周囲の空気が一変した。
たった一体の生物が、この祭壇の間に入って来ただけで、瘴気に似た空気が漂い始め、カミュ達の身体に纏わりつき始める。
「……キサマラハ……何故…ココニイル……」
低く、地の底から響くような声。人型の生物以外が人語を話す事に驚き、サラの身体は硬直した。それは、イヨもリーシャも同じ。メルエに至っては、サラの腰にしがみつき、顔すらも上げない。
「……ヤマタノオロチか……?」
唯一人。世界を救うと云われる『勇者』だけが、この不穏な空気の中、一歩前へと踏み出した。
サラが考えた通り、彼はこの場に及んでも、一切の怯みを見せる事はない。それがカミュの強さであるのだが、そのカミュの姿を見たリーシャの顔が瞬間の歪みを見せる。
「……イカニモ……」
「きさまが……貴様のような物が神だと!」
カミュの行動に、時が再び動き出す。<ヤマタノオロチ>の返答に、堪らず口を開いたのはイヨだった。現れたその姿を見て、自分が信じていたような神の姿ではなかった事を悟ったのだ。
『この化け物と、<生贄>となった娘達は相対して来たのか?』という、怒りにも似た感情まで浮かび上がって来た。
「……イヨ……何故……ココニイル……?」
「な、なぜ、妾の名を!?」
憤怒の表情を浮かべていたイヨの表情が凍りつく。
初めて遭遇する化け物に自分の名を呼ばれたのだ。
驚かない訳はない。
しかし、オロチはイヨの質問に答える事はなかった。
興味を失ったように、イヨから視線を外した一つの頭が方向を変える。
「……フム……キサマラハ…我ニ牙ヲ剥クツモリカ?」
武器を構えたリーシャとカミュを、<ヤマタノオロチ>の一つの首が見下ろした。一口で呑み込まれてしまいそうな程の巨大で裂けた口から、生臭い息を発するオロチに、リーシャは顔を顰める。
しかし、サラはそんなリーシャを不思議に思っていた。何時もなら、真っ先に武器を振るうリーシャが、武器を構えてはいるものの、<ヤマタノオロチ>に向かう素振りを見せないのだ。
メルエは今でもサラの腰にしがみついている。
「<ジパング>は貴様のような物の為に滅びるのか……」
見下ろすオロチの真っ赤な眼光に、イヨの声が力を失くす。その威圧感は、魔物達を相手して来たサラ達でさえ怯む程の物。現に、メルエは顔を上げようともせず、サラの足も小刻みに震えている。
今まで対峙して来た魔物とは、完全に格が違う。発する威圧感も、纏う禍々しい魔力も。
「……元ヲ辿レバ……我ノ眠リヲ妨ゲタノハ……キサマラ『人』ダ……」
「……そ、それは……」
油断なく武器を構えるカミュやリーシャを鼻で笑うように、別の首がサラに向かって告げる。『人が先に侵したのだ』と。
サラはそれを予測していたとはいえ、実際に告げられた事で、言葉に詰まってしまう。
「……身ノ程モ知ラズ、我ニ牙ヲ剥イタ……牙ヲ剥イタ物ニ対シ、報復スルノハ当然ノ事……」
「し、しかし! 遥か昔に封印された筈!」
<ヤマタノオロチ>に関する伝承が真実であったと確信したサラが、疑問に思っていた事をオロチへと投げかける。『何故、再び目覚めたのか?』と。
その問いに答えたのは、また別の首だった。
「……忌々シイ……『人』ノ分際デ、我ヲ封ジ込メヨウ等、愚カナ事ヲ……」
「……」
もしかすると、<ヤマタノオロチ>にとって、カミュ達四人等、意にも介さない程の物なのかもしれない。まるで相手にもしていないように、悠然と言葉を発していた。
実際、サラの身体は小刻みに震えているし、メルエもまた、サラの腰に顔を埋め身体を震わせている。リーシャも斧を持つ自身の手が小さく震えている事に気付いていた。
「……ダガ、ソレヲ怠ッタノモ、キサマラ『人』ダ……」
「えっ!?」
<ヤマタノオロチ>の言葉に、サラは驚きの声を上げ、イヨは顔を上げる。カミュやリーシャも、武器を構えつつも、<ヤマタノオロチ>の言葉に聞き入っていた。メルエだけは、小刻みに震える身体をサラの腰に押し付けるように、未だに顔を上げる様子はない。
<ジパング>に伝わる、もう一つの伝承。
それは、国主の直系に伝えられる物とは違う。
それは、分家に伝わる伝承。
『鬼』と化した女王には娘が一人いた。
その娘が女王となり、そして、子を成す。
その子供は、双子だった。
『双子は忌み子』と云われる時代。しかし、先に生まれた子の方を後継とした女王は、後に生まれた男児に分家を立ち上げさせた。
そもそも、国主の家系に双子は珍しい。故に、その異例は、まるで何かを暗示するように、そして何者かに導かれたように感じずにはいられなかった。
既に後見役を辞していた当代女王の父親は、分家を立ち上げさせる際に、孫にある一つの使命を与えた。
『護符の交換』
それは、<ヤマタノオロチ>を封じた東の洞窟に護符として掛けられた面の定期的な交換。
その時代を生きる分家の者が、毎年収穫を祝う祭りの前日に、その恵みへの感謝と、これからの平和の願いを込めて『般若の面』を作成し、それを封印の場所まで交換に出向く事を使命として課したのだ。
それが、<ジパング>に伝わるもう一つの伝承。
分家となった男性は、『般若の面』を作成し、それを毎年替えて行った。そして、自分の子にそれを伝え、その事は、他の民には洩らさないように厳守させる。
民の生活を無闇に波立たせないために。
そして、本家である国主の政事を狂わせないために。
その伝承は、脈々と受け継がれて行く。感謝と願いの込められた『般若の面』には、<ジパング>の民全ての想いが込められ、それが、東の洞窟に残る、『鬼』と化してまで民を護った女王の思念に呼応した。
不可思議な力を生み出した『般若の面』は強力な力を誇り、何度か眠りから覚めた<ヤマタノオロチ>を弾き、再び眠りへと落して行ったのだ。
しかし、それも途切れる。
それは、イヨの祖母の時代であり、ヒミコの母が女王として君臨していた時代。
その頃になると、既に分家は分家として認識されず、民の一つとして生活をしていた。分家であった者も自分達に国主と同じ血が流れているという事実も知らず、一国民として過ごしていたのだ。
それでも、先祖から受け継がれて来た伝承だけは健在で、その時代に分家に生まれた女児にも、当然のように語り継がれる。
その娘は十五になる時に、父母を流行病で亡くし、たった一人で暮らす事になる。しかし、それでも子守唄代わりに聞かされていた伝承は確かに残り、毎年、収穫祭の前日には一人、『般若の面』を作成し、東の洞窟へと足を運んでいた。
それは、その娘が十七の時に起こった。
昨年と同じように、木を削り、日々笑顔を浮かべて生活する民達の幸せを願い、一つ一つ丁寧に彫り進めて行く。自身の幸せを願い、日々の生活への感謝を込め。
出来上がった『般若の面』は、自身が作成した中でも最高の出来栄えだった。『これならば、厳しかった父母も認めてくれるだろう』と胸を張れる程の出来栄え。
それを、収穫祭の前夜に東の洞窟へと運ぶ。洞窟に入り、昨年と同じ場所まで歩いて行った。
溶岩が噴き出す洞窟内はとても暑く、汗を滲ませながらも目的地に着いた女は、昨年に取り付けた『般若の面』を外し、先程作り終えた新しい物へと付け替える。一瞬、眩いばかりの光を放った面を見て、汗ばむ顔に笑顔を見せた女は、出口へと歩き始めた。
あと少しで熱気とも別れられるという、その時。
彼女の前に二体の魔物が現れたのだ。
通常、分家の者は、面を交換する際に分家の男が同行する事になっていた。
それは、父であったり、夫であったり。
時代によっては、分家の後継者が男であった場合もある。
しかし、彼女には、縁者が一人もいなかった。
戦う術のない彼女は、迫り来る魔物から逃げ出そうと駆け出すが、その背中に向かって、魔物はある魔法を唱える。
それは、『人』の脳神経を狂わせ、錯乱させてしまう魔法。背中からその魔法を浴びた彼女は、薄れゆく意識の中、生存願望だけが剥き出しとなった。
半狂乱になりながらも、出口へと駆け出した彼女は、何度か魔物の攻撃を受け、体中から血を流しながらも、洞窟を抜け出す事に成功する。
しかし、そこまでだった。
洞窟を抜け、森を抜け、海の近くに出た彼女は、出血の為かそこで気を失う。
そして、その夜、彼女の消息は途絶えた。
護符に関する伝承を受け継ぐ者の消滅。
しかも、彼女は若く、誰にもそれを伝える事なく消息を絶ったのだ。
故に、護符はそれ以後、替えられる事はなかった。
「知らぬ! そのような話、妾は知らぬぞ!」
オロチの話す護符の話。
忌々しそうに、おぞましい顔を更に歪めて語る内容に、イヨは叫んだ。
オロチを封印するために必要だった物。
それが、直系に伝えられる話の中にある『般若の面』だったのだ。
「……目ガ覚メタ、アル日……我ヲ邪魔スル力ガ弱マッテイル事ニ気ガツイタ……キサマラ『人』ガ、我ヲ呼ビ戻シタノダ!」
「そ、そのようなこと……」
叫んだ筈のイヨの覇気が失われて行く。オロチの住処を荒らし、怒りを買ったのも『人』であるならば、封印した筈のオロチを再び呼び覚ましたのもまた『人』だと言うのだ。
『人』が自ら呼び込んだ災い。
それを『人』である者が排除する事など可能なのか。
いや、それ以前に、抗う事が正しい事なのか。
そんな考えが、イヨの胸を搔き立てる。
実際の年齢よりもイヨは達観している部分があった。
しかし、あくまでも十四・五の娘なのだ。
本来であれば、傍にいる親に助けられ、自身の道を見つけて行く歳。
故に、迷い、悩む。
「クハハハハ……神デアル我ニ、オ前モ牙ヲ剥クノカ?」
「……そ、それは……」
『牙を剥くのなら、国ごと葬ってやろう』。言外に含みを持つ<ヤマタノオロチ>の言葉に、イヨは再び言葉に詰まる。
その姿を目の前にし、イヨには、それがとても神だとは思えなかった。しかし、直ぐにでも<ジパング>という国を消し去る事が出来る程の能力を持ち合わせている事だけは、理解してしまう。
とても敵う相手ではない。
とても対峙できる相手ではない。
それは、イヨの震える足が物語っていた。
「……カミュ様……」
震えるイヨの肩に手をかけるサラの腰には、同じように震えるメルエがしがみついている。<ヤマタノオロチ>との対話の中で心が折れてしまったイヨの姿に、サラは先程から全く物を言わない『勇者』へと視線を送った。
しかし、頼みの『勇者』は、ただ冷たい瞳をオロチに向かって向けるのみ。そこに、何の感情も有してはいなかった。
オロチに向かって剣を構えてはいるものの、それを振るう為に駆け出す訳でもなく、ましてや以前唱えた『勇者』特有の強力な呪文を唱える様子もない。戦う素振りが微塵も感じられないのだ。
「我ト争ウツモリカ? ソナタノ母親ト同ジヨウニ」
「!!」
俯いてしまったイヨの顔が弾かれたように上に上がる。まるで笑みを浮かべるかのように歪んだオロチの口元を見て、イヨの顔も歪んで行った。
「母上に……母上に何をした!?」
唇を噛みしめ、叫ぶイヨを見て、オロチの八つの頭の口元が一斉に歪んで行く。ヒミコを嘲笑うかのように、そして、イヨを嘲笑うかのように。そして、衝撃的事実が明らかとなる。
「クッハハハハ……ヒミコナラバ、オ国ノ為トヤラデ、最初ノ生贄トナッタワ!」
「母上を……母上を喰らったのか!?」
オロチの言葉で母親の末路を悟ったイヨの顔が沈む。
しかし、それを理解した時、それ以上の衝撃がイヨを襲った。
「で、では、あの母上は誰じゃ!?」
イヨの母であるヒミコがこの洞窟に足を運んだのは、イヨがまだ幼い頃、再び<ヤマタノオロチ>の脅威が<ジパング>を襲った時だけである。つまり、その時にヒミコがオロチと戦い、そして敗れたとするならば、それ以降の数年間、イヨの前で母親として存在していたヒミコは別人と言う事になるのだ。
確かに、そう考えれば、全てが納得できる。
人が変わったように、民達を生贄として差し出す事や、民に向ける愛情の欠片もない瞳。その全てが別人であるヒミコの行動と考えれば、辻褄が合ってしまうのだ。
「ソレヲ、キサマラガ知ル必要ハナイ……スグニ母親ト同ジ場所ニ送ッテヤロウ」
通常の人間ならば、縮み上がりそうな言葉を洩らしたオロチは、周囲の岩壁が震える程の雄叫びを発した。周囲の空気が雄叫びによって震え、カミュ達の頬に突き刺さる。小刻みに震えていたメルエが尚一層にサラの腰にしがみ付いた。
<ヤマタノオロチ>という名で呼ばれてはいるが、目の前にいる化け物は、完全なる『龍種』。
八つの頭と八つの尾を持つ異形ではあるが、それは正しく、この世界の最高種族と言っても過言ではない『龍種』であった。間違っても、オロチという名の蛇の化け物等ではない。
「カミュ!」
八つの内の一つの首がイヨに向かって牙を剥くのを確認したリーシャは、カミュへと叫び、盾を持ってイヨの前に立ち塞がる。鋭い牙が<鉄の盾>にぶつかり、乾いた音を立て、リーシャの身体が一瞬で宙に浮いた。
「カミュ様!」
「……」
それでも、カミュは動こうとしない。
何かを待っているのか。
それとも最初から動く気など微塵もないのか。
それでもサラは、そんなカミュを責める事が出来なかった。何故なら、いつもならそんなカミュに抗議を向けるリーシャが、何も語らずに、再び盾を構えてイヨの前に立ったからだ。
そんな奇妙な空気が洞窟内を支配する。一度目の攻撃を邪魔された<ヤマタノオロチ>は、再び大きな雄叫びを上げ、別の首を動かし、牙を向けて来た。
「メ、メルエ! 離れて下さい!」
「…………いや………いや…………」
腰にしがみつくメルエを引き剝がそうと力を込めるが、メルエは力強くサラの腰に腕を巻き付け、離れないように必死に首を振っていた。
確かに、目の前にいる<ヤマタノオロチ>が発する威圧感は尋常な物ではない。それでも、メルエがこれ程の怯えを見せる理由がサラには理解できなかった。
「メルエは、カミュ様を護るのでしょう!?」
「…………むぅ…………」
サラが発したのは、以前にメルエを奮起させた言葉。
それは、メルエの『想い』。
それでも、メルエを動かす事はできなかった。
唸り声を上げながら、サラの腰にしがみついて離れないメルエ。
「メルエ! 危ない!」
オロチの牙が、今度はサラとメルエの場所に振り下ろされる。しがみ付くメルエが原因で、身動きの取れないサラは、<うろこの盾>を掲げるが、自分の力では、その牙を真っ向から受け止める事が出来ない事は解りきった事であった。
「ちっ!」
乾いた音が洞窟内に響き渡る。しかし、サラの盾には何の衝撃もなかった。
メルエを護るように掲げた盾の隙間から覗き見たサラは、前方で姿勢を低くして盾を構えるカミュの背中を見る。オロチの顔の半分もない程のカミュの背中がとても大きく映った。
カミュが前にいる事の安心感がこれ程の物とは知らなかったのだ。それを知っている者は、おそらくサラが後ろに庇っている小さな『魔法使い』のみ。
「…………カミュ…………」
「メルエ! 今は、前に出ては駄目です!」
そんな少女が、自分が一番安心できる場所へ駆け寄ろうとするのを必死に止め、サラは前方で大きな唸り声を上げる八又の龍を見上げた。
カミュもリーシャも相手の攻撃を受けるだけで、攻撃に転じようとはしない。それを不思議に思うサラの耳に、あってはならない声が響いた。
「イヨ様! ご無事ですか!?」
「イヨ様!」
<ヤマタノオロチ>の後方。つまり、この祭壇の間へ続く通路の方から響く声。それは、サラの耳に残っている声。
<ジパング>に入って、サクラと呼ばれる木々を見上げていた時に聞いた物。
この洞窟に入る前にサラと対峙した人間達の物。
「そなた達! 来るでない!」
その者達の登場に、祭壇の間にいる人間の視線がそちらに移動する。それはオロチも例外ではなく、八つある内の半分以上の首が後方へと移動し、その動きに合わせるように、身体全体も出口付近の方へ少しずらされた。
振り返ったオロチの姿を見て、入口付近に辿り着いた者達の身体が一瞬凍りつく。自分達が神と考えていた物の本当の姿を見て、恐怖に駆られたのだ。
ここまで辿り着いた者達の大半は、イヨの乗る駕籠を担いでいたような中年以上の男達。その中に若者はおらず、皆、武器は手にしているものの、手入れ等を行っていた様子もない。
狩りに出る事もなくなり、己の武器を磨く事もなくなった年齢の者達がこの場所へと自国の希望を救いに来たのだ。
「く、くそ! 化け物め! イヨ様を渡すものか!」
「グォォォォォォォ!!」
恐怖に凍りつく足を動かし、一人の男が武器を構えて前に出る。
その瞬間、オロチの咆哮が轟いた。
武器を構えた男に向けて、オロチの一つの口が開かれる。
「……あ…ああ……」
それは、一瞬だった。
オロチの口から発した大量の火炎が、男を包み込み、まるで始めからそこに何もなかったかのように、何もかもを消し去ったのだ。
残るのは、焦げたような地面と、肉が焼け焦げたような不快な臭い。
自分が護るべき民が目の前で消え失せた。
それを見たイヨの視界が赤く染まり始める。
それこそ、イヨが国主を継ぐべき者である事を証明する物。
「ば、ばけもの!」
隣にいた男が一瞬の内に消え去った事に、恐怖が倍増した男が、手にしていた槍をオロチに向かって投擲した。しかし、その槍は、無情にもオロチの皮膚を貫く事はなく、乾いた音を立てて地面へと落下して行く。
そして、先程火炎を吐いた物とは別の首が、男へと襲いかかった。
「ぎゃぁぁぁぁ!」
「!!」
その裂けたような口を開いたオロチは、地面に立つ小さな人間を攫って行く。鋭い牙により肉を喰い破られ、血潮が噴き出した。形容しがたい不快な音が祭壇の間に響き渡る。
本当に一瞬の内に<ジパング>の民が二人、この世を去った。自国を救える者はイヨしかいないと考え、敵わぬと知りながらも、それぞれに武器を持ち、この場所まで駆け付けた『勇者』達が死んで行く。
それに抗う術はなかった。
カミュの持つ絶対防御の呪文を唱える隙もない程の一瞬の出来事。
「……ククク……愚カナ。大人シク、生贄ヲ捧ゲテオレバ良イ物ヲ……」
そんな『勇者』達を嘲笑うかのように、別の首が言葉を発する。
先程喰われた者は、もはやオロチの胃の中に入ってしまっていた。
「ぐぐぐ」
そんなオロチの言葉に、イヨの視界が真っ赤に染まって行く。
先程までとは比べ物にならない。もはや、瞳自体が赤いのではないかと思える程に、見える物全てが赤く染まっている。
身体の内から湧き上がるような『力』。
鈍器で殴れたような頭痛が襲う中、イヨの意識が混濁して行った。
『怒り』、『憎しみ』、『哀しみ』がイヨの心を支配して行く。
もはや、周囲の音さえも聞こえない。
見えるのは、憎き化け物だけ。
大切な民を焼き殺し、喰い殺し、そしてあろう事か嘲笑った。
イヨの心が消えて行く。
「駄目です!」
「!!」
そんなイヨの意識が、肩と共に強く引き戻された。
先程、自分と言い争った者の声。
目も耳も失いそうになったイヨの脳に響くような声。
「心を失ってはいけません! 『憎しみ』に駆られ、心を捨ててはいけません!」
「な、なんじゃと?」
両肩に置かれた手を揺すられ、イヨの意識は戻された。自分を見つめる瞳は、大きな『哀しみ』を宿している。それをイヨは感じ取ったのだ。
涙を流している訳ではない。それでも、その瞳が深い哀しみと、深い後悔、そして大きな決意を宿している事を知ったのだ。
「イヨ様まで『鬼』になってはいけません! それでは、あの方達がここへ来た意味まで奪ってしまいますよ!」
「……」
瞳を強く見つめるサラの言葉に、イヨは完全に自我を取り戻す。
そして、何も出来ない自分の無力さに、唇を強く噛んだ。
噛み切った唇から滲み出した血は、地面に落ちると共に蒸発して行く。
気付かぬ内に、この祭壇の間の温度は上昇の一途を辿っていたのだ。
「……カミュ……もう良いだろう?」
「……ああ……」
サラの言葉を聞き、オロチから視線を外したリーシャがカミュを見て問いかけた。そして、返答するカミュを見て、リーシャは微笑む。頷いたカミュの口元が綻んでいたのだ。
とても笑みを浮かべるような場面ではない。人が目の前で二人も死んでいるのだ。それなのにも拘わらず、彼等は微笑んだ。
『憎しみ』に駆られ、心を失っていた者。
心を捨て、『復讐』という物を胸に抱いていた者。
その者が今、同じように『憎しみ』や『怒り』に駆られ、心を捨てようとした者を引き戻した。その行為が、どれ程に驚くべき行為であり、どれ程に喜ぶべき出来事であるかを知る者は、この二人しかいないのだ。
「メルエ! 怯えるな! メルエの前には、常に私達がいる!」
「!!」
カミュから視線を外したリーシャが、オロチに向かって武器を構えながら、後方で震えるメルエへと言葉を投げる。びくりと身体を跳ねさせたメルエが、恐る恐る開けた瞳に映るのは、先程まで恐怖を感じていた龍の化け物と、それに対峙するように武器を構える二人の背中。
常に自分を護ってくれる大きな背中。
メルエの瞳には、その二人の背中がオロチよりも大きく見えた。
それが、メルエの心から恐怖を取り払って行く。
『必ず、彼等が自分を護ってくれる』。
『そして、自分も彼等を護るのだ』と。
メルエの心にある小さな『想い』に、再び火が灯った。
赤く燻っていた炎は、リーシャの言葉という酸素を受け、真っ赤に燃え上がる。炎はメルエの心に巣食った『恐怖』を焼き尽くし、身体の震えを止めた。
「アストロン」
武器を手にした民達に、再び襲いかかろうとするオロチの首よりも早く、カミュの詠唱が完成した。
その魔法と共に、光輝いた民達の身体は、瞬時にその形態を変化させて行く。それに遅れて、オロチの口が吐き出した火炎が民達を包み込んだ。
「……あ……あ……」
「大丈夫です! カミュ様が、あの魔法を唱えた以上、あの方達は間違いなく無事です!」
炎に包まれる民達を見て、絶望に包まれるイヨを、サラは叱咤する。
『まだ、心を壊す場面ではない』、『まだ、諦める場面ではない』と。
サラの言葉に、落ちかけた瞳を上げ、民達を見つめるイヨは驚愕する。その身体の色を完全に変化させた民達が、まるで石化したように固まっていた。
恐怖に怯える表情を浮かべる者、猛々しく叫ぶように口を開ける者、武器を掲げ、今にも走り出しそうな者、総じて皆が鉄のように固まっていたのだ。
「心配はいりませんよ。皆さんは、暫しの間、鉄になっているだけですから」
「……鉄に……?」
「…………サラ………なった…………」
状況を説明するサラを、不可思議な物でも見るように振り向くイヨに対してメルエが微笑んだ。もはや、メルエを縛りつけていた『恐怖』は露と消えている。
言葉が足りない発言に首を捻るイヨに、サラは一つ頷いた。その頷きが、民達の安全を保証する物だと理解したイヨも静かに頷きを返す。
「イヨ様は、後ろへ! メルエ、行きますよ!」
「…………ん…………」
イヨを後ろへ下がらせたサラがメルエに声をかけ、メルエは力強く頷いた。
杖を掲げた希代の『魔法使い』と、槍を手にした当代の『賢者』が動き出す。
「カミュ様!」
「カミュ!」
サラとリーシャの叫びに、カミュは別の方向に振り向いた。その瞳を向ける場所は、サラが下がらせた次代の<ジパング>女王のいる場所。
自分に向けられた視線に、驚きを浮かべたイヨの瞳が変化する。
それは、民を愛し、民を慈しみ、そして強く民を護る者の瞳。
<ジパング>の国主が語り継いだ、国主としての心構えを備えた者の瞳。
暖かく、そして優しく、何よりとても強い王の眼差し。
「良い! あれは、神ではない! 妾が許す! あれを……あの化け物を討伐してくれ!」
振り切るように、何かを捨てるようにイヨは叫んだ。
人間の落ち度は認める。それでも、民を護るという意思に変わりはない。ならば、人間の身勝手であろうと、何であろうと、オロチという存在と戦うしかないのだ。
「……畏まりました……」
暫しの間、イヨの瞳を見詰めたカミュは、静かに頷きを返した。その顔に、先程のような小さな笑みは浮かんではいない。
カミュが何を想うのかは、リーシャにもサラにも、そしてイヨにも解らない。だが、オロチに向かって剣を構えたカミュが放つ威圧感は、目の前で咆哮を上げる化け物に負けてはいなかった。
これこそ、真の『勇者』が持ちし物。
『無謀』でも『蛮勇』でもない、本当の『勇気』が放つ物。
もう一度口元を緩めたリーシャが、ゆっくりと斧を構えた。サラがメルエを庇いながらも、強い瞳をオロチへと向ける。メルエは怯えの消えた瞳をカミュの背中に向け、杖を振るうその時を示す、サラの言葉を待っていた。
「……良イダロウ……我ト争ウ事ノ愚カサヲ、ソノ身ニ刻ンデクレヨウ」
身体全体をカミュ達に向けたオロチの八つの頭が、カミュ達四人を見下ろす。今にも、凄まじい火炎を吐き出しそうな口を見ても、サラやメルエは恐れない。
彼女達の前には、彼がいるのだから。
「……カミュ……」
「……行くぞ……」
斧を構えたリーシャが、視線をオロチから外す事無くカミュへと声をかけた。
静かなカミュの呟きは、三人の脳へと響いて行く。
それは、戦闘の合図。
人類が送り出した現存する『人』の最高戦力と、この世界に生息する最強の種族である『龍種』の戦いの火蓋が切って落とされた。
読んで頂きありがとうございました。
次話はようやく、オロチ戦です。
長々と引っ張ってしまい、申し訳ございません。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。