「なんだセツカか。どうした、眠れないか」
「……」
反応はない。
効き慣れた下駄の音、若干残っている桜の香り。
それが自分が一番知っている香りであったとしても、いつも通りの反応まで帰ってくるわけではなかった。
「セツカ?」
椅子に転がったまま、振り返るシャルアー。
「あ」
驚くわけでもなく、焦るわけでもなく、彼女は声を出す。
確かに見た目はセツカそのものだったが、細部が違う。
髪の毛は結っているわけでもないのでおおまかセツカであるものの、髪色の一部が薄紅色になっていて、その目は水色。知っている人間のような美しさというよりは、まだ幼い面が残っている可憐さがあった。
それを見て、誰が来たのかを理解したシャルアーは、警戒するでもなく微笑みかけた。
「久しぶりじゃないか」
「……シャルアー」
全てが嫌になり、鬱になって幼児退行した時の口調と声のまま、その少女は相手に返事した。
「座りなよ……ゼンヒ」
「うん」
そう、目の前にいるのは。
今相手が一番欲していて止まない少女、扇皇ゼンヒである。
ゼンヒはそのまま、隣にあったリクライニングチェアに座る。
「おいおい、この椅子は寝そべるためにあるんだ。膝を抱えるもんでもないぞ」
「でも、これが一番落ち着くから」
「ならいいか」
二つのチェアの真ん中に置いてあったテーブルにある、飲みかけのコークハイ。氷が溶けてきているのか、若干透明度が高まって、ついでに水嵩も少し盛られていた。
「なにこれ」
「それ?コークハイって言うんだ。アルコール入ってるから普通おすすめするものでもないけど、まあ飲みたかったら飲めばいい。セツカも割と酒飲んでるから大丈夫なはずだ」
「シャルアー達って大人なの?」
「私は17歳だよ」
「へー。え、ダメなんじゃないの?」
「ロシアは18歳からOKだ」
「ダメじゃん」
「まあまあ、そう堅いことは言わないでくれ」
シャルアーは笑っている。ただ、笑みの底でなぜヤツカを離すようにセツカが指示を出したのか理解した。
(そろそろ隠し事ができないフェーズに入ってきたと思うんだけどな、セツカ。だけどまあ、分かる。多分あいつはゼンヒのことよく思ってないだろうから)
今は目の前の肉体の奥底で眠ってるだろう魂に笑みを向け、若干困り眉で見た。
「にしても、こんな何もないタイミングで目が覚めるなんて不幸だな。一体どうしたんだ?」
「わからない。今日の夕方に殴られた気がして叩き起こされて、で、自分の意思とは勝手に傷を治そうと暴れ出して_____」
セツカもこうやって起きたのかな、なんて呟くゼンヒ。
「でも、その暴れ具合が異常で。肉体の中にある透明な壁みたいなものに跳ね回ったら痛くて意識が起きちゃったんだ」
「そっか。そう言うこともあるよな」
「経験あるの?」
「いやないけど」
「ずっとテキトーなこと言ってる」
「良いじゃないか。セツカと私は友達なら、お前と私も友達だ」
「裏切ったりしない?」
人間関係で、おそらく最上位な悪問がいきなり飛んできた。
裏切るか裏切らないかはほぼ主観と価値観の世界であり、言ってしまえば「私と仕事どっちが大事なの!?」並に酷いものだとも言える。
「裏切る裏切らないは、何を基準にそう思うのかと言う点を言ってくれないと答えようがないな」
「……」
すぐに裏切らない、とカッコよく言える王子様ではないらしい。膝を抱えたまま、暗い表情でゼンヒは拗ねてしまった。
「そう気を悪くするなよ。何が嫌だったのか、嫌なのか、こうして欲しいっていう要望をちゃんと言えば欲しい答えは返ってくるんだ。人間関係っていうのは信頼度のグラデーションで決まるし、その信頼度っていうのは簡単に言えば質問と回答というやりとりの連続で成り立つものだ」
「_____私の言ってることに、くだらないとか、言わない?」
「言うわけないだろ。どれだけ小さいことでも、人の気持ちっていう事実は変わらないんだ」
「だったらさ____自分を尊敬してますとか、愛してますとか、そう言っておいて攻撃してくるような事、シャルアーはしないよね?」
ゼンヒの中では重要なことだった。
彼女の動向を追っていたシャルアーも、言いたいことを理解していた。
それは彼女が初めて学校生活を楽しんでいた時、自分を慕ってくれて、大怪我をして眠っていたら涙を流してまで心配してくれて、そうでなくてもいつもいつも助けてくれるような存在が、急に敵意をむき出しにして殺しにきたことがかなり心の傷になってしまっている。
それこそ、ゼンヒという意識が生まれた時から関わってくれたカンナには自分の思うところ、文句も言ったが結局は仕事のために自分を置き去りにした。その直後に心配してやってきてくれたのがシャルアーだったことも考えれば、自分よりも、自身の仕事や身分を大事にしていてそれを守るために放置したと思っても仕方ないとも言えるだろう。
「シャルアーは、私のこと大事にしてくれるよね?セツカみたいに、守ってくれるよね?」
「お前が悪いことをしない限りな。例えば、不必要に誰かを傷つけたりだとか、凶悪犯罪を"自分の意思で"やった時とかは私は敵になる。そんなことをしない限りは、私はお前の友達でいるよ。
_____ずっと、と言えないのが寂しいけど」
「え?」
少し寂しそうな目で、ゼンヒは相手を見た。
「私は、実はキヴォトスの外からやってきてしまった人間なんだ。そして、本当の故郷には恋人がいる。だから会いに戻らないといけないんだよ。フォルテっていう、可愛いしおっちょこちょいだけど私のことを思ってくれているやつなんだ」
「その名前で男なんだね」
「聞いたら怒るかもな〜」
二人は、その一言で笑う。
「でも良いなあ、恋人か。友達もいないから、私には一生縁のないものかも」
「そういうもんかな?恋人がいても友人がいない、っていう人間はザラにいるよ」
「そうなの?」
ほんとほんと、と言いながらシャルアーは話をする。
「いわゆる異性に対する接し方と、同性に対する接し方って変わってくるところがある。まあ、昨今の情勢を言うなら恋愛感情と友情というのは違ってくるの方が正しいか」
友情というのは、一緒にバカをやって楽しむもの。恋というのは、自分の生き様を相手と一緒に作り上げることで、二つの自意識が融合した歴史となること。その二つの違いは明白で、人生に彩りを加えるのが友であり、人生の根幹に途中から入ってきてエンディングまで二人で走って行こうと頑張るのが恋人であると彼女は語った。
「私はどっちも作ったけど、そんなものだと思うよ」
「そっか、違うんだ。でも、私は____」
「案外恋人から、つまりお前の変わらない居場所から作られるのが先かもしれないぞ」
「そう、かな」
「お前を心配する人間がいることには変わりないからな」
「でもあそこにはもう戻れないよ。セツカという過去があった以上は、誰も私を見てくれる人はいない。実際セツカという存在がなかったら、行方不明になったとしても誰も探しに来ないと思うし。みんな、私そのものじゃなくて、私のやってきたことや能力しか見てないよ。みんな口々に私のことを褒めるけど、私が一人になった時に、誰も来てくれなかったから信じれない」
ゼンヒの純粋な気持ちであり、恨みでもあった。
シャルアーはそれが誤りであると理解していたものの、彼女を攻撃することになってしまうから、それを言うことはしなかった。
確かに、心細い時に来てくれなかったり、仕事で来た後に他の仕事が来て去ってしまったりしたら自分がぞんざいに扱われていると考えるのも無理はないのかもしれない。事実、セツカのことがあったからこそ迂闊に会いにいけないというのはあった上、それを理解してしまった以上は壁を感じてしまうか、本当はなかったとしても壁を作ってしまうのは仕方ないとも言える。
だけど、全ての人間には社会的な立場がある。それは、誰しもが社会の構成員である以上はその役目を果たした上で自由が保障される。
今まで関わってきた人物で親しい生徒、カンナだったりハクジツだったりユリだったりショウコだったり、たまに様子を見にきて昇進祝いをくれたバンリもその立場がある。だけど、それは義務であり果たすべきものだからこそ優先されるべきものだ。
だけど人間は命令と存在意義が決められ、死ぬまでそのことしか考えない機械ではない。当然その義務を果たしている最中にも、親しいもののことを考えている。友達や恋人とこうしたいな、と言うものもある。その中には一人で旅行に行きたいなと予定を立てているものもいれば、こう言うものになりたいなと妄想に耽ることだってある。
その意味ではゼンヒは機械のような生き方に近かった。仕事と大義を、仲間と一緒に達成することが今までの彼女の喜びであった。そう言う人間は元々そんなにいないのもあるが、彼女にとって、一年という短い時間で最も楽しかったのはその仕事で成果を出すことで、
これが彼女が一人になってしまった意味である。人生には自由があって、その自由を生み出すために義務がある。彼女は"義務を果たしていた"が"夢や憧れという名の自由を全く知らなかった"から、周りと致命的に噛み合わなくて一人になっていってしまったのだ。
皆が知らないこと、知らない雰囲気で盛り上がっていて、知らないものに突き動かされながら仕事をしている。それは自分が持ち得ないマインドで、持ち得ない価値観であり、その隔絶は凄まじい。
勉強することだけを親に強いられて、そのためにさまざまなことをやっている皆との差がついてしまうようなものであったのだ。自然とそうなってしまった、記憶がないというだけで壁が出来上がってしまったと感じるゼンヒも間違いではなかった。
「なあ、ゼンヒ」
「なぁに?」
涙すら枯れて、ただ闇の中に視線を隠そうとしたゼンヒに。
シャルアーは、少しだけ生きやすくするようにと、アドバイスをしてみることにした。