~幕間~【バハラタ周辺】
一行がバハラタの町近くに降り立った時には、陽が傾き掛けていた。
夕陽が差し照らす<聖なる川>がキラキラと赤く輝き、幻想的な光景を生み出す商業の町は、以前にカミュ達が訪れた時とは違う雰囲気を醸し出している。夜が近づいている町は、明かりが灯り、その明るさは昼をも思わせる程の物だった。
「サラ。先程から気になっているのだが、その頭につけている物はどうしたんだ?」
「えっ!? へ、変ですか?」
バハラタから少し離れた森の入り口付近に移動する為に歩き始めた時、サラの後ろを歩いていたリーシャから声が掛かる。それに対するサラの素っ頓狂な声に、前を行くカミュとメルエも振り返った。
「いや。そうではない。サラがあれ程に執着していた僧侶帽を手放した事が不思議でな」
「……これは、教皇様に頂きました。先代の『賢者』様がお造りになられた物だそうです」
「…………サラ………ずるい…………」
リーシャが口にした『執着心』という言葉はサラの胸に刺さり、重苦しく口を開くサラとは正反対に、何かに嫉妬を感じたメルエの呟きはどこか的外れな物だった。
そんなメルエの呟きにリーシャは苦笑し、サラは慌ててしまう。
「えっ!? メ、メルエには『銀の髪飾り』があるじゃないですか?」
「…………サラ………ずるい…………」
「ふふふ」
メルエの呟きに重苦しい雰囲気は吹き飛んで行く。ムオルの村でメルエへと譲渡した髪飾りの存在を慌てて伝えるサラの言葉を聞いても、メルエは納得する事はなかった。
そんな二人のやり取りが自然とリーシャの顔に笑顔を浮かべさせる。
「しかし、前掛けも失ったのだな」
「あ……はい……『もはや僧侶ではない』というお言葉を頂きました。ルビス様を信仰する事を止めるつもりはありません。ですが、僧侶帽や前掛けを着け続ける事によって、『僧侶』である事に甘えてしまう事は許されませんので」
「……」
僧侶帽と共に失った、十字の刺繍が入った前掛けの存在を指摘したリーシャに対して、サラの表情はあからさまに歪んだ。
彼女にとって自分が『僧侶』であるという事は、ある意味で『誇り』でもあったのだろう。だが、それは『悟りの書』を手にした時点で許されないものとなったのだ。
色々な想いを秘めているように口を開くサラを、リーシャは誇らしげに見ていた。
そんなリーシャとは対照的に、常に無表情を貫くカミュの顔は哀しげに歪んでいる。
それぞれの想いが、それぞれの表情に如実に表れていた。
「そうか。あのサラが随分立派になったものだ」
「……リーシャさん……」
目を細めてサラを見るリーシャの頭には、この一年以上経過する旅の記憶が甦っていた。
アリアハンを出た自分とカミュを追って、息を切らせながら走って来たサラ。
魔物への憎しみを隠そうとはせず、その魔物へ慈悲を掛けるカミュへと噛み付くサラ。
同じ様に両親を魔物に殺された少年を導くカミュに戸惑い、悩むサラ。
剣の稽古をつけて欲しいと決意に燃え、懸命に槍を振るうサラ。
様々なサラの表情が浮かんでは消え、何故か目の前に立つサラの顔が滲んで行く。
「……おっと……風が吹いて来たな」
風から顔を護るように腕を掲げたリーシャは、妹のような少女の大きな成長に溢れて来た涙をそっと拭った。
時間にしてみれば、たった一年強の付き合いである。しかし、その短い時間は、強い絆を生んでいたのだ。
「そ、それで、カミュ! ここまで来たが、あの町にはお前が行くのか?」
「……他に誰が行く?」
どこか優しい雰囲気を纏って自分を見ているカミュに、リーシャは声を張り上げる。その声が微かに震えていた事は、おそらく声を向けられたカミュにしか解らない程のものだったろう。故に、カミュはその事を追求しなかった。
それもまた、この一年強の旅の中で変化した物の一つなのかもしれない。
「そうか。だが、盗賊からの脅威が消えた町は、復興に向かって動いている筈だ。夜とはいえ、お前が再び町に入るのはまずいのではないか?」
「……では、アンタが行くのか?」
リーシャにしては珍しいまともな意見に、一瞬驚いた表情を見せたカミュだが、逆に問い返してみれば、リーシャもまた顔を顰める。選択肢が残されてはいないのだ。
リーシャも自分が交渉役に向いていない事は重々承知している。町に入り、約束どおり『黒胡椒』を渡してくれれば何の問題もないのだが、もし何かあった場合、リーシャではその対応策を見出す事が出来ない。
「……私が行きましょうか?」
「な、なに!?」
俯いてしまったリーシャの顔が弾かれたように上がる。バハラタの町に入る事を志願したのは、この町に誰よりも苦い想いを抱いている筈のサラだったのだ。
これにはカミュも驚きの表情を浮かべていた。
「……アンタに行く事が出来るのか?」
「そうだ! サラ、無理をする必要はないのだぞ!?」
サラを気遣うリーシャの言葉に、サラは柔らかく微笑んだ。
そんなサラの表情を見て、カミュは深い溜息を吐く。
これで、バハラタの町で『黒胡椒』を受け取る人物は決まった。
「…………メルエも…………」
「ふふふ。メルエはカミュ様達とここで待っていて下さい」
サラの表情に何か思うところがあったのだろう。メルエがサラに同行する事を提案するが、それも柔らかく断られた。
『むぅ』とどこか不満そうな表情を浮かべ、リーシャの腰元にしがみ付いてしまったメルエに視線を合わすように屈んだサラが口を開く。
「メルエがいなくなってしまったら、カミュ様とリーシャさんは喧嘩を始めてしまいます。しっかり二人を見ていてくださいね」
「…………ん…………」
サラの言葉に、カミュとリーシャの顔を見比べたメルエは、不承不承といった感じに頷きを返す。そんなメルエにサラは再び柔らかく微笑んだ。
しかし、そんな微笑ましい光景も、当事者から見れば納得が行かない。すぐにリーシャが口を開いた。
「サラ! 何を言っているんだ!?」
「ふふふ。では行って来ます」
そんなリーシャの反論を無視するように、サラはバハラタの町へと歩き出した。
月明かりも霞む程の人工的な灯りで輝く町に吸い込まれるように、サラの姿は小さくなって行く。
劇的な変化を遂げたサラはどこか脆く危うい。そんな感想を持っていたリーシャは、小さくなって行くサラの背中を暫し見つめていた。
月明かりを受け、小さくなって行くサラの背中を不安そうに見つめるリーシャに、予想外の言葉が掛かる。
それは、既にサラから視線を外し、野営の準備に入っている一人の青年からだった。
「心配するな……アンタが思うよりも、あれはずっと強い」
「……カミュ……」
リーシャはサラが『賢者』となる場面を見る事が出来なかった。
いや、実際その場面を見ていたとしても、リーシャは同じ不安を持っただろう。リーシャにとってサラは、まだまだ危うい存在なのだ。
「…………けん…か………だめ…………」
そんな二人のやり取りを見ていたメルエがその間に入ってくる。サラから下された指令を忠実に護ろうとする幼い少女に、カミュとリーシャは苦笑を洩らした。
町へと入ったサラの印象は、以前と全く違う物だった。
町を満たす人々の顔は、何かを吹き飛ばすような活気に満ちており、額に滲む汗を嬉しそうに拭いている。以前訪れた際には見る事がなかった子供達の姿もあり、どの子供も笑顔を浮かべながら駆け回っていた。
「……これが本当のバハラタなのですね……」
空に輝く月の光が届かない程に明るい町の中は、まるで未だに太陽が昇っている昼のような喧騒で満たされており、その姿を見たサラは、この姿こそ本来のバハラタという町だと感じていた。
「お嬢さん、観光かい? 宿屋なら向こうだよ!」
「えっ!? あ、は、はい。ありがとうございます」
店仕舞いを始めていた道具屋の店主らしき人間が、周囲を見渡しながら歩くサラに目を止め、親切にも道を示してくれる。突然掛った声に戸惑いながらも、サラは丁重に頭を下げた。
以前ここを訪れた時に比べ、サラの姿は変化している。それは体格とか女性らしさという物ではなく、サラという存在そのもの。身に付けている物に、以前のサラを特定出来るような物はない。
『僧侶』として生きて来たサラが纏っていた衣服には、サラが『僧侶』である証が散りばめられていたが、今のサラの衣服にはそれがないのだ。
『僧侶』である事を示す十字の刺繍の入った前掛けは取り払われ、サラの髪と同じような青い服になっており、特徴的な帽子も今やサークレットに変わっている。サラ個人を認識しているカミュ達あれば別であるが、『勇者一行に同道していた僧侶』としてしかサラを認識していなかった者にとっては、別人と見えてもおかしくはないのだ。
「……忘れている訳ではないのでしょうね……」
自分をあの時の『僧侶』と認識していない事に疑問を持ったサラではあったが、町の住民の姿を見ていれば、あのカンダタ一味の事件を忘れている訳ではない事は理解出来た。
あの苦しみを、そして身近な者を失った悲しみと悔しさを忘れた訳ではない。それでも力強く前へと歩み始めているこの町に、サラは感動を覚えていた。
傍を歩く女性に町長の家の場所を尋ね、サラはそちらへと歩いて行く。店仕舞いを進めている人々を眺めながら、サラの頬は自然と緩んでいた。
町に残る人々の心の傷は癒えてはいないだろう。それでも力強く歩き出す『人』の強さは、サラに勇気を与えていたのだ。
「ここですね……ふぅ……」
ある一軒の家の前に辿り着いたサラは、一つ大きな深呼吸をした後、目の前にある扉に付いている金具で木戸を叩いた。
少しして、中から声が聞こえた後、ゆっくりと木戸は開かれる。夜である事もあり、警戒からか少ししか開かれない扉の隙間から以前会った町長の顔が見えた。
「どなた様でしょう?」
「あ、あの……以前、この町を訪ねた者です。その時のお約束である『黒胡椒』を受け取りに参りました」
「!!」
見覚えのない女性に素性を問いかけた町長に予想外の答えが返って来る。
サラの発した『黒胡椒』という言葉は、町長の瞳に驚愕の感情を宿らせた。
「……貴女様は……」
「はい。あの時同道していた……『僧侶』です」
サラは自分の素姓を語る際に、『僧侶』という言葉を発する事に戸惑った。
それは、自分自身の中でその資格の有無に対するわだかまりが解けていない事と、この町で『人殺し』を容認した者を『僧侶』と呼べるのかという事からである。
「あの時の!?」
「は、はい」
サラの返答を聞いた町長は更に驚愕の色を深め、半開きであった扉を全て開いて、そこに立つサラをまじまじと見つめ直す。そんな町長の視線にどこか居心地の悪い感覚を味わったサラは視線を落とした。
「はっ! この様な所では何ですので、どうぞ中へ」
暫し放心したようにサラを見つめた町長は、どこか困ったようなサラの表情に気が付き、慌てて中へと招き入れる。その招きに一瞬の躊躇いを見せたサラではあったが、そのまま家の中へと入って行った。
「何もない所ですが、今お茶でも入れますので」
「いえ、お構いなく」
町長に促されるままに席に着いたサラは、興味深そうに家の中を眺める。そんな失礼な態度に対しても町長は気を悪くした様子もなく、台所へと向かった。
温かな湯気の立つカップを二つ持って戻って来た町長は、それをテーブルに置いた後、サラの対面に座り、口を開いた。
「他のお連れ様は……?」
「町の外にある森で待機しています。町に余計な混乱を与えたくはありませんから」
恐る恐ると言った感じでサラに問いかけた町長は、サラの答えを聞くと、ほっとしたような、それでいて哀しそうな複雑な表情を浮かべ俯いてしまう。町長の気持ちを嬉しく思ったサラは、『気にしないでください』と一言言葉を投げ、カップを手に取った。
「本当に何から何までお気遣いを頂き、ありがとうございます」
顔を上げた町長は、サラの瞳を見据え、深々と頭を下げる。
その言葉には、『謝罪』と共に『後悔』の念も含まれているようでもあった。
「大変厚かましいのですが、『黒胡椒』を頂ければ、早々に町を立ち、余計な波風を立たせないように致しますので」
「そ、そのようなことは」
サラの言い分は、聞き様によっては、『目的の物を頂ければ、何もしない』というような脅迫めいた物にも聞こえる。サラにその気はなく、むしろ町の住民の事を考えての事なのだが、町長にはそのように聞こえなかったかもしれない。
「もはや、あの事件から二月以上の時が流れました。町の者達もそれぞれの胸の内に色々な想いを抱きながらも前へと歩いています。今はまだ無理ではありますが、必ず貴女様方から受けたご恩を皆に伝えようと思っています」
「それは……」
サラの瞳を見る事は出来ず、テーブルへと視線を落としたまま、町長は自分の想いを口にする。
町は、まだ復興へと動き出したばかり。町の復興には『人』の想いと力が不可欠であるのだ。
故に、今は何を話しても受け入れられない者達に真実を伝えるよりも、落ち付きを取り戻し、周囲を見渡せる程になってから、この町の救い主の真実を伝えると言う。
「必ず……必ず、貴女様方からのご恩を伝えます」
「……いえ……私達の事は良いのです。それよりも、『恨み』や『憎しみ』に駆られる人が出ない事を願っています」
この町の人間が、サラ達の真実を受け入れる事が出来る日が何時来るのか。それは、想像する事も難しい。
彼らの心にある見えない傷痕は、生涯消える事はないだろう。故に、サラは自分達の事よりも、彼ら自身の心の行く末を懸念する。
願わくば、自分と同じ道を歩んでしまわないようにと。
「……ありがとうございます……」
町長の瞳に涙が溜まり、それは重力に従ってテーブルへと落ちて行く。木で出来たテーブルに落ちた水滴を見つめながら、サラは何も返答が出来なかった。
この町の住民には、それぞれの生活があり、その営みを護ろうとした町長を責める事など出来ない。しかし、それはサラの理想とは掛け離れた物でもあるのだ。
「では、こちらを……」
「えっ!?」
暫しの静寂の後、町長は革袋を二つサラの前に差し出す。テーブルの上に置かれた革袋を見て、サラは驚きの声を上げた。
このバハラタを出る時に、町長がカミュへ渡そうとしていた革袋は一つだった筈。
「いえ、良いのです。新しく収穫できた物も一袋お渡し致します」
「……」
遠慮がちに上げられた町長の表情を見て、サラは全てを悟った。
町長の瞳が全てを物語っている。
この余分な革袋は、手切れ金なのだ。
『二度と町には来ないで欲しい』
そんな町長の心の声が聞こえたような気がした。
それは、サラの勘違いかもしれない。だが、カンダタ一味にさえも決して弱みを見せず、実の孫娘が攫われても町を優先させようとしたこの翁が、何の見返りもなく貴重な『黒胡椒』を必要以上に差し出す訳はないのだ。
そして、そんな過剰な程の謝礼に対し、サラ達が欲を出さない事も計算の上なのだろう。
「……ありがとうございます……」
どこか釈然としない想いを胸に、サラは一つ頭を下げてから長老宅を後にする。扉の前まで見送りに出てこようとする長老を止めて、サラは外へと出た。
外は、既に星空が輝き、月明かりが町を照らしていた。
人工的な灯りも疎らになった町は、人の往来もなくなり、静けさに満ちている。一度空に輝く月を見上げたサラは、大きく息を吐いた後、しっかりと前を向いて、町の出口へと足を踏み出した。
サラが小さな『決意』の炎を胸に宿した頃、外でその帰りを待っていた三人は、それぞれの武器を手にしていた。
「カミュ! そっちは頼む!」
「わかっている。メルエ! 下がれ!」
斧を構えたリーシャは、カミュへと指示を出した後、目の前にいる魔物へと向かって行く。その声を受けたカミュが、後方で『魔道士の杖』を構えるメルエを更に後ろへと下げ、背中の剣を抜き放った。
薪集めも終え、落日と共に下がって行く気温によっての体温の低下を防ぐ為に火を熾し始めた頃、森の内部から不穏の音が聞こえ、三人の前に魔物が姿を現したのだ。
その魔物は、牛のようでありながら、山羊のようでもあるという何とも不思議な魔物であった。
「@#(9&)」
「下がれ!」
カミュ達が構えを取ったのとほぼ同時に魔物は奇声を発した。それを聞いたカミュが、<鉄の斧>を握るリーシャへ指示を出す。
リーシャが反応して後ろへ飛び退くと、先程までリーシャが居た場所に着弾した魔法が炎の壁を作り出した。
「カミュ! このままでは野営の場所まで焼かれてしまうぞ!」
「ちっ! 一度森から出る」
カミュの決定に、リーシャは斧を一度背中に戻し、傍に居たメルエを抱き上げた。
それを確認したカミュは、魔物へと剣を向けながらじりじりと後退を始める。呪文を唱えた魔物は、カミュの剣を警戒しながら、カミュを追い詰めるように歩を進めていた。
やがて、一人で魔物と対峙していたカミュの足が森から出る。既にリーシャとメルエは平原へと出ており、それぞれの得物を構えていた。
「ブモォォォォォ」
カミュが剣を下ろし、飛び退くのを確認した魔物は、その頭に生えた角をカミュへと向けて突進して来た。
着地と同時に飛び込んで来た魔物の角を<鉄の盾>で弾いたカミュが、離れ際に剣を振り下ろす。
「@#(9&)」
しかし、カミュに角を弾かれた魔物が再び呪文の詠唱を行う。振り下ろされた<鋼鉄の剣>に纏わり付く様に飛び出した熱気は、まるでカミュと魔物を隔てるように着弾し、炎の壁を作り出した。
<マッドオックス>
本来あり得ないバッファローと山羊の交配によって生まれた亜種が起源とされている魔物。それぞれの特徴を有した容貌をしており、身体は山羊の毛のような体毛に追われており、頭に生える角はバッファローの物に酷似している。気性はとても荒く、敵と見定めた相手に容赦なく鋭い角を向ける。また、亜種としての血が濃くなった為なのか、魔法も使用する事が可能となっていた。
「カミュ! 相手は一体だ。焦る必要はない」
「……わかっている……」
一度後方に戻ったカミュに、リーシャは<鉄の斧>を身構えながら忠告を洩らす。それは、カミュにも充分理解出来る物だった。
もし、この<マッドオックス>に遭遇したのが、バハラタ地方に入ったばかりの頃であれば、彼らは苦労したのかもしれない。
しかし、今のカミュ達は様々な経験を積んでいるのだ。カミュに至っては、サラの補助があったとはいえ、ある地方では神獣とされる龍種すらも倒している。
「…………メルエ………の…………?」
「いや、まだメルエの魔法の出番ではない。後ろで待っていろ」
高々と<魔道士の杖>を掲げたメルエが、自分の出番かとリーシャに問いかけるが、それは優しく拒まれた。
『むぅ』と頬を膨らませるメルエに苦笑を浮かべながら、リーシャは軽くメルエの肩を叩く。そんなリーシャの笑顔に、メルエは一つ頷いた後、後方へと下がって行った。
「さあ、カミュ。行くぞ」
「……ああ……」
メルエが離れた事を確認したリーシャが再び<鉄の斧>を構え直す。その声に、カミュもまた<鋼鉄の剣>を構えて<マッドオックス>へと視線を向けた。
もはや、<マッドオックス>は彼らの敵ではない。
再度<ギラ>を詠唱しようとした<マッドオックス>の頭部をリーシャが<鉄の盾>で横殴りに弾き、リーシャの後ろから跳躍したカミュの剣が、下がった<マッドオックス>の首に突き刺さった。そのまま重力を利用するように押し込まれた剣は<マッドオックス>の首をもぎ取る。
「――――――」
声にならない断末魔を溢した<マッドオックス>はそのまま物言わぬ肉塊と化した。一つ息を吐いたカミュは、剣を振って血糊を落とす。危機が去った事を理解したメルエがリーシャの足元へと駆け寄って来た。
だが、斧を背中に仕舞い、メルエを抱き上げたリーシャの表情が再び引き締まる。
「カミュ!」
「……ちっ……」
「…………うぅぅ…………」
リーシャの声に、カミュは盛大な舌打ちを返し、メルエはリーシャの肩に顔を埋めてしまった。リーシャが感じたのは、魔物の気配ではない。
周囲を闇が完全に支配したこの場所に漂う死臭。それは、以前バハラタに入る前に嗅いだ覚えのある不快な臭いだった。
ズズ……
何かを引き摺るような音がカミュ達の耳に入って来た頃には、その死臭はもはや吐き気さえも覚える程に強まって来ていた。
先程息絶えたばかりの<マッドオックス>の死臭に誘われて来たのだろう。身動きの取れないカミュ達の前に二体の<腐った死体>が現れた。
「うおぇ……カ、カミュ……」
余りの腐敗臭に吐き気を抑えられないリーシャが口元を押さえながら、カミュへと指示を仰ぐが、こうなってしまった以上、この場所で野営をする事自体が無理に近い。森の中までも漂ってきそうな程の腐敗臭はどうあっても避ける事は出来ないのだ。
しかし、野営の場所を変える訳にはいかない。何故なら、彼らの仲間がまだ戻っていないのだから。
夜の闇の中を彼らの灯す炎と、自らの記憶によって戻ろうとする女性がまだバハラタから戻って来てはいないのだ。
「くそ! 焼き払うしかないか……」
「…………メドゥエ………やどぅ…………」
捨て台詞を吐くカミュの足元から奇妙な声が聞こえる。視線を下に向けると、そこには涙目になりながらも器用に鼻を抓んだメルエがカミュを見上げていた。
「わかった。<ベギラマ>を頼む」
「…………」
メルエに視線を向け、カミュはメルエに使用呪文の依頼をする。カミュとしては、メルエの呪文で足りない場合は、自分も被せるように<ベギラマ>を唱えるつもりだった。
しかし、それは小さな『魔法使い』によって拒絶される。あろう事か、カミュの依頼をメルエは首を横に振り断ったのだ。
その行動に、カミュだけではなくリーシャでさえ驚きを隠せなかった。
「…………あたらしい………おぼえた…………」
「なに!?」
顔を顰めながらも、鼻を抓んでいた指を退けて口を開いたメルエの言葉は、この旅でもう何度も聞いた言葉。そしてその言葉に、リーシャは以前と同じ様に驚きを表す。
正直に言えば、リーシャは、メルエが新しい魔法を覚える度に、その魔法力の桁違いさに驚いていた。
「……やれるのか……?」
「…………ん…………」
迫り来る腐敗臭に全員の顔が歪む中、カミュの問い掛けにメルエはしっかりと頷く。そのメルエの行動に、カミュは軽く溜息を吐いた後、メルエの呪文行使の許可を出した。
カミュが一歩下がり、メルエが一歩前に出る。
メルエの後ろにはぴったりとリーシャが付き、その周囲をカミュが監視する。
既に詠唱の準備は出来た。
腐敗臭が強まり、二体の<腐った死体>の姿が大きくなる。そして、目に染みる程に腐敗臭が漂い始めた時、メルエの持つ杖が振り下ろされた。
「…………ヒャダルコ…………」
メルエの言葉が発せられたのと同時に、周囲の空気が瞬時に凍りついた。
それは、メルエの後ろに立つリーシャの周囲も、後方を警戒するカミュの周囲もだ。
メルエが得意とする氷結系の呪文である<ヒャド>の冷気とは比べ物にならない程の冷気が周囲を支配し、一気に<腐った死体>へと降り注いで行く。
「ムゥゥゥゥ」
もはや神経も腐りきり、痛覚等の感覚もなくなっている<腐った死体>は自分達の周囲の変化に気付きもしない。
先程と同じ様にゆっくりと足を引き摺るように前へと進もうとするが、瞬時に凍りついた身体は思うように動きはしなかった。
強引に前へと向けようとする足は凍りつき、乾いた音を立てて膝上からもげて行く。もげた足で地面を踏もうとするが、もう片方の足は完全に凍り付いているため動きはしない。そのまま腰の上から身体が折れ、地面へと倒れこんで行った。
最後にはメルエの放った冷気によって二体の<腐った死体>は完全に凍結してしまったのだ。
<ヒャダルコ>
氷結系の<ヒャド>の上位魔法。その威力は<ヒャド>を大きく凌ぎ、その冷気は対象となった複数をも凍らせる程の冷気を有する。『魔道書』に記載される氷結系最強の魔法である。しかし、その契約は非常に難しく、熟練の『魔法使い』でも契約できるか解らない物である。この魔法を習得できた魔法使いは、宮廷魔道士の中でも最高幹部への道が約束される程の魔法であった。
「……カミュ……」
「……いつ見ても、慣れる事はないな……」
メルエの放った魔法の威力。それを見つめていたリーシャは、魔物の脅威がなくなったにも拘らず、武器を下ろす事も忘れてカミュを見つめた。
カミュもまた、一つ溜息を吐いた後、メルエの作り出した惨状を茫然と見つめている。
「…………ん…………」
「あ、ああ。凄いなメルエ。もう、あのような魔法を覚えたのだな」
そんな二人の葛藤を余所に、お気に入りの帽子を取った頭をリーシャに突き出して来るメルエにリーシャは引き攣った笑顔を向ける。
リーシャには魔法の事は解らない。だが、少なくとも彼女の故郷であるアリアハン国の宮廷には、これ程の魔法を使う者はいなかった。
一国のお抱え魔法使いでさえも使用する事の出来ない魔法を行使する少女。
その異常性だけはリーシャにも理解する事が出来た。
「……ふぅ……下がっていろ……」
リーシャの温かな掌を受けて、気持ち良さそうに目を細めるメルエに視線を向けた後、カミュが徐に凍りついている<腐った死体>に近づいて行った。
リーシャはカミュの様子を不思議に思いながらも、メルエを抱きかかえて後ろへと下がる。
「ふん!」
魔物の前に移動したカミュは、持っていた<鋼鉄の剣>の柄で氷像と化した<腐った死体>を殴り付けた。
中までも完全に凍りついていた<腐った死体>は乾いた音を立てながら、粉々に砕け散って行く。
「ベギラマ」
二体の氷像を砕いたカミュは、散らばった破片に向けて手を翳し、彼が所有する最高の灼熱呪文を唱えた。
カミュの詠唱と同時にメルエの<ヒャダルコ>のよって低下していた周囲の温度が上昇して行く。カミュの掌から発した熱気は、粉々に散りばめられた<腐った死体>であった欠片に着弾し、炎を燃え上がらせた。
腐敗した肉塊を凍り付かせていた氷は溶け、まるでその者達を天へと還すように煙が立ち上って行く。
「……安らかな眠りを……」
バハラタという商業都市を護るために戦い、そして命を落とした者達の冥福を祈るように、リーシャは静かに言葉を漏らし、胸の前で手を合わせて瞳を閉じる。その様子を不思議そうに見上げていたメルエもまた、リーシャの真似をするように、手を合わせて目を閉じた。
魔物とはいえ、元は『人』。
無念の死を遂げ、死して尚、苦しみにもがいていた者達。
他に方法がなかったとはいえ、このような形でしか彼等を楽にする事が出来なかった事をリーシャは心苦しく感じていた。
「……戻るぞ……」
手を合わせはしないが、黙祷を捧げていたカミュが剣を鞘に収め、森へと歩き出す。リーシャを促すように袖を引くメルエに苦笑を浮かべながらも、リーシャはその後を追った。
「はぁ……はぁ……お、遅くなりました」
三人が野営地に戻り、夕食の準備をしている頃に、ようやくサラが戻って来た。
バハラタの町から走って来たのだろう。息を切らしながらも、重そうに担いでいる袋を見て、リーシャは驚いた。
「おお、ご苦労様。ん?……『黒胡椒』は一袋ではなかったか?」
「あ、はい。新しく収穫出来た物も頂きました」
リーシャの問いかけにサラは若干顔を曇らすが、リーシャはそれに気付かず、思わぬ貰い物を素直に喜び、革袋の中身をメルエと共に覗き込んでいた。
しかし、そのような意味の含まれている物に対し、カミュが気付かない訳はない。サラの表情の変化と、倍に膨れた謝礼に対し、何の感情も見えない表情のまま黙々と野営の準備を進めていた。
「これだけあれば、『船』が買えるんじゃないか?」
「…………うみ………いや…………」
革袋の中身を見て、リーシャはその量に驚く。『黄金一粒に匹敵する』と云われている物の量を見て、自分達が欲している物の価値と照らし合わせたのだ。
そんなリーシャの呟きに、同じように覗き込んでいたメルエの頭の中に『船=海』という公式が浮かび、あからさまに顔を顰める。
「……ポルトガ国王次第だな……」
「それでも、不当に安く買い取られる事は無いのではないでしょうか?」
溜息混じりに吐き出したカミュの言葉に、サラが疑問を呈する。
しかし、そんなサラの疑問に対し、カミュは更に大きな溜息を吐き出した。
「これだけ色々な国や町を見て来て、まだそのような事を言えるアンタの頭を疑いたくなるな」
「な、なぜですか!?」
呆れを交えた溜息を吐き、視線をサラへと向けたカミュの言葉に、サラは驚く。
カミュがこのような言葉を吐き出す相手は、大抵はリーシャだった。ルビス教に関して以外は、カミュはサラの意見を否定する事は少なかったのである。
『黒胡椒』はポルトガ国王の依頼で手にいれた物。そして、世界中でも『黄金一粒と同等の価値がある』と云われている程の物なのだ。
それを不当に安く買い叩けば、それこそ国家の威信に拘わる事になる。そう考え、サラは言葉を発したのだ。
「相手は、俺達が欲している物を知っている。『黒胡椒』にどれだけ価値があろうと、それは買う人間が決める事だ。例え、俺達が他国に『黒胡椒』を売りつけたとしても、全て売り捌く事は不可能。そして、船を購入するにしても、船を手に入れる事が出来るのはあの国だけだ」
「……足下を見られるという事か?」
カミュの言葉の意味を理解したリーシャが、『黒胡椒』の入った袋の口を閉じ、カミュに問いかける。カミュは、それに対して静かに一つ頷いた。
「し、しかし、相手は一国の国王様ですよ!?」
「……国王だからこそだ……」
カミュから言わせれば、サラの考えはまだまだ甘いのだ。
『人』を信じるのは勝手だ。だが、全ての『人』が自分の思い描いた枠に嵌まっている訳ではない。それは、サラも理解しているだろうが、サラの考えている【枠を飛び出ている『人』の数】と、カミュが考えている【枠に入っている『人』の数】では、そもそも雲泥の差があるのだ。
「まぁ、それはここで考えても仕方がない事だろう? それよりも、食事を終えたら、このまま<ルーラ>でポルトガへ向かうのか?」
カミュとサラの考え方の相違は、一日や二日で解決できる物ではない。それ故に、リーシャは話題を変える事にした。
食事の用意が出来ている以上、それを食した後に<ルーラ>を使用すれば、朝になる前にはポルトガに着けるかもしれないと考えたのだ。
しかし、そんなリーシャの考えは、問いかけた相手ではなく、意外な所から否定される事となる。
「…………ノル……ド…………」
「ん?」
自分の袖を引き、何かを期待するように見上げるメルエの言葉をリーシャは聞き返す。それは、この場所で再び聞く名前ではなかったからだ。
それも、この幼き少女からは。
しかし、メルエにとってその人物は、小さな身体にも拘らず、大岩で出来た壁を破壊するような、カミュやリーシャと同等の『強き者』であり、メルエに無償の笑顔を向けてくれる『心優しき者』だった。
「ふふふ。そうだな。ノルド殿にもう一度お礼を言いに行こうか?」
「…………ん…………」
そんなメルエの気持ちを察したリーシャはにこやかに微笑み、帽子を取ってメルエの頭を優しく撫でる。その暖かな掌を受け、メルエは目を細めた。
リーシャは、自分の手を受けて柔らかく笑みを作るメルエの心を嬉しく思った。それが何故なのかは解らない。ただ、何者にも先入観を持たない、この幼く純真な瞳を誇らしく思ったのだ。
「あの抜け道に行くという事は、ここから歩いた方が良さそうですね」
「……ああ……」
二人のやり取りを優しく見守っていたサラは、目的地への行き方をカミュに問い掛け、その問いにカミュは頷きを返した。
サラの言うように、カミュやメルエが行使する<ルーラ>という呪文は、目的地を描く明確なイメージが必要となる。故に、ノルドの暮らす<バーンの抜け道>のような森の中にある場所へ行く事は難しい。
森は基本的に木々の集合体であり、その場所を特定する事が難しい為だ。
「よし。そうと決まれば、今日はゆっくり休め」
方針が決まった事で、リーシャはメルエを寝かし付ける。背中を優しく撫でられながら、メルエはリーシャの膝の上で眠りに就いた。
最初の見張りはリーシャという事になり、サラとカミュも身体を横たえる。
夜の闇は濃くなり、月明かりと赤々と燃える焚き火が見守る中、一行はまた一つ夜を明かして行く。
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
今年は、なんとかあの場所までは行きたいと思っています。
正直、この物語を描き始めて、2年以上の月日が流れました。
完結に向けて、これからも頑張って参ります。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。