彼女達の間には、深い溝ができていた。
結局相手を脅すだけ脅して犯すことはしなかったゼンヒは苦しみ続けており、その苦しみから解放される方法もないままに時間が過ぎた。
あの行動からさらに三日経っているが、二人の間に変化はない。
「おはようございます、ゼンヒ」
「うん」
「____ごはん、できてますよ」
「うん」
ただ、二人の間に変化はなくても、一人という範囲で絞れば変化はあった。
時間が経ち、あんなこともあって、ただぼうっとする時間は減って、少しだけ自発的な行動ができるようになったのだ。精神病は基本、そう言ったことができるようになるまで時間が掛かるものだが、ゼンヒは幸運にも行動の有無という点ではできるようになっている。
それが後ろ向きな理由でなければ、素直に祝福できたが。
バンリを犯そうとして出来なかった、自分の勇気の無さに失望している彼女。目の前で変わらず尽くしてくれる相手に触れるのが、前よりも苦痛になったせいで、仕事も何も出来るような状態でないくせして、自分で動けると車椅子から立って動こうとする。それでも手が震え、心の傷が体を邪魔して動けなくなるからまた車椅子に座ってと、PTSDの症状としては酷いもの。
支えてくれるバンリが手伝おうとすると、ひどく動揺して怯えながら振り払ってしまうため、彼女は支え方を変え、彼女がどうしても出来ない料理や洗濯などをするが、食事や生きるために必要な行動をできる限り制限させない方向で支えている。
今日の朝ごはんはガーリックトーストにキノコのクリームスープ、サラダに切り分けてあるローストチキンだ。
(……あの時から、食べるようになってくれてとても嬉しい。嬉しいけれど)
バンリは少しだけ、不安な顔をした。
(だけれども、貴女がどんどん遠ざかっていく気がします。いつか、本当に、急にいなくなりそうな気がして)
目は虚、手を動かしてものを食べていても全くと言っていいほど感情が動かない彼女に、深い哀しみを覚える。
元気になって、一人で、一人で____それが積み重なっていった先がどうなるかが分からずにいる。自分がやりたかったこと、やりたいこと、それが一切わからないまま今生活しているこの状況すら苦痛に覚えたら、消えてしまうかもしれない。その恐怖が、だんだんと彼女を蝕んだ。
それはあんな酷いことをされても、とどまってしまうだけの優しさと躊躇を持った少女だったからこそ、余計に愛して消えることを恐れるだけなのかもしれない。
「____テレビ、つけていいか」
「ええ」
ああしたい、こうしたい、というようになったゼンヒに変化がない。それが吉兆か凶兆かも分からないままに、彼女はただ相手の言うことに頷いた。
テレビでは、あるニュースが映っている。生中継だ。
『こちらはトリニティの紅茶街の様子です!ただいま犯人は二階に立て籠っており、身代金と闘争の手伝いを要求しております。腕に抱えているのは小さいトリニティの生徒です!泣き叫んでは殴られ、言うことを聞かされている様子!』
「ああ」
急いでバンリは彼女のところへ向かい、リモコンを取ろうとする。
「チャンネルを変えるか消しましょう。今の貴女に不必要な傷を与えるかもしれ______」
リモコンを持ち上げようとしたその手に、ゼンヒはそっと手を重ねた。乱暴でもなく、諭すような雰囲気さえ感じた。
「いや、いいよ……ニュースだけで傷つかないよ。バンリがいるから」
「____わかりました。気分が変わったら、自分で変えてくださいね」
「うん」
それは自身をめちゃくちゃにしようとした人間とは思えない態度だ。言葉には優しさを感じ、なんなら信頼さえおいているような気がする。前までと急激に変わって、その変化によってまた不安を感じてしまうもの。
だが、ニュースはたかが二人の市民のために空気は読まない。
『犯人はどうやらこの前ヴァルキューレが捕まえた薬物売買のグループのユーザーだったようで、薬切れによって衝動的に犯罪をしているとのこと。正義実現委員会が囲っているため脱出は不可能なものと思われておりますが犯人は"周辺に爆弾を仕掛けた"と言っています』
バンリは、心配な目でゼンヒを見る。
その当人は、ニュースを見て彼女のことなどあまり考えずに考え事。
(そうか、大変なんだな。自分がやった仕事であんな目に遭うなんて、不幸な人間もいたものだ。だけど、もう関係ない。助けようと思っても、私には信頼できる仲間はいない。それが事実だ。なら、私は何もせずにただ見ているだけ。運がなかったと思ってくれ)
などと、勝手に黙祷しながら見つめている。
『あ、見てください!ヴァルキューレの特別暴力対策課が到着しました!ただいま入ってきた情報によりますと、爆弾駆除かつ増援として入ってきたようです!周辺の皆様は、万が一に備えて離れるようお願い致します!』
(ここよりは少し遠いんだな。まあ、騒ぎが外から入ってない時点で分かりきってはいたが)
ヘリコプターからの映像がズームされ、犯人と人質の状態が拡大して見える。
片方はかなりボロボロになったトリニティの制服を着ており、もう片方は綺麗だが泣いているのがかなり湿っている制服。おそらく犯人は、元、がつくのだろうか。
声は聞こえないが、その少女の顔を、ゼンヒは見つめている。
(かわいそうだな____でも、ショウコたちが助けてくれるんだろ?なら行かなくていいじゃないか)
誰に言われるまでもないのに、ずっと否定を心の中で言い続ける自分の心境に辟易する。
(_____さっきから、なんで自分は誰かに言い訳しているんだ?行かないなら行かないでいいじゃないか。この社会じゃ他人を助けないでダシにするなんていつものこと。それをまさか、何かに言い訳するような偉い人間がいるとも思えない)
それでも、すでに映ってない画面に、さっきまで映ってたはずの少女の顔が離れない。
(忘れろよ。バンリが自分を守ってくれる、それでいい。どうせ守ったとしても裏切られるだけ、あんな奴らの同類になんかなりたくない。その為にわざわざ彼女の家に転がり込んで)
自分が犯そうとして、手を止めたことを思い出す。
(クソが、なんであの時バンリをぐちゃぐちゃにしなかったんだ。彼女をぐちゃぐちゃにしてしまえばあんな女のことなんてすぐに忘れたのに)
手を止めてしまったことが、良きことだと思える道徳の世界で育ってしまった。それゆえに、テレビにまた映った、救いを求める少女の泣き顔が目を閉じても反芻してしまう。
(誰かが救うんだ!救えなかったらただ一人死ぬだけだ!それでいいだろうに!私があんな思いをしてまで、誰かを救う理由なんかないんだ!)
自分に言い聞かせるように、唇を噛み締める。
なんであの少女にずっと心が乱されてるのだろう、それに向き合おうとすれば傷つけられたことを思い出し、助けようとすれば傷を乗り越える必要が出てくる。その必要性にストレスを感じ、逃げようと必死になればなるほど思考はそのことに集中して逃げられない。
「ゼンヒ_____」
その苦しそうな様子を見かねたバンリは声をかけようとするが、ゼンヒは気づかない。
だが、その苦しみを一度、掻き消すように響く音がくる。
ジリリリリリリ。
スマートフォンからだ。黒電話のような音が鳴るように設定されている。
「……は」
「もしもし、別天です」
バンリが電話に出ることで止まった。
「ええ、ああ、すみませんしばらく親族の様子を見てまして。いえいえ、そうお気になさらないで。しばらくこちらからも連絡をせず申し訳ございません。あ、介護の方はお気になさらず_____え?まさかそんなものを?わざわざ、なんとお礼を申し上げればいいか_____すみません、一度保留にしますね」
彼女は一度、スマホを保留にしてからゼンヒに話しかけた。
「ごめんなさい、うるさくしてしまいましたわ」
「気にしない」
「少し席を外しますから、自由にしててくださいまし」
「うん」
そう言って、リビングから出て2階の空室へとバンリは消えた。
ニュースはずっと生放送で立てこもり事件を映している。
「そう、だよな。私が行かなくても、私の人生は変わらないよな。私、は」
言い聞かせるように口に出すと、逆に不安が出てきた。
(じゃあ、バンリは?)
その思考が、出てきてしまう。
(私はバンリに守られてるから変わらないけど、バンリがあんなやつに捕まったら?あんなやつにむちゃくちゃにされて、無惨な姿で殺されてしまったら?)
口は開き、体が震える。
(いやだ____やだやだやだやだやだ!なんで、なんでそんなこと思いついちゃうの。私を守ってくれる_____)
さらに、考えてしまう。
彼女は自分を守ってくれるが、自分より強いと言う保証はない。自分でさえ裏切られて油断して、あんな傷を負ってしまうことだってある。日常ですら、あの少女みたいに急に不幸に巻き込まれることだってあると言うのに、それがバンリには絶対にないと言い切ることはできない。
大体シャーレに所属している最強と言われる少女だって策略で捕まったり、先生の有無で勝敗が決まるくらいにはそう言った知識の差と人数というのは大事で、個人の強さなんてたかが知れていることを証明しているじゃないか。
自分が特別暴力対策課を率いたり、その存在を大事に、かつ重要視していたのはそう言った知識と人数のスペシャリストを腐らせずに有効活用して個人ではない強固な治安維持活動の土台にしようと思っている。
たった一人でも自分を守ると、嘘偽りなく言ったバンリも神ではない。
酷くパニックを起こしそうになりながら部屋を見渡していると、リビングの入り口の向こうにあるコート掛けには、自分が来てきた立派なコートと、彼女がギャングとして有名になってしまった時に被っていたハットがある。
今更コートを羽織る季節でないからそれは掛けたままだが_______
ゼンヒは幼い、震えた心を押し潰すように、二階に居て長話しているバンリに気づかせないようにハットをかぶって外に飛び出した。