太宰は寝坊した。必ず就業時刻までに探偵社へ行かねばならぬと決意した。太宰はちゃらんぽらんである。国木田で遊んで暮らしてきた。だが、今の太宰にその様な気持ちは一片たりともなかった。
太宰はせんべい布団から手を伸ばし、時計を引っ掴む。これから出発すれば十分に間に合うと確信したあと、布団をはねのけ、身支度もそこそこに寮を飛び出した。向かうは一路、探偵社である。
最初太宰は、急がずとも十分間に合うのだからと、持ち前の暢気さでぶらぶら歩いていた。途中の商店でパンを買い、それを食べ鼻歌を歌いながら、あっちへふらふらこっちへふらふらと歩いていた。
だが、ポケットに入れていたスマートフォンをふと見た時、太宰の足ははたと止まった。
南無三!家の時計は壊れていたのだ。このままでは到底間に合わぬ。
太宰は腕を振り、足を振り、わき目は振らずに駆け出した。
走れ、太宰。太宰は自らに言い聞かせる。
お前は果たして友を悲しませる男なのか、いや違うだろう。ならば約束の刻限に間に合わせなければならぬ!
太宰は走った。額から大きく汗を流し、腕を使って風を切り裂きながら、一目散。
道行く人は皆彼を見、時には応援し、時には声をかけ、皆彼の力となった。
太宰は皆の声援を裏切ってはならぬと奮起一番、さらに力を込めてひたすら道を駆け抜けた。「ハッ!」太宰は道を遮るものを発見した。
「そこを除け、退いてくれ!」太宰は叫んだ。だが果たして遮るものは太宰の言葉を聞き入れず、一転、太宰に襲い掛かる。その正体は獰猛なる犬だ。歯茎をむき出しに、涎を滴らせ、自らの敵を前に久しく忘れた本能を発揮し、今にも飛び掛からんと唸っている。「我が宿敵よ、怨敵よ!我らの相容れぬは承知の上だ!」太宰は叫ぶ。「だが、それでも、この一時ばかりは引いてくれぬか!友が待っておるのだ。この太宰の到着を今か今かと待っておるのだ!」
犬は獰猛に唸り、太宰の言葉も論語とばかりに聞き流す。そのまま攻勢、太宰に飛び掛かり、太宰の服や体など、至る所に噛みつき、引っ掻く。だが太宰もやられてばかりの者ではない。悲憤慷慨、己の非運を嘆いて一喝、「友のためだ、悪く思うな!」
噛みついた犬をそのまま引っ掴み、一撃、二撃。そのまま振り回し、犬の怯んだすきに一気呵成とばかりに走り去った。
そのまま犬の追ってこれぬほどの距離を韋駄天、一息に駆け抜けた太宰は、水にぬれた犬のような胴震いをしてゼイゼイ荒い息を吐く。そのまま一喝、更に歩を進めた太宰の前に横たわるのは先日の豪雨にて増水した川であった。嗚呼、何たる悲運!何たる不幸であろうか!
太宰は地面に突っ伏し、「おお、シラクスの大川よ。我が最も近しいオケアノス*1よ」と呟くのみであった。そのまま太宰は男泣きに泣き、呆然とただ神に祈った。「嗚呼、神は照覧か、我が純白たる友愛の心を。ならばこの荒れ狂いたる大川を鎮め給え!」
ああ無常。太宰の祈りは果たして天に届かず、大川はますますその激しさを増し、太宰を飲み込み、木っ端みじんにしてやろうとごうごうと途轍もないうなりを上げるのみであった。太宰は辺りを見渡す。いつも使う橋が無い。飲み込まれてしまったのか、道が違ったのか。
「潜り抜けるほかに道は無し」そう決心した太宰は、一転大川と反対方向へ向かい、十分に距離を確保して川に飛び込もうとした。
「おやめくだされ」すると、太宰にしがみつき懇願する何者かが居た。老人だ、翁である。
老人は太宰を見つめながら、声を震わせて云った。「おやめくだされ、大人しく橋をお探しくだされ。毎年この時期には、川はここまで増水するのです。勇敢な若者が一体何人死んだかお分かりか。この爺の哀れな嘆願で御座いまする。どうか橋をお探しくだされ」
太宰は得体のしれぬ恐ろしさを背筋に刻み付けながらも、友のためだと奮起し、老人に云った。「元より友に捧げたこの身。命の危機など承知の上です。橋を探していては間に合わぬかもしれぬ。そうなったとき、どうして私は友に顔向けできましょうか」
だが、翁も諦めぬ。必死に言葉を尽くし太宰を止める。
「嗚呼、嗚呼、愚かなことだ。この濁流を泳ぎ切るよりも、橋を探す方がずっと早う御座いましょう」だが太宰も負けてはいない。友と、彼の、誇りの問題なのだ。太宰は翁に反駁する。
「だが、探す方向が違うやも知れぬ。万が一にも遅れるわけにはいかんのだ。嗚呼、ご老体。実の所私が先ほど言ったことはすべて、言い訳だ。私は何か、見えない大きな力とでも云うべきものに引きずられているのだ」そう云ったきり、太宰は翁を引きはがし、川へ飛び込んだ。
翁は太宰の姿が水中に消える様を見ながら、「嗚呼、貴方は気が狂っておられる。ならば往くが良い。往って友がために死ぬがいい」と云ったきり、すっかり沈黙した。
太宰は水に飛び込んだ。錐揉み、錐揉み、上下左右の間隔が全く分からぬ。息はどんどん苦しくなる。腕を動かし、足を動かし、太宰は必死に対岸へ向かって泳いでいく。だが、太宰はどんどん流されるばかりで欠片も進まぬ。嗚呼、やはり無茶であったのだ。太宰の心までもが水に沈んだようにどんどん苦しくなってくる。時は刻一刻と過ぎていく。
これまでの我が行いのなんの恥じることがあろうか。遅れようとも良いではないか。勇者に不釣り合いな考えが胸に巣食う。太宰はがぶりと水を飲みながらも、声高々に叫んだ。「立ち去れ、悪い夢よ!私は友を裏切らぬ」
太宰は水の中で身震い一つ、再び波をかき分けかき分け、獅子憤然と泳ぎ始めた。
私は友の為にも、自らの過去の行いの為にも、遅れるわけにはいかんのだ。
太宰はまるで何か恐ろしい怪物から逃げるように猛然と進む。否、実際に逃げておるのだ。自らの弱い心という、最も困難な怪物と戦っておるのだ。その儚くも美しい行いと心を見、遂に神も憐憫を垂れた。太宰は命からがら、対岸へしがみついたのだ。
嗚呼、有難い。
太宰は今は一刻も無駄には出来ぬと、ぜいぜい荒い息をしながら先を急いだ。
だが、急げ急げと自らの足に檄を送れど、まるで動かぬ。
そも太宰は別段運動が得意と云う訳ではないのだ。これではいかんと一喝、一歩二歩と歩みを進め、遂にがくりと膝をついた。太宰はついに限界を迎えたのだ。
太宰はこれではいかんと、数分とはいえ休憩することとした。太宰は河原にごろりと寝ころび、天を仰ぐ。雲は悠然とその模様形を変え、頭上の木はざわざわと揺らめいている。太宰は僅か数瞬、再び決意を固め立ち上がった。
太宰は走る。再び猛然と走る。だがやはり、疲労が積もる。太宰の速度は最早早歩きのそれと変わらないほどだ。再び太宰の心に悪い夢が巣くう。
お前は十分頑張ったのだ。動けなくなるほど走ったのだ。韋駄天、宿敵を打倒し、荒波を乗り越え、猛然ここまで走り抜けた太宰よ。お前の行いは神も照覧、間に合わずとも神は責めまい。もう諦めて、再び寝てしまえ。お前は頑張ったのだ。嗚呼、太宰!愛と誠の信徒よ、疑うのならばお前の胸を十字に割って、友愛と実直の心のみで動くこの深紅の心臓をお目にかけよう!
太宰はその言葉に立ち去れと一刀両断、再び奮起一番腕を振るう。太宰は走った。疲労した足を叱咤し、乾ききった喉に喝を入れた。黒い風のように、道という道を駆け抜けた。心はもはや澄み切っていた。
「私は裏切らぬ!私は友を信じ、友もまた私を信じている!」
その叫びは風に乗り、木々を揺らし、鳥を飛び立たせた。太宰はまるで雷のごとく地を踏みしめた。時折、道を横切る車や自転車、通行人さえもその勢いに息を呑み、道を譲った。太宰はほとんど全裸体であった。
「走れ、太宰!信頼とは、走り続ける者にこそ与えられる特別なる栄誉なのだ!」
太宰は己を鼓舞した。両腕は翼のごとく振り下ろされ、足は槍のように前を突いた。もはや汗も涙も区別がつかず、ただ顔を伝う雫が地面に落ちるのみであった。
探偵社はもうすぐそこだ。しかし、太宰の体はついに限界を迎え、膝が震え始めた。意識が遠のき、視界がぼやける。
「いや、まだだ!私は裏切る訳にはいかぬ!」太宰は膝に手を付き、ほうと大きくため息を吐く。良し、有難い、まだ私は走ることが出来る。
そして太宰は、神々に祝福された勇者は、再び走り出した。進みゆく秒針の、何十倍も早く走った。
やがて探偵社のビルが見えた。何故か人がいつもと比べ多い。太宰は掠れた声で「そこをどいてくれ!私だ、太宰だ!太宰が来たのだ」と叫び、人々を掻き分ける。不格好に走りながら、太宰は最後の一歩を踏み出し、扉を勢いよく押し開けた。
親戚のタワマンにお呼ばれしたんですが、行き方がよく分かんなかったので結局非常階段で親戚の住む18階くらいまで登りました。
結局迷って私の苦労は無に帰しました