「今日も残業か……」
佐伯翔太は、オフィスビルの窓に映る自分の疲れた顔を見つめながら、深いため息をついた。
デスクに置かれたスマートフォンの画面には、午後11時を指す数字が冷たく光っている。
システムエンジニアとして働き始めて3年目。
プロジェクトの締め切りに追われるのが、もはや日常と化していた。
「佐伯さん、お疲れさまです」
仕事を続けていると、同じプロジェクトの後輩、藤井美咲がそう声をかけてきた。 彼女もまた、疲労の色を隠しきれない表情を浮かべている。
「藤井さんこそ、お疲れさま。今日はもう上がっていいよ。残りは僕がやっておくから」
「でも、私も手伝わないと……」
「大丈夫。君は明日の朝一で顧客との打ち合わせがあるんだろ? ちゃんと休んでおいた方がいい」
美咲は申し訳なさそうな表情を浮かべながらも、翔太の言葉に頷いた。
「じゃあ、お先に失礼します。佐伯さんもあまり無理しないでくださいね」
美咲が去った後、オフィスにはキーボードを叩く音だけが響いていた。
デバッグを終えたプログラムを確認しながら、翔太は自分の人生について考えを巡らせていた。
25歳、独身。
休日の趣味といえば、ゲームと漫画。
たまに出会い系アプリを覗くものの、仕事の忙しさを理由に、真剣な出会いを求めることから逃げ続けていた。
「このまま……でいいのかな」
そう呟きながら、翔太は最後のプログラムを完成させた。
時計は深夜0時を回っている。
「よし、今日はここまでにするか」
カバンを手に取り、エレベーターに向かう。
普段なら社用車を使うところだが、今日は車検に出していたため、徒歩での帰宅を余儀なくされていた。
外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でる。
初春の夜は、まだ冬の名残を留めていた。
スマートフォンで最寄り駅までの経路を確認しながら、人気のない歩道を歩き始める。
暗い路地の角を曲がったとき、翔太は足を止めた。
前方の街灯の下で、小さな影が震えている。
よく見ると、それは片足を怪我したらしい子猫だった。
黒と白のまだら模様の毛並みが、街灯に照らされてわずかに光っている。
「大丈夫か?」
翔太が近づくと、子猫は怯えたように身を縮めた。
しかし、逃げ出す様子はない。
おそらく、怪我のせいで思うように動けないのだろう。
「……仕方ない、取り敢えず、家まで連れて帰ってやるか」
そう言って翔太が手を伸ばした瞬間、子猫が驚いて車道に飛び出した。
「危ない!」
咄嗟に子猫を抱き寄せようと、翔太も車道に踏み出す。
その時、左方向からトラックの眩い光が迫ってきた。
ブレーキの音が鳭り響く。
しかし、間に合わない――。
「ぐっ!」
激しい衝撃と共に、翔太の体は宙を舞った。
しかし、腕の中の子猫だけは必死で抱きしめていた。
そのおかげか、翔太がアスファルトに叩きつけられた後も、その腕の中にいた子猫は無事に動いていた。
「良かった……」
暗くなりゆく意識の中で、翔太はかすかに微笑んだ。
痛みはもう感じない。
ただ、漆黒の夜空に浮かぶ満月が、徐々にぼやけていく。
『せめて、もう少し……意味のある人生を……』
その願いを最後に、佐伯翔太の意識は完全に闇に沈んでいった。
道路に広がる赤い水たまりに、満月の光が静かに映り込んでいた。
++++++
「……う~ん」
かすかな声が、自分の喉から漏れる。
意識が徐々に表面へと浮かび上がってくる。
全身が重く、まるで深い眠りから覚めるような感覚だった。
「ここは……」
翔太は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
どうやら、近代的なビルの谷間にある路地裏にいるようだ。
見上げれば、高層ビルの合間から夜空が覗いている。
それから、翔太は慎重に体を起こす。
不思議なことに、痛みはまったくない。
周囲を見回してみると、トラックに轢かれた時に居たオフィス街とは全く異なる場所にいるようだった。
見覚えのない商業ビルが建ち並び、道路標識にも聞いたことのない地名が書かれている。
(確かさっきまで、夜のオフィス街で……)
スマートフォンを確認しようとしてポケットに手を入れた瞬間、翔太は違和感を覚えた。
身につけているのは、見慣れない上着。
ポケットの中からは、見たこともない型のスマートフォンらしき端末が出てきた。
「これは一体……」
通りに出ると、さらに強い違和感が翔太を襲う。
行き交う人々の大半が女性だった。
それも、尋常ではない割合で。
スーツ姿のビジネスウーマンやカジュアルな服装の若い女性たちが、まるで当たり前のように大多数を占めている。
(おかしい、明らかにおかしい)
たまに見かける男性は、女性たちに丁重に道を譲られ、まるで貴賓でも扱うかのような態度で接せられている。
コンビニの店員も、タクシーの運転手も、警備員も、ほとんどが女性。
その光景は、翔太の知る世界の常識を大きく覆すものだった。
「すみません」
裏路地を出て見慣れない大通りに出た翔太は、通りがかりのサラリーウーマンに声をかける。
「ここは……どちらでしょうか?」
「えっ? ここは青石区ですよ。体調でも悪いんですか?」
女性は心配そうな表情を浮かべながら、まるで貴重な物でも扱うかのような慎重さで翔太に接している。
その態度にも、また違和感を覚えた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
そそくさと歩き出す翔太。
街並みは一見すると普通の都会のそれだが、至る所に小さな違いが存在していた。
広告の多くが男性をターゲットにしているように見える。
ファッションブランドのポスターも、男性モデルが中心。
さらに目を引いたのは、「男性専用車両」の表示がある電車や、「男性優先」と書かれたエレベーター。
(これは夢なのか?それとも……)
死んだはずの自分が、見知らぬ場所で目覚めた。
しかも、明らかに常識が異なる世界に。
その事実を受け入れるのに、まだ時間がかかりそうだった。
翔太は混乱する頭を抱えながらも、とりあえず安全そうな場所を探すことにした。
これが夢だとしても、現実だとしても、まずは状況を整理する必要がある。
街灯が次々と灯り始める中、佐伯翔太の新しい人生は、まだ見ぬ展開を予感させながら、その一歩を踏み出していた。
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