メスメル×レラーナのような何か。
かつてカーリアの王女であった彼女は生家を捨て、メスメルの傍らを選んだ
月の輝きが、その男を癒せぬと知っていても
メスメルの剣。いつか彼女はそう呼ばれた
影の城。全てが秘され葬られ、焼き捨てられた影の地において最も忌まれし城。その深みには更に悍ましき何かも「保管」されているとされ、もはや誰ひとり近付かぬ場所。
名の通り降り注ぐ影に覆われた城の最上で、一人の騎士が扉を開いた。
「失礼を、閣下」
騎士の名はクード。この城の主に仕えし「火の騎士」その筆頭。つまりは、城主の右腕と呼んで良い。
扉を開けた先には暗闇だけがあった。窓も一切の灯りも排された暗室には、ただクードが背にした外の光だけが影を伸ばしている。その闇は城主が望んだものだ。彼が何よりも忌み嫌うものが、己の姿である故に。
暗室にクードの声が反響する。その場に跪く騎士の眼前に現れたのは。
「――何用だ」
それは、二匹の蛇だった。赤い鱗を持つ一対の蛇がクードを睥睨する。先の声は蛇が発したものではない。だがそうであってもおかしくはない、そのような声であった。
主は会話も好まない。故にクードは端的に上申した。
「“双月”の君が、お会いしたいと」
「会わぬ」
蛇が暗闇へと姿を消し、短い拒絶の言葉と共に主が顔を上げた。そう見えたのは、暗室の奥に黄金の眼光が光った故。ただし、その光は単眼であった。
クードもまた、顔を上げる。城主――メスメルの象徴たる有翼蛇を象った兜の奥で金眼を見返し。
「……御意のままに」
クードが暗室を辞し、扉が閉ざされる。故に、再び暗い静謐へと身を沈ませたメスメルの、その相貌を知る者はいなかった。唯一の友たる、二匹の蛇を除いては。
▼△▼△
「此度は拝謁の栄を賜ること望外の歓びであります。メスメル様」
暗室に涼やかな声が響く。しゃなりと拝謁の礼をとった人影は、しなやかな体を持つ長身の女であった。常ならば身に纏っている銀鉄の鎧はなく、金属糸で編まれた白装束の上から纏うのは瑠璃色のマント。細い腰には、輝石の軽大剣と黄金の直剣が寄り添うように佩かれていた。
肩口で切り揃えられた夜色の髪。白い
「レラーナ、ここに参りました」
双月の騎士、レラーナ。彼女が、そこにいた。
「――……、クードよ」
たっぷりと、およそ三十は数えられるほどの沈黙の後、暗室の主たるメスメルはようやく口を開く。それも、目の前で跪く女騎士ではなく己の右腕に向けて。
「お傍に」
名を呼ばれた騎士は既に暗室の中にいた。彼に対して無言で背を向けたメスメルに対し、クードもまた無言で後に続く。主の、「ちょっとこっちに来い」という無言の命に従って。
暗室の隅、もっとも暗いそこでメスメルとクードは対峙した。
「……私は“会わぬ”と、そう言った筈だが」
メスメルの声は常と変わらず低く平坦であったが、二匹の蛇はうねうねと蠢いている。顔にも目にも表情を出さないこの男であっても、友であり半身である蛇に嘘はつけぬ。
「は、存じております」
「ならば何故、彼女がここにいる?」
ぎり、とメスメルの手にはいつのまにか得物が握られていた。串刺し公の名そのままに、幾多の穢れを貫き焼き尽くしてきた大槍が。返答によっては、筆頭騎士であってもその身を貫かれるだろう。
「閣下は、レラーナ殿とは御会いにならないと仰いました」
「あぁ、そうだ」
「なので、ここに御招きしました」
「待て」
淡々と答えるクードにメスメルが待ったをかける。いま何かこう。まったく話の前後が繋がっていなかったのは気のせいであろうか?
「加えて、鎧姿でなく平服でと進言いたしました」
「待てクードよ、すこし待て」
「ちなみに
「おいコラ」
待ちも黙りもしない筆頭騎士に、遂にメスメルが素の口調でつっこんだ。ちなみにヒルドとは火の騎士で唯一の女性だ。たしか死んで遺灰になっていた気もするが、そのような事はなかったらしい。
「閣下も御覧になられたでしょう。いつもの鎧姿も良いですが、あのような格好でもイケますとも、えぇ」
「同意はしてやるが人の話を聞け?」
たしかに良かったけれども! 白絹の装束に瑠璃青が滅茶苦茶に映えていたけれども! 彼女らしい凛とした佇まいの中に女性的な魅力がこの上なく!
それはそれとしてだ。そもそも何故こうもあからさまに命令を無視しやがったのか、この筆頭騎士は。
「お言葉ですが。閣下がカリム語の使い手であることは、我ら火の騎士の中でも周知の事実」
「カリム語!?」
何だその聞いた事もない言語は。カリムとは地名か。それとも人名か。初めて聞いたにも関わらず、何故か親近感を覚えるメスメルであった。
「故にしからば要するに、閣下が“会いたくない”とかまた素直じゃない事を言いやがったものですから、ここにお連れした次第であります」
「だんだん不敬になってきていないか」
「本当は会いたかったんでしょう? むしろ感謝してほしいぐらいですよ、このヘタレ」
「せめて隠してくれ! 不敬を!」
遂に飛んできた直球の罵倒にはメスメルも非常に傷つく思いである。ただでさえ最近は戦友のヒューとその父親に謀反されたショックで落ち込んでいたのだ。黒騎士団に続いて火の騎士たちにまで反旗を翻されては、耐えられる自信もない。メスメルの心は硝子なのである!
「あの……? メスメル様? どうか致しましたか?」
「何も無いッ! 無いから貴公はそこで待っていろレラーナ!」
「! は、はぃ……っ」
暗室の隅でコソコソと口論している二人を案じたらしいレラーナに怒鳴り返す。理不尽な大声に彼女は気を害した様子もなく、ただ困惑した表情を見せるばかりだ。それどころか突然の名前呼びに内心ときめいていたのは秘密である。
更に二三の言葉を交わしたメスメルとクードが元の位置に戻る。つまりは玉座じみた椅子に腰を下ろしたメスメルの傍にクードが付き、二匹の蛇がレラーナを睥睨した。
ごほん、と珍しく咳払いしたメスメルが口を開く。
「来てしまったものは仕方がない。それで何用か、“双月”よ」
メスメルの金眼はレラーナを見てはいない。投げかけられる言葉にもまた温度は無く、それも常の事だ。メスメルの態度は一貫してレラーナを冷遇している。かの串刺し公の剣とまで称される彼女が、この城に留まることを許されていないこともその証左だ。
「恐れながら――」
それでも、玉座を見上げる女の目に翳りは見られない。そもレラーナがメスメルに向ける情は一方的なものであると、彼女自身が誰よりも自覚していた。
「エンシスの星見によれば、今宵は満月とか」
「……」
「是非、月見の席を御身と共にしたく――」
「断る」
貫くような声でメスメルは切り捨てた。はじめて向けられた金色の右目からは、不快な色が火のように燻っている。
「話がそれだけならば去れ。これ以上、我が手を煩わせるな」
一方的に吐きかけられた言葉と共に、暗室を申し訳程度に照らしていた灯りが消える。再び暗闇の奥へ消えていくメスメルの影から伸びる蛇だけが、レラーナを変わらず睥睨していた。
「つまり、“めちゃくちゃ楽しみだ! もう今すぐ行こうすぐ行こう!”……と閣下は仰っております」
「……え?」
「そういうわけでレラーナ殿、出立の準備などは我らにお任せください」
「あの、クード殿? メスメル様からは断られ……」
「あれはカリム語です。あの唐変木が抜かしていることはすべて真逆だと思っていただければ結構」
「と、とうへん……?」
「ここだけの話ですが、最近の日記はレラーナ殿の事ばかりで読んでいるこちらの方が」
「よおぉしクードちょっとこっちに来ぉい――ッ!」
いつの間にか降りてきたメスメルの長い両腕が、がっし! とクードを捕らえ、再び暗室の奥へと二人は消えていった。
どごぉっ! と、それこそ大槍の如く叩きつけられた両手がクードの兜を揺らす。主と壁の間に挟まれても、火の騎士筆頭とされる男は平然と返した。
「クードよ、貴公……お前、クードお前……っ!」
「閣下、私を壁ドンしている暇があったらレラーナ殿を押し倒してくれませんかね」
「押し倒さぬわ! 壁ドンですらないのか!?」
というか何だ壁ドンって!? 今しているこれか!? これをレラーナに!? 私の方が焼き尽くされるだろうが!
想像だけで憤死しそうになっているメスメルの事など知らぬとばかりにクードが舌打ちする。切実にやめてほしい。傷つくのだ。
「いやですね? 閣下のお気持ちも分かってはいますよ? しかしいくらなんでも、あれはないでしょう?」
「……彼女の為だ。私などの近くにいては、ますます悪評が」
「あぁいつものそれですね。日記で百回は見ました」
「だがそれでも……いや待て! そもそも何故お前がそれを知っている!?」
そういえばさっきも日記の事を言っていた。最悪の事態を予想したメスメルは、青白い顔を更に青褪めさせる。
「読んだのか! あれを読んだんだなクード!?」
「――彼らだけがメスメルを知っている。その蛇たるを。蛇たる苦悩を」
「最低だ! 最低だぞお前たち!」
火の騎士たちを理解者として信頼していたメスメルであったが、それは誤りだったのだろうか。いや確かに理解者ではあったが、それが最低の形での理解者というだけであったか。
「あの、メスメル様、クード殿? もしお加減が優れないのなら今日はもう……」
「私は元気だレラーナ! だからこいつの事は気にするんじゃあない!」
「そうですよレラーナ殿。あなたのその御立派な“双月”を前にすれば、この童貞の“三匹目の蛇”はいつも元気で」
「もう良い喋るな貴様ァ――ッ!」
暗室の隅での攻防は遂に実力行使へと発展した。大槍と大剣が激しく打ち鳴らされ、赤黒い火の祈祷と戦技が炸裂する。主従で勃発したまさかの決闘にレラーナは躊躇いがちに参戦しようとしたが、その前に一応の決着は着いたらしい。
ぜえぜえと息を切らしながらメスメルが玉座へと戻り、黒鉄の兜を鬱陶しげに脱ぐ。火のような赤髪が蝋燭の灯りに揺れた。クードは平然としているようだが、真紅のマントは黒焦げだ。
「はあ……、それで何の話だったか」
「閣下がレラーナ殿とお月見
「喋るなと言ったぞ、クード」
「そういう訳で、特別講師を招いております」
「無視はやめてくれないか?」
傷つくから。
というか、特別講師?
「城の中をうろついていた褪せ人先生です」
暗室の入り口で、鎧姿の戦士が「
……どこから突っこめば良いのか?
「どこから突っこめと?」
「レラーナ殿の?」
「良い加減にしないと本気で焼くぞ?」
「誠に
「な……っ、曲者!?」
唯一人まともな対応をとれたレラーナが剣を抜く。素早く身を翻して、褪せ人とメスメルの間に立ちはだかった。
それを見た褪せ人の気配が豹変する。戦鬼を模した兜の眼孔はまっすぐとレラーナを……否その手に握られた双剣を捉えていた。コフー、コフー……と、欲望を隠しもしない荒息を漏らしながら近付いてくる。
そしてそんな褪せ人を、もう一人の曲者が蹴り倒した。
「ごめんなさい、このお馬鹿のことは気にしないで」
「は、はあ……?」
殺気立っていたレラーナでさえ困惑する。何せその曲者――おそらく少女は、その頭を壺ですっぽりと覆っていたのだから。なぜ壺なのか。顔を隠すにせよ、他にかぶる物は無かったのか。
困惑するメスメル達を無視する形で、壺の少女が話を進めた。蹴り倒した褪せ人を踏みつけながら。
「私たちは騎士クードと取り引きをしたの。そこのおに……メスメル公の種火を分けてもらう条件で」
「――ほう」
種火とは、ずいぶんと大きく出たものだ。それはメスメルの命そのものか、あるいはその欠片を求めていることと同義なのだから。ならばいったい、対価に何を差し出すというのか?
壺の少女が褪せ人に目配せ(?)し、彼は懐から木の枝のような物を取り出す。そして徐に歩き出した。メスメルではなく、レラーナに向かって。
「これは……? ……、ぇ…………っ!?」
レラーナの反応は劇的であった。謎の枝木を押し付けられたかと思えば、褪せ人が何かを耳打ちする。レラーナの白い顔が真っ赤に染まったのは、その瞬間のことだ。
当然、メスメルは嫌な予感しかしない。
「……クード、あの者たちに何を吹き込まれた」
「閣下は、ミケラ様を御存知でしょうか」
問いに答えないクードの問いにメスメルは答えない。
ミケラ。その名を知らない者は狭間の地にも、この影の地にもいないであろう。女王マリカが隠れ、月の王女ラニが運命を捨て、不敗のマレニアも姿を消した今、唯一の神人といえるデミゴッド。そしてメスメルの遠い弟でもある。
だが何故いま、ミケラの名が出る?
「単刀直入に言いますと、ミケラ様の魅了の力をお借りして、とっとと閣下を誘惑しようかと」
「何をしようとしているのだ貴様!?」
「もはや尋常な手段では何も変わらないと、火の騎士会議で満場一致いたしました」
「ふざけた事を言……ぬおぉ!? なんだお前たち!」
クードが指を鳴らした瞬間、蛇たちが体に巻きついてきた。彼らはメスメルの体の一部でもあるからして、つまりは力も同等。故に振りほどくことは出来ず、簀巻きのような形で暗室の床に放り出されてしまった。というか、なぜ蛇たちがクードの言うことを聞くのか。
「何故と仰られましても、お二人は会議に参加されていましたので」
「していたのか!? いつの間に!? どうやって!?」
「――メスメル様」
間近から聞こえた澄み声にメスメルはゾッと総毛だつ。その声はあまりに近く、それこそ吐息が耳にかかるようで。そして何より、声の主が。
「レ、レラーナ」
「動かないでくださいませ」
返事を口にする間もなく、嫋やかな手が頬に触れる。その手の心地よい冷たさに遠い母の記憶が呼び起こされ、馴染みの鈍痛に心が苛まれようとした時。
そっ、と。メスメルの頭は柔らかい温もりの上にあった。
「――……、……っ」
金色の右目を見開く。見慣れた暗室の黒い天井を背景に、
己の膝にメスメルの頭を乗せながら、レラーナは。
「はあ……、はあ゛ぁ……っ、めメスメル様……!」
「怖いのだが!?」
レラーナの息が荒い。白い顔は真っ赤に紅潮し、艶やかな唇からは獣のような吐息が白く濁っている。冷たい月のように輝いていた双眸は今や、狂気と獣性を呼び寄せるという禍月か何かにしか見えない。非常に怖い。
「な何も怖くなどありません、すぐに気持ちよくなりますので……!」
「なるか! それで何をするつもりだ!」
レラーナの手には謎の枝木。どこか甘い香りすら漂ってくるそれはだが、ひどく悍ましい聖性を放っていた。あれがミケラの力で作られた呪物か何かならば、メスメルとて無事では済むまい。
膝枕をしつつ細い木棒を手にしたレラーナの姿は、我が子か恋人の耳掃除をする女にしか見えない。それに恐怖を抱くのは、偏にレラーナの顔が獣にしか見えないからだ。常に情欲を抑えているような者こそが、もっとも恐ろしい獣になるとは誰の言葉だったか。
「頼むから落ち着いてくれ! 息が荒いぞレラーナ!」
「大事ありません! カーリアの騎士は決して乱れず! ――“冷静”」
指先が青い紋章を刻み、魔力の光が体を覆う。その瞬間、すん……とレラーナは普段通りの怜悧な女騎士へと戻っていた。
そのまま、再びミケラの枝木を手にして。
「ふ、ふー、ふー……! お待たせしましたウふフ……っ!」
「駄目ではないか!」
本当に効いているのかその魔術は。それとも効いた上でこれなのか。どちらにせよ碌なものではない。一部始終を見ていた褪せ人は【やはりゴミクズか……】とうんうん頷いている。
レラーナは止まらず、メスメルは動けず。震える枝木がついにメスメルの耳穴に挿し入れられようとした瞬間。
ぽたりと、生温かい雫が額に落ちる。そこに嗅ぎなれた鉄錆の匂いを感じて。
「レラ……」
「――はう」
鼻から鮮血を垂らした双月の騎士が、やけに幸せそうな吐息を漏らしながら暗室の床に倒れた。
瞬間、褪せ人が動く。
獣の如くレラーナへと飛び掛かったかと思えば、まず何よりも先にその双剣を抜き取る。更に流れるような手付きで白絹の上衣を剥ぎ取ろうとしたあたりで、メスメルの頭と目の前が真っ赤に染まった。
「き、さま何をして――――ッ」
蛇たちの拘束も振りほどき、大槍が不届き者を焼き貫かなかった理由はごく単純なもの。メスメルがそうする前に、壺の少女の蹴りが炸裂しただけのことだ。
「……なに?」
ギン、ギン! と、気を纏った見事な飛び蹴りであった。いっそ、本当に褪せ人の味方なのか分からなくなるほどに。
そしてメスメルは想う。
「あなたね……。簒奪と蒐集は褪せ人の十八番なんだろうけれど、時と場所と相手を少しは選んだらどうなの? 今のはさすがに私も引いたのよ? 強姦魔と契約した覚えは無いのよ?」
「貴公、は」
「あぁ、ごめんなさいメスメル公。このお馬鹿には後で言って聞かせておくから、この場はとりあえず火種を――」
「まさか、メリナか?」
「――――」
ぱぎゃぼふへふ! と壺が割れるか怪鳥が鳴いたような声……声? が響いたが、壺の少女のものではないだろう。ないと思いたい。
対して少女はいかなる
「……、…………し」
「し?」
「……知らないメリ」
「知らないメリ!?」
既視感の結晶のような語尾にメスメルの心は限界であった。あぁ確かに妹はこのような可愛らしい語尾を……していただろうか? だが曖昧とて、可愛ければ良いではないか!
「ほ本当に知らないメリ。私はメリナなんて名前じゃないメリし、おに……メスメル公の妹でもないメリよ」
「いや私は妹などとは一言も」
「しししつこいメリね! とにかく私はメリナじゃないメリし、思わぬ再会に慌てて壺をかぶったりした訳でもないメリ! 勘違いしないでほしいメリっ!」
「そ、そうか……なら仕方ないな……」
きぃー! と可憐な癇癪を起こし始めた少女を宥めつつ、クードから差し出されたヒビ壺に種火を注ぐ。何に使うつもりかは知らないが、今この場でそれを追及する気にもなれない。今日はもう疲れたのだ。
「……たしかに。ありがとう、おに……メスメル公」
「うむ、扱いには気を付けるのだぞ、メリ……少女よ」
【誘惑を御照覧あれ】
「貴公はもう出ていけ」
追加とばかりに差し出されたミケラの枝木を投げ返して、ついでに火球もぶん投げておく。少女はともかく褪せ人は焼け死んだかもしれない。自業自得である。どうせ死にはしない。
ようやく静寂の戻った暗室、だがその床には気絶したレラーナが横たわったままだ。さていったいどうしたものかとメスメルは頭を抱え、そして何より己の心が決まってしまっていることにこそ頭を抱えた。
「種火の次は子種を注ぐんですよね。分かっていますとも閣下」
「お前も出ていけッ!」
▼△▼△
ねじくれた影樹の傍らで、青白い満月が煌々と輝いている。影樹も月も、メスメルが好む数少ない物のひとつだ。どちらも高く遠く手が届かず、故に己の火で焼いてしまうこともない。
愛しいものほど遠ざけたい。例えば、未だ椅子の陰で丸くなっている女騎士など。
「双月よ、いつまでそうしている」
幾度目かの問いに、椅子の陰でびくりと震えるレラーナ。従者も連れず人払いも済ませ、今この露台にいるのは二人だけだ。あの月も影樹も、二人だけで見るには美しすぎる。ましてや一人では。
「共に月見をと望んだのは誰だ。言ってみよ」
「……私は影の地に生えるキノコです。どうか捨て置いていただきたく」
「大丈夫か」
キノコと申したか。赤肉の方か白肉の方か。彼女の肌の白さならやはり……いや今は赤いか。そもそもレラーナはキノコではないのだが。確かにジメジメとした今の様子はキノコでも生えてきそうではあるが。
「わ私は……私は欲情に駆られてなんという事を……! はしたない……みっともない……」
この調子である。先の豹変がいっそミケラの力によるものであったなら良かったか。だが無情にも、あの枝木が魅了の力を発揮するのは刺された者だけだ。レラーナはそうではない。
気にするなと言ったところで無駄であろうし、実際そうであった。さてどうしたものかと視線を巡らせ、城壁の陰でこちらを伺うガイウスと連れ合いの女と、それぞれの愛猪と愛狼と目が合った。図体が大きすぎて何も隠れていない。……というか人払いはしていた筈だが。
「そら行けそこだ重力回転突き!」とか何とか言っているガイウスに大槍を投げつけてから、メスメルは未だ立ち上がらぬレラーナへと声をかけた。
「双月、いい加減に私の話を聞け」
「ふふ……知っていますか、人は欲に負けると獣になるのです……人はみな獣なのです……」
「
ひくり、とレラーナが恐る恐る顔を上げる。こちらを見上げる双眸は涙で潤み、そこに映る己の姿を見返せるほどに澄んでいた。
思わず魅入られそうな輝きからメスメルは目を逸らす。既に手遅れだとしても。
「そこまで罪に苛まれるというのなら、ひとつ罰を与えるとしよう」
月光の中で月が舞う。しゃらりしゃらりと、夜の冷気に剣が鳴る。刃の残光が黒髪を引き連れ、玉と散った汗が煌き、片時も止まることなく舞いは続く。かつて行われた捧闘の舞いと似て、だがそれを目にするのはメスメルただ一人。
「舞ってもらおうか。今ここで」
私の為だけに、という言葉だけは飲みこんで。そして今、レラーナはひとり剣舞を捧げている。
改めて言葉にするまでもなく、レラーナの舞いは見事なものだ。踊るような剣筋に淀みはなく、刃鳴りの音すらひとつの楽曲の如く。そしてカーリアの魔術騎士はそれで終わらない。
「はっ!」
振るわれる軽大剣に連なる青い輝剣。夜空に向かって放たれた魔力の剣は流星にも似た軌跡を描く。輝石の煌きは止まらず、魔力が大刃を成す。そしてレラーナはただの魔術騎士でもない。
「――――」
ごう、と。渦を巻く赤黒い火。メスメルが与えた黄金の直剣と火。ただひたすらに忌み続けた筈の、己の火を見て、メスメルは。
――あぁ、何故こんなにも
同じ火であるのに、彼女が奮うだけで、何故こんなにも。
――なぜ、こんな
美しく、見えてしまうのか。
やがて、彼女らしい旋律を最後に剣舞は終わる。残心と共に夜空を見上げるレラーナの、細い首筋に流れる汗からメスメルは目を逸らした。逸らしたまま、口を開こうとする。
美しい剣筋だったと、見事な剣舞だったと、そのような事を言おうとし、あるいは言わずとし。結局は何も出てこない。
――「会話に困ったなら、無難に天気の話でもしたらよろしいかと」
――「相手が双月の君であるなら尚のこと」
――「とりあえず、こうとでも言っておけば良いでしょう」
「レラーナよ」
「はい」
目を合わせないまま、双剣を鞘に納めるレラーナへと。
「今宵は、月が――」
今宵も、いつだって。
月も。月よりも。
貴公は、お前は、あなたは。
「月が、美しいな」
レラーナが気絶した。
この後、怒り狂ったメスメルが影の城に殴りこんできたりもしたのだが。
「クードはどこだッ! クードの馬鹿はどこにいる!?」
「騎士長なら、誘惑の枝に使う素材をマラソンしに行くと遠征されましたが……」
それはまた別の話である。