むせ返る様な血の匂いと、人の焼けた臭いが漂う部屋の中で、一行は未だに炎が生きている暖炉で暖を取る。その後、暖炉の近くに束ねられていた薪を袋に詰め、階下への階段を降りて行った。
降りたフロアは静まり返ってはいたが、未だに止む事のない雨音が周囲に響いており、一歩フロアから出ると、乾いたばかりの衣服がまた体温を奪う布と化してしまう事が予想出来る。
更には、至る所に人骨が散乱しており、ほんの少し前まで、ここで地獄絵図が拡げられていた事も容易に想像出来た。
フロアへと最後に降りたサラは、周囲に散乱する人骨を見て足を止める。この惨状は、先頭を行く、アリアハンの勇者と謳われるカミュが起こした物と言っても良い。直接止めを刺した訳ではないが、カミュが殺したと言っても遜色はない筈なのだ。
それが、サラの心に棘として残っていた。
「サラ、あまり思い詰めるな。この世には『因果応報』という言葉もある。この盗賊達が行ってきた所業が、彼らにそのまま返って来たとも考えられる筈だ」
「……はい……で、ですが……」
足を止めたサラに、少し前を歩いていたリーシャが見かねて声をかけて来る。サラも、リーシャの言っている事は理解出来る。
それでも、どうしても納得する事が出来なかった。
『人殺しは重罪』
それを幼い頃から植え付けられているサラにとって、相手がどんな人物であろうと、『人』である以上、殺す事を容認する事は出来ないのだ。
『盗賊達の所業が許されないとしたら、カミュが行った事もまた、許される事ではないのではないか』
サラはそればかりを考えるようになる。しかし、サラのその考えは、カミュという人物が決して相容れぬ者である事を意味していた。
そして、二人の考えにどこか似通っているものがあるという事も示唆していたのだ。
『人間が食事の為に獣を殺し食す事も、魔物が食事の為に人間を殺し食す事も同じ』と考えるカミュの思考。
『盗賊達が快楽の為に人の命を散らす事も、憎しみに駆られ盗賊達を斬殺する事も同じ』と考えるサラの思考。
それは、全く違うようでどこか通じるものがある。
「……」
「……サラ……」
自分を心配そうに見るリーシャの視線に気が付きながらも、サラは自分の心の中に芽生えた考えに苦しみに似た悩みを抱え、反応を返す事が出来なかった。
それは、カミュを許せないという自分の考えが、結局自分自身もその対象になり得るという事に思い当ってしまったからでだった。
例え、食事の為とはいえ、自分の親を殺した魔物達を、その『復讐』の念から手当たり次第殺す事は、自分が抵抗を感じているカミュと同じ事なのではないかという疑問。
そして、それを認めた時点で、自分の旅が終結を迎えてしまうという恐れ。その考えは、サラを苦しめ、そして悩ませる。
『人と魔物は違う』
何とか自分の心を抑えつけようとするが、そう考えれば考える程、『魔物』を生物として考えない自分と、盗賊を『人』として見ていないカミュと何が違うのかという思いに駆られ、堂々巡りを繰り返す。
「カミュ! 私はサラと共に歩く! メルエを頼む!」
そんなサラの葛藤は、フロアから外に出て、降りしきる雨の中に出ても尚続いていた。
放心状態に近いサラの身を案じ、リーシャがその横を伴走するように歩く。カミュは、リーシャの言葉に返事を返す事はなかったが、メルエを風下のマントの中にいれ、雨風を防ぐ形で、壁伝いに歩を進めて行った。
先程、この道を通った時と同じように魔物の影や気配は一切ない。しかし、ある意味、魔物よりも悪い、横殴りの雨風が一行の体温を奪い、体力を削って行く。いつの間にか、堂々巡りだった思考も停止してしまったサラは、リーシャに庇われながら歩を進めていた。
「カミュ! そこは真っ直ぐではなかったか!?」
「……」
先頭を行くカミュは、後ろからかかる見当違いなナビゲーションを無視し、壁伝いに歩を左へと移す。ようやく雨風を防ぐ壁に囲まれたフロアへと出た事に、全員が安堵の溜息をついた。
リーシャの言葉とは違い、フロアの奥には、階下へ続く階段が見える。
「……い加減に自覚してくれ……」
「ぐっ!!」
カミュが吐いた溜息は、サラやメルエの溜息とは微妙に用途が違っていたようだ。溜息と共に吐き出された言葉に、リーシャは言葉に詰まる。
「…………」
雨風の脅威が止んだ事への安堵から、サラの思考は再び活動を始めていた。
それが、表情にも表れ、険しい表情を作ったまま黙り込んでしまっている。リーシャもサラの様子を心配してはいたが、もう一人、そんなサラをじっと見つめる人物がいた。
「一度下に降りてから火を熾そう」
サラやメルエの体力を心配したリーシャの提案を拒む理由もなく、全員が頷き、階下へ続く階段を降り始める。雲に覆われた空から入る光は乏しく、階段は暗闇に支配されていた。
カミュがメルエの手を取り、リーシャがサラを支える形で、階段を降りて行く。
階段を降り終わり、持って来ていた薪を組んで火を熾す。
次第に大きくなる炎の周りを一行で囲み、暖をとり、衣服を乾かした。
火の傍に座ってからも、考え込んでいるようなサラ。しかし、何故かメルエまでも何やら寂しそうに俯いていた。
「メルエ、どうした?」
サラだけでなく、メルエまでもが黙り込んでしまった事に困惑したリーシャが、メルエの肩に手を置き声をかけるが、メルエは尚更下を向いてしまう。
「……メルエ?」
その様子に、『身体を冷やした事で、体調を崩してしまったのでは?』とカミュもメルエへと声をかける事となった。
しかし、そんな二人の心配していた内容とは違う答えが、先程からじっとサラを見つめていた少女から返って来る事となる。
「…………ごめ………ん………なさい…………」
「……は?」
「ど、どうしたんだ、メルエ!? ど、どこか身体の調子が悪くなったのか!?」
いきなりの謝罪。
その言葉に、カミュが以前見せたような、呆気にとられた表情を浮かべる。カミュが呆けてしまった事により、メルエの謝罪の意図を問いただす役目は、リーシャとなってしまったが、リーシャの問いかけに、メルエはただ下を向いたまま首を横に振っただけであった。
「一体どうしたんだ? 首を振るだけでは分からないぞ。メルエは何故、私達に謝っているんだ?」
メルエの反応に落ち着きを取り戻したリーシャは、湿気を帯びているメルエの<とんがり帽子>を取り、その頭に手をのせながら、優しく声をかける。そんな三人のやり取りに、今まで己の思考の海に潜っていたサラの顔がようやく上がった。
「…………メルエ…………まほう………できない…………」
「何!?」
メルエは下を向いたまま、ぽつりぽつりと謝罪の理由を話し出す。それは、リーシャの予想の遥か斜めを行った物であり、しかも、俯いているメルエの顔辺りから床に落ちて行く水滴は、決して先程まで叩きつけられていた雨ではない事がリーシャだけでなく、カミュやサラにも理解出来た。
「…………まほう…………できない…………出れない…………」
メルエの足りない言葉を、何故か全員が正確に理解する。
『メルエの脱出呪文がない故に、この塔から出られない』とメルエは言いたいのだろう。メルエなりに、その責任を感じていたのかもしれない。
「そ、それは……」
「…………サラ………元気………ない…………?」
『それは、メルエのせいではない』
そう言おうとしたリーシャの言葉は、尚も必死の言葉を繋ごうとするメルエの言葉に阻まれた。
そして、繋げられた言葉を発しながら、顔を上げたメルエの涙の溜まった瞳は、真っ直ぐサラを見ている。サラが思考に陥っている事を、メルエは『元気がない』と感じていたのだ。
しかも、それは魔法を行使出来ない自分の責任と感じていたのだろう。
「……メルエ……」
そんな幼い少女の瞳を見て、サラは恐怖を感じる。
『このような純粋な少女の暖かな視線を受ける資格が、今の自分にあるのか』と。
しかし、それ以上に喜びを感じたのも事実だった。自分をこれ程までに心配してくれる『人』がいるのだと。
思考の海に溺れてしまっていたサラの様子に、これ程の責任を感じてしまうほど好意を持って接してくれる『人』がいる事に。
サラは、自分自身、教会の管理をしている神父に拾われ、育てられた事から、『僧侶』になるのは当然の事だと思っていた。
自分が今、こうしている事が出来るのも、『精霊ルビス』様のご加護があってこその物。ならば、そのルビス様を信仰するのは当然であると。
しかし、サラ自身気がついてはいないが、彼女にはそれしかなかったというのも事実なのである。
孤児という事で、一時的なもの以外の友人と呼べる存在はなかった。自分を気にかけてくれる存在は、両親なきサラには、神父とルビス像しかいなかったのだ。
「……メルエ……大丈夫です。私は少し考え事をしていただけなのです」
「…………」
喜びを噛み締めながら、サラはメルエへとゆっくり語りかける。眉を下げたメルエは、じっとサラの瞳を見つめていた。
「それに、この塔から出る事が出来ないのは、メルエの責任ではありませんよ。もし責任があるとすれば、メルエの魔法力が枯渇してしまう程に疲労させてしまった私達の責任です。ですから、メルエがそのような顔をする必要はありません」
自分は何を迷っているのだろう。
親の仇を取る為に、魔王への『復讐』を誓ったその日から、覚悟は出来ていた筈だ。
確かにそれは、『人殺し』をする覚悟ではない。しかし、どんな事があっても、その『復讐』をやり遂げるのだという覚悟だ。
それは、自分の殻に閉じこもり、幼く純真な少女に悲しい表情をさせるものではない。自分に好意を持って接してくれ、これ程まで自分を心配してくれる少女を泣かせる事でもない。サラの瞳に、再び覚悟の炎が灯り始めた。
「…………サラ………元気…………?」
「はい! 元気ですよ。私の場合、メルエと違い、戦闘でほとんど役に立っていませんから、魔法力も余っています。だから、メルエが謝る事など、全くないのですよ」
呟くようなメルエの問いかけは、とても単純な物だった。
単純な物だからこそ、この幼い少女が、如何にサラを心配していたのかが窺える。上目遣いで問いかけるメルエに、サラは満面の笑顔で答えた。
「そ、そうだぞ、メルエ。魔法が使えないのがダメというのならカミュだって同じだ」
「……最初から魔法を一切使えないアンタは、全くの役立たずという事になるがな……」
「な、なんだと!?」
メルエの問いかけに、自分の内にある苦悩を飲み込み笑顔で答えるサラの瞳は、塔を登る前と発する光が変わっていた。
しかし、サラに倣ってメルエを何とか励まそうと口を開いたリーシャの言葉は、即座に皮肉気に口端を上げているカミュによって斬り捨てられる。サラとは違い、この二人のやり取りはいつも変わらない。
それが、メルエにも、そしてサラにも嬉しかった。
「…………ん…………」
全員の言葉に、目に涙を溜めたまま、こくりと頷いたメルエの笑顔は、塔内部での出来事で荒んでいたパーティーの心を和らげる優しい物だった。
「よし! 衣服も乾いてきたな。出発しよう………カミュ、お前は常に後ろに気を付けて歩くんだな……」
リーシャが最後にカミュへ言った言葉は『後ろのサラやメルエを気にしろ』という意味なのか、『私の剣に気をつけろ』という意味なのかを考えてしまうような不穏なものであった。
カミュの溜息は、未だに火の勢いの衰えない焚き火の中へと吸い込まれて行く。これぐらいの休憩では、カミュもメルエも魔法力が回復する事はない。つまり、自分達の足でこの塔を降り、<カザーブ>までの道程を歩かなければならないという事だ。
一行は、再び<シャンパーニ>の塔の内部を歩き出す。雨と風をその身に受けないという事が、これほど素晴らしい事なのだという事をサラは初めて感じていた。
そんな感動を吹き飛ばす声がサラの後方からかかった。
「メ、メルエ、見てみろ。大きなきのこが生えているぞ! あれだけの大きさなら、料理のし甲斐がある」
疲れ果てている一行にとって、何とも形容しがたいその内容に、サラは顔を顰めながら振り向いた。
「…………きの………こ…………?」
誰よりも早く振り向き、リーシャの傍へと小走りに移動したメルエは、リーシャの指差す方向に目を凝らした。
暗がりの中で、確かにきのこらしき物が地面から生えているのが見える。それは、リーシャやメルエだけではなく、サラにも確認出来ていた。
「本当に……きのこ……ですねぇ……」
「よ、よし! あれを採って来て、先程の場所まで戻ろう。もう一度火を熾してから、炙って食べる事にしよう」
自分の見識が間違った物でなかった事が、サラの言動によって証明されたと考えたリーシャは、きのこらしき物が生えている場所へと近づいて行く。
「…………メルエ………も………いく…………」
「メルエは、ここで私と待っていましょう。リーシャさんに任せた方が良いですよ」
そんな後方でのやり取りに、再度溜息を吐きながら、カミュは振り向き、そして目を見張った。
「お、おい! それはきのこではない! 魔物だ!!」
振り向きざまにカミュが見た物は、大きなきのこのような形をした物に不用意に近づくリーシャであった。
しかし、こんな塔の中にきのこなど生えている訳がない。例え生えていたとしても、<毒キノコ>の可能性の方が高く、そのような物を食そうとしている人間がいる事自体がおかしいのだ。
それを注意しようとしたカミュであったが、リーシャが近づいたきのこは<毒キノコ>よりもたちの悪い物であった。
「ちっ! 全員呼吸を止めろ!!」
「えっ!?」
メルエの元に駆け寄りながら、カミュが出した指示は、サラにとって意味が良く理解出来ない物ではあったが、カミュの表情を見て、それが適切な指示なのであろう事を理解し、鼻と口を押さえた。
メルエは駆けて来たカミュのマントの中に潜り込み、同じ様に鼻と口を手で覆う。
「な、なんだ…………と…………」
リーシャがきのこに手をかけようとしたその時、その現象は起こった。
突如として振り向いた巨大きのこには牙の生えた大きな口と、ぎょろっとした目が付いていたのだ。
それに驚いたリーシャが声を上げようとするが、リーシャの声が喉を通ったその時に、きのこの大きな口から、甘ったるい息が吐き出された。
声を上げようと息を吸い込んだリーシャは、そのきのこが吐き出した息をもろに吸い込んでしまう。その息は甘く、リーシャの脳を蝕んで行き、徐々に意識が薄れ、それは何日も徹夜をした後にベッドに入った時のような、逆らう事の出来ない睡魔に似たものであった。
「お、おい……まさか……」
瞬く間に睡魔に負け、崩れ落ちてしまったリーシャにカミュは愕然とする。曲がりなりにも、アリアハン宮廷騎士の中でも屈指の実力を持つ戦士の筈だ。
これ程、簡単に敵の術中に嵌るとは、流石のカミュも予想だにしていなかった。
「えっ、えっ!? ど、どうなっているのですか?」
「…………リーシャ…………ねた…………」
困惑を隠しきれないサラに、メルエの淡々とした声が突き刺さる。サラがこのパーティーで最も頼りにしている女戦士は、床に倒れ込むようにして寝息を立てているのだ。
「呆けるな! メルエは、後ろに下がっていろ! おい、アンタも<鉄の槍>を構えろ! 鍛練は積んで来た筈だ」
「は、はい!」
横たわるリーシャの周りには、先程きのこと間違えた魔物が三体。
獲物を食すのは後回しとばかりに、カミュ達の方に全体で向かって来ている。
<おばけきのこ>
その姿は、巨大なきのこそのものであり、その生態は全く解明されていない。基本きのこなどは、木に自然と生えて来る物であるというのがこの世界での常識である為、この魔物の繁殖方法は全く持って解ってはいないのだ。<シャンパーニ>の塔周辺でしか出没しない為、何らかの要素がこの塔にあるのではないかというのが研究者達の考えであった。きのこと勘違いをし、近づいて来た人間を、その口から吐き出す<甘い息>で眠らせてから集団で食す魔物である。<甘い息>は神経性のものであるため、吸い込まなければ影響はない。また、少量であれば効果も薄いが、大量に吸い込めば、暫くの間、その人間は覚醒する事がない。激しく揺さぶったり、叩いたりすれば覚醒は早まるが、それも個人差があったりするのだ。
「カミュ様、行きます!」
背中から剣を抜いたカミュよりも速く、サラが槍を構えて駆け出した。
サラとしても、ロマリア城下町を出てから毎日、朝と夕にリーシャから稽古をつけてもらっているのだ。
ここまで、カミュやリーシャの剣技、そしてメルエの攻撃魔法によって、サラが槍を振るう場面などなかったが、カンダタのような相手でなければ、その槍での攻撃は十分に通用する物となっていた。
<おばけきのこ>との距離を一気に詰めたサラは、<鉄の槍>の穂先を魔物目掛けて突き出す。
サラの突きは、カミュやリーシャに及ばないまでも、アリアハン大陸の魔物であれば一撃で倒せるような速度。
しかし、ここはロマリア大陸。しかも、大陸でも中位に位置する<シャンパーニ>の塔の魔物である。
サラが突き刺せると確信した突きを、<おばけきのこ>はギリギリのところで身を翻した。
その大きな口を皮肉気に歪ませた<おばけきのこ>であったが、サラとて<ナジミの塔>で<人面蝶>と対していた時のサラではない。突き刺した穂先をそのままに、両手を返す事によって、<鉄の槍>の柄を<おばけきのこ>が身を返した場所目掛け振るったのだ。
「ギュエ!」
避けたと思った槍の穂先に注意を向けていた魔物は、横から飛び込んで来る柄の部分に全く気が付いていなかった。
<鉄の槍>の柄で横っ面を殴られた<おばけきのこ>は、潰れたカエルのような声を出して吹っ飛んで行く。
自分の力量が思っていた以上に上がっている事に、自分自身驚いてしまったサラには、一瞬の隙が出来てしまう。
一体を倒したとはいえ、三体の内の一体である。残る二体の内の一体がサラ目掛けて飛びかかって来た。
自分の失態に気がついたサラは、続いて来る衝撃に供えて身体に力を入れて目を瞑った。
しかし、いくら待っても衝撃などは来ず、聞こえて来たのは、荷物でも落としたような、重量のある物が床に落ちる物音だけであった。
恐る恐る目を空けたサラが見たものは、真っ二つに斬り裂かれた<おばけきのこ>だったものの残骸と、剣に付く体液を飛ばしているカミュの姿。
「……呆けるな、と言った筈だ……」
「……申し訳ありませんでした」
視線を向ける事無く呟くカミュを見て、サラは小さく謝罪の言葉を口にする。自身の落ち度を理解しているだけに、サラには反論する言葉などありはしないのだ。
「アンタが吹っ飛ばした魔物は、まだ生きている。あれはアンタに任せる」
カミュの言う通り、サラが先程、槍の柄で吹き飛ばした魔物は、もう一度起き上がり、サラに向かって飛びかかろうと力を溜めていた。
サラは、カミュに向かって一つ頷くと先程自分が吹き飛ばした<おばけきのこ>に向かって槍を構える。
暫しの膠着状態。
今度は、サラから不用意に近づく事もなく、<おばけきのこ>の方もまた、サラの動きを注視して動かない。
その時間は、どのくらい続いただろう。数分かもしれないし、ほんの数秒であったのかもしれない。
先に動いたのは<おばけきのこ>の方であった。
サラの後方を見て動き出した事から、カミュがもう一体の<おばけきのこ>を斬り捨てたのであろう。均衡した腕同士の戦いの中では、隙を見せた方が負ける。
動き出した<おばけきのこ>も魔物ながらそれを理解していたのかもしれない。サラに向かって走りながら、それでも動かないサラに向かって、再び牙の生えた口を開き、息を吐き出した。
何も眠らせようとした訳ではない。
少量でも吸い込めば、意識が混濁し隙が出来る。
それが目的だったのだろう。
しかし、サラは曲がりなりにも、アリアハン教会に属する僧侶である。一度見た物を、すっぱりと忘れる訳がないのだ。
動かずに、そして魔物から視線も外さなかったサラは、<おばけきのこ>が口を開くのと同時に息を止め、そして、手に持つ<鉄の槍>を渾身の力を込めて突き出した。
「ギョエ―――――――――!!」
吸い込まないまでも、下がるか避けるかするだろうと考えていたのか、<おばけきのこ>は突き出されるサラの槍をまともに食らう事になる。突き出された槍は、大きく開いた<おばけきのこ>の口に吸い込まれるように入り、そのまま<おばけきのこ>の身体を貫通した。
断末魔の叫びを上げ、サラの槍に突き刺さったまま絶命した<おばけきのこ>の重みに耐えきれず、サラは<おばけきのこ>の穂先を床につけてから引き抜いた。
魔法ではなく、自らの腕で魔物を倒す事が出来たサラは、全身を襲う疲労感と共に、胸の奥から湧き上がるような興奮を抑えきれないまま、カミュやメルエのいる後方を振り向くが、そこで見た物は、そんなサラの抑揚感を凍りつかせるものだった。
「メラ!!」
カミュの周囲を飛び回る二体の魔物。それは、以前アリアハン大陸で見たような人型をした魔物である<魔族>と呼ばれる者達。背中からコウモリの羽根のような物を生やし、口は耳近くまで裂け、その口の中の犬歯は魔物の牙の様に尖っていた。
<こうもり男>
吸血種である魔族の最下級種である。上級種の吸血魔族から血を奪われて吸血種に堕ちた、『人』であった者達の成れの果てとも言われているが、定かではない。その背には、その名の通りコウモリの羽を生やし、空を飛び、人間の生き血を食料とする魔物。他の魔物と違い、人間の肉を食らう事はないが、一度吸いつけば、身体中の血液を吸い尽くされ、干からび命を落としてしまう。本来、夜にしか現れないが、塔や洞窟など、日光の届き難い場所には生息する事がある。
「ちっ!」
先程、カミュが詠唱した<メラ>は、カミュの周囲を飛んでいる<こうもり男>達に向けたものではない。
現れた<こうもり男>の数も、先程の<おばけきのこ>と同じく三体。その内二体がカミュの周囲。
ならば、もう一体は……
サラがカミュの唱えた魔法の行き先に視線を向けると、そこに居たのはメルエ。
この<シャンパーニの塔>に入る前に、リーシャに着せてもらったマントを振りながら、周囲を飛行する<こうもり男>を威嚇している。
今のメルエには魔法が使えない。もしかすると、カミュが唱えた<メラ>程度なら詠唱が可能かもしれないが、当のメルエにはそのような事に気が付く余裕はなかった。
<リレミト>が発動しなかった時点で、『もう自分には魔法が使えない』と思い込んでいるのだ。
「メルエ!!」
先程のカミュの<メラ>は、しっかりと<こうもり男>に直撃していた。
しかし、それが本当にカミュの最後の魔法力だったのだろう。その威力は通常の時よりも明らかに劣っていた。
<こうもり男>が身に纏っている衣服を焼き、その素肌に若干の火傷を負わせた程度のダメージしか与える事は出来ず、むしろ、身体に傷を負った<こうもり男>はその傷を癒す為に、躍起になってメルエの血液を欲しているようにも見えた。
「…………いや…………」
何度も、小さな身体で懸命にマントを振り、<こうもり男>を牽制するメルエではあるが、それも時間の問題である。
一番近いカミュの周囲には鬱陶しく飛び回る<こうもり男>が二体。
メルエの危機に、珍しく取り乱し気味なカミュがその二体を斬り倒し、メルエの下に向かうまでには暫し時間を要するだろう。そして、サラからメルエへの距離は、空き過ぎていた。
それでも、サラがメルエの場所に<鉄の槍>を構えて駆け出し、カミュが一体の<こうもり男>の羽を斬り飛ばした時、遂にメルエを襲う<こうもり男>の手が、メルエの肩を捕まえた。
「メルエ!!」
この旅に出て初めて、カミュとサラの声が重なった。
羽を失い、地面に落ちた<こうもり男>の眉間に剣を突き刺し、メルエに駆け寄ろうとするカミュの表情にも絶望感が漂っている。
『もう駄目だ』
サラも、そして諦めという言葉とは縁遠いカミュも、メルエに向かう足を止めはしなかったが、心ではそう感じていた。
しかし、二人が絶望に目を覆いたくなったその時、メルエの右腕が動く。手探りのような動きで、腰元に持って行ったその小さな手で、そのまま<こうもり男>の首筋を殴り付けたように見えた。
「ギャ―――――――――――――!!!」
メルエのような幼い少女の力で殴り付けたところで、どうにもならないと考えてしまっていた二人の耳に信じられないような叫び声が轟く。
その叫び声の主である<こうもり男>は、メルエの肩を掴んでいた両手を離し、そのまま床に落ちて数度の痙攣を起こした後、その息を引き取った。
サラも、常に無表情を貫くカミュですらも、その信じられない光景に暫しの間、呆然と佇んでしまう。サラに至っては、その手に握る槍を床に落としてしまっていた。
しかし、それは本来、戦場にあるまじき行為。
自分の命はいらぬという程の愚行。
カミュが倒し、そして今メルエが倒した<こうもり男>は合わせて二体。
しかし、この場に出て来た<こうもり男>は三体の筈だ。
「キョエ―――――――――!!」
後方からかかる、耳を劈くような叫び声に、自分の失態に気がついたカミュが慌てて振り返った時はすでに遅かった。
降下しながらカミュの喉元めがけて振り下ろした爪は、もはや、手に持つ盾も剣も間に合わない場所まで来ていた。
「ゴフッ!」
しかし、ある種達観したように受け入れるつもりであったカミュの喉元に、その爪が届く事はなかった。
<こうもり男>の振り下ろした腕だけでなく、その身体自体も空中で停止していたのだ。
それを止めたのは、<こうもり男>の胸を後ろから貫通して飛び出ている剣先。
「……すまない……また迷惑をかけた……」
その剣の持ち主は、アリアハン国屈指の騎士。眠りを誘う息を吐き出した魔物の死と共に、その効力も薄まり覚醒を果たしたリーシャである。
「……もう、慣れた」
「ぐっ! 返す言葉もない」
剣の持ち主がリーシャである事を確認したカミュが、リーシャの謝罪に溜息を吐き出しながら発した答えは、無意識に近い厭味となり、リーシャの心に突き刺さる。
「メルエ! 大丈夫ですか!?」
「…………うぅぅ…………ぐずっ…………」
サラがメルエに駆け寄った事を表す声を聞き、カミュとリーシャもメルエの下へと急いだ。
リーシャがそこへ辿り着くと、メルエは手にしていた物を落とし、リーシャの胸に飛び込んで行く。
メルエが戦闘の時に魔物と一人で対峙した事など、今まで一度たりともなかったのだ。その恐怖は相当なものだったのであろう。無我夢中で何とか魔物を撃退はしたが、リーシャの顔を見た途端、今までの緊張と恐怖から抑えていた感情が溢れ出し、涙となってメルエの顔を濡らしていた。
「怖かったな……すまない、メルエ。私があんな様だったから……お前を護るとトルド達に誓ったのに……本当にすまない……」
「…………えぐっ………えぐっ…………」
メルエが<こうもり男>を倒す少し前にリーシャは覚醒を果たしていた。メルエの危機に駆け出そうとした時に、メルエの手が動いたのだ。
リーシャもその光景に息を飲む。しかし、すぐ目の前にいる<こうもり男>がカミュ目掛けて攻撃を加えようとしているのを見て、自然と身体が動いていた。
「そうか、これか……」
リーシャがメルエの身体を優しく抱き締め、その小さな背を撫でている横で、カミュはメルエが落とした物を拾い上げ、感嘆の声を上げる。
「……それは?」
「……<毒針>だ。トルドはしっかりとメルエを護ってくれた」
カミュの手にある物を見て、サラも言葉に詰まった。それは、<カザーブ>で最後までメルエがこの塔に行く事に反対していた人物がくれた物。
そして、『自分は護る事が出来ないのだから、代わりに護ってほしい』とカミュやリーシャに願い、頭を下げた男がくれた物だった。
「……トルドは、アンにこれを持たせてやれなかった事を、ずっと悔やんでいたのかもしれないな……」
「カミュ様……」
『まただ』
サラはそう思った。
また、カミュはこのような表情を見せる。それは、物悲しく、そして人の心を思い遣っているような表情。
『人』を『人』とも思わない言動や行動を繰り返すカミュが、時折見せるこの表情がサラには理解できなかった。
『何故、こんな表情をする事が出来る人間が、あのような残酷な行動を取れるのか?』。
そう思えて仕方がないのだ。それが、今のサラの限界だった。
『人』の心の矛盾。
そして、十人十色の思考や理想。
それを考慮に入れる余裕が、サラにはまだないのだ。
「もう大丈夫か? うん。よし、行こう。早く帰ってゆっくり休もう」
「…………ん…………」
メルエの泣き声が止んだ事を確認し、リーシャがゆっくりと自分の胸からメルエを引き剥がす。メルエは自分に優しい笑顔を向けるリーシャに向かってこくりと頷いた。
「しかし……やはりアンタは、魔物の性質や特徴も頭に入れた方が良さそうだな」
「ぐっ! わ、わかっている!! 今回は私が悪かった。それは謝る」
自分の非を認め、謝罪をするリーシャに容赦のない揚げ足取りが待っていた。
<ナジミの塔>に引き続き、今回も失態をしたことの自覚があるだけに、リーシャは悔しくとも唇を噛む事くらいしか出来ない。
「今回『も』だ……」
リーシャから離れたメルエは、カミュが血糊を拭き終えた<毒針>を受け取り、大事そうに腰のホルダーに仕舞い込んだ。
メルエにとって、この<毒針>は命を救ってくれた物と言うだけでなく、カミュの言う通り、アンとメルエを繋ぐ物でもあるのだ。
「メルエはその戦士の傍を離れるな。そいつもここから先は、無闇矢鱈に魔物に近づくような馬鹿はしないだろうからな」
「ぐっ! わ、わかっている! メルエ、私の傍を離れるな。カミュの傍にいるより安全だという事を証明してやる」
そんないつも通りの二人のやり取りを聞きながら、サラ達は先を急いだ。
塔の一階部分に辿り着いた一行は、再び豪雨の中に身を晒すために準備を行う。メルエのマントを頭から被せるように着せた後に、カミュのマントの中へと導いた。
塔の扉を開けると、肌に突き刺さるような雨が叩きつけられる。いつもの様に、先頭をカミュ、そしてそのマントの内部にメルエ、その後をサラ、最後尾をリーシャと言った隊列を組み、間を空けないように、歩き出した。
雨風は、塔に入った時よりも酷くなっているようにも感じ、サラには目を開く事すらも難しい状況であった。
塔に入る前に野営をした森は、進行方向からは少し逸れており、休憩をする為にその森に入るのであれば、<カザーブ>へ一歩でも近づいた方が良いというのが全員の認識であり、視界をも覆うような横殴りの雨は、魔物の登場をも遮っており、進行速度が遅いにも拘わらず、一行が魔物と遭遇する事はなかった。
「……メルエ、大丈夫か?」
「……」
先頭を行くカミュが、目を開ける事すらも困難な状態で、マントの中にいるメルエに声をかける。いくらカミュのマントによって護られているといえども、この雨と気温では、幼いメルエの体温の低下は避けられない。休憩を挟みたくとも、雨風を凌げる場所がないのだ。
カミュの言葉にマントの中で頷く仕草をするメルエではあるが、その身体に感じている寒さは相当な物なのであろう。小刻みに震えているのがカミュにも伝わっていた。
それでも、何とか橋を渡り、<カザーブ>の周囲を囲む鉱山の山々に入る為の山道に辿り着く。
「カミュ!! この辺りで一度休憩をしよう! 陽も落ちてきた!」
「このまま進む! 夜道は危険だが、今は火を熾せる場所がない!」
山の中の木々たちも、昨日から降り続く大雨の影響で濡れきっていおり、それは、大地も同じこと。下に落ちていた枯れ木も水分を多く含み湿気ってしまっている。
これでは、薪を常備している訳ではないカミュ達に、火を熾せる訳がない。故に、苦渋の決断として、カミュは幼いメルエや、女性であるサラやリーシャの状況を考えても強硬策を実行するのだった。
「くそっ! サラ、大丈夫か!?」
「は、はい!」
山は登って行くにつれ天候が激しくなる。雨雲が近付いている為なのか、風が上空を踊っているからなのか、暗い闇が支配し始めた山は、もはや一寸先も見えない程に雨風が激しくなって行った。
後方を歩く二人でさえ、前にいる人間の姿すら見え辛くなっているのだ。
サラは先頭を歩くカミュが、迷う事なく、暗闇の中を突き進んでいく事が信じられなかった。
『何故、カミュは道を誤る事なく、暗闇の中も歩けるのか?』
もしかすると、<アストロン>という魔法と同じように、それがカミュを勇者足らしめる物なのかもしれない。
「……」
メルエは、カミュのマントに覆われながらも、その隙間から自分が歩いて行く道をしっかりと見据えていた。
激しい雨風と、夜の闇によって視界は悪いが、自分がカミュの邪魔になってしまう事を何よりも嫌うメルエは、カミュの足元を気にしながらも前方に目を向けて歩いている。
そんなメルエの前方の一角に、雨風が止み、暗闇さえも払っている場所が目に入った。大きな木の下にぽっかりと穴が開いたように雨が降り注がない場所が出来ており、そこには、メルエの知っている少女と、その少女の肩に手を乗せた女性が立っていた。
メルエがカミュのマントにしっかりと包まれているにも拘わらず、その二人の目は真っ直ぐメルエを見ていたのだ。
アンである。
にこやかな笑顔を向け、メルエに向かって小さく手を振っているその姿は、塔の内部でリーシャがメルエに話したような感情をメルエに対して持っていない証拠。
アンの肩に手を乗せ、もう片方の手をアンと同じように振っている女性はおそらくアンの母親であろう。こちらも優しい笑顔をメルエへ向けていた。
メルエは二人の姿を確認し、そしてその優しい笑顔に嬉しさが込み上げ、カミュのマントを開き、木の根元に向かい手を振り返す。
突如マントから顔を出したメルエに驚いたカミュであったが、ある一点に視線を向け、笑顔を作りながら手を振るメルエに何かを察し、メルエの邪魔にならぬよう、それでも雨がメルエに当たらぬように、マントを操作しながら前に進んだ。
「……メルエ、アンに手を振るのは良いが、足元には気をつけろよ……」
それでも、幼いメルエの疲れが溜まった足元への注意も怠らない。自分が見ているアン母娘がカミュにも見えるのだと勘違いしたメルエは、嬉しそうに微笑みながらカミュを見上げ、大きく頷いた。
そんな二人のやり取りはサラやリーシャには見えない。雨風の影響もあるが、カミュのマントに覆われているメルエの動きは見えないのだ。
故に、この山のとある一点のみを包む、暖かい空気にも気がついてはいない。しかし、それは責められる事ではないだろう。雨も風もないその一点は、メルエにしか感じる事が出来ないのだ。
メルエの行動の内容を察したカミュであっても、メルエの視線の先は雨が降りしきり、ずぶ濡れになっている木しか見えていなかった。
メルエが手を振り終わり、再びカミュのマントに包まる状態に戻る。その頃になると、先程まで外気に触れている肌に突き刺さるように降っていた雨の勢いも、少なからず弱まりを見せ始めた。
「ふぅ……一先ず落ち着いたな……サラもメルエも大丈夫か?」
「は、はい。なんとか……」
「…………ん…………」
被ったマントを取りながら声をかけるリーシャに、サラとメルエはそれぞれの返答を返す。サラとリーシャはずぶ濡れになってはいたが、カミュにガードされていたメルエは幸い、ほとんど濡れていなかった。
大事そうに抱えていた<とんがり帽子>を再び被り直し、メルエは嬉しそうに空を見上げる。
「ふふふっ、メルエは何か良い事でもあったのですか?」
「…………アン………いた…………」
「そ、そうか! 良かったな、メルエ」
くるくると回るメルエに微笑みを浮かべながら訪ねたサラの問いに対してのメルエの答えは、リーシャの心をも弾ませる物だった。
メルエがこれ程嬉しそうにしているのだ。それは、アンがメルエに微笑んでいた証拠であろう。それがリーシャにも嬉しかった。
<とんがり帽子>のつばを掴みながら空を仰ぎ、天から降り注ぐ雫を受けながらも嬉しそうに歩き回るメルエに、サラもリーシャも自然と頬が緩む。
しかし、久々に訪れた、そんな和やかな空気は突如終止符が打たれた。
「……おい、メルエ、あまりはしゃぎ過……!!」
「!!」
「メルエ!!」
カミュがくるくると回るメルエを窘めようとした時にそれは起こった。
和やかな空気が流れてはいたが、ここは山の中腹に位置する場所。しかも、昨晩から、豪雨と言っていい程の雨が降り続いている。
地盤が脆くなっていたのだ。
バケツをひっくり返したような雨は山の地面の吸収力の許容を遥かに超えていた。
メルエが踏みしめた事が原因なのか、それとも既に限界を超えていたのか、メルエは隣にそびえ立っていた大木と共に後ろ向きに崖下へと落ちて行く。メルエの表情は、何が起きているのかすらも解っていない物であり、何かを掴もうと前に出された手は宙を掴んでいた。
「メルエ――――――!!」
その場にいた全員が一斉にメルエに向かって駆け出す。
リーシャの叫びは雨が降り続く闇に溶けて行った。
「!!」
絶望に落ちそうになるリーシャの目に、奇跡が映る。
一番メルエに近かったサラが、宙を漂うメルエの腕をしっかりと掴んでいたのだ。
「……うぅぅ……」
しかし、如何に幼いメルエとは言え、サラ一人では持ち上げる事など出来ない。しかも、踏み締める大地の地盤は、雨によって緩んでいる。踏ん張りのきかない足ではメルエを支えるだけでも手一杯なのだ。
「サラ! メルエの手を離すな! すぐに行く!」
何とかメルエの腕を握っているサラに声をかけ、リーシャはサラの下へと駆け寄ろうとする。しかし、それがいけなかった。緩みきった地盤にとって、乱暴に走り込む衝撃は追い打ちとなったのだ。
「キャ――――――――!!」
「サラ!!」
「くそっ!!」
地盤がサラの足元から崩れて行く。
その後を追って飛びこむリーシャ。
リーシャの腕は間一髪、支えを失い天を仰ぐサラの腕を掴んだ。
しかし、飛び込んだリーシャに踏みしめる大地等はない。
そのまま崖下へと吸い込まれて行く。
リーシャは諦めにも似た感覚で、天を仰いだ。自分の腕にかかる重みが、自分も落ちている事により、全くと言っていいほど無くなっていた。
雨を降らしていた真っ黒な雨雲が広がる空。
陽も落ち、夜の帳が広がるその空に、リーシャは太陽にも似た光を見た。
地を踏みしめる感覚もなく、無意識に伸ばした手を力強く握られる。それは、リーシャの父であった宮廷騎士隊長クロノスのような暖かく、そして安心感を与える力強い腕。
もう一度、見上げるリーシャの瞳には、一瞬父クロノスの面影が映った。
「くっ! お、おい、何とか上げられるか?」
「はっ!?」
リーシャの腕を力強く握っていたのは、認める事を拒否し続けている相手。
アリアハンの英雄の息子でありながら、その事を誇りに思うどころか、迷惑とすら考えている親不孝者。
それでも、自身の思考や理想を理解しようとはしない仲間の腕を必死に掴むカミュの姿だった。
「いや、サラを上げる事は出来るが、サラに掴ませる物がない」
リーシャの言葉通り、今のリーシャ達三人は、カミュの片腕だけで支えられている。そのカミュも、崩れかけた大地に立ってはいるが、もう一方の腕で太い木の枝を掴み身体を支えていたのだ。
例えサラを引っ張り上げたとしても、そのサラ掴ませる物は、崩れかけている大地しかない。それは現状では危険すぎる事であった。
「くそっ!」
どこか掴む事の出来る物はないかと周囲に目を向けたリーシャの上から、カミュの舌打ちが聞こえたと同時に、リーシャの身体は重力に従い、下へと落ち始める。
カミュが掴んでいた木の枝が、その木の根ごと大地から抜けてしまったのだ。
そのまま重力に従い、崖下に落ちて行く一行。
それでもそれぞれの腕を決して離さずにいるのは、ここまでの旅で出来た各々の絆なのだろうか。
崖下へと落ちて行くカミュの頭には不思議と後悔はなかった。
余計な事をしたという想いが全くない訳ではない。それでも、あの状況で咄嗟にリーシャの腕を掴んだ自分の行動を悔やむ事はなかった。
見上げた空は、真っ黒な雲が広がり、星一つ見る事は出来ない。先程まで叩きつけるように頬を打っていた雨も、その勢力を弱め、自然の恵みと呼ばれる程度の物へ変わっていた。
『この旅もここまでか』
カミュの胸に諦めとは違う、現実を現実として受け止めるような達観した想いが去来する。
生まれた時から決められた道を歩く事を強要され、ようやく自分の見識だけで活動する事を許される事となった旅も、予想していなかった同道者の出現によって、様変わりする。魔法の才能の塊のような幼い少女の出現もまた、旅の様相を変化させる要因となった。
それら全てが、今のカミュの心の変化を生み出したのかもしれない。
カミュが旅に出る時に覚悟をしていたような、魔物と戦い、それに敗れて死ぬ訳でもなく、他国で恨みや憎しみの対象として糾弾されて殺される訳でもない。
迷惑以外何物でもなかった同道者と、途中で自分が連れて行く事を決めた妹の様な存在の命を救うために、手を伸ばした結果としての『死』。真っ黒な雲が広がる空を見上げながら、カミュの口元は皮肉気に上がっていた。
「!!」
その時、空を見上げるカミュの目に、先程リーシャが見た光が映り込む。
例え雲が晴れたとしても、既に夜の闇が広がる空に日光などが差す訳がない。その不思議な光景に目を奪われながら、カミュは目を凝らした。
光は次第にその明るさを増し、突如カミュ達の落下速度が停止する。落ちながらも、何かを掴もうと伸ばしていたカミュの腕が何者かに掴まれたのだ。
眩く光る光の中に、カミュは確かに人影を見る。メルエと同じ年頃の少女が、その両腕でカミュの腕を掴んでいた。
その後ろには、女性の様な人影があり、顔までははっきりとは見えないが、柔らかな微笑みを浮かべている。
カミュは、魂や幽霊などという物を見た事はない。魔物の中にその手の物がいない訳ではないが、カミュが相手をした事はないのだ。
しかし、メルエの行動や言動を見ていると、そういう存在は自分に見えなくとも存在するのだろうとは思っていた。
故に、自身の腕を、微笑みを浮かべながらしっかりと掴んでいる、暖かな光を纏う人影を見た時に、それが、メルエが山の中で見、そして先程手を振っていた相手なのだと理解した。
その不思議な光景を、現実の物として受け入れたのだ。
「……あ、あれは……」
そんなカミュのもう片方の腕をしっかりと握りながら、リーシャもまた、カミュと同じ光景を目にして言葉を失っていた。
カミュの腕を握る反対の手が掴んでいるサラは、全員が落下を始めた当初に気を失っていた筈。気を失いながらも、メルエの腕に爪が食い込む程、握る力を緩めていない事は称賛に値する程の事だろう。
そんなメルエも、魔法力の枯渇や、ここまでの疲れなどもあり、意識を失っていた。
その光の中にいる人影を見た者は、カミュとリーシャの二人。
しかし、見た事のあるメルエの同意を得なくとも、二人はそれがアンとアンの母親なのだと理解したのだ。
魅入られるように、吸い込まれるようにその光と、光の中にいる人影を見ていたカミュとリーシャの意識も次第に薄れて行く。
『ここで意識を失ってはいけない』
そう自分を戒めても、抗う事など出来ない程の衝動。
お互いの腕を先程以上の力で握る事で、意識の覚醒を図るが、抵抗空しくカミュ達の意識は刈り取られて行った。
読んで頂き、ありがとうございました。
これで第二章は終了です。
勇者一行の装備品一覧を更新し、第三章は来週になるかもしれません。
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