「もう大丈夫だ。大分流され、ここが何処だかを確認しなければならないが、船に損傷はない。まぁ、魔物に少し手摺を傷つけられたぐらいだな」
夜も明け、海全体を覆っていた黒く厚い雲も晴れた青空が見える甲板で、雨と汗で濡れ鼠のようになった頭目の顔にようやく笑顔が戻った。
周囲に座り込んだ船員達の表情も、疲れこそあれ、どれも仕事をやり切った達成感に紅潮させている。そんな乗組員達の姿に、カミュは薄く微笑んだ。
「……ありがとう……アンタ達のお陰で、俺達はまだ生きる事ができる」
甲板にいる全員に向かって頭を下げるカミュに向けられた物は、船員達全員からの満面の笑顔だった。
カミュに倣い、傍で頭を下げるメルエ。
その横で微笑みながら頭を下げるリーシャ。
そして、船酔いによって顔を真っ白にしながらも無理やり笑顔を作るサラに皆が笑い声を上げた。
「お嬢さんも限界だろう。向こうに陸が見えるから、そこに一度上陸しよう」
サラの顔色を見て笑みを浮かべていた頭目が、目の前に見える陸地を指差し、船の進路をカミュへと訪ねる。一度溜息を吐いたカミュが頷いた事によって、船は陸地へと向かって漕ぎ出した。
「じゃあ、俺達はここにいる。一応、船に損傷が無いか確かめなけりゃいけないんでな。アンタ方はこの辺りを探って、ここがどこなのかを確かめてくれ」
「……わかった……」
錨を下ろし、小船を海へと着水させる際に頭目が告げた言葉を聞いたカミュ達は一つ頷き、陸地へと小船を走らせた。
頭目としてもある程度の見当は付いているのだろうが、正確な情報があるに越した事は無いと考えたのだろう。小船は浅瀬を抜け、砂浜へと打ち上げられた。
サラとメルエを乗せたまま、カミュとリーシャによって陸地へと引き上げられた小船は近くの太い木に結び付けられる。
「カミュ、どうするんだ?」
「……とりあえず、周辺を歩いてみるしかないだろう……」
小船からメルエを抱き下ろしながら尋ねたリーシャに、カミュは素っ気無く答えを返す。ようやく揺れない陸地へと足を乗せたサラは、安堵からなのか、その場に座り込んでしまった。
船酔いを知らないメルエは、そんなサラを不思議そうに眺めた後、心配そうにサラへと近づいて行く。
「…………サラ………いたい…………?」
「えっ!? あ、いえ、大丈夫ですよ」
心配そうに自分を覗き込んで来るメルエに、サラは苦笑を浮かべる。このパーティーの中で船酔いを感じているのは自分だけ。
それがとても情けなく、『また自分が足を引っ張っている』という想いを強くしてしまう。
「サラ、気にするな。船酔いはどうしようもない事だ。気分が良くなるまで少し休もう」
「……すみません……」
幸い、まだ陽が昇ったばかりであり、休憩を取ったとしても探索の時間がなくなる訳でもない。笑みを浮かべながら告げるリーシャを見て、サラは俯きながら謝罪の言葉を吐き出した。
休憩を終えた一行が歩き出したのは、太陽が真上に昇る少し前になった。
昨晩から続いた嵐によって、サラの体力は予想以上に削り取られていたのだろう。身体を横にしたサラは、そのまま静かに眠りについてしまったのだ。そして、眠ってしまったサラの傍に近寄ったメルエもまた、サラの横で眠りに付いてしまう。
そんな二人に苦笑を浮かべながらも、昼近くになるまでは、カミュもリーシャも二人を起こそうとはしなかった。
「……本当に申し訳ありません……」
「はははっ。良いんだ、サラ。疲れているのは仕方が無い」
リーシャに揺り起こされたサラは、自分が犯した失態を恥じ、何度も頭を下げる。眠そうに目を擦りながら、メルエもまたサラと同じ様にリーシャに頭を下げていた。
「……どうでも良いが、もう行くぞ……」
そんな二人のやり取りに溜息を吐き出したカミュは、そのまま歩き出す。陽は高く上り、昨晩の嵐が嘘のように空は晴れ渡っていた。
暖かな日差しを浴び、眩しそうに目を細めながら、メルエがリーシャの手を取って歩き出す。その後ろをサラもようやく歩き出した。しかし、その歩みは、目の前に広がる森に踏み入れた途端に止まってしまう。
先頭を歩くカミュが、背中の剣を抜き放ったのだ。
「サラ! 戦闘だ! メルエを頼む」
「は、はい!」
リーシャの言葉と共に、その手を離したメルエがサラの後ろへと移動して来る。メルエの後ろに庇いながら、サラはカミュ達の前に現れた魔物の姿を視界に捉えた。
「グエェェェェェェ」
それは、巨大な鳥。
鷲のようでもあり、コンドルにも似ている鳥。しかし、その体躯は、通常の鳥とは一線を介していた。
それが二体。
森の中の木々を住処としているのだろう。カミュ達の頭上を旋回するように飛びながら、虎視眈々と獲物を狙っていた。
「カミュ! どうする? 上空では手が出せないぞ?」
「……俺達を襲う為に降下して来る筈だ……」
斧を身構えながら上空を見上げるリーシャの問いに、同じく上空から目を離さずにカミュは答える。もし、カミュ達を得物として狙っているのだとしたら、自ら襲い掛かって来る筈。
その瞬間を叩くしかないとカミュは言っているのだ。
しかし、そんなカミュの目論見は珍しく外れる事となる。
「カミュ様!」
「2×@#(9&)」
後方から全体を見ていたサラの叫びが響く。それとほぼ同時に、上空を旋回していた鳥が高度を下げた後に、奇妙な鳴き声を発した。
それは、何度も魔物と対峙して来たカミュ達だからこそ理解出来る物。
魔物の呪文の詠唱だった。
「下がれ!」
「くそ!」
鳴き声を発した直後に鳥の身体が発光したのを見たカミュがリーシャへと声を荒げ、その声を受けたリーシャは、舌打ちを発しながらも後方へと勢い良く飛んだ。
それは、正に間一髪。カミュ達が今まで居た場所に着弾した発光物は、その場で破裂し、炎の海を作り出す。森の木々達をも焼き払ってしまうような炎は、カミュやリーシャも何度も見て来た物。
彼らに同道する、幼くも才能溢れる魔法使いが行使していた魔法。
「…………ベギラマ…………?」
「はっ!? あれが……魔物の使う<ベギラマ>……」
炎の海を作り出した魔法を見て、首を傾げながら呟いたメルエの言葉に、サラはようやくその魔法が何なのかを理解する。
『人』ではない種族が使う魔法の威力。
それは、『賢者』となり、自らも攻撃魔法を行使する立場になって初めて正確に理解する事が出来たのだ。
しかし、それ以上に、今見ている光景にそれ程脅威を感じていない自分にも驚いていた。
魔物が使う桁違いの呪文の効果。
『魔道書』に載る呪文の効果を正確に理解した今だからこそ、それを脅威として感じる筈。だが、既にサラはその呪文の脅威を見ていたのだ。
「…………メルエも…………」
サラの横で、魔物に対抗意識を燃やして<魔道士の杖>を掲げる幼い少女の手によって。自分と共に歩む幼い『魔法使い』が唱える<ベギラマ>も、今、魔物が唱えた<ベギラマ>に遜色ない程の威力を誇る。
それは異常であり、異質。
本来、魔物と人の魔法の質には絶対的な差がある筈なのだ。
それでも、『賢者』となったサラの目から見ても、メルエの唱える攻撃魔法は、魔物が唱える物に勝るとも劣らない物だった。
「メルエ、同じ呪文は駄目です。もしかすると、火炎呪文や灼熱呪文に耐性のある魔物かもしれません」
「…………むぅ…………」
呪文の行使を阻止された事に頬を膨らませるメルエへ向けられたサラの表情は柔らかかった。
今、魔物を目の前にしている人間の表情ではない。
目の前の少女の脅威を再認識した人間の表情でもない。それでも、サラはメルエに微笑んだ。
「ふふふ。でも、メルエには氷結呪文もあるでしょう?」
「…………ん…………」
笑みを浮かべながら告げるサラの言葉に、メルエは大きく頷いた。
その頷きを受けて、サラはカミュとリーシャに指示を出す。
「カミュ様! リーシャさん! 私達の後ろに!」
いつもとは逆の隊列。魔法を強みとする二人の後ろに直接攻撃を主とする二人が移動して行く。
カミュもリーシャも、もはやサラの言葉を拒むつもり等ない。
それは、もしかすると『信頼』という言葉になるのかもしれなかった。
「メルエ、私も<ヒャド>を使ってみます。もしかすると上手くいかないかもしれません。その時は、お願いしますね」
「…………むぅ…………」
サラが<ヒャド>を行使するという事を聞いたメルエは、先程よりも更に頬を膨らましてサラを睨む。まるで『自分の仕事を取るな』とでも言うように視線を送って来るメルエにサラは苦笑するしかなかった。
「私はまだまだメルエのように上手く呪文を行使できませんよ。メルエから見て、何か変な所があれば教えてください」
「…………」
サラの言葉に、相変わらず鋭い視線を送って来るメルエであったが、不承不承といった様子で頷きを返す。その頃に、ようやくカミュ達が敵を警戒しながら後退を完了させた。
<ガルーダ>
コンドルの化け物と認識されている魔物。そもそもコンドルとは、大型動物の死肉を啄み糧としている。古来に何らかの変異によって魔物化した動物の死肉を啄んだ事で、コンドルが魔物化し、その子孫が<ガルーダ>となったのだとも云われていた。人間の『魔法使い』が行使できる最強の灼熱呪文である『ベギラマ』を使い、焼け死んだ者や、炎によって身動きのできない者を嘴で襲い死肉を食す魔物である。
「サラ! どうするんだ?」
「はい。一度、私が牽制を兼ねて<ヒャド>を放ちます」
リーシャはサラの表情を見て、満足気に頷く。
そこには、もはや自分の実力を信じ切れない者はいなかった。
今まで生きて来た二十年近い年月で培って来た物とは違う魔法力。
それを受け止め、受け入れたサラの表情は、また一つ変貌を遂げていたのだ。
「グエェェェェ」
一際大きな鳴き声を発し、<ガルーダ>が高度を下げ始める。自分達の唱えた<ベギラマ>をいとも容易く避け、未だに生きている人間に戸惑いながらも、直接襲いかかる事を選択したのだ。
二体の<ガルーダ>が別々の方向からカミュ達へ襲いかかるのではなく、一点突破のように二体が重なり合いながら急降下して来る。
「サラ!」
「はい! ヒャド!」
リーシャの掛け声と共に、サラは<ガルーダ>目掛けて指を突き出し、あの夜に契約を行った呪文の詠唱を叫ぶ。
瞬時に温度を下げて行く大気。
サラの指先から飛び出した冷気は寸分の狂いもなく<ガルーダ>に向かって飛んで行った。
「クエェェェェ」
しかし、その冷気は魔物の身体に当たる事なく、上空で霧散してしまう。
まるでサラが行使する事を予測していたかのように、二体の<ガルーダ>は身を捩って避けたのだ。
余りの出来事に茫然としてしまったサラに隙が生じる。その隙は、魔物に詠唱という時間を与えるのに充分な物だった。
「2×@#(9&)」
再び奇声を発した一体の<ガルーダ>の口からサラ目掛けて熱気が迸る。
熱気は炎に変わり、茫然とするサラに着弾するかに思われた。
しかし、それはこのパーティー最強の『魔法使い』が許しはしない。
「…………ヒャダルコ…………」
メルエが振った杖の先から、先程サラが唱えた物とは比べ物にならない程の冷気が<ガルーダ>に向かって飛び出す。
その冷気はサラの吐く息すらも白く凍り付かせ、<ガルーダ>の吐き出した熱風をも冷まして行く。
「えぇぇぇ!?」
メルエの唱えた<ヒャダルコ>を初めて目の当たりにしたサラは、その威力に驚きの声を上げる。彼女がメルエに提案したのは、あくまで<ヒャド>という氷結呪文であって、その上級に位置する<ヒャダルコ>ではなかったのだ。
本来、魔物の呪文効力と人間の呪文効力が拮抗する事はない。
<ベギラマ>と<ヒャダルコ>ならば、魔物の唱えた<ベギラマ>が圧倒的に勝利を収める筈なのだ。しかし、メルエの放った<ヒャダルコ>は熱風に若干押し負けているとはいえ、その熱風を味方に届かせる事なく霧散させていた。
「…………ヒャダルコ…………」
「えっ!?」
そして、サラは再び驚きの声を上げる事になる。自ら放った<ベギラマ>を搔き消された事に戸惑う<ガルーダ>を再度メルエの放った呪文が襲い掛かった。
凍てつく大気。
急速に下がって行く体温。上空を飛んでいた<ガルーダ>の羽の一枚一枚に霜が下り、それは次第に凍りつき、動きを低下させて行く。
「ク、クエェェェ」
自らの状況を理解し始めた<ガルーダ>二体が術者であるメルエ目掛けて急降下を始めた。
しかし、それはもはや遅すぎる。急降下を始めた<ガルーダ>の翼は途中で完全に凍りつき、その活動を停止せざるを得なくなった。
そして、凍結は全身に及び、目や嘴、最後は彼らの命の源である心臓の動きをも停止させる。
「……カミュ……」
「……」
完全に凍りついた二体の<ガルーダ>は自らの身体の重みによって、地面へと落下した。
そして、その勢いをそのままに地面に激突し、粉々に弾け飛ぶ。
散らばる『魔物』であった物。
それを見ながらリーシャは眉間に皺を寄せて立つカミュへと声を掛けるが、返って来たのは沈黙だけだった。
「…………ん…………」
「あ、ああ。やはり凄いな、メルエは」
魔物の活動が完全に停止したのを見届けたメルエが、帽子を取ってリーシャへと頭を突き出して来る。
もはや恒例となりつつある儀式だ。
そんなメルエの頭を優しく撫でながらも、リーシャの表情は晴れなかった。
これだけの魔法を行使出来る『人』がどれだけいるのだろう。
今や世界で唯一の『賢者』となったサラでさえ、ここまでの威力を持つ魔法を習得するのにどれ程の時間が必要なのか。それすらもリーシャには解らない。
「メ、メルエ……いつの間に<ヒャダルコ>を?」
「ああ。あの時、サラはいなかったのだな」
気持ち良さそうにリーシャの手を頭に受けているメルエに近寄って来たサラの表情は、未だに驚きの感情が張り付いていた。
そんなサラに回答したのは、メルエではなくリーシャだった。
リーシャの言葉にサラは首を傾げ、次の言葉を待つ。
「サラがバハラタの町に行っている間に戦闘があってな。その時にはあの呪文を唱えていたから、それ以前なのだろうな」
「……まさかもう<ヒャダルコ>まで習得しているなんて」
『賢者』となり、『魔道書』の中身を読み尽くすようになったサラは、『魔道書』の中で<ヒャダルコ>が位置する場所を正確に理解していた。
それが『魔法使い』にとって、どれ程に困難であるのかも。
故に、既にそれを習得しているメルエに驚きを浮かべていたのだ。
「まぁ、いくらサラが『賢者』となっても、攻撃魔法に関してはメルエに一日の長があるからな。まだ暫くはメルエに追いつく事は出来ないだろうさ」
「…………ずっと………メルエ…………」
リーシャがサラを慰めるように口を開くが、その言葉に不満な表情を浮かべたメルエは頬を膨らませた。
メルエにとって攻撃魔法は譲る事は出来ないのだ。
例え、それが大好きなサラであったとしても。
「……だそうだ」
「はぅ……それは初めから解っていた事です。魔法に関してメルエに勝てるとは思っていませんから。メルエ、私にも攻撃魔法を教えて下さいね」
「…………いや…………」
溜息を吐き出しながらも、サラはメルエに笑顔を向けて享受を願い出る。しかし、それは即座に拒絶された。
『ぷいっ』と横を向いてしまったメルエの姿に、サラはがっくりと肩を落とし、リーシャは苦笑を浮かべるしかなかった。
「……砕けた魔物達は、アンタが燃やしてやれ……」
「えっ!? あ、は、はい!」
そんな三人のやり取りを無視するように間に入って来たカミュの言葉に、サラは思わず大きな声で返事を返してしまう。これまでも何体もの魔物を葬って来た。
斬り捨て、刺し殺し、その死骸を放置して来たのだ。
それを悪い事と感じた事も無かったサラであったが、今は何故かカミュの言葉がすんなりと胸に落ちて行く。
「ギ、ギラ」
粉々に飛び散った魔物の肉体であった氷を一箇所に集め、サラは覚えたての呪文を詠唱する。サラが翳した掌から熱風が巻き起こり、地面を炎が満たして行く。
その炎によって<ヒャダルコ>によって凍りついた氷は溶け、魔物の肉体が燃えて行く。魔物であった者をも天へと誘うような煙を眺めながら、胸の前で手を合わせるサラを、リーシャは温かな瞳で見つめていた。
『サラの変化』
それは、リーシャには好ましい物に映っていた。
今の彼女の中で『人』と『魔物』の境界線は曖昧になり始めているのかもしれない。それは、この世界に存在する『僧侶』としては完全に異端。
この先、それに悩み、苦しみ、泣く事だろう。だが、きっと彼女は道を見つけ出し、前へと歩き始める。それは、リーシャの中で確信となっていた。
だが、温かな瞳と温かな笑みでサラを見つめるリーシャを、別の瞳が見ている事に彼女は気が付いてはいない。サラの変化に対し、そのように考え、そしてそれを認める。それこそ、リーシャ自身の変化である事に彼女は気付いてはいないのだ。
だが、そんな彼女の変化もまた、好ましい物として受け取られていた。
「……行くぞ……」
「あ、ああ」
「はい!」
「…………ん…………」
そして一行は歩き出す。
陽は既に頂上を越え、若干西へと傾き始めていた。
時期に陽は沈み、夜の闇の支配が始まるだろう。
一行がその場所に着いた時、陽は完全に西の大地に沈み、辺りは闇と静寂に満たされていた。
森の木々を切り開き、大きく開かれた広場のような平原がぽっかりと広がっている。そして、一軒の家が建っていた。
「……カミュ……」
「ここが何処なのかを聞くしかないだろう。メルエを頼む」
自分のマントの裾を握るメルエをリーシャへと任せ、カミュは木戸に掛けられた金具へと手を掛ける。乾いた音を響かせた木戸は、暫くの時間が経過した後、ゆっくりと開かれた。
「……誰……?」
中から出て来たのは、白い髭を蓄えた老人だった。
何かを話しているのだが、その言葉は田舎の訛りが強く、カミュ達が聞き取れたのはその一言だけだった。
「……夜分に申し訳ありません。この辺りに漂着し、ここがどの辺りなのかをお聞きしたく……」
「……」
老人はカミュの言葉を最後まで聞く事なく、四人を家の中へと招き入れた。
自分の言葉がカミュ達に上手く伝わっていない事を理解したのだろう。老人は必要以上の事を語る事なく、席に付いたカミュ達に温かな飲み物を出してくれた。
「……ありがとうございます……」
「…………ありが……とう…………」
差し出されたカップを手に取り、軽く頭を下げたカミュに倣い、隣に腰掛けたメルエも小さく頭を下げる。
その様子に老人は柔らかく微笑み、一つ頷いた。
「ここはどの辺りなのですか?」
「……ここ……ポルトガ……西……」
優しく微笑む老人に尋ねたサラに対する返答は、これまた聞き取り難い言語で、何とか聞き取った単語が、この場所がポルトガの西に位置する大陸である事を示唆していた。
どれくらい西なのか、ポルトガまでどのくらいの日数が掛かるのかは解らない。
それを正確に聞き取る事も難しいだろう。故に、サラは質問を変える事にした。
「失礼ですが、このような場所にお一人でお住まいなのですか?」
「サラ」
サラの質問は、初対面の人間に向けて良い物ではない。
前置きはしているが、人それぞれの事情がある以上、それは事実『失礼』なのだ。故に、リーシャはサラを窘めようと口を開くが、それは当の本人に遮られた。
軽く手を挙げ、柔らかく微笑む老人は、何とか意思を伝えようと言葉を選びながら話し出す。
「……わし……ここ…町作りたい……」
「えっ!?」
聞き取れる単語を繋ぎ合わせた結果にサラは驚きの声を上げる。それは、サラばかりではなく、リーシャやカミュもまた少なからず驚きを表していた。
唯一人、メルエだけは話の内容に付いて行く事が出来ず、温かな飲み物の入ったカップの中身を飲むのに苦心している。
「町を一から創り出すつもりか?」
「……町……つくる……商人…必要……」
リーシャの問い掛けに、笑みを浮かべながら頷いた老人であったが、何かを思い出したかのように、表情を曇らせて俯き加減に言葉を漏らす。確かに、町を創る上で『商人』という職業の者は必ず必要となろう。
「……でも…商人……いない……」
何かを必死にカミュ達に伝えようとする老人の田舎訛りの強い言葉を、カミュ達も懸命に理解しようと眉を顰めて聞き入る。
『何かを伝えようとする者の言葉を無碍にしてはならない』。それは、この旅で彼ら三人が学んだ最初の事柄なのかもしれなかった。
「……誰でも…いい……才能…ある…商人……ほしい……」
「し、しかしな……」
老人の言葉にリーシャは何かを言おうと口を開き掛けた。しかし、それはリーシャの前に出された腕に遮られた。
その腕の持ち主であるカミュにリーシャは視線を移すが、こちらに顔を向けてはいないカミュの表情は窺い知れない。
「カミュ様、この場所がポルトガの西であるのならば、ここに町が出来れば船旅の危険も少なくなるのではないのですか?」
口を開いたサラの言うとおり、この場所がポルトガからそれ程離れてはいない場所だとすれば、ポルトガを出た船がこの町に寄る事で、船旅の困難さは大幅に変化する。
航路が短ければ短い程に、魔物との遭遇は減り、積む荷物も減るのだ。
「……『人』にとってはな……」
「はっ!?」
しかし、それはこの世界に生き、船によって移動する『人』という種族に限った話である。この老人の切り開いた森の中には、様々な生物が生きていた。
小動物から魔物まで。その生態系を『人』の手によって崩してしまうのだ。カミュの言いたい事を、そのたった一言で察したサラは言葉を失った。
「……カミュ……」
「……ふぅ……良い人材がおりましたら、この場所に来るように話しておきます」
会話はそれで終了した。カミュに向かって哀願するように頭を下げる老人に一度視線を向けたカミュは、扉へと向かって歩き出す。
飲み物を飲み終えたメルエがその後に続いて外へと出て行った。
「さあ、サラも行こう」
「は、はい……」
リーシャの促しに力なく頷いたサラも、老人に一礼した後、開いたままの木戸を潜り外へと出て行く。最後に振り返ったサラの瞳に映った老人の表情がサラの頭にいつまでもこびり付いていた。
「カミュ、どうしても駄目なのか?」
「……」
船の方角へと歩き続けるカミュの背中にリーシャは語りかけた。暫しの間、その声を無視するように歩いていたカミュであったが、諦めたように溜息を吐き、リーシャとサラに向かって振り返る。
「アンタは<ダーマ>で俺や教皇に向かって『考える』と言った。何について考えるつもりだ?」
振り返ったカミュの瞳は、声を掛けたリーシャではなく、その後ろにいるサラを鋭く射抜いていた。カミュの真っ直ぐな視線を受け、サラは身体を硬直させる。
カミュの言いたい事が理解できない訳ではない。しかし、サラの中でその答えは未だに出てはいないのだ。
あの老人が何故、このような場所に町を創りたいのかは解らない。
サラの言うように、航海をする人間の為に創るのか。
それとも、それは只の欲なのか。
だが、何れにせよ、カミュの言うように、あの場所で生きる『人』以外の生物の住処を奪う可能性を帯びている物。
それは、サラが<ダーマ神殿>にて発した『この世に生きる全ての生物の幸せ』に繋がるとはとても言えない物である事は事実である。故にサラは口を開く事が出来なかった。
「まあ、商人一人居たところで町が生まれるとは思えないが」
何も答えないサラから視線を外したカミュの言葉にリーシャは納得する。先程、老人に向かってリーシャが告げようとしたのはその事なのだ。
基本的に『町』とは人々の集合体。木が生い茂る場所を森と言うのと同じ様に、人々が集まり、そこで生活を始めたから町となって行くのだ。
あの老人が言い出した事は、その真逆の考え。
『町を創るから人が集まる』という物。
本来の順序が逆なのである。
「それは解る。カミュが言いたい事も解る。それでもあの老人の想いの中には何かあるように思うのだ。何故、あの場所に町を創りたいのかは私には解らない。だが、それはとても深い理由があるように思えてならない」
「……例え、どんな理由があろうと、『人』の我儘である事に変わりは無い……」
カミュの言い分も認め、更にはカミュの懸念も理解し、それでもリーシャはあの老人から感じ取った物をカミュへと伝えようとしていた。
しかし、それはカミュの冷酷な返しによって斬り捨てられる。どのような理由であろうと、それは一方側に立った理屈であると。
その言葉にサラの表情は再び硬直してしまう。
「そうかもしれない。だが、そうやって『人』が世界を広げて来た事もまた事実だ」
それでも、今回のリーシャは引き下がろうとはしなかった。
彼女は彼女なりに、ここまでの旅の中で考える事があったのだろう。それは、カミュやサラとは違う物。
もしかすると、元々『人』側にいないカミュとも、既に中立の位置へと変化したサラとも違う、『人』としての観点から物事を見つめているのは、彼女だけなのかもしれない。
良くも悪くも、『それが人だ』と言い切るリーシャもまた『人』なのだ。
「……カミュ様……私は……私はもはや『人』としての立場から願いを口にしてはいけないのでしょうか?」
「……それを選んだのはアンタだ……」
縋るようにカミュへと言葉を洩らしたサラは、冷たい瞳を向けるカミュの返答に息を呑む。
『賢者』となり、<ダーマ神殿>で彼女が想いを吐き出したその時から、サラはもはや『人』ではないのだ。
カミュの瞳はその事実と、その哀しみや苦しみを物語っていた。
「ならば、私が願おう! カミュ、お前には悪いが、私は『人』だ。私は『エルフ』よりも『魔物』よりも『人』を第一に考える。『魔物』に『人』が襲われていれば、そこにどんな理由があろうと、『人』を護るだろう。『エルフ』と『人』が戦う事になれば、例え『人』が仕掛けた理不尽な戦いであろうと、『人』側の騎士として『エルフ』に武器を向けよう」
「……リ、リーシャさん……」
言葉を失い、俯いてしまったサラの顔を再び上げたのは、リーシャの声だった。
リーシャの言葉に迷いはない。もし、彼女の言うような場面に遭遇したとしたら、彼女は悩み、苦しみ、泣き叫びながらも、言葉通り異種族に武器を向けるのだろう。それは、サラの胸に痛い程に伝わって来た。
「……わかった」
「……カミュ様……」
暫しリーシャと睨み合う様に対峙していたカミュが盛大な溜息を吐き出す。しかし、そんな溜息とは裏腹に、カミュの口元に浮かんでいたのは苦笑に近いような優しい笑みだった。
それをサラは見てしまう。カミュが今、何を想い、何を考えているのかは解らない。だが、カミュがリーシャの想いを受け止めた事だけは理解出来たのだ。
「ならば、商人を紹介してやるんだな?当てはあるのか?」
「……心当たりは、あると言えばある……」
カミュの頷きに、表情を柔らかく変化させたリーシャはカミュへと『商人』について尋ねた。
あれだけカミュに啖呵を切った筈なのだが、肝心の『商人』についてリーシャが何も考えていなかった事を窺わせるその言葉に、カミュは呆れたような溜息をもう一度吐き出した。
「そうか。今からそこに行くのか?」
「……まずは船に戻る……」
そう言って歩き出そうとするカミュの前に、一人の少女が立ち塞がった。
<魔道士の杖>を右手に持ち、カミュを見上げた少女の口元は厳しく引き締まっている。何かを告げるような鋭い視線に、カミュは一瞬目を見張った。
「…………けんか………だめ…………」
「は?」
久しく見ていなかったカミュの『人』としての表情。何かに呆気に取られたような、どこか間の抜けた声を上げるカミュは、年相応の表情を生み出していた。
その表情が一行を取巻く空気を変えてしまう。
「あははは! メルエ、大丈夫だ。私とカミュは喧嘩等していない」
「ふふふ」
カミュへと告げたメルエの強い口調に、意表を突かれたリーシャではあったが、その内容を理解した時、心の底から可笑しさが込み上げて来た。
大声を上げて笑うリーシャに、メルエは理由が解らず、『きょとん』とした表情で首を傾げる。そんなメルエの行動に、ようやくサラの顔の硬直も解けて行った。
「メルエ、おいで」
「…………ん…………」
笑いを収めながら、リーシャはメルエを呼び、駆け寄って来たメルエの手を握ってカミュを見る。どこか納得のいかない瞳を向けるカミュに、リーシャは再び笑みを濃くした。
「さあ、行こう」
「……」
リーシャの言葉を受けたカミュの溜息が合図となった。一行は再び浜辺で待つ船へと進路を取って歩き出す。
先頭を歩くカミュ。その後ろをメルエの手を握ったリーシャが歩き、サラが付いて行った。
「おお! おかえり!」
岸の木に結びつけた小船のロープを解き、船へと向かった一行を出迎えたのは、船員に指示を出していた頭目だった。
小船を船へと上げ、小船からメルエを抱き下ろした後、カミュ達の帰還を歓迎する。
「……ここは、ポルトガの西に位置する場所のようだ……」
「やはりな。まあ、潮の流れや風向き、太陽の位置からしてそうだとは思っていたが。ならば、ポルトガまでは順調に行けば、一日程の距離だろう」
小船を降りたカミュが話す内容に、頭目は頷きを返す。
何度も海を渡って来た男なのだ。
状況の判断は確かだろう。
「どうする? 目的地は決まっているのか?」
「……少し所用が出来た……」
今後の進路を訪ねた頭目へのカミュの返答は、予想とは違った物だったのだろう。頭目は、一瞬カミュが何を言っているのか理解できないかのように、眉を顰めた。
それは、周りで聞いていた船員達も同様のようで、作業の手を止めて二人の会話の内容に耳を澄ませている。
「どういうことだ?」
「悪いが、アンタ達は一度ポルトガへ戻ってくれないか? 俺達も所用を済ませたら、一度ポルトガへ戻る」
もう一度聞き返す頭目へ、カミュは詳しい事情を話し出す。しかし、その内容も頭目には良く理解できないものであった。
ポルトガの港を出港してから数日も経っていないにも拘わらず、彼らはポルトガへ戻ると言い出したのだ。
「それは良いが……」
「ポルトガに戻って船の細かい調整をしておいてくれ。俺達がポルトガへ戻ったら、再びこの場所に連れて来て欲しい。ここまでの航路も確認しておいて貰いたい」
続くカミュの言葉で、ようやく頭目の顔から疑念が消えて行った。
カミュの考えの全てを理解した訳ではない。
だが、彼らがこの船と、船を動かす者として自分達を必要としている。
それだけが解れば、彼らにその細かな内容を聞く必要はなかった。
「わかった。それで、アンタ方も船でポルトガに戻るのか?」
「……いや。悪いが、先に戻らせてもらう……」
その問いに、どこか申し訳なさそうに話すカミュの姿は、頭目にとっても他の船員達にとっても笑みを浮かばせるのには充分だった。
この年若い青年は、自分達が共にポルトガへ戻らない事を苦悩していたのだろう。
魔物が横行する海を『勇者』達なしで渡る事は、大きな危険を伴う。それを危惧し、この青年は眉を顰めているのだ。
「わかった。野郎共! 出港だ!」
「おぉぉぉぉ!」
故に、笑みを浮かべ、一度カミュに向かって頷いた頭目が船員達に号令をかける。それに呼応するように、船員達の声が海原へと響き渡った。
確かに、カミュ達がいない状態で、<大王イカ>のような魔物と遭遇すれば、船は大破するかもしれない。
しかし、そこは熟練の船乗り達。海が荒れてさえいなければ、比較的安全な航路を見つけ出し、渡って行く技能も持ち合わせてはいるのだ。
「……船を頼む……」
「まかせろ! ポルトガで待ってるぜ」
頭目の答えに、カミュも笑みを浮かべながら頷いた。カミュの頷きを合図に、リーシャ達三人がカミュへと近づき、それぞれがカミュの衣服を手に掴んだ。
「ルーラ」
詠唱と共に、カミュ達を淡い光が包み込み、上空へと浮かび上がらせる。船員達に暫しの別れを告げるように、少しの間上空に滞空していた光は遠く北東の方角へと飛び去って行った。
読んで頂き、ありがとうございました。
本当は、この話と次話は二話同時に更新したかったのですが、ここのサイトの利用規約なども考え、時間を一日空ける事にしました。
二話程度では、負荷になるとは思いませんが……利用規約では20話以上ですし。
用心に越した事はないので。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。