リエーニエの夜空は広い。それが空気のせいなのか標高のせいなのか、あるいはただの錯覚なのかは分からないけれど、長らく過ごしたリムグレイブの夜空とは明らかに違って見えた。
無数の星々と、一つだけの月。青白く輝くそれは、黄金樹に近いとも遠いともいえない。視線を少しだけ下ろせば、断崖の上に聳え立つ魔術学院の影が見える。そこに至るための鍵は、まだ見つかっていない。そして視線を地にまで下ろせば祝福の光と、その横で船をこぐ彼の姿と、一心不乱に手を動かす小さな影だけが見えた。
接ぎ木のゴドリックを倒した彼は、遂に大ルーンを手に入れた。老醜が溜め込んでいた犠牲者たちのルーンも彼の物となり、それを更なる力に変えて私が彼に授けた。円卓の長も、二本指も彼を認めた。彼は名実ともに、王を目指す者となったのだ。
「“褪せ人よ、大ルーンを求めるのだ”」
「君は、どの大ルーンを求めるのだね?」
湖のリエーニエ。城を抜けた先に広がるそこは一面が水に沈んだ神秘的な地で、でもそこもまた、褪せ人を歓迎はしていなかった。
過酷な戦いが続いている。王を目指す旅に安息が無いことは変わらない。変わったことといえば、彼に変わった知り合いができたことだろうか。
今もまた、小さな手がチクチクと針と糸を動かしている。単調ともいえる作業は、でも見ていて不思議と飽きない。だから、つい声をかけてしまった。
「ねえ、」
「うわええあぇ――っ!?」
つい、姿を現わして声までかけてしまったのだけれど。裁縫に集中していた小さな影――お針子のボックは絶叫と共に大きく跳びあがった。私の方が心臓に悪い。
「え? は? え、だ、誰だいあんた、ていうかいつの間に、え?」
「ごめんなさい、驚かせるつもりは……。あの、針、大丈夫?」
「へ? あ! 痛い痛ててて! ご主人さまの御召し物に血が! オイラの血が!」
彼の服の前に自分の怪我を心配してほしい。指に刺さった針をそっちのけで血染みを取ろうとするボックを宥めて手当をして、そんな大騒ぎの中で彼はぐっすりとあぐらをかいたまま起きもしなかった。
「本当にごめんなさい、急に声をかけてしまって」
「大丈夫だよ。“お針子は指を刺した数だけ腕を上げる”って、母様も言ってた」
指の怪我も服の染みも一段落して、ボックはまたチクチクと針を動かす。過酷な旅路で酷使される彼の装備はすぐにボロボロになってしまう。彼も私も頭を悩ませていた問題に対して名乗りを上げたのが、この小さな亜人だった。
簡単な修繕なら彼でも済ませられるけれど、武骨な戦士の手では最低限のことしか出来なくて。その点、お針子と名乗るだけあってボックの腕前は文句のつけようもない。対価を求めてこないことが心苦しいぐらいだった。
「お礼だなんてとんでもない! ご主人さまにもらった恩は一生かけても返せないぐらいさ! しかもこうしてお針子の修行までさせてもらえるだなんて……うぅ、なんて良い人なんだい……」
良い人すぎるのはどちらなのか。少しだけ心配になってきた。ぐすぐす鼻を啜りながらボックは針を動かす。その動きには何の迷いもないように見える。
……未だ、迷いを禁じ得ない私と違って。
「あなたは、お針子になるようお母様に命じられたの?」
漠然とだけ覚えている。少しだけ思い出せた。私は、何かの使命を母から授けられた。焼け爛れ、霊の体になってでも果たさなければならない使命を。
思い出せなくても、きっとそれはエルデンリングに関することで。だから私は彼と取り引きをした。……私の使命の為に、彼の使命を利用している。その死も戦いも、全てを彼に押し付けて。
「それは、あなたの意思なの?」
子は母に従うしかないのだろうか。母から生まれるとは、そういうことなのだろうか。
沈んでいた右目を上げれば、つぶらな瞳と目が合った。ボックは初めて針を止めて、私の話を聞いてくれていた。やがて、小さな手で帽子をとった頭を掻いてから。
「うーん……? よく分かんないけど、お針子になるのはオイラの夢だよ?」
あっけらかんと、私の問いの意味が分からないとばかりの答えに、私は。
「え……でも、あなたのお母様もお針子だったって」
「うん、母様はお針子だったし、オイラもお針子になりたいんだ?」
「え、と」
「母様はすっごい上手だったんだ。だから、オイラも母様みたいになりたいって思ってるんだけど……何か変なこと言っちゃってるかい?」
つまり、お針子になる道は母が示してくれたけれど、それを進むことを決めたのは、自分自身だと。そう、言っているのだろうか。
その言葉を聞いて、胸の内の
「ごめん……オイラはバカだから、あんたに聞かれたこと分かってないかもしれないや」
「いいえ、そんなことはない。……ありがとう、ボックさん」
「さん!?」
何故か驚いたボックさんが、また指に針を刺してしまって。夜中に大騒ぎする私たちの声に飛び起きた彼が、剣を手に辺りをキョロキョロ見回していた。
▽△▽△
は、と懐かしい夢から醒めれば、灰の中で倒れ伏していた。傍で座り込んだトレントが、私が灰に埋もれないよう壁になってくれていて。頼もしい友の鼻を撫でてから、私は立ち上がった。
灰。灰。灰。見渡す限りの灰。何の
「行かないと」
トレントにしがみつくようにして歩く。足首まで埋まる灰の道は、私が進むことを拒んでいるみたいだった。それでも、私は行かなければならない。
「行かないと……」
そう、決めたのだから。
王のお針子はもういない。王に相応しくなろうと、美しくなろうと、生まれ変わってしまった。ただ美しいだけの、もの言わない少年となって。
あの時から、彼は装備の修繕もしなくなった。その姿は常に血と泥に塗れて、ただただ凄惨としていくばかりだった。
与えられた使命を、道を、夢を。それを辿ることが自身の意思だというならば。彼と彼の結末も、彼ら自身の意思だったと言うのだろうか。
そして、私の結末も。