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カミュを先頭に歩き出す一行。カミュとリーシャに挟まれるように、サラとその手を握るメルエが歩いた。
<キャットフライ>と対したあの夜が明け、既に一日歩き続けたが、まだ<アッサラーム>は見えて来ない。もう一晩を野宿で明かし、一行は陽が昇ると同時に歩き出したのだった。
メルエはその晩も、皆が眠りについた後に一人で魔法の練習を行っていた。
あらかじめ予想していたカミュとリーシャは、メルエが起き出すのを確認した後、メルエの様子を見に行っている。
魔法が思うように使えない今のメルエは、魔物が現れた時の対処が危うい。故に、カミュとリーシャが常に傍に控え、いざという時にすぐに行動できるようにしていたのだ。
何度も何度も杖を振り、肩を落とすメルエは、カミュの瞳にはどう映っていたのであろうか。
それは、リーシャも然り。
自身の魔法力が枯渇するまでそれを繰り返し、強制的な眠りにつくメルエ。
朝起きると何故か皆と一緒に寝ている事に不思議そうに首を傾げてはいたが、聡いメルエはすでに気が付いていたのだろう。自分が最も頼りにする者達が見守ってくれている事を。
故に、幾日も意識がなくなるまで杖を振っていた。
そんなメルエも今はサラの手を握りながら、しっかりと前を向いて歩いている。広く広大な大地を真っ直ぐと見据え、まるで未来へと続く自身の道を遠く見るように。
メルエの瞳に自信とは異なる何かが宿り始めている事は、カミュもリーシャも気が付いていた。
リーシャはそれが不安要素になってはいるが、カミュは違っていた。今まで、無邪気な子供の様に魔法を使い、魔物の命を奪い、人の生命すらも脅かしていたが、今のメルエは異なるからだ。
自身の才能だけで出来ていた物が出来なくなった。その事がメルエを変えつつある。
遊び半分で使用出来た物が、頭で考え、感じ取らなければいけない物となり、メルエは必死に何かを考え、結論を出そうとしている。それが、カミュには、頭上に輝く太陽の様に眩しく見えていたのだ。
それぞれの想いを持ち、個々に輝き始めた内面を解き放ちながら一行は南へと歩き進める。
「カミュ!」
「……囲まれたか……」
後方を歩くリーシャの声に、周囲を見渡したカミュが舌打ち気味に呟く。森を横目に歩いていた一行であったが、その森から不穏な気配が近付いて来ていたのだ。
「……カミュ様……」
「サラ! サラはカミュの方へ、メルエは私の方へ来い!」
メルエとサラを背に護るように剣を抜いたカミュは、森から目を離さない。リーシャが後方からサラとメルエに指示を出し、その指示にメルエがリーシャの下に移動した。
「……カミュ様……」
「……来たぞ」
カミュの声と共に森から現れたのは、予想通り敵意を剥き出しにした魔物だった。その体躯は大きくカミュやリーシャの倍近くもある。それが三体。
「…………???…………」
「さ、猿なのか……」
その魔物の風貌を見て、メルエは首を傾げ、リーシャはいつものようにただ驚いていた。この女性は、動物と魔物の境界線が曖昧なのかもしれない。
「グォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!」
剣を構えながらも呆然とする一行を前にして、一体の魔物が両手を広げ、自身の胸を叩きながら雄叫びを上げる。それは威嚇を込めた物。
その雄叫びを合図に三体の魔物は一斉にカミュに向かって来た。
「カミュ!!」
三体の巨大な猿がカミュへ向かって、メルエの身体並みに大きな拳を振り上げた。その魔物の行動に反応したリーシャが叫び声を上げる。
その声に反応したのか、それとも最初から攻撃を予想していたのか、カミュは魔物の拳を紙一重で避け、その腕に<鋼鉄の剣>を振るった。
「なっ!?」
しかし、腕を斬り捨てるつもりで放ったカミュの渾身の一撃は、あり得ない音と共に弾かれた。
それも、魔物の身体にではなく、その身体を覆っている体毛にだ。
<暴れザル>
イシス地方に生息する巨大な猿。人間等に遭遇すると、その巨体を生かした力任せの攻撃で暴れ回ることから、この地方ではそう呼ばれている魔物である。特出した特技がある訳ではないが、その力は人間を遥かに超えており、まさしく暴力と言っても過言ではない程の力を有する。力任せの攻撃の方ばかりが目立つが、その巨大な体躯を覆う体毛は非常に堅く、並みの武器では傷一つ付ける事が出来ない程の強度を誇る魔物である。
「カミュ様、下がってください!」
瞬時に飛び退いたカミュに、後ろで詠唱の構えに入ったサラから声が飛ぶ。
カミュに腕を攻撃された<暴れザル>はその腕を自らの舌で舐め取った。体毛により弾かれたようになったカミュの剣ではあったが、その体躯に傷は付けていたようだ。
しかし、それが今の状況では仇となる。
「グォォォォォォォォォォォォ!!」
傷つけられた怒りで再度雄たけびを上げた<暴れザル>は、距離を取ったカミュに突進して行く。
そこでサラの詠唱が完成した。
「バギ!」
<暴れザル>へ向けられたサラの右腕から真空と化した風が巻き起こった。カミュに向かって突進して来た<暴れザル>は、その魔法をまともに受ける事となる。
一行の誰もが仕留めたと感じた。身体を覆う体毛が切り刻まれ、<暴れザル>の体液が飛び散ったのを見たが故に。
「グォォォォォォォォォォォォォ!!」
しかし、<バギ>をまともに受けた筈の<暴れザル>は、ただその怒りを増しただけだった。
確かに体毛はあちこちが切られているが、それは人間でいう散髪をした程度。身体も切られ体液が滲んではいるが、それは切り傷があちこちに出来た程度だったのだ。
「ぐおっ!」
「カミュ様!!」
怒りに身を任せてサラ目掛けて振り抜かれた<暴れザル>の拳は、咄嗟に割り込んで来たカミュの<うろこの盾>に直撃する。盾でも勢いを殺し切れず、カミュはくぐもった声を上げて吹き飛んだ。
『カミュが自分を護る為に割り込んで来た』
この驚愕の事実を認識する事も出来ない程、サラは困惑に陥る。
ここまでの旅で、これ程魔物に苦戦した覚えがない。リーシャやカミュに護られながら戦って来たといえども、サラも一人で魔物を倒せるようになって来ていたのだ。
そんなサラの胸に生まれかけていた小さな自信が揺らぎ始める。カミュですら歯が立たない。自分の持つ唯一の攻撃魔法も通用しない。サラの中に芽生え始めていた物が揺らぎ、音を立てて崩れ落ちて行った。
「ギラ」
そんなサラの困惑を余所に、カミュが吹き飛ばされながらも、右腕を<暴れザル>に突きつけ、灼熱呪文を詠唱する。その詠唱と共に、カミュの右腕から熱風が巻き起こり、着弾した<暴れザル>の足元を炎で満たして行った。
「はぁぁぁぁぁ!!」
足元から立ち上る炎に巻かれ、暴れるように身を捩る<暴れザル>にリーシャが剣を突き入れる。リーシャの後ろに居たメルエもサラの横に移動をして来ていた。しかし、突き入れたリーシャの剣もまた、雄たけびを上げた<暴れザル>の左腕によって弾き返される。
体毛が焼け、肌が露出している部分もあるが、それでもまだ<暴れザル>は生きていた。カミュの<ギラ>の灼熱も、この魔物の体毛を焼くのが精一杯であったのだ。
そして、その隙をついたリーシャの剣も弾かれる。
『万策尽きる』
ロマリアから出て、まだ数日しか経っていない。新たな大陸に足を踏み入れた一行は、目的の町に着く前に大きな試練と相対する事となったのだ。
「…………ギラ…………」
だが、絶望色に彩られた表情を浮かべる一行の中で、まだ諦めない者が一人。
それは、最も幼き少女。
結びつけられた紐を解き、その杖を大きく掲げた後、呟くような詠唱と共に振り下ろす。それは先程カミュが唱えた呪文と同じ物。しかし、術者が違えば、その威力も異なる。メルエとカミュでは、本来の魔法使いとしての質が違うのだ。
もし、このタイミングでメルエの魔法が<暴れザル>に直撃していれば、形勢は逆転したかもしれない。
しかし、無情にもメルエの杖の先から熱風が巻き起こる事はなかった。
「…………うぅぅ………ヒャド…………」
再び杖を振るメルエ。しかし、杖は何の反応も示さない。
意を決したように、メルエは杖を投げ捨て右手を突き出した。
しかし、その数度の無駄となってしまった詠唱の時間は、虚を突かれた<暴れザル>に態勢を立て直す時間を与えただけとなってしまう。残る二体の<暴れザル>が自分達に杖を向けていた少女に向かって突進を始めた。
そして、杖を捨てたメルエが右手を掲げた時、その内の一体が、もう目の前に迫っていたのだ。
「メルエ―――――!!」
「!!」
間に合わない。
カミュもサラもそう思った。
巨大な猿の巨大な拳が唸りを上げてメルエに振り抜かれる。
凄まじい衝撃音を上げ、<暴れザル>の拳は何かを吹き飛ばす。吹き飛ばされた物は、地面を数度跳ね、回転しながら地面を転がり、そして動かなくなった。
「…………あ………あ…………」
それは、メルエではなかった。
メルエは咄嗟に駆けて来たリーシャによって押され、尻もちをついている。
メルエの遥か向こうに転がり、今地面に伏したまま動かなくなったのは、メルエを護ると約束していたアリアハン屈指の女性戦士。
メルエの姉であり、母の様なリーシャだったのだ。
余りの出来事に、メルエは動かなくなったリーシャに呆然と視線を向け、うわ言の様な言葉を口にするだけ。それは、未だ拳を握る<暴れザル>を前にして、するべき行動ではなかった。
「グォォォォォォォォォォォォ!!」
雄叫びと共に両拳を合わせ、<暴れザル>がそれをメルエ目掛けて振り下ろそうとハンマーの様に高々と掲げる。リーシャが護った命は風前の灯だった。
「…………リー………シャ…………」
うわ言の様に何度もその名を口にするメルエに、今自分が置かれている状況を把握する事は出来ない。
<ギラ>によって焼かれた怒りを露わにする一体に苦戦中のカミュにメルエに、その場へ近寄る時間は与えられなかった。
「ラリホー!!」
カミュが、<暴れザル>の攻撃を避けながら、その顔を珍しく歪めたその時、カミュの後方に居たパーティー内最強の補助魔法使いの声が響いた。
カミュが声の方向を振り返ると、そこにはメルエの傍にいる二体の<暴れザル>へ両手を突き出したサラの姿。
リーシャが吹き飛ばされ、動かなくなった場面でようやく混乱から解き放たれ、自分のやるべき事を理解した『僧侶』が立っていた。
「グォォォ……………Zzzzzz……………」
メルエに向かって両腕を天高く掲げていた<暴れザル>は、そのまま仰向けに倒れて行く。もう一体も、メルエへと駆け寄ろうとしていた態勢のまま、前のめりに倒れた。そのまま、鼾なのか鳴き声なのか分からない音を立て、二体の魔物は眠りについたのだ。
<ラリホー>
教会に安置されている『経典』に記されている補助魔法の一つ。生物の脳内に干渉し、強烈な睡魔を与える魔法。<おばけきのこ>の甘い息と同様の効力を持ち、その魔法で眠りについた者は、多少の衝撃では目を覚まさなくなる。魔物に対して力で劣る人間が、本来その場から逃げ去る為に使う魔法とも云われているが、術者と被術者との力量がかけ離れていると効果が薄くなる為、実際は使いどころが難しい魔法とも云われていた。
「…………リーシャ…………リーシャ…………」
自分の目の前から脅威がなくなったメルエは、吹き飛ばされたリーシャの傍へと駆け寄って行く。メルエの目には涙が浮かび、それは母を求めて駆け寄る子供の様な姿であった。
駆け寄ったメルエが見たリーシャの姿は、頭から若干の血を流し、青白い顔で横たわる痛々しいもの。
「……息はしていますね……よかった……頭の傷も、転がった時に擦れたもの……気を失っていますが、大丈夫です」
今にもリーシャに抱きつき泣き出しそうなメルエの横から、先程魔物を眠りにつかせたサラがリーシャの状態を落ち着いて診察する。
もし、メルエがいなかったら、この状況に混乱し、何をして良いか分からなく、あたふたとしていたのはサラであったろう。しかし、リーシャが吹き飛ばされ、それを呆然と見ているメルエを見た時、サラの意識は覚醒された。
「…………リーシャ…………」
青白い顔で横たわり、見える傷にサラの<ホイミ>を受けているリーシャの姿を見るメルエの目つきが変化して行く。俯いているため、それがサラには解らなかった。
「…………カミュ…………こっち…………」
リーシャを背に立ち上がったメルエは、未だに奮闘中のカミュへ呼びかけるが、その声は呟くように小さく、隣にいるサラにしか聞こえないもの。
「カミュ様! 隙を見て、こちらに来て下さい!」
メルエの意図が何かも分からないまでも、メルエの身体を覆う憶えのある気配を感じたサラは、カミュへ下がるように指示を出した。
その声に『無茶を言うな』とでも言いたげにちらりと視線を動かしたカミュもまた、メルエの纏う気配に何かを察し、目の前で拳を振るう<暴れザル>に向けて<メラ>を放つ。<メラ>の火球に若干の怯みを見せた<暴れザル>の隙をついて、彼もまたメルエ達の下へと戻った。
「……そいつは大丈夫なのか?」
「あっ、は、はい。気を失っていますが、骨が折れた様子もありませんので、大丈夫だと思います」
「……なんて頑丈な……」
戻って来て早々にリーシャの心配をするカミュに、サラは驚いた。
しかし、サラの返答に失礼極まりない回答をするカミュに、場の雰囲気にそぐわない笑みが零れる。
「…………」
その間も、メルエは自分との格闘を演じていた。
メルエの瞳にある物は、『怒り』ではない炎。
それは『決意』。
そして、メルエを取り巻く風。
それは『魔力』。
メルエは、久々に見るそれをごく自然に受け入れていた。
カミュと初めて会った晩に見た風。カミュが『魔力の流れ』と言っていたものが、それ以来メルエには見えていなかった。自分が契約をする時も、そして詠唱を行い、魔法を行使する時も。
ここまで、ただ漠然と契約を行い、意識せずとも魔法が行使される。それが当たり前だとメルエは思っていた。
しかし、それは大きな間違いであった。メルエの内にある『魔法力』、それを『魔力』として、魔法の行使の為に使うには、その流れを肌で感じ支配しなければならない。
今、メルエは初めてそれを感じているのだ。
「……メ、メルエ……?」
急激に変わったメルエの雰囲気に、先程笑顔を溢したサラの表情が不安気に変化する。そのサラの声にも気がつかない様子で、メルエの意識は自身の内へと入って行った。
「!!」
徐に杖を掲げ、カミュの<メラ>から立ち直り、怒りを露わにする<暴れザル>へと照準を合わせる。
メルエは自分の内から腕を通る『魔法力』を感じていた。
今までは、ただ杖を振り詠唱するだけ。
故に、詠唱と共にメルエの身体の内から発生した『魔法力』は腕を通るが、メルエの持つ杖へとは渡らず、霧散していたのだ。
腕から流れる『魔法力』を杖の先へと流し込むようにメルエは意識を強くする。視線は<暴れザル>から外さずに。
自分がこれから口にする呪文に必要な魔力は、はっきりとは分からない。だが、メルエには説明はつかないまでも、その量の調節はここまで無意識に行って来ていたのだ。
一度は暴走してしまった『魔力』。
ならばあの時の感覚より少なくすれば良い。
メルエは教育という物を施されてはいない。しかし、決して生来頭が悪い訳ではないのだ。いや、むしろ『かしこさ』で言えば、サラと同等かそれ以上の物を持っている筈である。
「…………ベギラマ…………」
杖の先に行き渡った『魔法力』を確認し、最後の詠唱という合図と共にそれを解放する。今まで、メルエの詠唱に何の反応も示してこなかった<魔道師の杖>は、まさに今この時を待っていたかのように、持ち主の魔法力を魔法という形で解放した。
凄まじいまでの熱風。それは、メルエの後方に控えていたカミュやサラの髪の毛すらも焦がすのではないかと感じる程の熱量だった。
それがメルエの持つ<魔道師の杖>から迸り、こちらに向かって駆け出した<暴れザル>に向かって着弾し、先程のカミュの<ギラ>とは比べ物にならない程の炎を生み出す。
それは、まさしく炎の海。
<西の洞窟>で見た時よりも大きな赤い海。
「グギャオォォォォォォォ!!」
カミュですら初めて見るような、その凄まじいまでの炎に包み込まれた<暴れザル>は、まるで大海原の波に攫われて行くように、炎の中に消えて行く。
「……す、すごい……」
「……」
目の前に広げられた凄まじい光景に、カミュもサラも言葉を失っていた。魔法の行使が終わっても尚、杖を下げないメルエの後ろ姿は、どこか大きく見える。
炎の海が風に攫われて引いて行ったその後には、体毛も焼かれ、丸焦げになり絶命している一体の<暴れザル>であった肉塊が転がっていた。その酷い姿にサラは再び言葉を失う。
サラは、先日メルエに言ったように、メルエの魔法の才能を疑った事など一度もない。だが、逆にこれ程の才能がある事にも気がついてはいなかった。
恐ろしくなる程の才能。
実際、現存する『魔法使い』が持つ灼熱系の最強呪文は、<ベギラマ>と言っても過言ではない。古の賢者が残した魔法を知らない限り、今メルエが行使した呪文が『人』にとって最強の灼熱呪文なのだ。
それをこの歳で行使するメルエは、おそらくサラがアリアハン宮廷で見かけた事のある、どの『魔法使い』よりも『魔法力』を持ち、その魔法の威力も桁違いであるだろう。
現に、『勇者』として世に送り出されたカミュが行使する魔法より、格段上の威力をメルエの魔法は持っているのだ。
「…………ん…………」
「……メルエ……もういい」
一体の<暴れザル>を倒したメルエは、その杖を眠りについたままのもう二体へ向け、詠唱を始めていた。
それを見たカミュが止めに入ると、先程までの雰囲気とは違う、いつものメルエが、若干頬を膨らませて振り返る。
「…………リーシャ………ぶった…………」
眠った魔物に対して攻撃する理由がリーシャの仇撃ちなのだ。
そんなメルエにサラの表情はやっと緩んだ。
「……メルエ……気持ちは解りますが、今はリーシャさんを安全な場所で横にする事が一番大事です」
「!!」
メルエへとかけたサラの言葉に、今度はカミュがその表情を変化させる。
それは、『驚愕』。
目を見開き、今にも叫び出しそうなほど口を開けるカミュに、サラは少し眉をひそめた。
「な、なんでしょうか……カミュ様?」
「い、いや。何でもない。その戦士は俺が背負おう」
眉をひそめ、睨むようにカミュを見るサラに、カミュは表情を戻してリーシャを背負う準備をする。
カミュが驚くのも無理はない。
眠っているとはいえ、<暴れザル>はまだ生きている。それを見逃す事を良しとするばかりか、攻撃を主張するメルエを抑える発言をしたのだ。
それは、魔物への『復讐』に凝り固まっていたサラの心の変化以外何物でもない。
今、魔物への『復讐』よりも、仲間の身の安全の方が優先されるということ。それを彼女は別段、苦渋の決断という訳でもなく、小さな笑顔を作りながらメルエに告げていたのだ。
「…………リーシャ………痛い…………?」
「傷は全て直しましたから、後は目を覚ますのを待つだけだと思いますよ。その後でリーシャさん自身から身体の具合を聞くしかなさそうですね」
リーシャを背負ったカミュの後ろを、手を繋いだ姉妹の様にサラとメルエが続いて行く。サラを見上げて質問するメルエの顔に、先程までの雰囲気は欠片もない。自分が魔法を使えた事への喜びよりも、今はリーシャの身を案じるメルエに、サラは安堵に近い想いを持つ事になる。
カミュは、<暴れザル>が出て来た森から少し離れた森の入口の木陰にリーシャを寝かせ、一行はそこで休憩を取る事にした。
リーシャは、陽が落ちる頃まで目を覚まさなかった。
日ごろの疲れが溜まっていたのか、寝息は安らかであったが、一向に目を覚まさないリーシャにメルエの不安は募り、メルエはリーシャの傍を片時も離れようとはしなかったのだ。
サラが近くの小川から汲んで来た水で布を冷やし、リーシャの頭に乗せるのを不思議そうに見ていたメルエであったが、その行為を自分がすると主張し始め、それからは、気温で布が温くなると、水で濡らし直しリーシャの頭に乗せるのはメルエの仕事となっていた。
「……一度<ルーラ>でロマリアまで戻って、宿を取った方が良いかもしれないな……」
陽が傾き始めても目を覚まさないリーシャに、カミュが小さく提案を溢す。
ここまでの道程を無にしてでもリーシャの身を案じているカミュにサラは驚くが、カミュにしてみれば、このままここに置いて行く訳にはいかない以上、そうするしか方法がないという事だったのであろう。
目を覚まさないリーシャを横目に、陰って来た陽の光を感じたカミュは、野営の準備の為、食料と薪となる枯れ木を探しに森の奥へと入って行った。
メルエが何度目かも憶えていない布の交換をしている最中に、ようやく件の女性が目を覚ます。
「……う、ううん……」
「…………リーシャ!…………」
布を水に入れていたメルエが視線を向けると、そこにはゆっくりと目を開けるリーシャが映る。それを見たメルエは、水から勢い良く手を取り出し、身を起こしかけたリーシャへとしがみ付く様に抱きついた。
「うわっ! な、なんだ、メルエ。驚かせるな」
「…………リーシャ………リーシャ…………」
勢い良く抱きついて来たメルエを窘めるが、リーシャの声が耳に入る様子もなく、リーシャの名を何度も口にしながら涙を流すメルエに、リーシャは戸惑ってしまった。
「あっ!? リーシャさん! 良かったです……なかなか目を覚まさないので、心配しました」
「サラか……ここは……」
メルエの声を聞き、笑顔を向けながらこちらに歩いてくるサラを目にし、リーシャは自分が何故こういう状況にいるのかを思い出そうと頭を捻る。しかし、リーシャが思い当たるよりも早くに、正解はサラの口から出た。
「メルエを庇って、あの大きな猿の魔物の攻撃を受けてしまったリーシャさんは、そのまま気を失ってしまって……」
「な、何!? 私は気を失っていたのか!?」
サラが口にした事実は、リーシャの戦士としてのプライドを大いに傷つけるものだった。
確かにメルエを庇い、無防備な状況で魔物の攻撃を受けたとしても、それで気を失い、しかも丸半日以上も眠りこけていたなど、恥以外の何物でもない。
「…………リーシャ………痛い…………?」
「はっ!? そ、そうです。どこか痛む所や、おかしいところはありませんか?……一応外傷は直しましたし、念の為、身体全体にホイミをかけておきましたけれども」
リーシャの答えに、リーシャの考えている事が何となく理解出来たサラは、何と声をかけるべきか悩む。しかし、メルエの直接的な問いに、本来真っ先に尋ねるべき問いを思い出し、慌てたように声をかけた。
「……いや……少しふらつくぐらいで、別段おかしなところもなさそうだ。しかし、失神したとは……」
サラの問いかけにしっかりと答えるが、その後に再び苦々しく表情を顰めて呟きを洩らす。その表情がリーシャの考えている事を如実に表していた。
「…………リーシャ…………ありが………とう…………」
「ん? いや、メルエ、良いんだ。メルエが無事でよかった」
リーシャに抱きついたまま、その胸で溢したメルエの言葉に、今まで歪んでいたリーシャの表情も暖かな物へと変わって行く。既に、<とんがり帽子>を脱いでいるメルエの明るい茶色の髪を、愛おしそうに撫でるリーシャの表情は母そのもの。
そんな言葉が喉まで出かかったサラであったが、口にしてしまえば暖かな笑顔になっているリーシャの顔を再び歪ませてしまうと思い、口を噤んだ。
「しかし、あの後、どうなったんだ? カミュが魔物を倒したのか?」
「いえ、魔物を倒したのは、メルエです。メルエが、杖から<ベギラマ>を行使し、魔物を焼きました」
「何!? メルエ、<ベギラマ>を使ったのか!? 大丈夫か!? どこか痛むところはないか!?」
サラが話す驚愕の真実も、<西の洞窟>でメルエの被害を見ているリーシャには別の恐ろしさを思い出させるものとなる。メルエが<魔道師の杖>から魔法を使えたという事実よりも、魔法の反動によるメルエの身体を心配するリーシャに、サラの顔に濃い笑顔が浮かぶ。
しかし、それは幼いメルエにとっては不満だった。
「…………魔法………でた…………」
「ふふふ」
不満そうに涙で濡れた瞳でリーシャを見上げ、頬を膨らますメルエ。
そのメルエの姿に、サラの口から優しい笑い声が漏れる。
「ん?……ああ、そうか!? 良かったな、メルエ。では、メルエが気を失った私を護ってくれたのだな。こちらこそ、ありがとう」
「…………リーシャ…………」
メルエの不満顔に、ようやくメルエの快挙に気が付いたリーシャは、その快挙を喜び、そして丁寧にお礼を言う。
最も認めてほしかった人物からの評価に、メルエの瞳から涙が零れ、再びリーシャの胸へとその顔を埋めてしまった。
「その後、気を失ったリーシャさんをカミュ様が背負ってここまで運んで、今に至る訳です」
「何!? 私はカミュに運ばれたのか!?」
サラの言葉にリーシャの表情が再度歪む。それは羞恥からなのか、それとも屈辱からなのかはサラには判断出来なかった。
「……しかし、私もまだまだだな。魔物の攻撃で気を失うとは……こんな無様な状態では、とてもではないが、『魔王討伐』など夢物語になってしまう」
「…………リーシャ…………とう………ばつ…………?」
悔しそうに歪めたリーシャの言葉に、顔を上げたメルエが不思議そうに首を傾げる。自分の溢した言葉が生み出したメルエの行動に、リーシャもまた不思議そうにメルエを見た。
「ん?……メルエ、なんだそれは?……何故私が討伐される?」
「…………リーシャ…………ま……おう…………?」
「メ、メルエ! そ、それは言わない約束ですよ!」
疑問に思ったリーシャの問いに反応したメルエの答えは、サラの顔色を失わせるのに効果絶大だった。
それは、あの夜メルエに口止めしたはずの軽口。メルエもはっきりと頷いた筈の物である。
そんなサラの心中を余所に、ゆっくりとリーシャの視線がサラへと移って行った。
「……どういう事だ……サラ……?」
「い、いえ。ど、どうして私に聞くのですか?……言ったのはメルエですよ!」
問い質す為に、リーシャは地獄の底から響く音の様な声を出し、その恐怖からサラは先程メルエに言ってしまった自分の失言を忘れてしまっている。
「…………サラ…………ごめん……なさい…………」
「今更遅いですよ!」
サラとの約束を思い出し、頭を下げるメルエではあったが、それは既に遅過ぎた。
ゆっくり立ち上がるリーシャに足が竦みながらも、メルエに叫ぶサラの声は涙声になって、陽の傾いた森の中に響き渡る。
その後、食料と薪を拾って帰って来たカミュが見たものは、頭を押さえながら蹲るサラと、その横で先程まで眠っていたはずの人間が仁王立ちしているという奇妙な光景だった。
読んで頂きありがとうございました。
イシス編とは言いながらも、イシスに入るまでもう少し話数があります。
この章は結構長いです。
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