どうして、あの時に彼を殺さなかったのだろう。
予兆はいくらでもあったように思う。それに気付けなかったか、あるいは私が、見ないようにしていただけで。
王都ローデイルの地下。その底の底に口を開けた大穴。そこに彼はどれだけ身を投げただろうか。何度も何度も奈落に落ちて、石壁に叩きつけられて死んで、それでも彼は身投げを止めない。
いや身投げではない。彼はこの穴の更に底へと行く気なのだ。そこに封じられたモノが何であるのかを、既に知っているというのに。
「……もう、やめて」
だから、それだけは許せない。
「もし、あなたが、狂い火に向かおうとしているなら、それだけはやめて」
山領に現れた狂気の亡霊。老剣士の死体に宿ったシャブリリは、あろうことか私を
そして彼は山頂に背を向けて、今ここにいる。
「……私に同情でもしているの? だったらそれは侮辱よ。
これは私の使命で、私の意思。誰にもそれを侮辱させない……もちろん、あなたにも」
いくら言葉を重ねても、彼は止まってくれなかった。それでも、私は言葉を吐き出さずにはいられなかった。
「この世界がどれだけ壊れていても、苦痛に満ちていても。
それでも、命がそこに在ることは、それだけで素晴らしい。そう、思わない?」
私たちはずっと共に旅をしてきた。同じ道を進んで、同じ空の下で、同じ物を見てきた。同じものを感じてきた。
そう、思っていたのに。
「あなたも……見てきたでしょう?」
この世界は……。
彼の褪せた瞳が、私を見ていた。
「――ぁ…………」
忌み捨ての底で、兜を脱いだ彼の顔。何の言葉も無いまま、褪せた瞳だけがすべてを物語っていた。
どうして気付かなかったのだろう。なぜ、気付いてあげられなかったのだろう。
ずっと共に旅をしてきたのに。同じ道を進んで、同じ空の下で、同じ物を見てきたのに。
彼も、見てきたのだ。この世界を。
そして、彼にとって、この世界は……。
鎧もすべて脱ぎ捨てた彼が歩いていく。狂い火の封印。三本指が封じられた、その扉に。
行かせてはいけない。止めなくてはならない。
言葉が、無駄だというのなら。
「――――■■■■!」
はじめて、彼の名を呼んで。
はじめて、彼に刃を向けた。
「いかせない」
彼は何も言わない。振り向きもしない。ただ、歩みだけは止めてくれた。
彼は振り返らなくて、だから、どうしようもなく私の手も刃も震えていることは隠せた。
これで最後だと、そう決意する。
「どうしても行くなら、あなたを、殺す」
今、ここで。
私が。
沈黙は長く続かなかった。彼は再び歩きだして、私の言葉も刃も彼には届かない。
「どうして」
どうして、私の願いを聞いてくれないの。
どうして、狂い火なんかを求めるの。
どうして、私は何もしないの。
力尽きた腕から刃が落ちて、その場に蹲って、耳を塞いだ。
じゅうじゅうと、彼に狂い火の烙印が成されていく音に耳を塞いだ。
その瞬間に、私の使命は潰えた。
「どうして」
どうして、こんな事になるの。
どうして、こんな事になったの。
「どうして!」
眼前に戻った彼に、今さら刃を突きつける。褪せていた瞳は、今はもう禍々しい黄色の炎に焼かれていた。全身に刻まれた指痕はきっと、魂にまで達している。
その姿が私に現実を突きつける。彼と私は、もう相容れないのだと。
「……、……」
もう言葉は届かない。届いたところで、もう意味もない。
だから、ただ踵を返して。
でも、その時はじめて、彼が私の手を掴んだ。
ちりちりと、黄色の瞳が私を捉える。そこにどこか、なぜか、歓喜に近い色を見つけてしまった、気がして。
ぱん、と、爛れた手を振り払った。
「……さようなら」
今度こそ踵を返して、霊の体になって、彼もトレントも全て置いて、私は去った。
だからその時、彼がどんな顔をしていたのか、私は知らない。
▼▲▼▲
地の底で蹲る。狂い火の封印から更に下、黄金樹の深い根の底で、私はただ蹲っていた。
行かなければならない。こんな所に留まっていてはいけない。使命を果たさなければ。次の褪せ人を探して、今度こそ、この身を以て黄金樹を焼いて……。
「……つかれた、な」
きっともう、私の心は折れていた。本当に情けない。彼は数えきれない程の苦難を越えてきたというのに、私は一度の失敗でこの様だ。
行かなければ。せめて、彼を止めなければ。それが、彼にルーンの力を与えた責任だと分かっているのに。
――ならどうして、すぐに彼を殺さなかったの
――私なんかに彼は殺せない
――それでも、止めない理由にはならない
――どうして、彼はあんなことを
――私のために
――私のせいで
自責と後悔ばかりを繰り返す。月も太陽も見えない地の底で、きっと幾日も幾日も私はそうしていた。いっそこのまま、ずっとここにいようかと、そんな事すら考えて。
そうしている内に時は過ぎて。
ついに、その時が来た。
世界に響く絶叫。断末魔じみた炎の音が空を貫いて、地表すら焼き熔かす炎は地の底まで届いた。
だから、私にもそれが見えていた。
焼き裂ける黄金樹。その頂上で咲く、黄色い炎の瞳。それはまるで、巨大な花が咲き誇るような。
声が聞こえる。歌が聞こえる。それは歓喜であり怨嗟であり、彼の私に向けた呪いの言葉にしか聞こえない。
ずっと、ずっと、永遠に。
私に、終わらない呪いの声を。
こんなにも空が燃えているのに
▽△▽△
すべてが灰となった世界。その果ての果てで。
私は、彼と再び出会った。