夜の奇跡。それは、彼女の心に今も暖かな風を運んで来ていた。

 その後ろから現れた光の影が発した声は、彼女の中に残る恐怖の象徴とも言える物。思わず硬くなった身体であったが、その声の持ち主が最後の最後に語った言葉は、テドンで聞いた物と変わらぬ優しさに満ちていた。

 何かを答えようと彼女が口を開く時、目の前にあった光の影は徐々に彼女から離れ始める。優しく自分の名を呼ぶ声が遠ざかり、伸ばした手はもう届かない。止まっていた涙は再び溢れ、次々と足元へと零れて行った。

 

 

 

「…………おかあ……さん…………」

 

 それは誰を指した言葉であったろう。伸ばした手は決して光には届かず、声も届かない。そんな届かぬ声は自分の耳にだけは届き、少女は目を開けた。

 開かれた瞳の中に入って来たのは、またしても闇。先程まで見ていた自分の身体も見えない程の漆黒の闇ではないが、それでも暗闇の支配が及んだ場所であった。

 先程感じた哀しみが再び彼女を襲い、堪えていた涙が溢れ出すのを感じた彼女は、それでも自分の身体に触れる何かに気付く。力の入らない身体に懸命に指令を出して首を動かせば、自分の身体を包み込むように誰かの腕が巻かれていた。

 暗闇に目が慣れ、その輪郭だけが朧気に見えて来る。そして、自分の鼻先にあるその顔を見た時、我慢していた涙は止め処なく溢れ始めた。

 

「…………リーシャ……リーシャ…………」

 

 自分を抱き抱えるように腕を回していたのは、彼女が姉のように、母親のように慕う女性戦士。ゆっくりと伸ばした手がその頬に触れ、頬に残る温もりを感じた時、その胸に向かって頭を擦り付けるように飛び込んだ。

 女性戦士が身に纏っている鎧越しにも感じる一定の鼓動。それは彼女が生きている事を示す証拠であり、再びあの優しい笑みと愛情を与えてくれる証でもあった。それが何よりも嬉しく、少女は嗚咽を繰り返した。

 

「……ん」

 

 自分の胸元から聞こえる大事な少女の泣き声に、ようやく女性戦士も意識を取り戻した。闇の中でも解る頭に手を置き、少女が不安にならないように優しく撫でて行く。その姿は本当に母娘の様であった。

 疲労と痛みで軋む身体に鞭を打ち、彼女はゆっくりと立ち上がる。腕に抱えた少女は未だに小さな嗚咽を繰り返してはいるが、その背を優しく叩きながら彼女は周囲へと視線を向けた。

 闇でありながらも何処となく光がある。それは目が慣れた訳ではなく、何処かに明かりの元があるからなのだろう。彼女は自分の腰に下がっている革袋へ手を伸ばし、その中に残っていた『たいまつ』の欠片を取り出した。

 

「メルエ、火を点けられたりするか?」

 

「…………ん…………」

 

 ここが夢の世界でなく、死後の世界でもないとすれば、彼女達は間違いなく大魔王ゾーマを討ち果たした筈である。そして、その後であれば、メルエと呼ばれた少女の魔法力は枯渇しており、到底呪文を詠唱出来る状態ではないのだが、それでも最下級の呪文は唱えられるかもしれないとリーシャは考えた。それは、魔法という神秘から一番遠い場所にいる彼女だからこその考えなのかもしれない。だが、その問いかけに小さく頷いたメルエは、指先に小さな炎を点し、『たいまつ』へと火を移した。

 点った炎によって照らされたその場所は、彼女達二人の記憶の片隅に残る、そんな場所。その証拠に、『たいまつ』を向けた先には、巨大な骨が転がっていた。

 

「ここは……勇者の洞窟なのか?」

 

「そのようですね」

 

 メルエを抱き抱えたまま、自分が感じた疑問をリーシャが口に出した時、後方からそれを肯定する言葉が聞こえて来る。『たいまつ』を向けると、深く蒼い色をした石が嵌め込まれたサークレットを被った賢者の姿があった。そして、その後ろから近付いて来る異なる『たいまつ』の炎は、この世界に平和を取り戻した勇者その人が持つ物である。

 二人は一足早くに意識を取り戻し、周囲を確認していたのだろう。そして、リーシャの結論通り、この場所が勇者の洞窟の最下層である事を理解した彼等は、再びこの場へと戻って来たのだ。

 

「どういう事なんだ?」

 

「それは、私にも解りません。ですが、おそらくは、そこにある『魔王の爪痕』と呼ばれる闇から私達は吐き出されたのでしょう」

 

 理解が追いつかないリーシャは、今の状況を賢者に相応しい頭脳を持つサラへと問いかけるが、その答えは明確な物ではなかった。

 サラでさえも理解の及ばない事が起きている。それだけはリーシャにも理解出来た。だが、そんな二人の会話に無関心な腕の中にいる少女は、近付いて来た青年に向かって手を伸ばし、その名を数度呼び掛ける。その瞳には涙を溜め、何処か思い詰めた表情を浮かべる事に首を傾げながらも、カミュは彼女の頭に手を乗せ、柔らかな微笑を浮かべた。

 それを見たメルエは、嬉しそうに笑い、涙の痕を残しながらも、サラへも手を伸ばす。先程までの緊迫した雰囲気は消え失せ、柔らかく微笑んだサラはその小さな手を握り締めた。

 

「……『悪が闇なのではない』か」

 

「闇もまた、この世界の一部であるのですね」

 

 メルエの頭から手を離したカミュは、『たいまつ』の炎の先に見える漆黒の闇へと視線を移す。その場所にある底の見えない闇は、『魔王の爪痕』と呼ばれ、大魔王ゾーマが支配していた絶望と闇の世界に繋がっていると考えられていた。

 だが、ゾーマとの最後の会話にあったように、光が正義ではないのと同時に、闇もまた悪ではないのだろう。光も闇も世界の一部であり、そこに善悪はない。人間が暗闇を恐れるように、魔物の中には光を恐れる者もいる筈。しかし、光だけでは世界は続かず、闇ばかりでも世界は終わる。表裏一体の物でありながら、絶対不可欠な物同士なのだ。

 ゾーマ城の床が抜け、その下にある漆黒の闇に包まれた彼等は、そのまま絶望と闇の世界へ落ちる事なく、再びこのアレフガルドの世界へと戻って来た。それは、大魔王ゾーマの最後の意地なのか、それともこの世界の意思なのかは解らないまでも、闇が生んだ奇跡である事は間違いないだろう。

 

「少し休んでから、外へ出よう。流石に、今、この洞窟で魔物に襲われては堪らない」

 

「ここで休んだ所で、呪文が使えない以上、私とメルエは役に立ちませんが、カミュ様とリーシャさんの疲労も酷いでしょうから」

 

 ゾーマとの対戦で受けた傷は、あの戦いの最中に治癒を終えている。だが、身体の内に溜まっている疲労だけはどうにもならない。メルエを抱えたまま、ゆっくりと床へ座り込んだリーシャが深く息を吐き出した。そして、息を吐き出すと同時に溢れ出た涙が、頬を伝い、メルエの頬へと落ちて行く。

 それを見ながら傍に座ったサラの頬にも大粒の涙が次々と伝い、呆れたように溜息を吐き出したカミュの顔に小さな笑みが浮かんだ。

 

「…………リーシャ……いたい…………?」

 

「ん? 大丈夫だ。ただ……皆が生きている事が嬉しくてな」

 

 涙が伝うリーシャの頬へと手を伸ばしたメルエが、心配そうに声を掛ける。少女の優しい心に喜びを感じながら、リーシャは泣き笑いを浮かべてその小さな身体を抱き締めた。

 今更ながらに、リーシャの身体が恐怖によって小刻みに震え出す。それ程の激戦であり、それはあの場に居た者でなければ絶対に理解出来ない程の恐怖であろう。死を覚悟した時間がどれだけあった事だろう。幾ら手を伸ばしても届かない絶望を何度味わっただろう。それは想像を超えた次元の恐怖であり、絶望であった。

 ゆっくりと顔を上げたリーシャは、自分を囲むように座った仲間達の顔を眺める。『たいまつ』の炎に照らされた顔には、疲労はあれども死相は見えない。皆で勝ち取った未来を、皆が生きている事を示していた。

 それが彼女には何よりも嬉しい。

 

「少し休め」

 

「……ああ、お前も休めよ」

 

 そんなリーシャの頭には、既に兜はなく、癖のある金髪が炎に照らされて輝いている。その頭に手を乗せたカミュは、労わるように、宥めるように声を掛け、焚き火を作る為の枯れ木を集め始めた。

 余程の疲労であるのだろう。頭に乗せられていた暖かな手に不快感を覚える事もなく、ゆっくりと倒れるように彼女は眠りに就いた。

 メルエもまた泣き疲れたように眠り、微笑が絶えないサラもまた、静かに瞳を閉じて行く。静かな三つの寝息が聞こえる中、焚き火に火を点したカミュは、壁を背にして座り、浅い眠りへと落ちて行った。

 

 

 

 三人が起きた時には、かなりの時間が経過していただろう。最初に目を覚ましたのはカミュであり、それに続いてリーシャが起き、最後にサラが目を覚ました。メルエだけはどれだけ揺らそうとも嫌がるように目を開けず、リーシャの腕の中で再び眠りに落ちてしまう。諦めたように溜息を吐き出したリーシャは、仕方なしにその小さな身体を抱き上げた。

 焚き火の炎を『たいまつ』へと移し、そして一行が勇者の洞窟から出る為に歩き出す頃になっても目を覚まさないメルエに不安になったリーシャがサラへ問いかける一場面があったが、それも柔らかく制止される。

 

「その小さな身体で、自分の持てる力の全てを出し尽くしたのです。私達とは異なり、その回復には時間が掛かると思います」

 

「そうか……そうだな。メルエは、この小さな身体で、あの大魔王と相対したのだな。私でさえ、恐怖で動けなくなる威圧感に、こんな身体で立ち向かっていたのか」

 

 大事な宝物のように小さな身体を抱き締めたリーシャは、再び涙を溢す。メルエが自分達と離れたがらないという事を理由にして、随分と酷な場所へ連れ出してしまっていたのだろう。それでも泣き言一つ言わず、自分の成すべき事を常に考え、自分が出来得る限りの事を成し、仲間達を守り続けて来たこの少女を、誇りに思うと共に、愛おしくて仕方なかった。

 その想いは、サラもカミュも変わりないだろう。優しく微笑んだ二人は、そのまま洞窟の最下層から出る為に歩き始める。最後尾を歩くリーシャの武器である魔神の斧は、今ではカミュの手にあり、魔物との遭遇に備えての慎重な行軍を進めて行く。

 

「魔物の気配は感じますが……」

 

「私達を避けているようだな……」

 

 だが、そのような一行の心配は杞憂に終わる。『たいまつ』の炎を掲げながらゆっくりと歩を進める一行の前に魔物が現れる事は無く、気配は感じても、その姿が見える事はなかった。

 武器を失ったからこそ、カミュはリーシャの斧を持ってはいるが、リーシャを真の主と認めた魔神の斧が、カミュの手の中でその真価を発揮する事は有り得ない。今、強力な魔物と遭遇してしまえば、カミュ達が命を散らす可能性も高い事を考えると、この奇妙な出来事はむしろ一行に取っては有難い誤算であった。

 魔物の影も見えないが、それでも気配や視線は感じる。まるで自分達を恐れているように近付かない魔物達に少し不気味な印象を受けるが、本来、魔物という物はそういう存在なのかもしれない。

 自身よりも強いと感じた者に対しては、無闇に敵対せず、自らの命や棲み処に危機を覚えればその限りではないだろうが、そうでなければ姿を隠し、敢えて危険を冒さない。それが貴重な命を永らえる生物としての知恵なのだ。

 

「何にせよ、今は助かる」

 

 『たいまつ』を掲げ、記憶にある道順を歩んでいたカミュは、多少の安堵を見せ、武器を下ろす。必死になって戦えば、如何に疲弊していようが、この洞窟にいる魔物などカミュ達の相手ではないだろう。だが、それでもリスクは大きく、最悪の場合、何らかの犠牲を伴う可能性も否定は出来なかった。故にこそ、この場で戦闘に発展しない事は喜ばしい事であった。

 その後も魔物との遭遇は一度たりともなく、無事に一行は洞窟の外へと顔を出す事となる。しかし、その外界の景色は、カミュ達が考えていた物とは全く異なる物であった。

 

「……まだ、闇に包まれたままなのか?」

 

「……そんな」

 

 砂丘の真ん中にある勇者の洞窟の入り口から見えた景色は、彼等がアレフガルド大陸へ辿り着いた頃と全く変わらない闇のまま。大魔王ゾーマという元凶を討ち果たしたにも拘らず、この大陸が未だに闇に包まれている事に愕然とした。

 今が夜である可能性も勿論あるだろう。だが、縋るように見上げた空には、月どころか星一つ無く、雲も見えない。それは、この空が未だに闇によって深く覆われている事を示していた。

 ここまでの彼等の苦しい戦いが、何の成果も齎さなかったという事実。それは、大魔王ゾーマを前にした時以上の絶望を与える。この事実こそが、大魔王ゾーマが与えた最後にして最高の絶望なのだと言われれば、間違いなく彼等の心は、今度こそ跡形もなく砕け散った事だろう。

 

「…………うぅぅん…………」

 

 しかし、彼等に試練を与え続けて来た世界も、彼等の努力に報いる時は訪れていた。

 リーシャの腕の中で深い眠りについていた少女が、周囲の騒がしさに身を動かし、むずかるようにその小さな瞼を開ける時、空を覆っていた深い闇にも動きが出る。まるで彼女の目覚めを待っていたかのように、その瞼と同じように、ゆっくりと空が白み始めたのだ。

 空を覆った闇の扉が開くように、今まで抑えられていた太陽の輝きが広がって行く。黒く染まった木々に色が戻り、砂丘から見える山々が美しい緑に輝き始めた。それは、数年前まで当たり前であった光景でありながらも、涙で視界が歪む程の感動を呼び起こす美しさを誇る。空に燦燦と輝く太陽の存在を感じ、その光が運ぶ暖かさを肌で感じる頃、その美しい空を見上げたリーシャとサラは一筋の涙を流していた。

 

「最近は、涙脆くなって駄目だな……」

 

「年だな」

 

 片腕でメルエを抱きながら涙を拭いたリーシャは、即座に返って来たカミュの言葉に激昂する。遥か昔に聞いたようなやり取りに、サラは涙を流しながら噴き出し、笑いが止まらなくなってしまった。目を真ん丸にして空を見上げていたメルエもまた、サラの笑い声と、本気ではないリーシャの憤りを見て声を出して笑い出す。憮然とした表情のまま、顔を背けたリーシャも、その顔を維持する事は出来ず、メルエと共に笑い出してしまった。

 美しく輝く世界。太陽の光という恵みを受けた大地は、生命の息吹を目一杯表現している。草花は、一斉に太陽のある方向へと身体を向け、その恵みを少しでも多く受け取ろうと葉を広げていた。勇者の洞窟の入り口を囲う砂丘の向こうにある森からは、鬱憤を晴らすかのように鳥達が大空へと飛び立ち、小動物達が少しずつ顔を出している。

 

「ふふふ。仕方ありませんよ。こんなに世界は美しく、素晴らしいのですから」

 

「カミュ、ルーラではなく、このまま歩いてラダトームへ向かわないか?」

 

 リーシャの腕の中にいる少女は、明らかにそわそわし始めている。それは誰の目から見ても明らかであり、今、地面に下ろしてしまえば、駆け出してしまう事は間違いないだろう。久しく見ていなかった光の眩さにようやく目が慣れて来た頃、リーシャはカミュへ一つの提案を切り出した。

 カミュもサラもメルエも、暫くの休憩を経て、ルーラを行使する程度の魔法力は回復している。今であれば、この空に輝く太陽が沈むよりも前にラダトーム王都に辿り着く事は出来るだろう。だが、彼等にとって、ラダトームへ向かう事はそれ程に急ぐべき物ではない。いや、正確に言えば、大魔王討伐という目的を果たした彼等に、急ぐ理由など何一つ無いのだ。

 

「ああ」

 

 そして、そんな彼女達の気持ちは、しっかりとカミュへと届く。苦笑のような遠慮気味な笑みを浮かべ、彼はその提案に頷きを返した。

 地面にメルエを下ろし、その手を握ったリーシャは、ゆっくりと砂丘を歩き出す。もう片方の手を握ったサラは、小さく鼻歌を口ずさみ、それに合わせてメルエも歌を歌い出した。

 何の憂いも無い。何一つ不安も無い。恐れる物は無く、あるのは未来への希望だけ。そんな道は、この長い旅路の中でも初めての経験であった。花咲くように微笑むメルエの顔も、それを見て共に歌うサラの顔も、二人を優しく見つめるリーシャの顔にも、幸せという感情が滲み出している。それは、本来は人が普通に持ち得る感情であったのだ。

 

「メルエ、余り遠くに行っては行けませんよ」

 

「…………ん…………」

 

 砂丘を越え、草原へと出てしまえば、幼い少女の好奇心を抑える物は何もない。待ち切れないようにリーシャとサラの手を離した少女は、草花の間に咲く花へと駆け出して行ってしまう。見晴らしの良い草原でその行動を止める理由は無く、サラはその後を追うようにゆっくりと走った。

 屈み込んだメルエは、綺麗に咲く花に頬を緩め、太陽と共に現れた色とりどりの虫達に目を見張る。花から花へ移るように飛び回る虫達の後を追うように歩き続けるメルエの姿は、先程まで極限の疲労によって眠りに落ちていた者とはとても思えず、まるで身体の内から溢れ出る元気が有り余っているようにさえ見えた。

 

「おいで、メルエ。少し休もう」

 

「…………ん…………」

 

 しかし、どれだけ嬉しくとも、本来の魔法力が戻っていない状態では限界がある。しかも、久しぶりに顔を出した事で奮起しているように輝く太陽の日差しは強く、気温は闇に包まれていた時とは比べ物にならない程に高くなっていた。

 草原の脇にある森から小川のせせらぎが聞こえ、リーシャはその近くで小休止する事を提案する。嬉しそうに微笑んだメルエは、リーシャの傍へと駆け寄り、森の木々の木陰にゆっくりと座り込んだ。

 太陽の力強い光から逃れた木陰は、ひんやりとした空気を持ち、感動と興奮で火照った身体を鎮めてくれる。カミュが小川から汲んで来た水を飲み、そこから見える景色を見ているだけでも、何故か涙が溢れて来る程に、長閑で優しい光景であった。

 

「…………ぷるぷる…………?」

 

「え? スライムですか?」

 

 暫しの休憩時間を満喫していると、落ち葉の下で生きる生物に興味を示していた筈のメルエが顔を上げる。太陽の光を遮った薄暗い森の奥へ視線を送った彼女は、小首を傾げながら、その生物らしき物の名を口にした。

 例え、今の一行に傷一つ付ける事の出来ないスライムであっても、魔物である事に変わりは無い。メルエの声に反応したサラは、少し緊張感を持って、メルエの視線の先を注視した。

 確かに、メルエの見ている方向には、薄暗い闇の中に光る輝きが幾つか見える。その光の高さが低い事から、小動物のような物の目の光であると予想出来た。しかし、その数は一体ではなく、数体ほど。警戒しなければならない数でなくとも、無視出来ない物でもあった。

 

「メルエ、飛び出しては駄目だぞ」

 

「…………むぅ…………」

 

 思わず近寄ろうとしたメルエではあったが、それは先んじてリーシャに釘を刺される。不満そうに頬を膨らませる少女に苦笑しながらも、その身を抱き上げ、自分の膝の上へと乗せた。

 リーシャとしては、スライムが何匹いようとも警戒するに値せず、その後ろに強力な魔物でもいない限りは、無視しても良いとさえ感じていたのだ。カミュもそれは同様のようで、一切そちらへ視線を送る事なく、汲んで来た水で喉を潤していた。

 そんな二人の姿を見て、サラも警戒心を解き、手に握っていたさざなみの杖を地面に置く。そして、森の脇から飛び出して来た、小さな『リス』のような動物を見て、微笑を浮かべた。

 飛び出して来た『リス』は、明るくなった空を不思議そうに見上げ、そして自分を見つめるメルエの姿に小首を傾げるような仕草を見せる。この『リス』は闇に包まれてから生まれ、太陽の恵みを知らずに育ったのかもしれない。

 

「後ろのスライム達も動かないな。メルエ、そのオカリナを吹いてみたらどうだ?」

 

「…………ふえ………ふく…………」

 

 頭の上から掛かった言葉に笑顔で大きく頷いたメルエは、首から下がったオカリナに手を掛け、その歌口へと口を付ける。ゆっくりとオカリナへ空気を送り込み、小さな指で穴を塞ぎながら、教えられた僅か一つの曲を奏でて行った。

 透き通るような音色は森の木々に反響し、静かに木々を揺らしながら森の奥へと進んで行く。この場所にオーブがある訳でもなく、短い曲の音色が山彦のように返ってくる事は無い。それでも森を抜けた音色は、輝き溢れるアレフガルドの大地へと流れて行った。

 メルエが奏でる事の出来る曲は一曲のみ。だが、その短い曲が終わる頃には、彼等の周りに様々な生物が顔を出していた。

 

「…………ぷるぷる…………」

 

「駄目だ、メルエ。急に手を出しては怯えさせてしまう。まだまだ友達になるには時間が掛かるぞ」

 

 メルエとリーシャの傍には、二体ほどのスライムベスの姿がある。ゆらゆらと揺れるゼリー状の身体は、陽の光を浴びて透き通るような緋色をしていた。闇の中で見たスライムベスは、どす黒い血液のような赤に見えていたが、明るい陽の光を通して見れば、神秘的な美しさを持っている。それは、サラにとってはとても不思議な光景でもあった。

 先程のリスとスライムベスが同じ場所で、互いに争う事なくメルエの方へ視線を送っている。邪気を無くしたスライムベスは、魔物の中でも最弱の部類に入り、その俊敏さを考えれば、リスでも警戒心を持たないのかもしれない。

 

「もう一曲聴きたそうにしているぞ?」

 

 からかうように微笑んだカミュの一言に、大きく頷いたメルエが再度オカリナの歌口へと口を付ける。再び奏でられた音色は、今のメルエの心境を表すかのように、軽やかに弾んでいた。

 逃げ出そうとはしなくとも、手を伸ばせば逃げてしまうかもしれないという恐れから、メルエは傍に寄って来る小動物達を見るだけに留め、それでも笑顔を絶やさずに、夜までの間、その場で楽しい時間を過ごして行く。

 

 

 

 そんな楽しい旅路は四日続き、旅していた頃の倍の時間を掛けて、一行はラダトーム王都周辺へと辿り着く。

 太陽が顔を出した事により、遠くからも見えて来たラダトーム城は、陽光を反射するように白く輝いていた。このアレフガルド大陸にある唯一の王城であり、この広い大陸を統べる王族が管理する城は、上の世界で見たどんな城よりも美しく、見る者を魅了する程の威厳に満ちている。徐々に大きくなって来るその姿は、溜息が出て来る程に雄大な物であった。

 アレフガルド大陸を統べるラダトーム王国の国旗が町を囲う城壁のあちこちに掲げられ、風によって靡いている。ゆらゆらと揺れるその国旗が陽光によって輝き、城下町を護る為に存在する筈の城門は、何故か開け放たれていた。

 城門の両脇に設置された見張り台には、数人の兵士の姿が見え、見ようによっては、こちらに向かって手を振っているようにさえ見える。競うように見張り台から降りて行く兵士に、開け放たれた城門から我先にと飛び出して来る人々。その数は、カミュ達が近付けば近付く程に増えて行くようにさえ見えた。

 

 『勇者の凱旋』である。

 

 

 


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