日が落ち、闇の帳が完全に天空を覆った頃、ルイの一党は静かに動き出した。
先頭はドワーフたちに任せている。
タマラも騎馬の民のため夜目が利いたが、月明かりさえ射さぬ坑道で暮らすドワーフの夜目にはかなわない。
一方、遠くを見る目の良さはタマラが一番だ。日中の行動、特に偵察はタマラに任せることになるだろう。
細い月が山にかかるように光っている。
人目をはばかる元奴隷の集団は、月だけが見守る中、オーガの領域へと疾駆していった。
途中、大湖に流れ込むオクラス河に差し掛かり、久しぶりの水浴びを行った。汗を流し、汚れを拭き、垢をこすった。
これには、清潔にするという目的以外にも、匂いで追跡されてしまうことを避ける意味あいがある。
河のなるべく中央、なるべく上流から水を汲む。
ルイの脳内の地図によれば、このオクラス河を越えれば、しばらく水の補給の当てはない。
オーガの領域の中でも、自分たちの進路は、
きっと清流があるだろうが、それでも節約して進まなければならない。
===
脱獄事件から四日後の朝。
ダヤン監獄の開けた場所で、八組の追跡隊が整列している。それぞれの隊には、馬に乗った聖騎士が監視役兼、伝令役としてついていた。
壇上に立つのは、異端審問官のセトであった。本来、監獄を取り仕切る立場のファーゴは一番隊に組み込まれ、面白くなさそうに沈黙している。
壇上のセトが追跡隊を見回した後、厳かに号令した。
「諸君、四日前の脱獄事件は、
看守たちが慄然とするのが、セトには分かった。
異端審問官が生殺与奪の権を握っていることを、彼らは思い出したであろう。
「神は
諸君らに、過ちを正す心はあるか?」
看守は口々に叫んだ。「あるとも」「挽回の機会を」「亜人に鉄槌を」……。
忠心を示そうと、彼らは必死であった。
「結構! ならば証を立てよ。これより、奴隷狩りを始める! 奴隷を捕らえれば、神の慈悲にあずかれよう。捕らえよ! しからずんば、死ね!!」
激烈すぎる言葉が、セトからほとばしり出た。
奴隷たちを捕らえなければ、看守たちが死刑となるとセトは宣告したのであった。
監獄の看守たちは、慄然どころか、恐怖に心臓をわしづかみにされ、物狂いのように駆け出していった。
セトが授けた作戦がある。
一番隊、二番隊は、山道を駆け下り、大湖と、山の裾野との間に布陣する。
三番隊から八番隊までは、途中までは山道を進むが、獣道などを見つけたら、横にそれて進む。
三番隊や八番隊が山腹に潜む奴隷たちを追い立て、一番隊から二番隊が捕らえるという方式である。
なお、この場合の「捕らえる」は、生死不問である。
むしろ、生かして捕らえたとしても、奴隷どもが脱獄を考えもしないよう、見せしめの惨たらしい拷問刑が待っている。
その場で殺されるか、後で惨たらしく拷問にかけられるか。捕まった奴隷に明るい未来は用意されていなかった。
だが、それを理解していない奴隷が一人いた。
===
一番隊が、ダヤン監獄のある山から、駆け下りていたときのことである。
山の裾野から湖都レーゼルにいたる道の真ん中に、ゴマ粒のように見えるものがあった。
近づくにつれて、それは段々大きくなり、やがて
この姿勢は、奴隷が請願や恭順を示すものであった。両手を差し出すことで、すべてを御主人様に預けるという意味合いである。
一番隊の中に、彼女の姿を覚えている者があった。
監獄長のファーゴに、「脱獄犯のスウェンです」と耳打ちする。
スウェンは初めから、こうしようと思ったわけではなかった。
ルイの一党から逃げ出した後、いったんは湖都レーゼルに向かったのだ。そして、町並みを歩いたのだ。
最初は庶民のように振る舞えて気分が良かった。
だが、それも長いことではなかった。
僅かな現金の使い方すら、よく分からない。頭を下げて働かせてもらう事すらも、スウェンには思いつかなかった。
奴隷として生まれ、奴隷として育ってきた彼女には、自分の意志で決める経験が不足していた。
結局、街中を三巡したあとは、ルイと別れた場所に足が向いた。なにか目論見があったわけではなく、糸の切れた凧のようにさまよっているだけだった。
そうして、奴隷として生まれたばかりに、他の生き方を知らぬスウェンは唯一知っていること──御主人様の慈悲にすがること──を、追手に対して行ったのだった。
「死に際しても、神と主人に服従いたします。慈悲を賜らんことを」
看守に話しかけられるより早く、古式に則って、顔をあげずスウェンは言った。
待ち受けている運命を悟られぬよう、ファーゴは優しく声をかけた。
「あなたは、スウェンですね。牢を抜け出したことは罪悪ですが、よくぞ思い直してくれました。司祭として、とりなしの祈りを捧げましょう。さぁ、何があったのか、話してみなさい」
「は、はい」
スウェンはつっかえながらも、脱獄してからの経緯を話し始めた。
脱獄し、オーステル老と合流し、ルイと一緒に行動し、その後逃げ出したことを彼女は語った。
要点を捉えて話すということを知らないらしく、とりとめもなく話していく。
ファーゴは、辛抱強くスウェンの曖昧な話を聞いた。
ひとつには、一旦、陣を敷いたからには、奴隷どもを辛抱強く待つしかなかった事情もある。
ともあれ、奴隷の話の中に、ファーゴは聞き逃がせないものを見つけた。
このスウェンは、脱獄の首謀者のルイ、オーステルと同行していたというのだ。
近くで興味なさげにしていた聖騎士エルランも、その言葉を聞き逃すことはできなかった。
「そこの亜人、ルイやオーステルと同行していたというのは本当か?」
「は、はい。私恐ろしくて、逃げ出しました」
「奴らはなにか言っていたか?」
スウェンは必死に思い出そうとした。もたもたすれば、良くて叱責、悪ければ鞭を食らうことになると経験から知っていたからだ。
「亜人に財産をもたせるとか、司祭の子を踊り子にするとか……」
周囲から、ざわめきが起こった。神聖教国の秩序を根幹から破壊することを、このドワーフ女は述べている!
「……貴様、嘘や出鱈目を並べ立てているのではあるまいな」
「私、嘘つきません」
「……わかった。セト様に言上申し上げねばならん。亜人、ついてこい」
そういって数歩馬を進ませたが、奴隷の歩みが遅いことに気づくと、舌打ちして奴隷を鞍上に乗せてやった。二人乗りの形になって、下ったばかりの山道を駆け上っていく。
ファーゴはその後姿を見ながら、ようやく手柄をかっさらわれたことに気づき、大きく舌打ちした。
===
ダヤン監獄に連れてこられたスウェンは、地べたに跪き、あらためて脱獄の顛末を「お偉い方」に話していた。
スウェンは理解してなかったが、話している「お偉い方」は異端審問官セトである。
「ふむ……」
セトはきれいに剃った顎を撫でた。
詳しく聞いてみると、『反社会的な』言説は、ルイが行ったのだという。
「それで、オーガの領域に行ったというのは、間違いないのだな」
「はい、間違いございません」
(見つからねば、見つからぬままでも良いと思っていたが……)とセトは心中でつぶやき、続く思案を声に出す。
「反乱分子を放置していれば、後日の災いとなろう」
すばやく思案を巡らせる。脱走した奴隷たちの捕縛、ダヤン監獄の維持と管理、そして危険分子と化したルイとその一党の捕縛。これらを手持ちの駒でこなさなければならない。
「聖騎士エルランよ、ファーゴは戦えるか?」
「奴隷相手であれば、問題ありますまい」
「結構。では、ルイならびにオーステルの捕縛隊を組む。捕縛隊は、私が率いる!」
上級異端審問官セトによる、ルイの追跡が始まった。
===
慌ただしく準備が始まったが、ささやかながらも異議を申し立てる者もいた。
ダヤン監獄の後事を託した聖騎士ミュカデが、こう言ったのである。
「我らに命じていただければ、首謀者を追いつめ、捕らえてみせます。何もセト様がお出でにならずとも良いではありませんか」
異端審問官セトは、侍従のものに鎧をつけさせながら答えた。
「その言、ありがたく思う。だが向かう先は、人食い鬼の出る危険地帯。異端審問官たる私が出ねば、皆もついてこまい」
本心からセトはそう言ったが、一方で、ルイへの思いがわだかまっているのも否定できなかった。