新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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今回は過去話です。
例によって、重く暗い話です。
心を強く持ってお読み下さい。


過去~メルエ~

 

 

 

 ここ<アッサラーム>は、夜にその真価を発揮する。

 町に人が溢れ、それぞれの願望という名の欲望が交差する。

 財ある者は己の欲求を満たす為にこの町を訪れ、また貧しき者は己の願望を叶える為にこの町を訪れる。

 

 彼女は後者だった。

 貧しき家に生まれ、幼い頃から教育を施されずに畑仕事などを手伝わされていた。

 母親譲りの整った顔も、貧困な食事と、貧相な衣服によって見る影もない。

 そんな生活に嫌気が差し、彼女は十三で生家を出た。

 目指すは、近隣の国にもその名が轟く<アッサラーム>。

 その町は、将来を夢見る若者が集まる町。

 自分の夢や欲望を叶える事の出来る町。

 逆に、その分絶望や孤独を味わう事もあるが、それは若者達には解らない。

 

「そうかい!? アッサラームに行くのか!? 何もしてやれないが頑張れよ」

 

 両親は反対しなかった。

 数年前に彼女に弟が出来ていた。

 一家を支える若い男子の誕生。

 それに両親は狂喜した。

 

 それと同時に出来た苦悩が食糧難である。

 子供二人を養って行くにはあまりにも貧しい。候補としては、元は整っている娘を奴隷として売りに出すか、娘を捨てるかの選択肢しかない。

 故に、アッサラームに行くと彼女が両親に伝えると、諸手を挙げて喜ばれた。これで、変な罪悪感に苛まれる事なく、口減らしが出来ると。

 彼女は、両親から何の餞別も貰う事なく、生家を出た。

 

 

 

 <アッサラーム>に着いてすぐに、彼女は近くにある劇場に住み込みで働く事になる。

 劇場に出入りしている女性を見ていると、まさに夢の国にいるようだった。

 

 『自分もああなりたい』

 

 <アッサラーム>へ入ってすぐに見たその光景に、彼女は一人の踊り子に衝動的に声をかけていた。

 

「ん?……アンタも踊り子になりたいってのかい?……ふ~ん、まぁ、容姿はそこそこか……ついて来な!」

 

 彼女は運が良かったのだろう。

 話しかけた女性。

 それが、この劇場の座長の奥方だったのだ。

 着る物もみすぼらしく、生まれてこの方化粧などをして来た事のなかった彼女は、その奥方や気の良い先輩方におもちゃにされながらも、変貌して行く。

 その姿は、『本当に自分なのか?』と疑ってしまう程の物だった。

 

「へぇ~、物は良いと思ってはいたが、ここまでとはね。アンタ、いい踊り子になるよ」

 

「は、はい! よろしくお願いします!」

 

 鏡越しに、変貌した彼女を見ながら唸った奥方に、彼女は深々と頭を下げる。

 これから待っている自分の生活を夢見ながら。

 

 彼女の名は『アンジェ』。

 貧しい家を出て、都会で夢を掴もうとする、どこにでもいる若い女性。

 そんな彼女の物語である。

 

 

 

「アンジェ! 何してるんだい!? 私達の服は洗ったのかい!?」

 

「はい! もう、外に干してあります!」

 

「アンジェ! 私の靴はどこ!?」

 

「はい! すぐお持ちします!」

 

 夢と現実は違う。ましてや、アンジェは夢を掴むための道を見つけたばかり。そんな女性が、踊り子として舞台に立つ事など出来る訳がない。

 やっている事は、ほぼ全て雑用。先輩方の衣裳の洗濯から、荷物運びまで、一番若いアンジェの仕事であった。

 先輩方は厳しく、まるで『自分をいたぶって楽しんでいるのではないか?』と疑ってしまう程、アンジェに仕事を投げかけて来る。

 それでも、アンジェは必死に働いた。

 

 ここでは、働いた分、しっかりと食事が与えられる。

 それが下働きだとしてもだ。

 その事が、この劇場が如何に豊かかを示している。

 

 踊り子でNO.1やNO.2などになれば、それ相応の報酬が入る。その踊り子見たさに客は劇場へ足を運んで来るのだ。

 指名などの制度はないが、劇場の出口には、帰りがけに劇場の踊り子の人気投票の様な物が行われ、それによって踊り子にも格差が出て来ていた。

 

「アンジェ! 何してるんだい!? 私が舞台に出るよ! しっかり見ておきな!」

 

「はい!」

 

 お客から人気が出る人間というのは、外面だけが良い訳ではない。心に余裕が出て来るのか、自分の後釜を作る為なのか、後輩への配慮も怠らない。

 それが、アンジェが辛くとも苦しくとも、この劇場を出て行かない理由の一つであった。

 

 アンジェを可愛がってくれる先輩は、NO.1の人気ではなかった。

 常にNO.2からNO.4近辺を上下する人間だったが、アンジェは彼女の教えを受ける事に決めた。

 それは、彼女の踊りがとても綺麗だったからだ。その先輩は、決して見目麗しいとは言えない容貌だったが、その踊りの美しさ、華麗さに人々は魅了されていた。

 彼女の人気は、その容姿によるものではない事は、周知の事実。故に、アンジェは彼女に憧れた。

 アンジェは、いつしか彼女が舞台に立つその時間までに、全ての雑用を終わらせ、彼女の出番を舞台の袖で見つめる事が多くなった。

 そして、自分の踊りを食い入るように見つめるアンジェの視線に気が付いた彼女は、アンジェの面倒を良く見、可愛がるようになって行く。

 

「アンジェ! 違う! そこはそうじゃなくて、こう!」

 

「はい!」

 

 その先輩踊り子は、アンジェが雑用を終える頃を見計らって踊りの稽古をつけた。

 基本、踊り子は、自分の才と先輩の踊りを盗む事によって成長する。盗んだ踊りを自分なりに変えて行きながら、自分独自の特徴として完成させるのだ。

 もちろん演目によっては決まった踊りを一糸乱れずに踊る必要もある。しかし、ただそれだけしか出来なければ、表舞台に立つ事は出来ない。

 稽古は深夜にまで及ぶ事があったが、文句も言わずに一心不乱に踊り続けるアンジェに、先輩である彼女も苦笑しながら付き合う事が日常となっていた。

 

 

 

 そして、月日は流れる。

 アンジェに踊りを教え、この町での暮らし方を教えてくれた先輩は、昨年の結婚を機に劇場を引退した。

 彼女は、お客とは別に男性を見つけており、幸せそうな笑顔を見せながら、<アッサラーム>を出て行った。

 夫の故郷に戻り、主婦として生きて行くらしい。

 

「アンジェ、これからはアンタの時代だよ。アンタがこの劇場を盛り上げて行くんだ。頼んだよ」

 

「はい!」

 

 別れ際にアンジェの髪へ自分の髪に差していた髪飾りを付け、幸せそうに微笑む彼女の笑顔は、アンジェが見た中でも一番の美しさを誇っていた。

 そして、いつしかアンジェも、幸せな結婚というものに憧れを持つようになる。

 

 

 

 先輩が去って、数年。

 アンジェは、この劇場の顔となっていた。

 常にNO.1とNO.2を争う相手も出来た。

 レナと呼ばれる踊り手がライバルだった。

 アンジェより若干遅くに入って来た娘であったが、当時のNO.1に気に入られ、生来の容姿の美しさと快活さを武器に、めきめきと頭角を現した。

 踊りが綺麗なアンジェ。

 たまのミスも愛嬌として許されるレナ。

 互いが違う個性を発揮し合いながらも、劇場を盛り上げて行く。

 

 ライバルと認め合いながらも、年の近い二人は仲が良かった。

 踊りの事について論議しながら夜を明かす事もあり、そんな時は、仲良く座長の奥方に叱られた。そんな自分が夢見たような生活をアンジェがしていた頃、もう一つの夢がアンジェの下に予期せずに転がり込んで来た。

 

 『お客からの熱烈なアプローチ』

 

 それは、アンジェにとっても日常茶飯事な事であった。

 プレゼントが届けられたり、花束が届いたり。手紙が入っていたり、アンジェが家に帰る頃に待ち伏せをしていたり。

 そんな日常にある鬱陶しい客の一人と思っていたアンジェであったが、しかし、その客の熱烈なアプローチは手紙だけだったのだ。

 花束もプレゼントもない。

 待ち伏せもないから顔も見た事がない。

 しかし、手紙だけは毎日届くのだ。

 最初は、話しかける勇気もない貧乏で不細工な男なのだろうと思って、読まずに捨てていた手紙であったが、毎日毎日続く手紙に辟易し、一度その手紙を開封した。

 

「……」

 

 そこには、とても貧乏で教育を受けていない人間が書く事が出来るとは思えない綺麗な字でアンジェへの想いが綴られていた。

 アンジェも、この劇場に来るまで読み書きは出来なかった。

 それでも、『客からもらうカードが読めなきゃ嫌われるよ』という先輩の言葉に、懸命に学び、読めるようになった。

 しかし、書く字はお世辞にも綺麗とは言えない。

 そんな自分では書けない綺麗な字に興味を持ったアンジェは、その手紙を読み始める。

 中に書いてあったのは、どこにでも有り触れた言葉。決してアンジェの心を動かす物ではなかった。

 それでも美しい文字は人の心を動かす。

 

 『どんな殿方がこれを書いたのだろう?』

 

 そんな疑問が沸いたアンジェは、毎日届く手紙を楽しみにし始める。最初は胸に響かなかった有り触れた言葉も、毎日毎日美しい文字で書かれていると、アンジェの心に残って行った。

 そして、遂にアンジェはその相手に返事を書く事にした。

 それは異例の事。一人一人の客に返事を書いていたりしたら、踊り子などやってはいけない。

 それでも、アンジェはその手紙の送り主に会いたくなった。

 返事を認め、それを客からの手紙を受け取る受付の人間に手渡す。それからは、アンジェの心は一日中鼓動が速く、早く明日にならないだろうかと踊り中も上の空の状態であった。

 

「アンジェ! ほいよ」

 

「ありがとう」

 

 そして待ちに待った翌日。アンジェの手に今日の客が持ってきた手紙やプレゼントが手渡された。

 それを受け取り、他のプレゼントを見向きもせずに、アンジェはみすぼらしい封筒に入った手紙を探し出す。

 それはすぐに見つかった。

 他の手紙とは一線介したように、何の装飾もされていない封筒。待ちきれないようにアンジェはその封筒を破り、中身を取り出した。

 そこには、アンジェから返事が来た事に対しての喜びが紙一杯に広がっており、会う日時、場所は全てアンジェに任せる事が書かれていた。

 その男にしてみれば、そうする事でもう一度アンジェからの返事を貰う事を狙っていたのかもしれないが、恋愛経験など皆無に等しいアンジェは、嬉々として自分の都合を綴り、その日の内に返事を送った。

 

 

 

 待ちに待った男との逢瀬の日。

 アンジェは、めかし込む様子を不思議に思うレナの言葉をあしらいながら、外へ出た。

 劇場に住み込み始めてから、アンジェは昼のアッサラームに出るなど、洗濯物を干しに出る時だけだった。

 久しぶりに見る昼のアッサラームは静かで穏やかで、夜の喧騒が嘘の様な佇まい。

 それが、新鮮で、アンジェの心は更に浮き出す。

 

「あの……は、はじめまして」

 

 夢見るように、周囲を見渡していたアンジェは、唐突に自分の世界を壊した声に一睨みする。そこに立っていたのは、線は細いが、もやしのようではなく、気が弱そうだが、自分の考えを持っていないと言う訳でもない、何とも不思議な男が立っていた。

 

「貴方が……?」

 

「はい。アンジェさんがデビューする前から見ていました。お、お会い出来て、こ、光栄です!」

 

 顔はとても整っている。身なりも、今日の為に新調したのだろうか。プレゼント一つ添えない手紙を毎日送って来るような貧しい生活を送っている様子ではなかった。

 

 

 

 その日から、アンジェは非番の日等は、この男と会う事にした。

 その男の顔はとても整っており、笑顔が実際の年よりも大分若く見えるものだった。実際の歳はアンジェよりも二つ三つ上だろう。

 そして、何よりもアンジェを魅了したのは、その声。歌でも歌うかのように心地よく耳に入ってくる声にアンジェの心は奪われた。

 基本的に、劇場の下働きの男か、いやらしい目で見てくる客しか男を知らないアンジェは、日々を重ねる毎にこの男にのめり込み始めた。

 

 そして、月日を経て、アンジェは男と共に暮らし始める。

 男は、親もなく親戚もいない。アンジェと同じようにこの町へ夢と希望を持って出て来た若者だった。

 昼は町の清掃を行い、夜は劇場に通う。そう言う毎日を送って来た男だけに、ゴールドを蓄えている訳はない。

 必然的に生活はアンジェの収入によって賄われていた。

 

「じゃあ、アンジェ。今日も頑張って」

 

「ええ、貴方もお仕事頑張ってきてちょだい」

 

 それでも、男はアンジェと暮らす為に、夜も働き始めた。

 アンジェを想う気持ちは本物だったのだろう。

 夜の町でバーテンの様な仕事につき、朝方まで働く。

 そんな姿を見ていたアンジェもまた、ひた向きに踊りを踊った。

 

「アンジェ、僕はアンジェが好きだ」

 

「私もよ……」

 

 日々、お互いに愛をささやく二人の間にも月日は流れる。

 暮らし初めて数か月。

 踊り子としてのアンジェの人気に陰りが差し始める。

 基本、踊り子の恋愛は隠蔽しなければいけない。

 誰か他の男の物になったと知れれば、その人気は急降下して行く。

 しかも、アンジェの相手は元客だ。

 

 『何故自分ではないのか?』

 『自分の方が豪華なプレゼントを贈っていたのに』

 『自分の方が何度も足繁く通ったのに』

 

 そんな想いが常連の中に広がり始めたら、それは踊り子として命取りになるのだ。

 アンジェは、ライバルだったレナに大きく差を広げられる。それでも、純粋にアンジェの踊りを愛してくれるファンのおかげで、アンジェの人気は踏み留まっていた。

 そのようなアンジェの頑張りの月日が流れる中、相手の男は、アンジェに結婚を申し込む事はなかった。

 それは、未だに自分の収入が安定していなかったかもしれない。もしかすると、アンジェに踊りを辞めて欲しくなかったからかもしれない。

 

「アンジェと僕の子供が欲しいね」

 

 そんな男から、ある夜言葉が洩れた。

 それは、アンジェにとっても嬉しい言葉。自分と愛する男との間の子供。その子供が出来れば、自分はいつしかの先輩の様に幸せな笑みを浮かべて、この男と結婚が出来るのではないだろうか。

 

「そうね。私も貴方との子供が欲しい」

 

 アンジェの答えに、嬉しそうに歳より幼い笑みを浮かべた男はアンジェを抱きしめる。男の腕の中に包まれながらも、アンジェは喜びと幸せを噛み締めていた。

 

 

 

 それから数年。

 アンジェはまだ劇場で踊っている。

 男との間に子供は出来てはいない。アンジェが石女なのか、男に種がないのかは解らない。それでも、数年間身体を重ねても、ついぞ子供がアンジェの中に宿る事はなかった。

 それでも男の態度は変わらない。

 アンジェには優しい笑顔を向け、夜の町でも、懸命に働いていた。

 そんな男の姿に、アンジェは心を痛める。自分の責任だとは決まってはいないが、それでもアンジェは責任を感じてしまっていたのだ。

 

「アンジェ姉さん。ここはこれで良いですか?」

 

「えっ!? あ、ご、ごめんよ。もう一度踊ってくれるかい?」

 

 劇場でも、上の空になってしまう事が度々あった。

 今アンジェの前で踊りを披露しているのは、彼女の下で踊りを学ぶ若者。彼女はNO.1のレナでもなく、現在NO.2の踊り子でもなく、踊り自体が美しいアンジェの舞台を袖から食い入るように見ていた。

 その姿に昔の自分を重ねたアンジェは、自然と笑いがこみ上げ、その娘を呼び寄せ、自分がしてもらったように自分付きの練習生としたのだ。

 

「ほら! そこの足が違う! 何度言えば解るんだい!」

 

「は、はい!」

 

 自分がされたように厳しく、それでいて暖かく指導をして行くアンジェ。そのアンジェの想いが伝わっているのか、娘も必死でついて行こうとする。それは、娘が止めようとする明け方まで続いた。

 アンジェも自分を教えてくれた先輩の様に、娘が止めない限りは教える。その代り、本当に危ないと思えば、強制的に止めさせ、休ませていたが、この日は娘の調子も良かったのか、空は白み始めていた。

 

「ひゃ!」

 

 娘を部屋まで連れて行き、アンジェも自宅へ戻ろうと、劇場の裏口を出た時、思わず驚きの声を上げてしまった。

 そこには一つの籠。

 裏口の横に、小さな小さな籠が置かれていた。

 

「なんだい。驚かせないでおくれよ。誰だい、こんな所にプレゼントを置いたのは」

 

 大方面と向かってプレゼントを渡せずに、名前の書いたカードと共にプレゼントを置いて行ったのだろうと思っていたアンジェは、籠の中身を見る為にかがみ込む。

 

「!!」

 

 確かにカードはあった。

 しかし、書いてあった文章は、アンジェの予想を遥かに超えた物であり、そのカードが示す籠の中にあった物も、アンジェの想像を飛び抜けた物であった。

 

「……赤ん坊なのかい?」

 

 中に居たのは生まれて間もないであろう赤子。

 綺麗な布に包まれ、幸せそうな寝顔を浮かべている。時折、むにゃむにゃと口を動かし、手を開いたり握ったりしてはいるが、よく眠っている赤子だった。

 

 

 

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心優しき方へ

 

この子はとある女性から託された物です。

 

その女性は血だらけになりながらもこの子を私に託しました。

おそらく、その人はこの子の母親だったのでしょう。

自分の命を賭してまで子供を護り、その場で息絶えました。

 

しかし、私には、子供を養える余裕はありません。その女性が血を吐きながらも私を信じてくれた事を裏切るようになってしまいますが、私には幼子を養う能力もなければ、何かに襲われる事になった女性の子を育てる覚悟もありません。

 

この町の、この劇場であれば、生きていけるのではないかと思い、連れて参りました。

どうか、この子を育ててあげてください。

 

この子の名は『メルエ』と言います。

 

 

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「なんだい、これは!」

 

 その文を読んで、アンジェは思わず叫んでしまった。

 それは、この手紙を書いた人間の無責任さに対しての怒り。

 自分の身を挺してまで子を護り、必死で『人』の居る場所まで戻った後、子を託して息絶えたと言うのに、託された人間は、まるでそれが迷惑とでも言うように、ここに捨てて行ったというのだ。

 

 この安らかに眠る赤子の母親が、何に襲われたのかは解らない。それは、『魔物』かもしれないし、盗賊などの『人』かもしれない。

 それでも、血だらけになる程に痛めつけられたという事は、自分より力量が上なのか、それとも数が上なのかのどちらかだろう。

 そのような過酷な中にも拘わらず、我が子を護り、傷一つなく人里まで連れて来たのだ。

 その母親の心を無にするような行為にアンジェは怒りを覚えた。

 

「こっちは、子供が欲しくても出来ないっていうのに!!……この子、別に劇場で育てなくても良い筈じゃ……私と彼で育てれば……」

 

 アンジェの頭の中に、不意に浮かんだ自分自身に対する提案。

 それはとても甘美なものだった。

 これで、二人の間に子供が出来る。

 

 ここ<アッサラーム>は夜の町であり、見目麗しい女性が必須となる。

 その為に、奴隷商人から幼子を買い、踊り子や娼婦に育てるという事が当然の様に起こっている。

 しかし、どれ程、アンジェが子供を欲しているとはいえ、まさか奴隷商人から奴隷を買う訳にはいかない。だが、この赤子は、見た目は生まれたばかり。

 劇場内の人間以外には、自分の子供として通る筈だ。

 

「メルエってのかい?……アンタは今日から私の子供だよ」

 

 そんな言葉を掛けながら急いで籠を抱き上げ、アンジェは家路を走る。

 胸に湧き上がる喜びを抑える事なく、笑顔を浮かべながら。

 

「アンジェ!? その子は……」

 

「劇場の裏口に捨てられていたんだよ! この子は私と貴方の娘として育てようよ」

 

 興奮気味に扉を蹴り開けたアンジェの姿に驚いた男は、そのアンジェが両手に抱える籠の中身に更に驚いた。

 そんな男に満面の笑みを浮かべ、アンジェは先程自分が考えた事を男に向かって息継ぎもせずに言い切る。

 

「……その子は捨て子なのかい? へぇ~、結構良い布で包まれているね」

 

「ええ。劇場の前に捨てられていたわ」

 

 赤子を包む布が上質な物である事を確認している男に、アンジェは先程の手紙を手渡す。その手紙を読み終わった後に、顔を上げた男の表情は笑顔だった。

 

「そうだね、アンジェ。僕達で育てよう。はじめまして、メルエ。今日から君のお父さんだよ」

 

「ふふふ。おはよう、メルエ。今日からお母さんになるアンジェよ」

 

 目が開いているのか、開いていないのか分からないが、目を覚ました様子の赤子に対し挨拶をする二人。

 その様子はどこにでもいる夫婦の様な、微笑ましく、暖かい姿。

 

 

 

 それから数年、アンジェは忙しかった。

 近くに子供が生まれたばかりの母親の噂を聞きつけては、母乳を一緒に上げてもらえるようにゴールドを渡して頼みこむ。そして、明け方から眠る生活だったのを、仕事が終わってすぐに眠り、夜泣きをするメルエをあやし、ミルクを与えた。

 しかし、それはアンジェにとって確かな幸せだった。

 男も未だに結婚を口にしないが、メルエをあやす表情は優しい物であり、劇場で踊り、その傍にメルエを置く。

 子供のいない座長夫婦も、おおっぴらに許可しないまでも、黙認するという形でそれを遠巻きに見ていた。

 

 そんな幸せは、突如として変貌する。

 

 それは、アンジェと競っていたレナという踊り子が、しつこく付きまとう客に嫌気が差し、劇場を飛び出してしまった事から始まった。

 レナはここ最近悩んでいた。

 しつこい客が、待ち伏せをし、家までついて来る。プレゼントの中に、見るのもおぞましい物が入っている等、彼女は踊りを踊る精神状態ではなくなって来ていた。

 そして、ついに劇場を去って行ったのだ。

 突如消えたNO.1に劇場はひっくり返したような騒ぎとなった。今や、押しも押されぬNO.1となったレナの代役はいない。

 かつては人気を二分していたアンジェも、その人気に陰りが差していた。

 

「アンジェ、アンタの下に付いているあの娘はどうなんだい?」

 

「えっ!?」

 

 いないのなら、作るしかない。それが、夜の町<アッサラーム>の中で、この劇場が常に一番輝いている理由。

 上の者が年老いていっても、すぐにそれに代わる若い娘が出て来る。それを育てるのも踊り子の役目なのだ。

 

「え、ええ。踊りなら、もう舞台に出しても大丈夫でしょう。後は慣れの問題かと」

 

「そうかい……なら、今日からあの娘にも舞台に立ってもらうよ。アンジェ、しっかり見てやんな」

 

 アンジェの目から見ても、アンジェが可愛がっているその娘は、生まれついての器量良し。そして、アンジェが先輩から受け継いだ踊りを必死の想いで我が物にしようとしている。

 そんなアンジェの答えに、満足そうに頷いた奥方は、今日の舞台に立つ人間を読み上げた。

 

 その日から、アンジェの生活が様変わりを迎える。

 

 

 

 アンジェの育てた娘が舞台に立ち始めてから数日が経った辺りから、アンジェと暮らしていた男が夜の仕事をサボるようになって来た。

 メルエが『はいはい』をするようになり、目が離せなくなって来たアンジェは、舞台に上がる頻度も少なくなって来る。それに伴い、収入も下がり、アンジェの手元に入ってくるゴールドも減るのだが、そのゴールドもまた、いつの間にか無くなっているのだ。

 アンジェはメルエにとって必要な物や食料などを買い、戸棚にゴールドを仕舞っていたが、いつの間にか戸棚の中が空っぽになる。

 初めは盗賊が出たのかと考えた。しかし、周辺の家に被害はない。ならば、該当者は一人だけ。

 その事に思い至ったアンジェは、共に住む男を問い詰めるが、答えは白々しい嘘。誰にもでも解るその嘘を平気で突く男にアンジェは呆れた。

 

「何に使っているんだい!? 貴方、最近仕事にも行ってないみたいじゃないか!?」

 

「だから、ゴールドは取ってないって言ってるじゃないか!? 仕事だって行っているさ!」

 

「嘘言いなさんな! 私は知っているんだよ!」

 

「うるさいな!」

 

 何度か繰り返される罵声。

 最後に捨て台詞を吐いた男は家を出て行った。

 そして、その日から男が家に帰って来ない事が多くなる。たまに帰って来るのは、アンジェがいない時。

 今では、掴まり立ちを始めたメルエが『ぼうっ』と見守る中、戸棚からゴールドを取り出し、そのまま町へと出て行った。

 アンジェの生活は崩れ、それと共にアンジェの心も崩れて行く。そして、決定的な事が起こった。

 

「なんだって!?」

 

 久しぶりにアンジェのいる時に戻って来た男を見て、アンジェは心底喜んだ。

 『また自分の所に戻って来てくれたのだ』と。

 男に新しい女が出来たのではないかという事ぐらいは、アンジェにも解っていた。故に、男が飛び出してからは、メルエを劇場に連れて行く事なく、踊りに集中した。

 また、昔の様に美しい踊りを踊れば、人気も上がり、収入も上がる。そうすれば、あの男は自分の所へ戻って来ると。

 しかし、帰って来た男の言葉は、アンジェが待っていた物とは遠く離れた物だった。

 それは、アンジェとの離別の宣言。

 そして、それは衝撃の結果を生む。

 

「私は嫌だよ!」

 

「アンジェが嫌でも、僕はもう二度と君に会う事はない。今、僕の傍にいる女性がね、僕の子供を身籠ったのさ」

 

「えっ!?」

 

 男の言葉を了承しないアンジェに告げられたのは、厭らしい笑みを浮かべた男の言葉。

 その言葉にアンジェの視界が黒く染まって行く。もはや、アンジェの視界に何かが入り込む事はなかった。

 

「その女性は、若く美しい。しかも上品なんだ。きっと僕との子供は可愛いに違いないよ」

 

「なっ!? こ、ここにいる『メルエ』だって、私と貴方の娘じゃないか!?」

 

 男が視界に入って来ない状態にも拘わらず、アンジェは必死の抵抗を繰り返す。それを聞いた男は、更にあざ笑うかのような表情を浮かべ、吐き捨てるように呟いた。

 

「はっ! 僕と君の娘だって?……その捨て子がかい?……良い布で包まっているから、どこかの貴族の子供かもしれないって思っていたけど、ここ数年全く捜索している様子もない」

 

「……まさか……」

 

 アンジェは驚愕した。

 男が言っている内容は、メルエの身なりが良かったから引き取ったというのだ。

 メルエを探しに来た人間から礼を貰う為に。

 

「悪いけど、そんな子供は僕の子供ではないよ。子供が出来ないのは僕のせいかもしれないから、今まで黙っていたけど……そうではない事が分かった以上、そんな捨て子を自分の子供と思うつもりはない。それと、もう舞台でも華がなくなった君と暮らすつもりもないから」

 

「……そんな……」

 

 その言葉を最後に男は出口へと向かう。その後ろ姿をアンジェは呆然と眺めていた。

 出口へと向かう男の足元に、それまで指を咥えながら座っていたメルエが立ち上がり、向かって行く。

 

「…………あぁ~…………」

 

「!! なんだよ! 汚い手で触るな!」

 

 自分の足元を掴むメルエの手を、足を振る事で払い退けた男は、そのままメルエを蹴り飛ばした。

 男に蹴り飛ばされ後ろに転がるメルエ。

 ようやくその身体が止まった時には、大きな声を上げて泣き出した。

 男が出て行った後には、呆然と座り込む女性と、大きな泣き声を張り上げる赤子が残る。

 その日から、アンジェの虐待が始まった。

 

 

 

 結局男は、<アッサラーム>の町を出て行った。

 それもそのはず。

 男の子供を身籠ったのは、アンジェが可愛がっていたあの娘だったのだ。

 娘もまた、身籠った身体で男と共に逃げるように<アッサラーム>から消えていた。

 NO.1が去り、次代のNO.1までもが居なくなった劇場は大慌てだった。

 誰もアンジェに同情してくれる人間等いない。

 そんな話は、この夜の町には溢れ返っているのだ。

 

 呆然としているアンジェに舞台に上がる仕事が回って来なくなって来た。座長も、その奥方も、これを機会に踊り子の世代交代を進め始めたのだ。

 アンジェとしても、まだ若い。しかし、十代の頃の様に華がある訳ではなかった。

 必然的に、家にいる事が多くなる。

 仕事もなく、収入もない。

 僅かなゴールドでアルコールを買い、ひたすらそれを飲み尽くす。

 

「…………あぅ…………あぁぅ…………」

 

「うるさいね!」

 

 母親に近寄ろうと、おぼつかない足取りで歩くメルエを容赦のない平手が襲う。

 メルエはすでにミルクではなく、食料を口にし始めている。しかし、アンジェのアルコールに消えて行くゴールド以外、食料を買うゴールド等余ってはいない。

 アンジェに頬を打たれたメルエが泣き叫び、その泣き声にアンジェの神経は更に逆撫でされる。仰向けになりながら泣き声を上げる赤子をアンジェは組み伏せ、更にその手を上げた。

 何度も何度も振り下ろされる平手に、メルエの頬は真っ赤に腫れ上がり、泣き疲れるまで、その虐待は続く。

 

 

 

 立ち上がり、一人で歩けるようになり、自我が目覚め始めた頃、メルエは一切口を開かなくなった。

 目は光を宿しておらず、食料を与えられていない為、その身体は痩せ細っている。外に出てアンジェのアルコールを買いに行く時に、そのメルエの姿を見かけた劇場の座長夫妻が、『良く今まで生きていたものだ』という想いを持つ程のものであった。

 そして、座長夫妻は、メルエの為に仕事を与える事にする。

 劇場の下働き。

 それは、踊り子の服を洗い、踊り子の身の回りを世話する物だった。

 

「メルエ! アンタ、しっかり働いておいでよ!」

 

「…………」

 

「なんだい!? 何か喋りなよ、気味が悪いね!」

 

 座長夫妻の話を聞いたアンジェは、嬉々としてメルエを劇場に送り込む。多少なりともゴールドが入るのであれば、それで良いと思ったのであろう。

 メルエにそれを伝え、黙ったまま頷くメルエに、再びその平手を打ちすえる。

 座長夫妻は、そんな変わり果てたアンジェに驚き、そして哀しんだ。

 『あの、踊りにひた向きで、明るく笑うアンジェは、もうどこにもいないのだ』と。

 

 

 

 メルエはその後数年、劇場で下働きを続けた。

 下働きの給金は10ゴールド。それは、全てアンジェのアルコール代へと消えて行く。

 メルエの食事事情を心配した座長夫妻は、メルエに賄いの様なものを毎日与えていた。その為、痩せ衰えていたメルエの身体にも、次第に肉付きが戻り、年相応の少女の姿になって行く。

 一度、メルエのその変貌を疑問に思ったアンジェが、座長に詰め寄り、メルエの食事はいらないから、食事分も給金に反映させろと言った事があるが、座長は頑として受け付けなかった。

 もう、あの優しく微笑むアンジェはいない。優しく、それでいて厳しく教えていた娘に裏切られたあの日から、アンジェは別人に変わってしまった。

 そんなアンジェから、メルエの身を護るのは座長夫妻の仕事となっていた。

 護ると言えば、聞こえは良いが、実質は『人』として生きていけるようにする事。唯それだけだった。

 

「メルエ! 何やってんだい! こっちに洗い物がまだ残ってるだろ!」

 

「本当に鈍臭い子だね!」

 

 小さな手で、必死に洗濯をしているメルエの頭を小突き、その桶の中に新たな洗い物を大量に入れて行く。そんな行為に対しても、泣きもせず、ただ焦点の合っていない瞳を向けるメルエに、踊り子達の神経が逆撫でされた。

 劇場の踊り子達からも謂れのない暴力を受けるメルエを、座長夫妻はただ見ているだけ。それは、世間の厳しさを教える為なのか、それとも何か別の目的があるのかは解らない。

 メルエは、ただ黙々と洗濯を行い、それを干し、そして舞台を掃除する。

 踊り子の態度は、その下にいる練習生にも波及し、下働きをしているくせに踊りを学ばないメルエは、格好の攻撃の的となっていた。

 家にいてはアンジェに殴られ、劇場にいても、食事は与えられるが、更に大勢から謂れもない攻撃を受ける。

 メルエに、居場所など何処にもなかった。

 

 

 

 そんなある日、メルエはアンジェに呼ばれた。呼ばれる事は珍しい事ではない。アルコールがなくなった時、劇場から給金が出た時などは、必ずアンジェに呼ばれる。

 何も考える事なく、アンジェの前に顔を出したメルエは、そのアンジェの顔を見て驚いた。

 笑顔だったのだ。

 それも優しい笑顔。

 メルエが物心ついた時から一度も見た事のない笑顔。

 

「メルエ。アンタ、今日は劇場に行かなくても良いよ。私について来な」

 

「…………」

 

 笑顔のまま、メルエに向かって『仕事にいかなくても良い』と言うアンジェの言葉に、しばらく首を傾げていたメルエであるが、初めて見る母親の笑顔に恐怖を感じ、ゆっくりと首を縦に振った。

 素直に頷くメルエに、機嫌良く身支度を整えるアンジェは、黙って頷くメルエを叩く事はなかった。

 

「行くよ、メルエ!」

 

「…………」

 

 アンジェに手を引かれて歩き出すメルエは、劇場の前を通らないように、町の外へと連れ出された。

 初めて見る町の外。

 それは、メルエの目に強烈に焼き付いて行く。

 

 町の門を出た左手に、一台の馬車が止まっていた。

 薄汚れた幌に、くたびれた馬。

 そして、その馬の手綱を引く男は、屈強で大きい。

 アンジェは躊躇なくメルエの手を引きながら、馬車の傍に立っている男に近づいて行く。そこで、初めてメルエの胸に恐怖が湧き上がった。

 メルエの目から見ると、山の様に大きな男達が三人。手綱を握る男も含めると、四人。

 それは、家と劇場の往復しかして来なかったメルエにとって初めて見る光景であり、初めて見る生物。

 それがメルエには怖かった。

 

「おお、来たか!? 約束の20ゴールドだ」

 

「どうも……じゃあ、頼んだよ」

 

 アンジェを確認した男の一人は、アッサラームの町にある教会にいる人間のような法衣を纏っていた。

 その男からゴールドを受け取ったアンジェは、引いていたメルエの手を男へと引き渡そうとする。

 ゴールドを支払った男の手がメルエへと伸びた時、メルエは動いた。

 

「なっ!?」

 

「おいおい、頼むぜ……」

 

 アンジェは驚いた。

 メルエは、男の手を嫌がり、自分の足にしがみ付くように抱きついて来たのである。あれ程、怒鳴り、殴り、罵倒して来た自分にしがみ付くメルエの姿は、アンジェを驚かせたのだ。

 

「ほら! こっちはゴールドを払ったんだ。てめぇは俺達の物なんだ。さっさと来いよ!」

 

 しがみ付くメルエを強引に引き剥がし、メルエを連れ去ろうとする男達。それは奴隷商人と呼ばれる男達だった。

 メルエが働いて貰える給金は10ゴールド。その倍の20ゴールドでアンジェはメルエを売った。

 たった二月分の給金だ。

 

 奴隷商人に引き摺られるメルエの目を見て、アンジェは初めて後悔した。

 メルエの瞳が怯えを見せていたのだ。

 自分にどれだけ怒鳴られ、どれだけ叩かれても、死んだ魚の様に生気のない瞳をしていたメルエが怯えている。

 まるで、自分に助けを求めるように。

 

「メ、メル……」

 

 その先の言葉は繋げなかった。

 言葉を発して何になるというのか。

 引き止めるのか?

 このゴールドを突き返し、メルエを取り戻すのか?

 

 それはおそらく不可能。

 奴隷商人が一度ゴールドを支払えば、そこで契約は成立する。

 その契約を覆す事は出来ない。

 

「…………いや…………」

 

 その声を聞いた時、アンジェは自分を呪い殺したくなった。

 初めて聞いたメルエの声。

 泣き声以外、話そうともしなかったメルエが、今、話す事も咎めていた自分に向かって助けを求めるように言葉を発したのだ。

 母親としての仕事など、あの時以来何もしていない。むしろ、メルエが生きているという事実が不思議な程の事を繰り返し行って来た。

 それでも、メルエはアンジェに助けを求めているのだ。アンジェを母親と信じ、アンジェだけがこの場で自分を救ってくれる存在だと信じて疑わない。そんな自分を信じきったメルエの瞳を、アンジェは見ている事が出来なかった。

 故に視線を外す。

 それが、この後、自分を生涯苦しめる事になる行為だとは知らず。

 

 アンジェが視線を外している間に、メルエは男達の手によって馬車の中に入れられた。

 視線を背けたアンジェを見て、メルエは諦めたのかもしれない。馬車に入るまで、アンジェの耳にメルエの泣き声も、叫び声も聞こえなかった。

 

「よし、行くぞ!」

 

 馬車に乗り込んだリーダー格の男の合図に、手綱を引いていた男の手が動き、ゆっくりと馬車が動き出す。<アッサラーム>から北の方角へ向かって行く馬車は、その先にあるロマリアへ向かって行くのかもしれない。

 それは、もうアンジェには関係もなく、立ち入る事も出来ない。

 

「……メ、メルエ……うぅぅ……」

 

 馬車の後ろ姿が小さくなっていく。

 そこで、初めてアンジェは涙を溢した。

 

 あの時、男に裏切られ、可愛がっていた後輩に裏切られても涙一つ見せなかったアンジェが、今涙を抑えきれずに溢している。

 それは、哀しみの涙なのか、後悔の涙なのか、それとも懺悔の涙なのかは、アンジェしか解らない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回の話には賛否両論があると思います。
いや、「否」の方が多いかもしれません。
それでも、これがメルエの過去の一旦です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしています。

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