新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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戦闘⑥【ポルトガ領海】

 

 

「ふふふ。メルエ、そんなに身を乗り出すと、海に落ちてしまうぞ」

 

「…………ん…………」

 

 風に飛ばされないように既に帽子を取っているメルエは、船の手摺りから身を乗り出し、髪を風に靡かせながら、目の前に広がる大海原に目を輝かせていた。

 彼女にとって何もかもが初めての事。それはリーシャもサラも、そしてカミュに関しても同じであるが、知識としてなかった分、メルエはその全てに感動を覚えていた。

 船員が用意してくれた木箱の上に乗り、手摺り越しに見える景色は、メルエの世界を一変させるものだったのだ。

 

「……うぅぅ……おぇ……」

 

「サラ! 吐くなら向こうでしろ!」

 

 そんな清々しい空気の横で、船の揺れによって平衡感覚を狂わせたサラが苦しそうに息をしていた。

 そんなサラの様子にリーシャは顔を顰め、まるで追い払うように手を払う。

 

「ははは。まぁ、最初だけだ。直に慣れるさ」

 

「……うぅぅぅ……」

 

 船員達に指示を出していた頭目が、サラの方へ視線を送り、笑いながら声をかける。頭目の言葉を聞いているのかいないのか、サラは余裕なく口元を押さえながら蹲っていた。

 そんなサラの様子にリーシャは苦笑を洩らし、視線を自分達のリーダーへと動かす。

 

「カミュ、まずはどこへ向かうんだ?」

 

「……」

 

 メルエの様子を気にしながらも、カミュへと問いかけたリーシャの言葉は、沈黙という形で返される。ここ最近は面倒そうではあるが、誰の問いかけに対してもしっかりと返答をしていた筈のカミュの態度を不思議に思ったリーシャは、立ったまま前方を見つめているカミュの視線を追った。

 

「塔?」

 

「……アンタにもそう見えるか……?」

 

 カミュの視線の先には、小さくはあるが何層かに建てられた塔が見えていた。

 ポルトガ港から真っ直ぐ南に進んだ場所に見える大陸の先端に位置する場所。そこに、ひっそりと建てられた塔があった。

 

「あれか? あれは、一応灯台の役割を担ってはいる塔だ」

 

「誰かいるのか?」

 

 二人の会話を聞いていた頭目の言葉に、カミュは疑問を持った。

 灯台としての役割を担うのであれば、夜に火を灯さなければならない。

 つまり、その為の人間が必要となる。

 

「ああ……どうだろうな……確かめた事はないからな」

 

「カミュ、どうする? 行ってみるか?」

 

 頭目の答えを聞いたリーシャがカミュへ伺いを立てるのを見て、カミュは軽く口端を上げた。

 本来であれば、寄る必要などない。それはリーシャも考えているのだろう。それでも、海へ出たばかりの自分達にとって、どこに行けば良いか、どこへ向かうべきなのかが定まっていないのも事実。

 目を輝かせて海という未知の物を眺めているメルエや、船酔いに苦しんでいるサラよりも、リーシャはその事に不安を覚えていたのだろう。メルエやサラを心配させないように表には出さずとも。

 

「あの大陸に船を付けられるか?」

 

「ん? ああ。陽が落ちてからにはなるが大丈夫だ」

 

 カミュの問いかけに答えた頭目の言葉で、彼らの第一目的地が確定した。

 『頼む』というカミュの返答に、満足そうに頷いた頭目は、船員に指示を出すために甲板を歩き出す。リーシャもまた、流石に放っておけなくなったサラの様子を見にカミュの傍を離れて行った。

 

 

 

 頭目の予測通り、船が大陸の傍に船をつけて錨を下したのは陽が落ち、辺りを闇が支配した頃だった。

 小舟を下ろし、乗り込んだ四人は、岸へと向かう。目の前に立つ小さな塔の頂上には炎による明かりが赤々と灯されていた。

 小舟を近くの木に結びつけ、歩き出した一行の速度はとても遅い。何故なら、歩く度にメルエが立ち止まってしまうのだ。

 打ち寄せる波、海水を含んだ砂浜。その砂浜に打ち上げられた海草や、砂浜を住処とする小動物達。

 その全てがメルエにとって初めて目にする物。

 

「……」

 

「メルエ、もうそろそろ行こう。そういう物はこれからたくさん見る事が出来る」

 

「…………ん…………」

 

 溜息を吐きながらも何も言わないカミュに代わって、手を引いていたリーシャがメルエを窘める。

 以前遭遇した<軍隊がに>とは違う、小さな蟹を見ていたメルエは、残念そうに眉を下げてリーシャの手を握った。そんなメルエにサラは苦笑を洩らす。

 

「メルエも色々と見たいでしょうし、今晩はこの辺りで野営を行いますか?」

 

「それは、まだ船酔いから回復しないサラの為ではないのか?」

 

「ふぇっ!?」

 

 野営を提案するサラは、リーシャから予想外の攻撃を受ける。それは予想外ではあったが、事実でもあった。

 実際、ようやく揺れない大地に足をつけ、『ほっ』と一息をつけたサラは、とてもではないが、歩き出せる程の体力は戻ってはいなかったのだ。

 

「そ、そんなことは……」

 

「カミュ、どうする?」

 

「……わかった」

 

 必死にリーシャの言葉を否定しようとするサラの言葉を無視し、リーシャはカミュへ伺いを立て、カミュは大きな溜息を吐き出した後に了承した。

 それを見て、サラは安堵の表情を浮かべ、メルエの瞳は輝き出す。

 

「…………ありが……とう…………」

 

「ふぇっ!? い、いえ。私も休みたかったですから」

 

 自分の為に提案してくれたと感じたメルエがサラに頭を下げるが、サラの胸には罪悪感しか浮かばなかった。

 リーシャの言葉通り、自分が休みたいが為にメルエを出しにしたのだ。そんなサラの言葉を聞いても笑顔を向けるメルエに、サラは苦笑を浮かべるしかなかった。

 

 一行が海の見える森の入り口で野営の準備を始めた頃、彼らの船の船員達も食事を取り始めたのだろう。海に浮かぶ大型の帆船から煙が立ち上り始めていた。

 波の音と靡く潮風。それを肌で感じながら、海で取れる貝や小魚を焼き、カミュ達も食事を取る。

 食事を取った後も海の近くに出て色々な物に目を輝かせるメルエも、完全に闇が辺りを支配した頃には眠そうに目を擦り始め、リーシャの誘いのまま眠りについてしまう。見張りをリーシャが請け負う事となり、カミュとサラも眠りについた。

 

 

 

「カミュ! 起きろ!」

 

 カミュはそんな切羽詰まった声によって強引に引き戻された。まだ見張りの交代の時間には早い。

 そして、もし魔物が現れていたとしたら、その気配に気がつかないカミュではない。

 

「……なんだ……?」

 

「サラがいない!」

 

 ゆっくりと身体を起こしたカミュに降り注がれる怒声。それは、リーシャの心の余裕のなさが窺える物だった。

 そんなリーシャに向けてカミュはもはや彼の代名詞ともなりつつある大きな溜息を吐いた。

 

「……またアンタは寝ていたのか?」

 

「ち、違うぞ! 少し席を外している間にサラがいなくなっていたんだ!」

 

 目を細めて責めるように問いかけるカミュの言葉に、リーシャは慌てて反論を返す。若干焦りが窺えるが、言葉に嘘はない。

 用を足して戻って来たらサラがいなかったといったところなのだろう。

 

「騒ぐな……メルエが起きる」

 

「あっ!? す、すまない」

 

 焦りから大きくなっているリーシャの声を窘め、カミュは周囲を見回した。

 正直に言えば、カミュから見て、『賢者』となった件の女性は、既に心配の対象からは外れている。リーシャの心配が過剰なのだ。

 もはや彼女の槍の腕は、生半可な魔物では太刀打ち出来ない物となっており、攻撃魔法までも使用可能となった存在に対し、何の心配をする必要があるのかをカミュはこの年長者に問いかけたいぐらいだった。

 

「……心配はないと思うが……アンタは聞かないだろうな」

 

 それでも、顔を青くしている心優しい『騎士』に苦笑を洩らし、カミュはゆっくりと立ち上がった。

 よくよく考えれば、カミュに告げる事なくサラを探しに行けば良いのだ。メルエが眠っている以上、カミュとリーシャの二人が探しに出る訳にはいかない。

 

「カミュ! 何か知っているのか?」

 

「……こういった時に行くとすれば、メルエと同じ理由だろう」

 

 カミュが立ち上がり、剣を背中に付けた事に、リーシャも顔を上げた。

 しかし、カミュの口にした理由には思い当たる事がなく、首を傾げる。

 

「サラも何か珍しい物を見つけたのか?」

 

「……アンタの頭は本当に特定の場面にしか回転しないのだな……」

 

「な、なんだと!?」

 

 全く見当違いの見解を口にするリーシャに、カミュは盛大な溜息を吐く。それは、リーシャの頭に血を登らせるのに十分な言葉だった。

 瞳に若干の怒りを滲ませるリーシャにもう一度溜息を吐いたカミュは、焚き火の火を移した<たいまつ>を手にする。

 

「アンタはここで待っていてくれ。メルエを一人にする事は出来ない」

 

「あ、ああ。わかった。サラを頼む」

 

 カミュを起こした以上、自分かカミュが探しに行く事になる事は理解していたのだろう。渋る様子もなく、リーシャはサラをカミュへと託した。カミュは一度頷くと<たいまつ>を手にしたまま森の奥へと入って行く。

 

 

 

 

 

「……やはり無理なのでしょうか……」

 

 その頃、森の中で若干開けた場所に座り込み、サラは大きな溜息を吐いていた。

 サラの手にはメルエから借りたカミュの持っていた『魔道書』。

 そして彼女の下には奇麗に描かれた魔方陣。

 それらが、彼女の行動を雄弁に物語っていた。

 

「……アンタはメルエか?」

 

「ひゃぁ!!」

 

 溜息を吐き、項垂れるサラの後ろから突然掛った声に、文字通りサラは飛び上った。飛び上った後に、腰でも抜かしたように座り込むサラに、カミュは大きな溜息を吐く。

 

「……霊魂が苦手ならば、夜中に一人で出歩くな……」

 

「カ、カミュ様!」

 

 <たいまつ>の明かりと共に現れた人物が特定できた事に、サラは安堵の溜息を吐く。そして、自分の状況を再確認し、居心地悪そうに下を向いてしまった。

 おそらくカミュには自分の状況が理解できているのだろう。

 

「……契約が出来ない訳ではないのだろう……?」

 

「ふぇっ!?」

 

 恥じるように下を向くサラに、カミュは問いかける。その声は、サラが想像していたような冷たい物ではなかった。

 相手を慮るような温かみを帯びている。そんなカミュの言葉が掛るとは考えていなかったサラは、素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「は、はい! で、ですが、行使ができま…せ……ん……」

 

 ようやくカミュの言葉を理解したサラの返答は消え入る程に小さく、夜の帳が降りる森の木々に溶けて行く。それに対して、もう一度溜息を吐いたカミュは、サラの描いた魔方陣を確かめた。

 

「……ヒャドか……」

 

「は、はい。ですが、<ヒャド>だけではありません。<メラ>も……<スカラ>も」

 

 魔方陣の中身を把握したカミュの呟きは、サラを苦しめる。

 そして、それはサラの返答に掌握されていた。

 しかし、それが全てではない。

 次のカミュの言葉に、サラは文字通り言葉を失った。

 

「アンタは今、『経典』に記載されている魔法は行使出来るのか?」

 

「!!」

 

 その言葉は、サラの胸に深々と突き刺さった。

 実は、バハラタの町から<バーンの抜け道>までの戦闘でもサラは魔法を行使していない。攻撃魔法はメルエに任せてあったし、回復魔法が必要な怪我などをカミュ達が負う筈もない程に魔物との力量差は離れていた。故に、サラが魔法を行使する場面はなかったのである。

 しかし、それは単純に『行使しなかった』のではない。正確には、『行使ができなかった』のだ。

 サラは未だに自分の中に渦巻く濁った魔法力に戸惑い、それを制御する事が出来ていなかった。

 

「……やはりか……」

 

「……」

 

 カミュは自分の予想通りの結果であったのか、サラの瞳を見た後、傍に落ちている『魔道書』を拾い上げ、土を払うように軽く叩いた。

 その様子にサラは何とも言えない罪悪感に苛まれ、俯いてしまう。

 

「カ、カミュ様は……カミュ様はどのように神魔両方の魔法を使い分けているのですか?」

 

「……アンタの場合は、使い分け以前の問題だ」

 

「うぐっ!」

 

 サラの意を決しての問いかけは、カミュにばっさりと斬り捨てられた。久々に味わうカミュの冷たい一言に、サラは言葉を飲み込んでしまう。カミュの言うとおり、サラは今、使い分けどころか、呪文の行使も出来ていない。

 いや、正確には呪文の詠唱は出来るが、魔法の発現が出来ていない。つまり、最初にカミュが掛けた言葉の通り、以前のメルエのような状況に陥っているのである。

 

「……アンタは何から何まで考え込み過ぎだ。アンタの中でどのような形で見えているのかは解らないが、それはどんな形であれ、アンタの魔法力だ」

 

「は?」

 

 言葉に詰まり、再び下を向いてしまったサラに対し、カミュは盛大な溜息を吐きながら助言のような言葉を洩らす。思ってもみなかったカミュの助言にサラは呆気にとられたような表情を浮かべ、<たいまつ>の炎に映し出されたカミュの顔を見上げた。

 

「アンタがどんな者になろうと、それはアンタが生まれ持っている魔法力だ。何をどのように歪めているのか知らないが、何もかもを深く考え込めば良いと言う訳ではない」

 

「ど、どういうことですか?」

 

 呆れたように言葉をつなげるカミュの発言の意味がサラには理解できない。

 カミュが話す内容を彼女が理解できないのも無理はない。今まで一つの系列の魔法しか行使して来なかったサラにはカミュの指し示す道が見えないのだ。

 

「アンタも俺も、魔法について教える事に向いていない事は、メルエで実証された筈だが?」

 

「うっ……」

 

 全く理解出来ないとカミュへと問いかけるサラに返って来たのは、再び冷たく突き放すような物だった。

 確かに、メルエの魔法行使が上手くいかない時に、カミュやサラの助言等は全く役に立たず、それを克服したのはメルエ自身である。それを思い出したサラは言葉に詰まってしまった。

 

「……私はどうすれば……」

 

「メルエにでも教えてもらえ」

 

「……うぅぅ……」

 

 カミュの冷たい返答にサラは泣きたくなった。しかし、サラは気付かない。既にカミュは自分なりの助言はしているのだ。

 カミュとて正確にサラの疑問に答える事など出来はしない。生まれた時から今のサラと同じような神魔両方の魔法力を有していたのだ。

 使い分けなどを意識した事もないし、それを一々思考しながら呪文を行使していた訳でもない。故に、教える事など出来はしないのだ。

 それでも、自分の感じている事を何とか伝えようとしているカミュの努力がサラには見えない。

 もし、これがメルエであれば、リーシャであれば。カミュの努力を感じ、その奥にある意味を何とか理解しようとしたのかもしれない。

 しかし、サラがこのカミュの努力を知るのは、まだ先の事となる。

 

「アンタの不在に血の気が引いている奴がいる。アンタが何をしようと勝手だが、一言告げてから行ってくれ」

 

「……うぅぅ……はい……」

 

 もはやサラの許から離れ、野営地へと戻ろうとするカミュを恨めしそうに睨んだ後、サラは立ち上がる。今夜はこれ以上の契約は無謀である事を悟っているのだろう。

 未だにカミュの背中を恨めしそうに睨んだまま、サラはカミュの後ろを歩き出した。

 

 だが、野営地に戻ったサラは、自分が起こした行動の重みを理解する。カミュの後ろにいるサラを視界に入れたリーシャが心底安堵した表情を見せたのだ。

 その表情に偽り等なく、言葉にこそ出さないが、サラの身を心配してくれていた物だという事が窺えた。

 そんなリーシャにサラは深々と頭を下げる。リーシャはサラに自分が心配していた事も、それに伴う怒りなどをぶつける事はなく、優しい笑顔を向けて微笑むだけであった。

 

 そして、彼らの夜がまた一つ更けて行く。

 

 

 

 翌朝、メルエが目を覚ますのを待って、一行は再び目の前に見える塔へ向かって歩き出す。塔までの距離は然程なく、陽が登りきる前に入り口である門に辿り着いた。

 周囲を吹く風は海の近くの為か、湿り気を帯びており、若干生温かなものだった。

 

「……用意は良いな……?」

 

「はい!」

 

「ああ」

 

「…………ん…………」

 

 入り口を背に振り返ったカミュの言葉に三人が頷きを返す。

 ここまでカミュ達が登って来た塔は三つ。

 <ナジミの塔>、<シャンパーニの塔>、<ガルナの塔>である。

 そのどれもが、今や魔物の住処と化しており、凶暴な魔物達がカミュ達へと襲い掛かって来た。だからこそ、カミュは後ろを歩く三人にもう一度確認したのだ。

 それを理解している三人もまたそれぞれの心を引き締め直し、門を潜る。

 

「カミュ? 気のせいか、私には魔物の気配を感じないのだが……」

 

「リ、リーシャさん。多分気のせいではないかと……私にも感じません」

 

 しかし、一行の予想とは違い、塔内部は邪悪な気配が一切なかった。周囲を覆う石の壁によって海から吹く風も防がれ、快適な温度を保ちながら、その塔は清浄な空気を維持している。

 

「……上の様子は解らないが、確かに魔物の気配は感じない……」

 

 カミュの言う通り、<ガルナの塔>でも一階部分には魔物の気配はなかった。故に、この塔全体が安全とは言い切れないが、それでも塔全体が纏う空気はカミュも感じていたのだ。

 

「とりあえず、上ってみましょう」

 

 サラの言葉にリーシャが頷き、メルエの手を取ってカミュの後を歩き出す。先頭を歩くカミュが上る階段の裏に、鉄格子の扉があった事は誰も気付きはしなかった。

 

 一行の警戒を無碍にするように、その塔に邪悪な気配は一切無く、カミュ達一行は何事も無いまま塔の頂上付近に到達する。そこは中心に大きな炎を灯す燈台が置かれ、昨晩の名残を示すように、炭と化した木材が散乱していた。

 

「ん?……なんだお前達は?」

 

 そしてその燈台の向こうに置かれている椅子に腰掛ける中年の男。海の男に相応しい立派な体躯を持ち、今まで今夜使う薪を割っていたのか、近くには斧と割れた木材が転がっていた。

 

「突然申し訳ありません。先日ポルトガ港から出航した者です」

 

「おお! ポルトガから久しぶりに船が出たのか? 俺の仕事も役立つってもんだ」

 

 面を被ったカミュの返答に、男は嬉しそうな声を上げ、カミュの下へと近寄って来る。余りの勢いにメルエはリーシャの後ろに隠れてしまい、サラは一歩後ろへと下がってしまった。

 

「そうか、そうか。これから海へと出るんだな? お前達は運が良い。まず最初に俺様の所へ来るなんて、運が良いとしか思えんな」

 

「……」

 

 カミュの手を取り、一度握手を交わした後、男はどこか偉そうに口を開く。そんな男の態度にリーシャは何やら不愉快な印象を受けるが、カミュとの約束がある以上、この場で口を開く事を自制した。

 

「いいか、良く聞いておけ。ここから南へ向かって陸に沿って船を漕げば、やがて<テドン>の岬を回るだろう。そして<テドン>の岬からずっと東に行けば<ランシール>。更にはアリアハン大陸が見えて来るだろう」

 

「アリアハン!」

 

 不愉快そうに顔を顰めていたリーシャとサラが、男の話の中にある聞き覚えのある国名に口を揃えて驚きの声を上げる。このような場所で、自分達の故郷の名が出て来るとは思ってもいなかったのだ。

 

「おお。アンタ方はアリアハンの出身か? 船を使わないでどうやってポルトガまで来たのかは知らないが、アリアハン大陸からずっと北へ船で行くと、そこには『黄金の国』と謳われた<ジパング>が見えてくる」

 

「……ジパング……?」

 

 リーシャ達が反応した国名には何の反応も示さなかったカミュだが、男の洩らした単語に反応を返した。

 だがそれは、何も『黄金』という言葉に反応したのではない。『ジパング』という言葉にカミュは聞き覚えがあったのだ。

 

「ああ、まぁ俺様も実際行ったわけじゃないから、『黄金』があるのかどうかは解らないがな。<ジパング>と同様に眉唾物ではあるが、世界のどっかにある六つのオーブを集めた者は、船を必要としなくなるって話だ」

 

「……オーブ……」

 

 カミュ達の疑問を取り合う事なく、男は話を先へと進める。

 どうやら元来、人の話を余り聞く事の無い男のようだった。

 そんな男の話の中に出て来る単語に、サラが再び反応を返す。

 それは、<ダーマ神殿>にて教皇から賜った言葉にあった物。

 

 『六つのオーブ』

 

 それは、伝承として<ダーマ神殿>で代々の教皇に伝えられて行く中、どこかで表に漏れたのだろう。噂というよりは半ば言伝えのようなお伽噺として世界に伝わっていた。

 

「まぁ、とにかく南へ向かって進んでみな」

 

「……貴重な情報をありがとう……」

 

 呆然とするサラを余所に、話を締め括った男にカミュが頭を下げる。カミュにとっても今後の船の進路を左右する貴重な情報と認識したのだ。

 頭を下げるカミュに軽く手を振った男は、散乱する丸太を拾い上げ、再び薪割りを始めた。

 話す事は話し、聞く事は聞いた。もはや、この場所にいる必要はない。

 カミュはそのまま階下へと下りて行く。その後をリーシャに促されたサラが続き、メルエやリーシャも塔を下り始めた。

 

 帰路も魔物との遭遇は無く、無事に塔の入り口に戻ったカミュ達は、そのまま船へと向かって歩き出す。朝に頬を撫でていた潮風は、幾分が強まっており、メルエは帽子を風に攫われないようにしっかりと掴んでいた。

 

 

 

「おい、カミュ! 何か変だぞ!?」

 

「……急ぐぞ……」

 

 海岸に出たカミュ達一行は、沖に錨を下ろしている船を見て何かを感じ取った。リーシャがカミュへ問いかけたように、船の内部が何か騒がしいのだ。

 小さく見える人々は慌しく動き回り、頭目の怒鳴り声のような叫びが遠く砂浜まで響いていた。

 急ぎ、小船を結ぶ紐を解き、海へと浮かべたカミュは、リーシャ達を乗せ沖へと漕ぎ出す。船へと近付く程その喧騒は大きくなり、カミュ達が船の下に着いた事を確認した船員の叫び声によって、カミュ達は急ぎ船へと上げられた。

 

「何かあったのか?」

 

「おお! 早めに戻ってくれて助かった。一度ポルトガへ戻ろう」

 

「なに!?」

 

 頭目に状況を確認しようと声を掛けたカミュに返した頭目の言葉は信じられない物だった。

 その内容にリーシャは思わず声を上げ、サラは目を見開く。メルエは何が何やら理解できず、リーシャ達を見上げて小首を傾げていた。

 

「……どういうことだ……?」

 

「何やら海がおかしい。昨日までは特に何でもなかったが、今朝方から潮風が湿り気を帯び過ぎている。案の定、風も強まって来た。こういう時は嵐が来る。この船なら嵐も乗り切れるとは思うが、まだ旅は始まったばかりだ。無理をする必要はないだろう」

 

 周囲の船員に指示を出しながらカミュに答える頭目の顔に焦りは見受けられない。彼の言葉通り、この船に対する心配はないのだろう。だが、最善を考え、港に一度戻る事を提案しているのだ。

 

「嵐となれば、最低二日は続く。そうすれば、進路を取るのも難しくなる」

 

「……わかった……アンタに任せる」

 

 『カミュ達の旅を最優先に考える』

 港を出る時の彼の言葉に嘘はなかった。

 彼なりに今後の船旅の事を考えての物なのだ。

 それが理解出来たからこそ、カミュは全てを頭目へと託す。

 そしてそれはリーシャ達も同様で、驚きはしたが反対をする事は無かった。

 

「ありがとうよ。よし、野郎共、出航だ!」

 

 頭目の掛け声と共に、船員が各々の仕事を始め出す。瞬く間に帆を張り終え、錨を上げた船は、強まった風を受け大海原へと進み出した。

 目指すは<ポルトガ港>。昨日出港した港へ戻る事にはなるが、その事に不満は無かった。

 実際、塔から出た頃よりも風は強くなっている。空を見上げれば、まだ陽が沈むには早い時間にも拘わらず、黒く厚い雲に空が覆われ始め、陽の光が海に届かなくなっていた。

 

「急げ! 雨が降り出したら間に合わなくなるぞ!」

 

 頭目の掛け声が甲板に響き渡る。慌しく動き回る船員達。

 そんな中でもカミュ達四人は何も出来ない。船に関しては全くの素人と言っていい彼らは、ただこの船の船員達を信じて委ねる事しか出来なかったのだ。

 船は行きの速度よりも速く大海原を駆ける。厚い雲により陽の光が届かなくなった前方に微かに大陸が見え始めた頃、それは現れた。

 

「くそっ! 何だってこんな時に!」

 

「下がれ! こいつらの相手は私達の仕事だ!」

 

 船の目の前に現れた物に悪態を付く頭目の言葉を遮って、<鉄の斧>を握り締めたリーシャが前へ躍り出た。それと共に、作業をしていた船員達が後方へと下がって行く。

 入れ替わりにカミュ達三人がリーシャの後ろに位置を取り、各々の武器を身構えた。

 

「グモォォ」

 

 風によって荒れ始めた海の波に乗り、甲板へと上がって来たのは二体の魔物。

 その姿はというと上半身は人型、下半身は魚という物。

 

<マーマン>

古来より海に生息する魔物であり、『半魚人』として海に生きる者達の脅威となって来た魔物である。海へと出て来る船を座礁させ、その乗員達を食す魔物で、力こそ強くはないが、集団で襲いかかって来る事が多い。

 

「カミュ! 右の奴は任せた!」

 

「……わかった……」

 

 二体の<マーマン>に対し、左右に分かれるようにカミュ達が飛び出して行く。後方ではメルエが<魔道士の杖>を掲げ、いつでも呪文を詠唱できるように待機している。だが、その横で、サラは落ち着きを失っていた。

 ここまで遭遇して来た魔物は、一度対峙した事のある魔物ばかり。故に、その対処方法もカミュ達は知っており、サラの補助呪文が必要になる事も無かったが、今の状況は全く違う。

 未知の魔物に、未知の場所。相手がどのような攻撃をして来るのかも分からず、相手がどのような身体能力を持っているのかも分からない。

 そのような状況でも、サラには呪文を完成させる自信がなかったのだ。

 

「やぁぁぁ!」

 

 リーシャが一体の<マーマン>に斬り掛かる。辛うじて避けた<マーマン>だったが、<鉄の斧>の鋭い刃先は、<マーマン>の片腕を深々と抉り、弾き飛ばした。

 リーシャの剣速は既にこの海の魔物でさえも対処出来ない程の物となっている。それは、彼女が『人』としての枠をはみ出し始めている証拠。

 

「グォォォ」

 

 空中を舞う自分の片腕を見て、<マーマン>が叫び声を上げる。その声は脳に直接響いて来る程に大きく、船員達は思わず両耳を塞いだ。

 それは、メルエも同様で、思わず耳を塞いでしまったメルエには決定的な隙が生じてしまったのだ。

 

「!!!」

 

 サラは自分の横で信じられない光景を目にする。声にならないような叫びを上げたメルエが、そのまま甲板へと倒れ込んだのだ。

 まるで、糸の切れた人形が崩れて行くように。

 

「メルエ!」

 

 名を叫び、倒れたメルエを見つめるサラは絶句した。

 甲板に横たわったメルエの瞳は白目を剥き、口からは泡を吹き出し始めていた。身体は小刻みに痙攣を繰り返し、その度に口から泡が零れ出す。

 慌てて周囲を見ると、何時の間にそこに居たのであろうか、メルエの立っていた船の手すりの傍に、白いスライム状の魔物がふよふよと浮いていたのだ。

 その姿は以前遭遇した<ホイミスライム>に酷似しており、白いスライム状の身体の下から無数の触手が飛び出している。

 

<しびれくらげ>

海を住処にするスライム状の魔物。くらげの一種が変異し魔物になったとも云われている。その身体から伸びる触手の先には猛毒が宿っており、それに刺された者は、全身の痛みを受け、身体を痙攣させながら麻痺に陥るのだ。それは、最悪『死』にも直結する程の物であり、教会が所有する『経典』の中の解毒呪文である<キアリー>でも解毒が難しい物であった。

 

「メルエ!」

 

 一体の<マーマン>を倒し終えたリーシャが、戻り際に空中に漂う<しびれくらげ>を一閃する。真っ二つに斬り裂かれた<しびれくらげ>はその湿った体躯を甲板へ落とし、何とも不快な音を立てた。

 

「サラ! メルエは!?」

 

 メルエの傍へと駆け寄ったリーシャはそこで言葉を失った。

 白目を剥き、泡を吹いて痙攣を繰り返すメルエに絶望を感じたのかもしれない。泣き出しそうな瞳を、縋るようにサラへ向けたリーシャの視線に、サラは思わず下を向いてしまった。

 今のサラに魔法を使う自信は欠片も残っていないのだ。

 

「サラ……お前は『賢者』ではないのか……?」

 

「!!」

 

 そして、哀しい瞳を向けるリーシャの言葉が、サラの心を深く抉る。それは、自分自身が最も聞きたくは無い言葉だった。

 神魔両魔法を行使できる存在であり、『経典』にも『魔道書』にも載らない呪文を行使できる存在。

 それが『賢者』。

 しかし、今のサラは、そのどちらの魔法も行使する事が出来ないのだ。

 

「……メルエは……?」

 

 そこにもう一体の<マーマン>を倒し終えたカミュが戻って来た。

 メルエの状況を見て、目を見開き、唇を噛み締める。

 そして、サラに向かって射抜くような視線を向けた。

 

「……カ、カミュ様……」

 

「アンタに行使出来ぬ呪文等ない! アンタ自身の問題だけだ! その魔法力はアンタが生まれ持った物であり、アンタが『賢者』となったから宿った物でもない。頼む、メルエを救ってくれ」

 

 縋るように向けたサラの視線。

 それに対し発したカミュの言葉は、決してサラを責める物ではなかった。

 

 そして、初めて自分に向けられたカミュの頼み。

 

 それが、サラの心に火を点けた。

 サラが開いた『悟りの書』の最初のページに載っていた魔法陣。

 その契約は既に済ませてある。

 後は、その詠唱を行い行使するだけ。

 

 サラは胸に手を合わせ、その呪文を紡ぎ始めた。

 印を結び、高らかに手を上げる。

 既に船の上を覆う黒い雲からは大粒の雨が降り始めていた。

 風は強く、船をも大きく揺らし始める。

 サラの心の中を投影したような荒れた天候の中、その詠唱は完成した。

 

「キアリク」

 

 詠唱と共に、サラの両手を暖かな光が包み、翳していたメルエの身体を包み込む。メルエの全身を光が覆った頃、メルエの身体の痙攣は治まり始め、白目を剥いていた瞳は優しく閉じられた。

 

 サラはそこで初めて知る事となる。あの夜、カミュが自分に伝えたかった意味を。

 サラは、自身の中に渦巻く濁った魔法力に戸惑っていた。

 『経典』の呪文を行使する事が出来るような、例えるなら白色の魔法力でもなく、『魔道書』の呪文を行使するような、サラのイメージであるならば黒色の魔法力でもない。故に、自分の呪文詠唱による魔法の発現が明確に想像できなかったのだ。

 しかし、それは大きな間違いだった。カミュがあの時言ったように、サラの中で渦巻く魔法力は、あの<ダーマ>で生まれた物ではない。

 

 それよりもずっと以前から。

 それは、サラが生れ落ちた時からサラの肉体に宿っていた魔法力。

 その性質が変化しただけの事。

 

 魔法力とは、成長によってその量を増やす事はあるが、外部から強制的に体内に入れ込む事は不可能なのである。それは生まれ持った才能であるが故。

 人それぞれ、量も質も、その色さえも違う魔法力が、変化する事があっても違う物を埋め込む事は出来ないのだ。

 

 それをあの時カミュは語っていた。

 今、渦巻いている魔法力は、元々サラの体内にあった物。

 サラが『経典』の呪文を行使しようとすれば、その色に変化し、『魔道書』の呪文を行使しようとすれば、それもまた変化する。

 今、目の前に横たわるメルエの呼吸が落ち着いて行くのを見て、サラはそれをはっきりと認識する事となる。自分の中にある魔法力が<キアリク>を唱え、メルエの身体に光を降り注ぐ時、サラの体内の魔法力の質が変化していた。

 

「……ありがとう……」

 

「……カミュ様……」

 

 自分が成した事に茫然とするサラに、カミュは頭を下げた。そんなカミュの姿にリーシャはようやく笑顔を見せ、涙を流す。

 自我を取り戻したサラの瞳から大粒の涙が溢れ出し、叩きつけるような物に変わった雨も混ざり、彼女の顔を濡らし続けた。

 

「うわぁぁぁ! な、なんだ、ありゃぁ!」

 

 メルエの呼吸も落ち着きを取り戻し、一行の間に安堵の空気が漂い始めた時、後方で突如声が上がる。風も強まり、船の揺れも酷くなって行く中、風だけの影響ではない大きな揺れが船を襲った。

 

「あ、あれは……」

 

 視線をカミュの後方に移したサラは、信じられない光景を目にする。

 今にも船全体を覆い尽くそうとする長く粘着性のある足を高々と掲げ、その瞳は船の甲板で動く乗員達の身体を強張らせるに十分な程の強い殺気を放っている巨大な魔物が出現していたのだ。

 

「カミュ!」

 

「……メルエを抱いて後ろに下がっていろ……」

 

 後方の魔物を振り返る事なく、カミュは一度優しくメルエの頭を撫で、リーシャに指示を出す。その指示はリーシャが納得できる物ではなかった。

 今見える魔物の巨大さは、決してカミュ一人で何とかできる物ではないのだ。

 

<大王イカ>

その名の通り、『いか』の化け物である。その体躯はある程度の大きさの船をも一握りで潰してしまう程の巨大さを誇り、航海に出た船を何隻も海の藻屑と変えて行った。特殊な能力等何もない。それでも、海の上という自由の利かない場所で遭遇した『人』には、その巨大な体躯から繰り出される暴力に抗う術はないのだ。

 

「カミュ! 私も出るぞ!」

 

 カミュ一人だけを行かせるつもりはない。それをリーシャは伝えようと叫ぶが、カミュはその叫びに対して静かに首を横に振った。それは有無も言わさぬ程の拒絶。

 しかし、それはアリアハン出た頃のような冷たい拒絶ではなく、むしろ何かを感じ取れるような優しい拒絶であった。

 

「アンタは船員達の全員を俺の後ろに移動させてくれ。決して俺の前に出て来るな」

 

「……わかった……」

 

 呟くようなカミュの呟きを聞いて、リーシャは了承するしかなかった。

 カミュの呟きに込められた想い。それは久しく見なかった、明確な『怒り』の感情だった。

 静かに燃える『怒り』を瞳に宿したカミュが、もう一度メルエの頭を撫でた後、立ち上がり、魔物へと振り返る。

 

「全員をカミュの後ろに移動させてくれ!」

 

「わ、わかった。野郎共! 下がれ!」

 

 リーシャの指示を受け、頭目が船員全てに退避勧告を出す。それに従い、腰が抜けた仲間を担ぎ、怯える仲間を叱咤し、皆が一斉に甲板の奥へと移動して行く。

 船員達が通り抜けて行く姿に視線を向ける事もせず、カミュはゆっくりと船首へ向かって歩いて行った。

 

「あ、あいつはどうするつもりなんだ?」

 

「わからない。だが心配するな。カミュがああ言う以上、私達が考える必要などない」

 

 一人で<大王イカ>へ向かうカミュの背中を眺めながら言葉を発した頭目の疑問に、リーシャは自信を持って答えた。

 そこにあるのは『信頼』。

 彼ら四人が、この一年半以上の期間を旅しながら築いて来た確かな『絆』。

 それを聞いた頭目の顔から不安が消えて行く。

 

 サラは巨大な<大王イカ>よりも大きく見える『勇者』の背中を眺めていた。

 サラにもリーシャと同じように、カミュのしようとする事が解らない。それでも、カミュがあのように言った以上、自分達が出来る事は何もない事を知っていた。

 それは、迫り来る<大王イカ>の前に立ち、背中の剣も抜こうとしないカミュの姿を見て確信に変わって行く。そして、先程カミュが自分に言った言葉を思い出していた。

 

 『アンタが行使できぬ魔法はない』

 

 それは嘘だ。

 『賢者』となったサラは、確かに『経典』と『魔道書』の呪文、そして古の賢者が編み出した魔法を行使できる才を持つ。

 だが、彼女にも使用できない呪文は存在するのだ。

 

 それは、古代の英雄が残した遺産。

 それは世界中に散りばめられ、一時代に一人しか行使できない物。

 『勇者』のみが行使できる英雄の呪文。

 

「全員が移動したぞ!」

 

「よし! カミュ! 移動が完了した!」

 

 頭目の言葉を受け、カミュに向かって叫ぶリーシャの声が甲板に木霊する。それに頷きを返す事もせず、カミュは天に向かって右腕を高々と掲げた。

 人差し指を突き出すように天へと向けたカミュの姿は、サラにはとても神々しい物に映る。

 

「グモォォォォ」

 

 <大王イカ>の足は既に甲板へと侵入を始めていた。まだカミュには届いていないが、それも時間の問題と思われた時、周囲の空気が変化する。

 その変化は周囲を満たし、リーシャやサラの身にも突き刺さる程の威圧感を与えていた。

 

「……す、すごい……」

 

「……カミュ……」

 

 カミュを取り巻く魔法力が放出され始める。それは、カミュが今まで行使して来た魔法の時とは比べ物にならない程の物だった。

 天を覆う真黒な雨雲の中を光が駆け巡り始める。

 それは、『天の怒り』。

 カミュの心と同じような静かな怒りを表明するように、その光は厚い雲を突き破り周囲を明るく照らし始めた。

 

 そして、全ての音と光が失われる。

 

「ライデイン!」

 

 詠唱の言葉と共にカミュの指が真っ直ぐ<大王イカ>へと振り下ろされる。それと同時に凄まじいまでの轟音を轟かせて、眩いばかりの光の矢が天から降り注いだ。

 

<ライデイン>

この世界の中にある唯一の電撃系魔法。古来より、神の怒りとして恐れられていた雷を自在に操る物。古代の英雄が、『精霊ルビス』を通して神との接触に成功し、その技を授かったと伝えられている。その威力は全ての物の命を根こそぎ奪い取ると言われる程で、英雄となった者の中でも限られた者にしか行使する事が出来ない物だった。

 

「グモォ……」

 

 天から降り注いだ神の槌は、<大王イカ>の身体を正確に貫き、その命を奪い取る。真黒に焦げきったその身体は、ずるずると海へと戻って行った。

 

「うぉぉぉぉ!」

 

 海の最大の脅威と恐れられた魔物が一瞬の内に撃墜された事に、船員達から天突く程の歓声が沸き上がる。

 未だに海は荒れ、船は大きく揺れながら進路を外していたが、それでも船員の心は震え、湧き上がっていた。

 

「……カミュ……」

 

「……これが『勇者』様の呪文……」

 

 今までカミュが行使して来た『勇者』特有の魔法は、正直地味な物が多かった。

<アストロン>や<トヘロス>など補助の呪文しかなかったと言っても過言ではない。故に 、その攻撃呪文の凄まじさに、リーシャは驚き、サラは恐怖した。

 

 世界を救う『勇者』

 その能力は、世界を手中にする事も可能なのではないかと。

 

「流石は『勇者』様だ! だが、もはやポルトガに戻る事は不可能だ。このまま波に任せるしかない」

 

 そんなリーシャとサラの思考は、頭目の言葉で現実へと引き戻された。

 唯一人、カミュの偉業に我を失う事なく、冷静な判断を行う事ができる。それが彼を頭目として立たせている要因でもあり、カミュが信頼を向けている理由でもあった。

 

「……どうする……?」

 

「なぁに、心配するな。あれだけの脅威から護ってもらったんだ。今度は海の男達の仕事さ。どんな事があろうと、この嵐を乗り切って見せるさ。アンタ方は船室で休んでいてくれ」

 

 戻って来たカミュに向けて笑顔を作って話す頭目の言葉は自信に満ちていた。そんな頭目に、カミュの口端も上がって行く。

 お互いに何かを理解しあったような微笑み。それだけで充分だった。

 

「さぁ、野郎共! こっからは俺達の仕事だ! 俺達の船を護りきるぞ! 帆を畳め! 舵を取れ!」

 

「オォォォォォ」

 

 頭目の言葉に応える声。

 それは、先程カミュが行使した魔法が轟かせた音にも負けぬ程の物。

 真っ暗に覆う雨雲を突き抜け、荒れ狂う波を切り開く。

 

 船は荒れ狂う海を超え、その猛威に向かって懸命に抗いながら進んで行く。

 穏やかな出航ではなかった。

 しかし、この新たな旅立ちが、船に乗る者達の心を強く結びつけたのだけは確か。

 そして、暴風雨の闇の中に船は消えて行った。

 

 

 

 

 




読んで頂きありがとうございました。

「悟りの書」に記載されていた魔法の一番目はこの魔法でした。
本来は「僧侶」の魔法ですが、ゲーム中では教会で麻痺の治療が出来ない事から、一般の僧侶では唱えられないのではないかと考えた独自解釈です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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