灰色の空が人里を覆っていた。
風は止み、空気は重く、まるで時間そのものが息を潜めているかのようだった。
地底へ向かう途中、三人は人々の異様な様子に気づいた。
笑顔は消え、子供の声もない。誰もがただ、うつろな目で地面を見つめて歩いている。
「……なんか、明らかに人里の空気が暗い」
諏伯の言葉に、ぬえも無意識に腕を抱いた。冷たくもない風が肌に刺さるようだ。
「希望がなくなり、絶望し始めてるんだと思う」
淡々としたこころの声が、逆に重く響く。
希望という言葉そのものが、この場所では嘘のように聞こえた。
「希望がないと、こんなふうになるのね……。なんとかならないの?」
ぬえの問いに、こころは少しだけ考え込む。
「一時的にでも、誰かが“みんなの希望”になれば……少しは明るくなるかも」
その言葉を、屋根の上から一部始終聞いていた者がいた。
豊聡耳神子――黄金の髪を揺らしながら、不敵な笑みを浮かべる。
「……なるほど。希望が空いた“穴”か。ならば、埋めてやればいい。教えで」
彼女は屋根から音もなく飛び降りると、広場の中央に歩み出た。
その姿に、沈黙していた人々がゆっくりと顔を上げる。誰もが、まるで光を見るように。
「――皆さん、希望、持ってますか?」
穏やかで、それでいて人の心を捉える響き。
しかし、返ってくるのは沈黙だけ。
神子はわずかに目を閉じ、耳に手を当てた。
「……やはり、聞こえません。誰一人として、希望の声が」
ゆっくりと両手を広げ、空を見上げる。
その動作は宗教家ではなく、まるで舞台の主役のようだった。
「ですが! 希望とは、与えられるものではない! 自らの心の内に見つけるもの!
――その導きを知るのが、道教なのです!」
沈んでいた広場がざわめく。
人々の目に、少しずつ色が戻っていく。
まるで、失われた希望の代わりに“信仰”が流れ込み始めているようだった。
「希望を失った時こそ、悟りへの扉が開かれる時!
私たちはその方法を知っている! 共に歩みましょう!」
歓声が小さく起こる。最初は一人、次に二人。やがて拍手が連鎖のように広がった。
その光景を、離れた場所からぬえが呆れ顔で見つめる。
「……やばくない? あの人、完全に信仰ビジネスじゃない」
「まさか……この状況を利用して信者を増やす気か……」
諏伯の表情は険しかった。だが、その横でこころだけは小さく微笑んでいる。
「でも……少しだけ、みんなの顔、明るくなってる」
その言葉に、誰も何も言えなかった。
たしかに――救われているように見える。
だが、それが“希望”か“支配”かは、まだ誰にも分からなかった。
広場の中央で、豊聡耳神子は天を仰ぎ、微笑む。
その姿はまるで、絶望の世界に降り立った救世主。
だが、その足元に広がる影は、希望よりもなお深く黒かった。
広場は人々のざわめきに包まれていた。
豊聡耳神子の演説によって集まった群衆は、すでに彼女の言葉に飲み込まれ、わずかな光を求めてその姿を仰いでいた。
だが、そこへ鋭い声が響く。
「――皆さん! あんなエセ宗教家に騙されてはいけません!」
人々の視線が一斉に向く。
群衆の隙間から現れたのは、緑の髪を風になびかせた巫女――東風谷早苗だった。
その表情には迷いがなく、まっすぐに神子を見据えている。
「博麗神社がまともに活動していないこの時期、信仰を支えてきたのはどこですか? そう――守矢神社です!
幻想郷の人々のために祈りを捧げ、雨を呼び、豊穣を願ってきたのは私たちなんです!」
神子はゆっくりと振り返る。
金色の瞳に揺れる光は、静かな怒りと好奇心の混じったものだった。
「……ほう。巫女殿。あなたの神社は“信仰”という名の下に、強引な勧誘を繰り返していると聞いていますが?」
「それは――!」
早苗はきっぱりと首を振る。
「“道教”などという詐欺まがいの思想に騙されないよう、人々を守っていただけです!
希望を奪う異変を利用して信仰を集めるなんて――そんなの神でも導師でもありません!」
群衆がざわつく。
神子の信徒たちと、守矢の信仰者たちが自然と二つの輪を作り、互いに睨み合う。
空気が震えるような緊張感が広がった。
神子は口元に薄く笑みを浮かべた。
「言葉は強い。けれど、その“正しさ”に魂があるとは限らない。――あなたの信仰、誰のためのものです?」
早苗の拳が震える。
それでも怯まない。
「それは……! 人々のため、そして神々のため! あなたこそ、希望を餌にして信仰を奪おうとしている!」
「ふふ……お互い様でしょう?」
神子の声は穏やかだったが、その一言が火種となる。
観衆の中から、「道教こそ真理だ!」「守矢に裏切られた!」といった声が上がり、次第に怒号に変わっていく。
ぬえは遠くからその光景を見つめ、眉をひそめた。
「……ねぇ諏伯。これ、まずくない?」
「ええ……完全に宗教戦争の前触れですね。」
その横でこころが小さく呟いた。
「……希望が、争いになってる。皮肉だね。」
広場はもう、言葉だけでは抑えきれないほど熱を帯びていた。
その中心で、神子と早苗の視線が交錯する――まるで信仰そのものを懸けた戦いが始まろうとしているように。
広場を包む空気が、突然ひりつくように重くなった。
神子の視線が鋭くこちらを射抜く――その指先が、まっすぐこころを指し示す。
「皆さん!」
彼女の声が広場中に響き渡る。
「守矢がいくら取り繕おうとも、幻想郷から“希望”を奪った妖怪を匿っているのです!」
ざわ……と群衆がどよめく。
神子はさらに一歩前へ出て、声を張り上げた。
「あれをご覧なさい――守矢神社の諏伯の隣にいる妖怪!
あのお面で感情を操る妖怪こそ、この異変の張本人! 私が、この手で解決してみせます!!」
その瞬間、空気が変わった。
人々の目が一斉に、諏伯たちの方へ向けられる。
不安、怒り、そして怯えが入り混じった、重たい視線。
ぬえが息をのむ。
「……やばい、完全に敵扱いされてる」
その横で諏訪子がひょいと姿を現した。
「ありゃりゃ、諏伯。タイミングの悪いことで。あの子の煽り方、相変わらず上手いねぇ」
諏伯は眉を寄せ、神子を睨むように見つめる。
「……本気で言ってるのか、あの人は」
こころは小さく肩を震わせながら呟いた。
「……不味い。バレてしまったか」
彼女の背後で、仮面たちが揺れる。
“悲しみ”の面が震え、“怒り”の面が赤く光を帯びる。
群衆の感情が、まるで鏡のようにこころの周囲で増幅していく。
人々の囁きが、徐々に怒号に変わっていった。
「希望を奪ったのはあの妖怪だ!」
「感情を操るなんて、化け物め!」
「守矢までグルだったのか!」
憎悪が波紋のように広がり、広場全体が渦を巻く。
まるで希望の欠片が、怒りの炎へと変わっていくようだった。
ぬえは一歩前に出た。
「……落ち着きなさいよ! あんた達、勝手なことばっか言って!」
だがその声も、怒号に飲み込まれていく。
人々の心はもう“理性”という仮面を失い、黒い感情だけが残っていた。
神子はその様を見下ろし、静かに目を細める。
「さあ――どうする? 感情の妖怪よ。希望を奪った代償を、どう償うつもりだ?」