なぜ頭脳労働を基本とする軍略家でそれも魔王軍内では特に若輩のニーバが、わざわざ中隊規模の手勢を自ら率いて斥候に赴く必要があるのか。その理由は自らの主君であるフォルウの赦しのない独断専行によるものだからだ。
(あそこね…………)
彼女の座右の銘は「フォルウの目となり耳となる」と言うもの。魔族と言う種族でもなければ大魔王と言う絶対君主でもない、正真正銘フォルウ個人への盲目的かつ狂気的な忠誠心が根底にある。彼女が“異変”によって出現した地域の中でもなぜわざわざこのような危険地帯を選んだのかは、間もなく分かることだろう。
現在自らが率いる部隊とともに雪の寒空の中静かに立ち止まっている彼女の視線の先には、二つの大きな物が地上から見えている。一方は小規模ながら頑強なコンクリート製で見るからに掃除が行き届いた建物が一つで、その他に見えるものはだだっ広い銀世界と地平線だけ。
もう一つは二つの
雪山育ちの自分の前では雪道など障壁にすらならないはずなのに、ここに来るまでに何度か吹雪や雪崩に容赦なく行く手を阻まれ、兵の何人かは雪崩に埋もれて凍死しそうになり、挙げ句未知の病に侵されやむ無く城へ帰らせた兵もいる。
それもこれも当たり前だ。自分達こそが頂点捕食者でありたまに自分達が
注意力を喪失しているに等しい精神状態のまま彼女が接近する事を選んだのは、見るからに敵が潜んでいそうなコンクリート製の建屋であり、恐らく打算や確実性ではなく本能的に脅威を排除しようとした結果であろう事は容易に想像がつく。
しかし配下の兵たちは自身の上司の判断に疑問を抱いていながら誰も異見を具申しなかったがために、既知の技術で作られた未知の兵器による手痛い洗礼を文字どおり全身で浴びる羽目になった。
「ニーバ様!お身を低く!」
自身のすぐ近くを歩いていた手勢の警告でニーバはようやく我に帰り、慌てて雪の中に隠れるように身体を伏せる。その直後無数の金属の粒が自身の頭上を通過し、目の前に立っていた兵の何人かが身体に空いた指の太さほどの穴から血を吹き、そのまま力なく倒れ伏す。
当然ニーバに警告を促した兵も眉間に銃弾を食らっており、顔と後頭部から脳の一部をはみ出させながら絶命している。
「ニーバ様!?ご無事ですか?!」
「いったい……なにが……」
ニーバも生き残った兵も完全に気が動転し、これに伴い進軍は完全に止まった。対する前線基地では自分達が居る方角に攻めて来る謎の前時代的な武装の軍が、たった銃数発の対物狙撃銃による迎撃で混乱に陥り動きを止めた事に拍子抜けすると同時に、その隙を利用して大急ぎで資材の撤去を進めている。
彼女らは義勇軍や私兵でもなければマフィアなどと呼べるものでもなく、国家に属する
「おい、ウイルスのサンプルの保冷も忘れるなよ」
「分かってますよ」
脱出作業をする兵士の一人がウイルスを保存している液体入りのアンプルを保冷装置に並べ、その隣では溶かして飲料水に使うのであろう雪を
もう目と鼻の先に敵となった集団が近づいているのに相変わらずのんきなもので、雑談をしながら作業をしている人物さえちらほら見受けられるばかりか、
この基地だけでも今まで戦ってきた発症者の手で殺された仲間も多いはずなのに、「銃であっさり死ぬ生き物がいる」という事実だけでここまで油断できるものなのか、それとも
それでも狙撃兵たちが脱出のため既に持ち場を離れている事と、その作業に手間をかけすぎているために攻撃が止んだと見た魔族の兵隊は、迎撃を警戒しつつずんずんと基地に近付きつつあるので危険は増すばかり。それを理解していない人間は誰一人としているはずはないが、
エンジンを回して暖房を動かし車内を暖めるだけでも燃料を使う。時間も有限である以上迅速を求められると言うのに誰も行動に移さない。そして作業開始からちょうど二十分、最後の積み荷が幌つきのトラックの荷台にくくりつけられた時、ようやく
「それじゃ脱出開始!【
指示された兵たちが各々機動車やトラックに乗り込むのを確認した後、彼女は
「
斯くして
ここまでの過酷を極める道のりと道中での数々の失態を思い出せば、ただでさえ未熟な自分の独断の行動が徒労に終わった事実はフォルウに顔向けできないほどの損害であり、しかもここまで歩いて来た往路は強まりつつある吹雪のせいでもう通れそうになく、敵が逃げて行ったのであろう反対側を見ても膝上まで積もった雪が延々と続き轍を追う気力もない。
(しかし…………これ程の出城があれば充分籠城できただろうに…………)
自分と兵の体温維持に回していた魔力を使って簡単な魔法を使ってみるが、あの短い時間で遂行したのか、それとも前々から準備していたのか侵入者を殺す罠以外の全ての物資を残らず持って逃亡したようで、敵の正体をまるで掴めない。
何より「戦って勝てる算段がない」と判断したのか魔王城には届かないものの、少なくとも普通の
(まずはフォルウ様に報告を……)
彼女は一度その場に座りまず城の連絡係に念話を繋ごうとしたが、ちょうどその時目の前に人影が現れた事に気づき何事かと顔を上げてみると、なんと魔王フォルウが片膝をついて自分を睨むように見つめているではないか。
突然現れた自らの主君の姿にニーバは顔面蒼白になり、兵たちも戸惑いを隠せない様子で
他の魔王の下であっても問答無用で粛清されるに足る大失態を犯したという恐怖は、その場にいる者全てを恐怖の余り年齢や身分の甲斐なく容易に失禁させる。「殺される」と確信したニーバの息は浅く、声も出せない。
「ニーバ」
「ぁっひゃいっ!!」
沈黙を破ったフォルウの呼び掛けに顔どころか全身の穴から出るもの全てを、垂れ流すどころか溢れさせるように漏出させながらニーバは情けない声で返事をした。絶望的な力の差を前に死を覚悟した彼女に次にかけられた言葉は、誰一人として予想すらしていなかったものであった。
「気付くのが遅くなって済まない。この吹雪の中、よく生きていてくれたな」
彼女の涙と鼻水とよだれにまみれた泣き顔は一瞬拍子抜けした表情に変わり、すぐにまた顔と言う顔から液体を溢れされたのは語るまでもない。