ゼンヒがバンリのところに来てから、一週間は経っていた。
彼女は何もせず、ただ家の主に甘えて生きてる生活をしている。
それでも、ゼンヒの傷は全く癒えずにいた。
一週間程度で癒えるものでもなかったが、一週間経っても来た時と同様に、いや、それよりもひどい状態になっていく。
助けてと言い、やってきた当初はまだ鬱なだけで動けていたものの、3日も経てば自分で動けないほどに精神が深く抉れていたのである。
「ゼンヒ?食べないのですか」
「……」
スプーンでただスープを掻き回し続ける。舌に味という刺激が来るだけでも、いや、そもそも感触が来るだけでもかなりストレスが掛かって吐きそうになっていた。
「……無理をしなくていいのですよ。本当にお腹が空いて死にそうになったら、意地でも人は食べるものです。この様な食事の形を取るのは、あくまで健康的な形式を保つためのものですから」
彼女の状態を見れば見るほど胸が締め付けられる思いがして、泣きそうになってしまうバンリ。それでも一緒に居ると言った事を全く後悔せず、笑顔になれるために頑張るのは健気だと言えた。
「大丈夫ですか?もう、下げましょうか」
「……ああ」
返事は出来ているものの、それ以外が出来ていない。バンリは彼女の分をよそったスープにラップをかけて冷蔵庫に入れる。
「お腹が空いたらあの冷蔵庫から取って食べてくださいね」
「うん」
ずっと、こんな感じなのだ。
家に一人で留守番させる事はできない以上、通販で色々なものを取り寄せてから料理している。しばらく店を閉じるのも考えれば、食材を無駄にしないためにも店のものを使っていたりもする。だが、一向に減らないのはゼンヒが滅多に食事をしないから。
「ねえ、バンリ」
「なんですか、ゼンヒ」
「バンリは私のこと傷つけないよね?」
「傷付けませんわ」
「じゃあ、私がバンリを傷つけても、やり返したりしないよね」
「ええ」
「……」
バンリの言葉に、嘘がなかった。
嘘がないからこそ辛かった。
自分が望んだことを与えてもらえてるのに、その相手を脅かしている。
そんなことをすれば捨てられる可能性だってあるのにやめられない。
喧騒から離れて癒されることを望んでいるのに、離れたらもっと恐ろしいものが待っているような気がして安心できなくなるのだ。
「まだ、日が昇っていますわ。お散歩はいかがです?」
「いやだ」
「……わかりました」
彼女が奴隷になっていくのもまた耐え難い屈辱なのに、そうなってる要因が自分なことにも嫌気が差した。
前の自分だったら絶対そんなことさせないという自信もあった。人は自由であるべきだ、運命や何かに過度に縛られることを嫌ったはずだ。それは自分も他人もそうであったと、言えるはずだ。
なら今の自分はどうだろうか。どうしてこんなことをしようと、思うまでに落ちぶれた。
カザミの言う通り、今に過去はあまり意味はないのかもしれない。
「_____ごめん、寝たい」
「ええ」
まだ昼なのに、寝たいと言うのも変な話だと思ったが、お昼寝という常識さえもすっぽ抜けるほど見たくもないものが邪魔をしているのかもしれない。
彼女の面倒が見やすいように、一回に寝室がある。ゼンヒを乗せた車椅子はリビングを出て、寝室へ向かった。
廊下の花瓶にある花は枯れ、自分の命を託す相手も、授かる相手もいない綺麗な死体に埋まった道を項垂れている。
(やはり、貴女はもう_____)
情けないとか、面倒だとか、バンリは思うことはない。
ただ、ただ悲しい。
陽は昇ってるのに笑顔になれないこの関係が。
寝室に入れば広く、ホテルと大差ない。その奥にある大きめのベッドに、二人は向かう。
「少し、持ち上げますわ」
「____」
バンリが彼女を持ち上げる。
布団を奥側に折りたたみ、ゆっくりと寝かせようとしたその時だ。
「きゃっ」
そんな悲鳴が、部屋に短く響く。
持ち上げた相手が、急に自分の脇腹を掴んでそのまま転がり込むように布団にダイブして、自身が動けないほどの力で腕を押さえている。
「ど、どうしたの、ですか」
「______」
自分が介護している相手は、ものすごく悲しそうな顔をしている。
「傷つけられてもやり返さないって、言ったのはそっちだ」
「ええ、嘘ではありませんわ」
「じゃあ、今ここでお前を犯しても何の罪にも問われないな」
「____ええ」
否定しなかった。
否定しなかったが故に、ゼンヒは深く傷つく。
「私の生まれた理由を知っているんだろう?」
「知っていますわ」
「なら、わかるよな」
ゼンヒは今押し倒した相手の胸に、手を
「私はどうやら、こうしてハクジツを押し倒して犯したらしい。何夜も何日も、お互いの汗と愛液に塗れるように」
「……」
「悔しかったら泣いてみろよ」
押し付けられている方は、一切苦しむ様子を見せなかった。
それは、彼女が本当に愛していたから。ただ笑い合える未来が幻想だったとしても、彼女の生きる力になっていたから。その未来が来ると信じていたから、彼女は相手の、陵辱という非道を受け入れてしまっている。
「お前の初めては、どこの誰かもわからない女を自分の欲求のためだけに犯すような奴に奪われるためだけにあった。純潔を失えるのは、人生で一回しかない。悔しがるか悲しめよ」
相手は一切その感情を見せないが、そこに敵対の意思もなかった。それが尚更、ゼンヒを悲しませた。
バンリは理解している。目の前の相手には深く、直視するのも恐ろしすぎる傷があることを。
その傷を乗り越えるには甘やかすだけでもダメだと、厳しくするのも大事だと。
何よりその役目は相手と敵対し、最悪和解できない溝が出来る覚悟が必要であった。それを、報酬があるとはいえ全力でやり切ったやつがいる。
カザミだ。
彼女は、その役を引き受けた。そして実際に彼女が復活した直後にやってのけた、彼女の固まった心にひびを入れる作業を。
そのひびから恐怖の正体を覗かせるから彼女はこうして、苦しみもがいている。それでもこの苦しみが世界に踏み出す勇気と力になることを知っていた。
ならば、カザミのやってきたことを無駄にしないためにも、ユリやショウコ、自分には出来なかったことをやってくれた彼女に報いるために、何よりもそれが愛する者のためにやってきてくれたことであった以上、純潔"程度"がなんだと思えるほどにバンリは覚悟を決めている。
覚悟の正体を知らないまでも、自分に犯されても後悔しないという意思があると、そう確信が持ててしまったゼンヒの心は、血を流す。
「ほら、どうしたのですか。私は貴女の隣にいます、傷つけるものも追い払って、貴女のために全てを投げ捨てる覚悟です。でも、嬉しい。純潔は貴女に"捧げる"ことができる」
自分の胸に当たってる手に、自分の手を乗せて微笑みかける。
「さあ、自由に。貴女が思うようにめちゃくちゃにして」
「……っ!」
ゼンヒの顔は、本当に恐ろしいものを見たと言わんばかり。
無茶苦茶にしてやろうと、すでにこの苦痛から逃げるためにと左腕を伸ばそうとしたが、そこに彼女はいない。ずっと横になっているバンリのどこも掴んでいない。
そう、このベッドを最初に濡らしたのは。
ゼンヒの涙だった。
「_____酷いよ、どうしてそんな、そんなことを言うの」
「貴女のことが好きだからでしょう?貴女の過去は、扇堂リンネでもあり、天衣セツカでもあった。でも今は違う、扇皇ゼンヒです。私は扇皇ゼンヒ"が"大好きなのです。その意味は分かるはずです」
汚すには躊躇うほどの、愛だった。
そこには恋愛があった、性愛があった、故に彼女が犯されることに忌避感がないのを知っていた。
だが、それで片付けてしまうには、ひどく輝いた博愛がそこにある。
「わかりたくなかったそんな事!だって、分かっちゃったら、分かったら_____」
それは彼女の慟哭。
自分が正義の味方だった時には、その意味を理解していた。理解していただけじゃない、それがあったから警察として頑張れた。
その警察であまりに嫌で、傷になることがあった、それを誰も癒してくれずに遠ざけたその怨念を肯定する過去を自分が持っていた。だからその過去に身を任せて、自滅するように正義を粉々にしてしまおうと思っているのに。
かつてその高尚な意志で頑張った仲間が、救った相手がそう言ってしまったのだから本当に逃げ場がなくなってしまう。
「私は人殺しで他人に快楽を押し付けて、その財産で遊ぶただのクズだった!それでよかった!よかったじゃないか!だからこんな人生要らなかった、バンリを犯せばその人生に戻れるはずなのに!そんなこと言わないでよ!」
「貴女の人生は、貴女にしか決めれませんわ。でも、どの人生でも貴女は貴女。ならどの貴女でも愛します。守ってあげます。どれだけ羽が毟られて、翼を切り落とされて、手足や喉が潰れ、目が見えなくなっても貴女のことを」
その言葉を遮るように、ゼンヒの絶叫が響く。
声は窓も何もかも揺らして、そこまでしてしまえば相手の言葉は一切聞こえないという心の壁にもなってくれると信じた。
それでも、一度聞こえた言葉は心を揺らして話さない。暖かいと言う感触さえ、彼女には苦痛となった。
「ゼンヒ」
ここまで傷つけられて、血が流れればもうゼンヒは目の前の天使を犯そうという気すら起きなくなっている。
挙句、その割には一人になると死んでしまうと言う恐怖のせいで、彼女を手放せない。
「う、う____」
人の言葉さえ発せないくらいに悲しみに支配された彼女は、バンリの胸に顔を埋めて泣く。
枕さえゼンヒの涙でべとべとになる。
そんな彼女さえも愛おしいと思ったバンリは、ただ相手を抱きしめて、翼で差し込む陽の光すら遮って守るように包み込む。
「いい子、いい子、ずっとこんな悲しみを背負っていたのですね。大丈夫、いなくなってしまったセツカの代わりにも、私がずっと守ってあげますから」
あまりに博愛な天使は、自分だけに当たる陽の光源を見た。
ただ白く輝くだけの円は、何も答えない。