追跡者とレディ。ついでに愉快で暇な仲間たち。
まだ二人とも記憶が戻っていない頃。
幾度となく、あの日々の夢を見る。
『兄上! もう一度……もう一度やらせてください!』
鳴りやむことのない風。果てのない草原。雲ひとつない青空の下、傷だらけになった少女が見上げてくる。そのすぐそばで機嫌を損ねた若馬は、鼻を鳴らしながら草を食み散らしていた。
まだ乗馬は早いと、父からも母からも周りの大人たちからも言われていて。少女――妹も素直に頷いていたというのに、二人きりになった途端にこれだ。三度の挑戦と落馬を経ても未だ諦める様子がない。族長の娘として幼くも常に淑女然とした妹が、存外に強情で奔放であることを己は既に知っていた。
『だめ……ですか?』
……そして己が、この妹に甘すぎることも自覚していた。こうして見上げられると決して否と言えないことも。
形だけの溜め息をひとつ漏らし、抱き上げた矮躯を鞍に乗せる。幾分かは機嫌を直した馬を引きながら草原を歩きだす。
遠くの空は、黒く濁っていた。
『わたしも早く、ひとりで馬に乗りたいです』
ぽつりと妹が呟き。
ぽつりと雨が降る。
『そうしたら、並んで駆けられるでしょう?』
雨が。
雨が降る。
雨が降って、青い炎が、草原を焼いて、雨が。
『約束ですよ? 兄上』
己を見下ろす妹の顔は、雨に焼かれて消えていた。
▼△▼△
「――起きて!」
は、と。
揺れる視界と高い声。戦いに染まりきった体は意思より先に動き、抱いたままの大剣を迷わず掴みとる。振り上げかけた右腕を、嫋やかな手が、だが存外に強い力で押さえてきた。
「待って、落ち着いて」
兜を通した視界はひどく狭い。その狭い視界を占有する、女の
「……、……巫女」
「良かった。記憶はあるみたいね」
巫女。あるいは
そこまで見てようやく己は――追跡者は、ここが草原でもリムベルドでもなく、円卓の訓練場であることを思い出した。
「休むなら奥のベッドを使って。せっかく彼がいつも綺麗にしてくれているんだから」
「……あぁ」
彼とは、あの奇妙な召使のことだろう。忙しく円卓中を歩き回り、四本の腕で掃除やら修繕やら料理やら庭の手入れやら、常に働いている。あまりの多忙ぶりに武具の手入れを手伝ったところ、感涙せんばかりに感謝されたのは最近のことだ。目がどこにあるのか知らないが。
詮もない事を考えながら鈍い体を立たせ、屋内に向かおうとした足が止まる。見慣れない物が目に留まった故に。
「あんた、そんな物も使うのか」
訓練場に立つレディの右手。そこに握られていたのは精緻な短剣ではなく、武骨な大剣だった。瀟洒な衣装とも華奢な体型からも、不釣り合いとしか思えないような。
「あぁ、これ」と、当の本人は平然と。
「重たい物は得意じゃないけれど、これからはそうも言っていられないから」
夜渡りの戦いは常に変化を強いられる。降り立つ度に姿を変えるリムベルドでは、常に使い慣れた武器で戦えるとは限らない。その場で調達した物を臨機応変に使いこなさなければ、夜を生き残ることはできないのだ。
それは分かるのだが。
「無理がないか」
「だから訓練するのよ」
それも分かるのだが。
だがやはり無理がないか。せめて直剣にしてはどうかと言葉を選ぶ間にレディは大剣を振り上げてしまった。両手で、思い切り。
「ふん……っ!」
仮面に隠されていない唇が引き結ばれ、大剣を上段に構えてみせる。さすがと言うべきか、彼女の優れた体幹は揺らぐことなく刀身を支えていた。……振り下ろそうとするまでは。
「あっ」
重心が後方に傾き、細い体が傾ぐ。倒れこむ先には、多種多様な武具を詰められた木箱が――
「――ッ」
この時、己の見せた動きはかつてない程に俊敏であった。夜の怪物たちと渡り合う時でもこうはいくまい。風のように駆け、倒れようとした肩を右手で支える。左手で真上の大剣を掴むことも忘れなかった。重い左手と軽い右手の感触に、ただ安堵の息を漏らす。
「無茶はよせっ」
「ご、ごめんなさい」
思いのほか荒い語気に、彼女と同じぐらい己も動揺した。らしくもない。剣を持って倒れたぐらいで深手を負う程やわではないだろうに。仮に深手を負ったとして、己が気負う必要も……。
「貸してみろ」
だというのに、己はなぜ大剣を構えてみせているのか。
「この手の得物は、こう握る。短剣とは違うんだ」
「こう?」
なぜ指南などしているのか。
頭を埋めつくす疑問符とは裏腹に、彼女の構えはすぐに正しい型へと変わっていく。より正確に言えば、多分に自己流な己の型へと。叩き、潰し、抉る、夜を殺し倒すだけの剣へと。
当然、それは筋力にも技量にも恵まれた追跡者の剣技だ。技量はともかく、彼女には文字通りに荷が重い。幾度目かの素振りで、また剣を落としてしまった。
「……もう良いだろう。人には向き不向きがある」
幸い、彼女には魔術の才もある。己などより、あの魔女にでも手ほどきを受けた方が良いだろうと、そう言いかけて。
「もう一度……もう一度やらせて!」
思い出せもしない妹の顔が、見えもしない彼女の顔と重なって。
「……手加減はできないぞ?」
「……上等よ、ありがとう」
背負ったままだった大剣を抜く。
意図を察した彼女は、仮面の下で不敵に唇を上げる。
抜けるような青空の下、幾度も大剣を打ち鳴らす音が響いた。
ずしゃりと、大剣を地に刺して膝をつく。滴る汗がいくつも地を濡らした。
「はあ……、は……っ、どうやったら、そんなに振れるの?」
息も絶え絶えに彼女が言う。衣装の襟を緩めてはいても、仮面だけは外そうとしない。大剣も手放そうとはしなかった。
対して己はまだまだ余力があった。当然の結果ではある。
「剣の勢いを殺そうとするからだ。無理に止めれば、俺でも息切れする」
「もっと具体的に教えてくれる……?」
「仕方ないやつだな」
口調がぞんざいになってきている自覚はあった。だが違和感は覚えなかった。
「まず構えからだ。もっと腰を落とせ。何度も言うが、短剣とは違う」
「これぐらい?」
「もっとだ、こう……」
構える彼女の後ろに回り、腰の高さを調整してやる。狭い視界がしなやかな金髪で隠れた。
びくりと、何故か髪が揺れた。
「肩は上げろ。こうだ」
「っ」
腋に手をやって、上腕の角度を変える。衣装ごしに熱い体温を感じた。
押し殺したような息が聞こえた。
「足は広げる。……おい力みすぎだ。力を抜け」
「ぁの、ちょっと……っ」
屈んで、白いズボンで覆われた両腿を開く。だがもっと自然に立てないものか。
聞こえる声は、震えている。
「もっと胸を張って――」
「ま、待って!」
は、と。
それこそ絹を裂くような声に、ようやく我に返る。そして、ほとんど密着するように背後に立ち、彼女の腰と胸元に手をやっている己の姿を客観視し。
端的に言って、血の気が引いた。かつてない程に。
「――……すまん。なんというか、その、本当にすまない」
「謝る前にすることがあるんじゃない……?」
「あ、あぁ」
さっと体を離す。同じくこちらに背を向けた彼女の顔は見えず、だが覗く首筋はひどく赤い。それもまた締め直された襟で隠され、衣装を整える姿に完全に誤解されているとまた血の気が引く。
「他意はない。本当だ。故郷に誓っても良い」
「え、えぇ……あなたがそんな人じゃないことは、分かっているから」
そんなことを故郷に誓うなと、父やファルハドやシリンの苦言が聞こえた気がする。おそらく幻聴だ。そうであってほしい。頼むから。
どうしようもない己の懊悩も知らぬとばかりに彼女は、レディは早口で告げる。
「今日はどうもありがとう。あとは自分でやるから」
だからもう行けと、言外の指示に従って円卓に戻る。
後方を盗み見れば、レディは赤い顔でぶんぶんと大剣を振り回していた。
▼△▼△
「やるなぁ、兄ちゃん」
割と落ち込んだ心地で円卓の中、出撃に使う通路に入ってすぐ、聞き慣れた銅鑼声が耳を打つ。
げんなりと頭を向ければ予想通り、無頼漢とそう呼ばれる大男が、長椅子に座りながらこちらを見ていた。白角をあしらった兜と髭に囲まれた口元は、愉快げに吊り上がっている。
碌に話したこともないこの男の声をなぜ聞き慣れているかといえば、まず声が無駄に大きすぎるからが一点。
「……何の話だ」
「そう落ち込むなよ、お嬢さんもそう悪い気はしてないように見えるぜ?」
そしてあまりにも御節介であるからだ。
無視して通り過ぎようとした矢先、出入口を大きな人影がぬっと塞ぐ。人影という言葉は、正しくないかもしれないが。
「貴殿よ、群れの風紀を乱すような行いは感心できない」
人影ならぬ鳥影。守護者の鷹顔は相変わらず表情が読めないが、見下ろしてくる目は鋭い。
既に謝った、他意もなかったと、そう言い訳を並べようとして。
「だが、あの流れは見事だった」
いつの間にいたのか、椅子の影から緑衣の射手が姿を表す。鉄の目と恐れられているらしい青い双眸は、何か得体の知れない光を放っていた。
……こいつら、暇なのか?
「みんな応援してる、戦士さん」
「おい、わたしを巻き込むんじゃない」
「今とても複雑な心境でございます……英雄サマ」
「……」「……」
「お前たち暇なのか?」
ぞろぞろと出てきた魔女と人形と人形とその他の姿に思わず口が滑る。だが己は悪くないと、追跡者は思った。
それはともかく、なぜ復讐者を抱きかかえているのかこの隠者は。小柄な少女人形は、地面に足も着けられないまま繊細な顔を不機嫌そうに歪めていた。人形とは思えないほど。
それと召使の視線が痛い。目など無いはずなのに痛い。ずごごごと夜の瘴気じみたオーラまで幻視してきた。
そして皆の背後で、異邦の剣士と小壺の商人がそろって絵を掲げていた。親指を立てる執行者と小壺の絵。……いつも思うが、絵で描くぐらいなら自身がそう動いて見せれば良いのでは?
もういっそこのまま一人で出撃してしまおうかと、本気で思案しだした追跡者の肩をがっしと組む太い腕。間近に迫った無頼漢の眼光は、思いのほか真剣な光を帯びていた。
「――で、大きさはどうだった?」
「死ぬか?」
ぢゃきりと左腕の楔を構える。引き金を弾かなかった理由は、ただ周りに止められたからに過ぎない。まあまあどうどうと暇な連中――特に無頼漢と鉄の目――に宥められながら追跡者は思う。
肩と腰の細さも、引き締まりながらも柔らかな手足の感触も、かすかに触れてしまった嫋やかな胸の曲線も、すべてこの手に残っている。
だが、何故だろうか。
――女と、思えていない?
夜渡りとして擦り切れてはいても、男として枯れているわけではない。現にそこの隠者の豊麗な肢体や際どい衣装はそれなりに煽情的だとは思っている。その胸に抱かれた復讐者との差が凄まじいとも。
「おい、今わたしの事を愚弄しなかったか」
巫女も、レディもまた充分に美しい女だ。無自覚とはいえ、その女にあのような真似をして何も感じなかったというのか。
「無視するな戯け。こっちを見ろ」
これでは、まるで……。
「おいッ!」
ひとり考え込む追跡者の隣で、鉄の目がハッと目を光らせる。
「まさか――男の方が好」
無言で放たれた楔が円卓の中で炸裂し、爆音と悲鳴と怒号が響いてもなお、訓練場の巫女あるいはレディは剣を振り続けていた。
「私は巫女、私は淑女、私は巫女、私は……っ」
真っ赤な顔で、そう繰り返しながら。
夜の根源は未だ見えず、記憶の断片も未だ足りない。
夜と夜に挟まれた、ひどく穏やかな一時のことである。