タマラが自分の行く末に
監獄長にして、
二日前に起こった大脱獄は、見えざる悪霊の手となってファーゴの首を絞めた。
クレリックの報告によれば、脱獄した奴隷、あるいは行方不明の奴隷は、三十九人。捕らえたか、殺したかした奴隷は、十九人。
看守の死者、行方不明者は、合わせて九人。
「フウゥゥー。過去の過ちを悔いても仕方ないわねぇ。脱獄した三十九人は、崩落事故で死んだことにして……」
報告に来たクレリックをさがらせ、手酌で緑茶をカップに注ぎながら、ファーゴは独りごちた。
お気に入りの
山積みの仕事を思って心が重くなる。
だが、これがまだ序の口だということに、神ならぬファーゴは気づかなかった。
「上級異端審問官のセト様が、東門のすぐそばでお待ちです!!」
扉を蹴破るように入ってきた部下が、開口一番こういったのである。
===
「これは、これは、異端審問官どの。お早いおつきで……」
「期日通りにきては、隠し立てをする輩もいるのでな。むろん、ファーゴ殿はそうではないと思うが」
むっつりした顔でそう述べたのは、禿頭の男だった。
見た目はせいぜい三十代ゆえ、禿げているのではなく、わざわざ綺麗に剃っているらしい。ヒゲもきれいに剃っており、見える体毛は眉毛とまつげしかない。
その目が細いことも相まって、不気味な印象を与えていた。
(七日も前に来るんじゃないわよ、タコカスが……)
ファーゴは心のなかで毒づいたが、表情は、満面の笑みで固定したまま動かせない。
相手は泣く子も黙る『異端審問官』。それも枢機卿に匹敵するという三人しかいない、上級異端審問官である。
後ろには、十二人の騎乗した聖騎士と、それに倍する
その武威には対抗できようはずもなかった。
「少々早めに来たつもりだが、遅かったようだな」
「な、何がでございましょう?」
「それを私に言わせるのか? まぁ、よかろう」
異端審問官の一行は、手早くダヤン監獄を視察し、今は西の要塞門のところにきていた。
「この西門に、線状の細かい傷が多くついている。その傷の高さからして、剣のような武器を振り回した時のものだ。東門にはそんな傷がないのにな。
看守は囚人どもを殺さぬよう棍棒を使う。直剣はよほどの緊急事態でなければ持ち出されない。
なによりも、土をかけようとも消せぬ血臭!」
馬上から、ファーゴを睨みおろす。
異端審問官セトの視線に、監獄長は射すくめられた。
「あえて異端審問官に、隠し立てをするか!」
「も、申し訳ございません」
ファーゴは勢いに飲まれ、平身低頭する。
異端審問官は、庶民から物語本や技術書を取り上げるばかりではない。いざとなれば、司祭すらも火刑に処せる存在だということを、今更ながらに思い出したのだった。
===
「つまりは、二日前に脱獄騒ぎがあったということだな」
監視塔の一室にて、異端審問官セトはファーゴの説明を聞いていた。
「はい、何分、大規模なものでありましたので、未だ実態を把握するのもままならぬままでして、決して隠したわけでは」
「……そう信じられれば良いな」
異端審問官セトは、曖昧な返答をファーゴに返した。
これは、ファーゴに対して言質を取らせず、『証拠を隠して、審問を妨害した』と、いつでも判断できると言外に示しているのである。
異端審問官は、独自の捜査権、裁判権、刑の執行権を併せ持つ職業である。
セトが、ファーゴを異端であると判断すれば、この場で火あぶりの刑に処すこともできるのだった。
「
「は、四十余名程度です」
「では、怪我で動けぬものを除いて、五人単位で隊を分けよ。それぞれに聖騎士をつける。…エルラン」
「ここに」
「司祭ファーゴに同行し、隊分けを手伝ってやれ」
手伝いという名目の監視なのは、明白だった。
「隊分けと仰られますが、なにを目的として……」
おずおずと、ファーゴが伺いを立てる。最初は心中で悪態をつく余裕もあったのだが、もはや、セトの威圧に唯々諾々と従うだけである。
「当然、脱走者を追う。言っておくがファーゴ、お主を含め、看守全員を出せ。ダヤン監獄の維持は私の配下の者が行うゆえ、心配いらぬ。
何より……最終的な脱走者の数によって、神の意に
これは、脱走者を再度捕まえた数によって、罪を減免すると言っているのだ。
「仰せの通りに……」
ファーゴは深く頭を下げ、聖騎士エルランとともに隊の編成に向かった。肩を落とし、意気消沈している様子である。
「あまり、やる気が見られませんな。もっとはっきりと脱走者を捕まえれば、罪を減免するとおっしゃっても良かったのでは?」
そうセトに進言したのは、聖騎士の一人であるミュカデであった。実務能力にすぐれ、忠誠心もあるため、セトは彼をよく使う。
ややあけすけな面があるのが玉に瑕というところか。
これと言って特徴のない顔立ちだが、耳が異様に大きかった。
「酌量はするがな。時間が経ちすぎた。やる気があろうとなかろうと、湖の畔の村々を廻る程度のことしかできぬ。
それより、管理体制に問題がなかったか、脱獄を首謀したものが誰か。看守と捕らえた脱獄犯に聞いたほうが有益だ」
「なるほど、獄長を監獄から離して、捜査を妨害させぬことが主眼でありましたか」
上級審問官となられるだけあって
そして、セトに感服したまま、次の命令を受けることとなったのである。
「ここに、ルイという名の少年奴隷がいるはずだ。手間をかけさせるが、彼をここに連れてきてくれ……」
===
聖騎士ミュカデは、今回もセトの信頼を裏切ることはなかった。
怪我をした看守に少年奴隷について尋ね、そこから当たりをつける。
捕らえた脱獄犯を恫喝し、あるいはなだめすかして、状況を把握する。
獄長のファーゴが二日かかって出来なかったことを、ミュカデは半日で終えてしまった。
驚くべき報告を携えて、ミュカデは上司のもとに帰参する。
「ご報告いたします。セト様の睨んだ通り、今回の脱獄計画は、ルイという少年奴隷と、亜人のオーステルが中心となって起こしたようです」
「そうか……」
ミュカデが異端審問官を見る眼差しには、尊敬のエッセンスがたっぷりと含まれていた。『セト様は、最初から少年奴隷を首謀者と見抜いておられたのだ』と、ミュカデは思い込んでいる。
実際は、セトは異なる事情からルイを探したのだが、わざわざ訂正するつもりもなかった。
身振りで、ミュカデに先を促す。
「どうやら、少年のほうが奴隷の枷を外す方法を見つけたようで、それを知ったオーステルが、脱出の手立てを考えたようです」
「オーステルというのは、どんな人物だ?」
「年老いたドワーフで、長いことダヤン監獄に居たそうです。奴隷たちのまとめ役と申しますか、『
「主導はそのドワーフかもしれんが、発起したのはルイだろうな」
「……なぜ、そう思われるので?」
「老人は今あるものに安寧し、あらたな境遇を得ようとはせぬものだ。むしろ、年若い者のほうが、無謀な分、こういうことに手をつけやすい」
「ははぁ…」
ミュカデは分かったような、分からぬような相槌を打った。セト様が言うのなら、きっとそうなのだろうと自分を納得させる。
ミュカデを下がらせ、エルランから編成についての報告を受けたあと、かつては獄長のものだった一室で、セトは机に肘をついた。
「昔から明敏であったが……脱獄を成功させるとはな。だが、
独り言は、主語を省いていたものの、それがルイを示すものであるのは明白だった。この場に余人がいたわけではないが。
セト自身もよく分からない心の働きによって、はっきりと言うのが憚られたのだった。
===
その頃、ルイの一党は森と平地の境目を北に進み、日が暮れる頃には、北に森が切れるところまで進んでいた。
ここから先は開けた場所になり、人目につきやすくなる。
この後は夜を徹して進み、オーガの領域まで一気に進むつもりであった。
日が完全に沈むまでの僅かな時間、ルイたちは疲れた体を、大木の下で休ませることにした。
木陰に腰を下ろし、ルイの隣で休んでいたタマラは、ふと、心づいたように少年に声をかけた。
「ねぇ、ルイ。私ね、兄と姉がいたの」
「うん」
「姉はともかく、下の兄貴は、私のこと頭が弱いっていうのよね。ひどい言い草だと思わない?
でもさ、ルイは私より若いのに、私より物を知ってる。脱獄も成功させるし、スウェンのときみたいに気配りもできるし。ちょっと私、自信喪失気味なのよね」
「たぶん、環境の違いだよ。僕は育ってきた環境が良かったから、色んな知識や経験を積むことができた。それに、自信がないってはっきり言えるのはすごいよ。自分の弱点を晒せるのは、本当に強い人だけだ」
思いもかけず褒められて、タマラは眼を瞬いた。ルイの美しい顔が真っ直ぐに、こちらを向いている。
タマラはつい顔をそらし、そのまま頭を膝の間に挟み込んでしまう。
「ほら、そうやって、格好いいこと言うー」
ルイはタマラの振る舞いに小首をかしげたが、言葉を続けた。
「人と人を分けるものがあるとしたら、『何になりたいか』になると思う。
夢とか、志とか、野望とか、どう表現をしてもいいけど、心に期するものがあって、くじけずに努めていけば、その人はかならず『その他大勢』じゃない一廉の人物になれるよ」
「それがルイにとっては、『王になる』ということなのよね」
タマラは意を決して、ルイへと向き直った。
「私は正直、ルイの目指す王とか、国の形はよく分からないわ。でも、ルイのことは好きだし、そばで護りたいと思う。臣下としてではなく、友達として。それでもいい?」
「もちろんだよ。すごく嬉しい」
ルイは、タマラの手をとった。
「僕もタマラを助けるよ。だから、タマラが護りたいと思う限り、僕を護って。そして、僕はもっとたくさんの人を護れるようになる。だから、タマラも、より多くの人を護りたいと思ってくれたら、なお嬉しい」
タマラに打算はひと欠片もなかった。ルイは打算も忠誠心も否定しない。けれども、それらが全く無いタマラの言葉は、純粋に嬉しかった。
(これは、これは…)
二人のやり取りを眺めて、リエンツは驚嘆の念を新たにした。
彼自身、ルイには心が傾いている。だが、一方で情を切り離し、一歩引いたところで事態を眺める冷徹さも持ち合わせていた。
(王や国のことが分からないと言いながらも、タマラは忠誠を誓いましたね。伝統や格式を介さないだけ、より純粋な忠誠の形かもしれない)
この小王には、人を惹きつける不思議な力がある。リエンツはそう思い、自分もまた、彼のために力を尽くすかもしれないと思ったのだった。
ちなみに、戦斧を横において休んでいたカルーラもその様子を見ていたが、特に何も思うことはなかった。
いちいち言葉にせずとも、ついていきたければついていく。ただそれだけだ、そう思ったのである。