(向こうはせいぜい、賃金に響くくらいでしょ。こっちは
心のなかで悪態をつきながら、タマラは走り続ける。
必死だった。
ただ速く、少しでも遠くへ。
勾配の多い山道を走り続ける。木々もまばらで隠れられない。
何時間、走り続けただろうか。
甲冑の擦れ合う音が消えていた。
それでもなお、見えざる恐怖に襲われ、振り返ることもできず、走り続けていた。
尾根を越え、森が見えてきた。
眼下には、黒い闇の中で、ひときわ黒い、茫洋とした円が広がっている。
ルイが予言したように、西の山の向こうには湖があったのだ。
山道を横にそれて森に隠れようと、タマラが提案しようとしたとき。
ドサッと、人が倒れる音がした。
「ルイ!」
振り返ったタマラの目に飛び込んできたのは、倒れたルイ……そして、棍棒を構えた看守だった。
「新入りのロッコ…」
看守のロッコは、鎧を着込んでいなかった。
そのため、長い間タマラたちを追ってこれたのだろう。新人の熱意がそうさせたのかもしれなかった。
「…なぜ、そんなに頑張るの?」
「ハァハァ…、何を言ってる?」看守は息を整えながらも、油断がない。
「こんな子供に、棍棒を振りかざして、胸は傷まないかって聞いてるの!」
「何を…。罪を犯した奴隷を捕まえるのが、私の仕事だ」
「年端も行かない子に、何の罪があるというの? もし悪い事をしたとしても、それは父母や周囲の大人たちが責を負うべきだわ」
ロッコは視線をさまよわせた。
必死だったとはいえ、子供に暴力を振るったことはさすがに後ろめたかった。
「……脱獄は罪だ。心闇を浄化し、正しき信徒の道に立ち返らせることが、神に与えられし私の使命だ」
彼はタマラの問いに答えているようで、答えていない。
繰り返し教えられた価値観を、自分に言い聞かせたに過ぎなかった。
神聖教国の、もっと言えば宗教の危うさがここにある。
宗教は「試すな、疑うな、従順たれ」と説く。信者が疑念を抱いたとき、宗教は、疑念自体が悪であると断じることで、思考停止をさせるのだ。
自分が正義であると信じ込ませ、その『正義』を揺るがすものは『悪』であり、影響を受けぬように耳を貸さず、離れろと教え込む。
「そもそも子を牢獄につないでいることが、間違いじゃない。あなたの神に、慈悲はないの?」
「問答無用!」
ロッコは棍棒を振りかぶった。
タマラは素早く後退し、大ぶりの一撃は空を切った。
すぐに棍棒を引き寄せ、大きく横に薙ぐ。それも、タマラは躱した。
二度、三度と、棍棒が振るわれたが、タマラに当たることがなかった。
(あまり目が見えてない……?)
見当違いの方向に振るわれる棍棒を見て、タマラはそう思ったが、むしろ彼女の眼が良すぎるのだ。
騎馬の民は、遠く地平線を見はるかし、星空を眺めて方角を知る一族である。農耕民族の神聖教国の民とは、そもそも基準が異なる。
膠着状態がしばらく続き、タマラにも余裕が出てきた。一方、ロッコはかすりもしない状況に焦り始めている。
「ロッコ、もう止めましょう? 一生懸命追いかけたけれども、逃してしまったと報告すればいいじゃない」
「うるさい! 悪魔め、呪われろ!!」
ロッコは、さらに乱暴に棍棒を振り回した。
一度、二度、三度……。
(―今だ!)
棍棒が引き戻されるのに合わせて、タマラは懐に入り込んだ。素早く取っ手を掴み、タマラは回転するように体を動かし、棍棒を奪い取った。
「きさまっ、それを…」
ロッコは最後まで言い切ることができなかった。
棍棒が、奪い取られた勢いのまま振るわれ、脛を打ち抜いた。さらなる一撃が、容赦なく、もう一方の脛に叩き込まれる。
「~~~~ッ!」
両足を折られ、ロッコは呻き声をあげた。本当に痛いときは、悲鳴すら出せない。脂汗を流して、耐えるだけである。
タマラは、ロッコの様子を確認すると、棍棒を遠くに投げ捨てた。
そして、昏倒したままのルイを背負い、山道を駆け下りていく。
ミーラフェンも探したが、周囲にいないようであった。逃げるなり、隠れるなりしたのだろう。
ここで彼女の名を呼んで、ロッコに存在を気取られるのもうまくない。タマラは、彼女の無事を祈るにとどめた。
万全を期すなら、ロッコの足ではなく、頭を狙って殺しておくべきだったのかもしれない。
だが、それは、あまりにも情けないことのように思えた。彼自身に恨みはなく、利害が衝突しただけだった。
タマラは不殺を気取っているわけではない。ただ、人を殺すのなら、それなりの名分を持ちたかったのだ。
===
前方に、自分の影が伸びているのを見て、タマラは朝が訪れたことを知った。
「お、終わったんだわ……」
言った途端、タマラは力が抜けて、立っていられなくなった。眠ったままのルイをなんとか横たえて、へたり込む。
両足がビクビクと痙攣している。喉がひりつくように痛い。頭も酸欠でくらくらする。
だが、やり遂げたのだ。
あのダヤン監獄から、
確かな満足感が、タマラの身を浸した。
傍らのルイを見る。
誰一人、頼れる者がいないところから、脱獄計画を立て、仲間を集め、ついには成功させた童。
まるで人形のように整った顔をみて、タマラは感嘆のため息を漏らした。
湧き上がる気持ちに、タマラは名前をつけられない。ただ、この少年を
カチャ…と音がした。
その刹那、タマラは飛び退いた。神がかったとしか思えないタイミングと反応速度だった。
髪の毛が数本、宙に舞う。
「クレリック・ヤギ!!」
鍛えられた筋肉の体に、愉悦に満ちた顔がのっていた。
「抵抗するなとは言わん。抵抗してみせろ、その方が楽しいからなァッ!」
言いざま、踏み込んで剣を振るう。
タマラはなんとか避けてみせた。足を踏ん張るのに通常の何倍もの努力が必要だった。
「ゲス野郎…」
ヤギは、ルイに要注意と呼ばれた人物であることを、タマラは思い出した。
本来、看守は奴隷を殺さないよう棍棒しか装備しない。だが、ヤギは何かと理由をつけて、直剣を持ち歩いていた。
これみよがしに、剣を鞘走らせ、奴隷たちを脅しつけたことも一度ではない。
「その血脂…。ここに来る前に剣を抜いたわね!?」
「よーく観察してるじゃねぇか。そうだよ、十人ばかし、楽しませてもらったッ!」
一閃、白刃が突きこまれ、タマラの左上腕に熱がほとばしる。劣悪な品性に反して、ヤギの剣捌きは卓越していた。
「すぐには殺さねぇさ。 血を失って倒れるまで、なぶってやる」
「そんな事でしか、幸せを感じられないの? 哀れなやつ」
言い終わらぬうちに、刃が突きこまれ、右上腕が穿たれた。痛みで、タマラの目の前に光がちらつく。
「女が偉そうにするんじゃねぇ! 女は黙って、男についてくればいいんだ!」
ヤギは強烈な怒りに、顔を歪ませる。
しかし、ふと、激昂の
「おお、神よ、感謝いたします。日々の糧を与えてくださることに。
おお、神よ、感謝いたします。苦難の中にも安らぎを与えてくださることに。
おお、神よ、感謝いたします。切り刻める奴隷を与えてくださることに。
おお、神よ、感謝いたします。豚の悲鳴を上げる奴隷を与えてくださることに。
おお、神よ、感謝いたします。奴隷をいたぶる娯楽を与えてくださることに……」
ヤギは奇怪にねじ曲がった祈りの文句を唱えるごとに、タマラを突き刺し、切り裂いていく。
これも法悦と言うべきなのか、斬りつけるごとに、愉悦に表情を歪ませていく。
クレリック・ヤギは、タマラが逃げ出さないことに気づいていた。
そして、その背後の茂みの中に、
こいつは
我が身大事と背を向けて逃げ出したのなら、一思いに殺してやろう。
ヤギは、いたぶることに関しては随一の技量を持っている。急所を外して切りつけながらも、両足には剣を突き入れないようにした。
タマラは比較的無事な両足で、ヤギの剣をかわそうと動く。
恐怖心はなかった。
怒りもなかった。
ただ手負いの獣のごとき生存本能だけがあった。
ギラつく野獣のようなタマラの目に、ヤギは苛立ちを覚え、剣を握り直す。
その時であった。
低木の繁みが揺れ、擦れた音を出す。
そこに現れたのは、ヤギも、タマラも予想していない人物だった。
「…ヤギさま……」
赤い巻毛と対象的に、深い陰を帯びた人族の女性……ミーラフェンだった。
無謀だとタマラは思った。
ロッコとの戦闘のときにはぐれたまま、何処なりと逃げ出してくれたら良かったのに。
右腕を動かせない彼女が来たところで、ヤギの餌食になるだけだ。
「おう、お前か」
驚いたことに、ヤギはミーラフェンと親しいようだった。気安い言葉で、返事を返す。
「そこで待ってな。こいつを平らげた後、お前を相手してやる」
気にも留めず、ヤギはタマラに視線を戻した。
一方のミーラフェンは、ちらりとルイの方を見たようである。そして、ふらふらと、危なげな足取りでヤギに近づくと、体ごとヤギにぶつかった。
「お前……」
いいさして、ヤギは糸が切れたように、崩れ落ちた。
原因はすぐに分かった。ヤギに重なるように倒れ込んだミーラフェンの手に、包丁が握られていたのだ。
倉庫からくすねてきたものに違いない。それを、ずっと持っていたのだ。
ミーラフェンは、包丁を傷口の中で回しながら抜き、そして何度も突き刺した。
密着した状態では、直剣はかえって不利になる。ヤギは、剣を振り回したが思ったほどの効果はあげられないようだった。
「………」
切りつけ合う二人をみて、タマラは見てはならないものを見てしまった気がした。
二人に何があったかは知らない。
だが、愛情と憎悪がもつれ、絡まりあった挙げ句、このような事態があらわれたのではないか。
そうとしか思えなかった。
なにしろ、ミーラフェンは泣きながら「ヤギさま」と名を呼び続け、しかも満面の笑みを浮かべていたのだから。
……やがて二人は、ともに、動かなくなった。
長い間であったようにも思われるし、ほんの一時のことであったようにも思う。
異様さに当てられて、立ち尽くしていたタマラは、あらためて今の状況を思い出した。
比較的無事な腕の方で、小柄なルイの体を肩に
背負うことは、もはやできなかった。
血が、岩から染み出す湧き水のように、とめどなく流れていく。
軽いはずのルイの体も、今は
(このまま、倒れたら楽だろうな……)
倒れたきり死んでしまうことを予見しつつも、タマラはそう思わざるを得なかった。
楽になりたかった。
厳しいだけの生より、優しい死を選びたかった。
死ねば、
そんなことを考えながら、それでも、足は前に進んでいく。
血が滴り落ちるたび、体が重くなる。
それでも、ルイを放り出そうとは思わなかった。
ただ、ただ、足が一歩ずつ、前に進んでいた。