紅月の救世少女(こうげつのきゅうせいしょうじょ) 作:くにゅたろ
翔太は地下施設の冷たい空気に包まれていた。廊下は薄暗く、どこからともなく聞こえる物音が耳を刺激する。
「……誰かいるのか?」
不安を押し殺して声をかけるが、答える者はいない。ただ、かすかな足音と湿った音だけが、遠くから近づいてくる。
翔太は目を凝らして前方を見つめた。
影が揺れる。その姿は人のようで人でない――動きがどこかぎこちなく、何かを引きずるようにしている。
「まさか……」
胸が締め付けられるような恐怖に包まれた。ゾンビ。そんな非現実的な存在が目の前にいるとは思えないが、ほかに説明がつかない。
翔太は足を引きずる音に合わせて後退し、壁際に身を寄せた。逃げるべきだ。しかし暗闇の中、どこが安全なのか分からない。
音が徐々に近づき、翔太は息を呑んだ。次の瞬間、目の前の影が大きく揺れる。
「……誰か、助けてくれ!」
声を振り絞ると、暗闇の中から鋭い音が響いた。
風を切る音がして、目の前の影が急に消えた。何が起きたのか分からず、翔太はただ立ち尽くした。
「無事か?」
低い声が闇の中から聞こえる。翔太が振り返ると、1人の男が姿を現した。手には大きな刃物――剣鉈を持っている。
「……誰だ……?」
翔太の問いに、男は無言で剣鉈の刃を振り、血の汚れを拭った。次いで、後ろから2人の人影が現れる。
1人はショットガンを持った屈強な男、もう1人は機敏そうな女性だった。
「カイン、こいつが叫んでた奴か?」ショットガンの男が低い声で尋ねた。
「ああ、それで間に合った。だがまだ残っているぞ」剣鉈を持つ男――カインと呼ばれた男が答え、周囲を警戒するように視線を巡らせる。
翔太は彼らの存在に驚きつつも、なぜ助けられたのか分からず混乱していた。しかし、目の前の現実がさらに厳しいものだと理解し始めていた。
翔太は目の前の3人を呆然と見上げていた。剣鉈を軽々と扱う長身の男、使い込まれたトレンチガンを持つ屈強な男、そして軽装で身軽そうな女性――彼らの存在感は、ただ助けられたというだけでは片付けられないほど強烈だった。
「……助けてくれたのか?」
ようやく搾り出した翔太の声に、剣鉈を持つ男が冷たい表情で頷く。
「ここで死なれると厄介だからな。それだけだ」
冷ややかな口調に、翔太は少し怯む。しかし、女性が肩をすくめて軽い調子で口を挟んだ。
「まあ、カインの言う通りだけど、タイミングが良かっただけよ。あんた、運がいいわね」
女性の明るい声に、翔太は一瞬気が緩む。だが、その直後にトレンチガンを持つ屈強な男が険しい声を上げた。
「運がいい? そいつがここにいる理由を確かめるべきだろう。何者かも分からない奴を助けて、後で厄介事に巻き込まれたらどうする?」
その鋭い視線に、翔太は身を縮めた。説明しようとしても、恐怖と混乱で言葉が出てこない。
「デルク、落ち着け」
剣鉈の男――カインが静かな声で言う。
「だがカイン、俺たちにはやるべきことがあるんだ。こんな奴の相手をしている場合か?」
「状況を整理する方が先だ。それに……」
カインはチラリと翔太の顔を見た。その赤い瞳が不気味に光るのを見て、わずかに表情を硬くする。しかしすぐに、冷静な表情を取り戻した。
「見たところ、何か特別な事情があるようだ。こんなところで放置するのは、後味が悪い」
デルクは不満げに唸ったが、それ以上は反論しなかった。
「お前、名前は?」
カインが翔太に問う。その問いに、翔太は一瞬言葉を詰まらせた。
「名前……覚えていない。何も分からないんだ」
翔太の声には、嘘ではない絶望が滲んでいた。
「記憶喪失?」
女性――ラナが首をかしげる。その仕草はどこか無邪気で、翔太を少し安心させた。
「覚えてないなら、新しい名前をつければいいんじゃない?」
ラナの軽い提案に、翔太は戸惑いを隠せなかった。
「名前を……?」
「そうよ。せっかく助けたんだし、呼び名がないと不便でしょ?」
ラナが笑顔を見せる一方で、デルクは不機嫌そうに眉をひそめた。
「くだらないことに時間をかけている暇はない。名前なんて後で決めればいい」
「いや、今決めた方がいい」
ラナが即座に反論する。カインはそのやり取りを黙って見守っていたが、ふと口を開いた。
「……リリス、はどうだ?」
その一言に、全員が彼を見た。
「リリス?」
ラナが首をかしげる。
「響きが悪くない。記憶がないなら、これでいいだろう」
カインの言葉に、ラナは頷き、嬉しそうに微笑んだ。
「いいじゃない! 可愛いし、ぴったりだと思う!」
翔太――いや、リリスは、反論する間もなくその名前を受け入れることになった。
「リリス……わかった。それでいい」
新しい名前を口にするたびに奇妙な違和感を覚えたが、彼らが納得しているなら、それで良い気がした。
「さて、ここでの滞在は長くできない。ゾンビが再び群れを成す前に動くぞ」
カインが鋭い声で指示を出す。デルクとラナはすぐに動き始めた。彼らの手際の良さに、リリスは圧倒されるばかりだった。
「リリス、お前も動けるか?」
カインが問いかける。
「……うん」
立ち上がろうとした瞬間、足元がふらついた。リリスの身体はまだ本調子ではないらしい。それでも、彼女――いや、彼は必死に体勢を整えた。
「無理はするな。ただ、置いていくわけにもいかない。ついて来られるか?」
カインの真剣な問いかけに、リリスは小さく頷いた。
「いいか、気を抜くな。この地下施設にはゾンビだけじゃなく、ほかの危険も潜んでいる」
ラナが軽い調子で付け加える。
「何がいるのかは、行けば分かるわよ」
デルクは不機嫌そうにトレンチガンを構え直し、先頭に立つ。
こうして、4人は静かに廊下を進み始めた。暗闇の先に待ち受ける運命を知らないまま――。
ゾンビの描写は抽象的にし、身体的な特徴や動きのぎこちなさを中心に表現しました。