ざわつく怒号が響き渡る。
こころへと詰め寄る群衆は、恐怖と怒りに支配され、もはや理性を失っていた。
その光景を見て、ぬえは小さく息を呑む。
「……仕方ない。人里で使うのは嫌だったけど――」
目を閉じ、両手を広げる。
次の瞬間、ぬえの身体から淡い闇が広がり、まるで霧のように広場全体を覆った。
「――“正体不明の目眩まし”」
世界が、ぐにゃりと歪む。
人々の目には、隣に立つ者の姿が次々と別人に変わって見えた。
「お、お前……なんでここに……!?」
「母さん……? いや、違う!」
「ヒィ! 許してくれぇぇ!」
それは幻覚でもあり、記憶の投影でもあった。
人々は“最も強く心に残る存在”を互いの顔に見てしまい、混乱の中で足をもつらせ、逃げ惑う。
早苗もまた、その混乱に飲み込まれていた。
「諏訪子様!? どこに行かれたんですか!?」
すぐ隣にいるというのに、彼女の目には諏訪子の姿が見えない。
「早苗! 目の前にいるって! 何、あんたも引っかかってるのかい!」
「へ? 声だけ聞こえる……!? まさか、敵の術!?」
諏訪子はため息をつき、頭を抱えた。
「まったく……ぬえの能力は、人も神も区別なく惑わせるねぇ」
混乱の渦が人里を覆う中、ぬえは振り返らずに叫ぶ。
「さっ! 今のうちに行くわよ!」
諏伯は頷き、走り出す。
「早苗も騙されてるのか……! 仕方ない、今は退くしかない!」
三人――諏伯、ぬえ、こころは混乱に乗じて人里の外へと走り抜けた。
しかしその背に、ひときわ鋭い声が飛ぶ。
「これは……封獣ぬえの能力、ですね」
豊聡耳神子は一歩も動じていなかった。
彼女の耳は、幻影を見せられても“真実の音”を聞き分けていた。
「人里の者たちは騙されていますが――私の耳は誤魔化せません!」
金色の光が閃き、神子は駆け出す。
その速度は疾風のごとく、目眩ましの霧すら切り裂く勢いでぬえへと迫る。
「逃がしませんよ、封獣ぬえ!」
刹那、金属がぶつかる甲高い音が響く。
ガンッ!
「――兄上! ここは私が何とかします!」
錫杖を構え、寅丸星が神子の刃を受け止めていた。
火花が散るほどの力のぶつかり合い。
「寅丸! ありがとう!」
諏伯の声に、寅丸は一瞬だけ笑みを浮かべた。
「お礼は後で! 今は行って!」
神子は寅丸を睨みつける。
「邪魔をする気ですか!」
「当然です!」
寅丸が言い切った瞬間、神子は身体を捻り、強烈な蹴りを放つ。
寅丸の身体が宙を舞い、石壁へと叩きつけられた。
「寅丸!」
しかし、倒れたと思われた寅丸の前に、白蓮が音もなく降り立つ。
「寅丸、手伝いますが大丈夫ですか?」
「はい……まだ、やれます!」
白蓮は視線を神子に向ける。
その瞳には慈悲と覚悟が同居していた。
「確かに、この異変の根はあの子にあるかもしれません。
ですが――彼女に“悪意”は感じられません。ならば、通すわけにはいきませんね。神子さん」
神子は口元を歪める。
「……妖怪側に肩入れ、ですか。聖白蓮。あなたらしい」
「ええ。信仰とは、守るためにあるものですから」
「では、壊して差し上げましょう」
神子の瞳が鋭く光る。
「――“道教”の正義で!」
次の瞬間、二人の導師が激突した。
光と闇、信仰と理念がぶつかり合い、広場の空が一瞬だけ白く弾ける。
地底へと続く洞窟は、湿った空気と共に熱を帯びていた。
三人の足音だけが響く。岩肌に反射する音は、まるで誰かが奥から囁いているかのようだった。
ぬえが後ろを振り返りながら声をかける。
「諏伯、なんか足取り遅いけど……大丈夫?」
こころが隣で首をかしげる。
「“嫌がっている感情”を感じる。地底、苦手?」
「……苦手な妖怪が多いんです。」
そう答える諏伯の顔を、こころはじっと見つめた。
「今の、嘘の感情。隠し事?」
「はぁ……参りましたね。前回来たとき、危険な妖怪を“殺そうとした”んです。少し、気まずい。」
ぬえが苦笑する。
「あー……お空の時ね。まあ地底じゃ争いなんて日常茶飯事でしょ。向こうも気にしてないわ、多分。」
そうして三人は、淡い光の中を抜けていく。
やがて、熱気の向こうに巨大な屋敷――地霊殿の影が見えてきた。
---
部屋の扉を開けると、静寂の中で一人の少女が彼らを待っていた。
第三の目を光らせる、古明地さとり。
扉が開くなり、彼女の瞳がほんの少しだけ細まる。
「……あら、私のペット・お空を殺そうとした諏伯さん。こんにちは。今日は何のご用で?」
その言葉に、諏伯の顔が一気に青ざめた。
罪悪感が表情からも感情からも漏れ出している。
ぬえが軽く手をかざす。
「そこまでにしておきなさい。」
さとりは微笑を浮かべ、軽く肩をすくめた。
「ふふ、すみませんね。心を読んだらあまりにも罪悪感が強かったので、つい弄ってしまいました。
安心してください。気にしていませんよ。あの時は――状況が状況でしたから。」
諏伯は息をつき、話題を変えるように問う。
「……妹はどこに?」
「私にもわかりません。」
さとりは目を閉じ、静かに首を振った。
「無意識の存在ですからね。夕飯には戻ると思いますけれど……案外、近くにいるかもしれませんよ。」
「近く?」
諏伯が首を傾げたその瞬間――
「ばあっ!」
突如として目の前に現れた少女の声。
諏伯は驚きのあまり尻もちをつく。
「ははっ! 驚いた驚いた!」
その少女――古明地こいしは、お面を手に笑っていた。
そのお面こそ、こころが探し求めていた“希望”だった。
「希望の仮面……! それにその姿……我がライバル!」
「そこにいたのね、こいし。」
姉の声に、こいしは満面の笑みを浮かべる。
「うん! この人たち、私を探してたみたいだったから――ずっと一緒にいたの!」
「……気づかなかった。」
諏伯は呟き、ぬえも苦笑する。
「私も……いつからいたの?」
「えっとね、ぬえさんと諏伯さんがこころちゃんに声をかけるところから!」
「最初からじゃないの!」
ぬえが呆れる。
「だって、気づいてくれなかったんだもん。私の能力、勝手に発動しちゃうんだよ。」
諏伯は小さく頷いた。
「なるほど……ぬえの“正体不明”は、私に影響する能力だから加護で防げた。
でも、こいしさんの無意識は“私に影響しない”から、見えなかったわけですか。」
「はい! じゃあこころちゃん、これ返すね。」
こいしは笑顔のままお面を差し出す。
「この人驚かせて満足したし!」
「我が……お面。帰還なり……!」
こころはお面を胸に抱き、光を放った。
仮面が元の位置に収まった瞬間、眩い輝きが地底から幻想郷全体へと広がる。
やがて、地底の空気が柔らかく変わる。
異変は終息した。
そして、また新たな日常が――幻想郷に訪れた。
幻想郷の広場。あの混乱の後、ようやく人々の表情に笑顔が戻っていた。
希望の光が戻ったことで、街の色がまるで春のように鮮やかになっていた。
豊聡耳神子は人々の様子を見つめながら、静かに扇を閉じた。
「……ふむ、結果的に私の説法は空振りでしたね。」
背後から命蓮寺から解放された布都が駆け寄ってくる。
「太子様! 異変は収束したのですな!? 我が命蓮寺を燃やそうとした甲斐が――」
「布都」
神子の一言で、布都はすぐに正座する。
「……すみません太子様。」
神子は少しだけ笑った。
「まあいいでしょう。
しかし――人々の希望がこれほどまでに変化をもたらすとはとは、少々考えさせられますね。」
その隣で、屠自古が風に揺れる木々を見上げていた。
「今回は作戦通りとはいきませんでしたね。」
神子は目を細める。
「なに、異変を解決しようとする様を人々に見せられただけで十分ですよ。マイナスではありません。」
神子の口元に、静かな微笑が浮かんだ。
白蓮は、夕陽の中で寅丸と並んで立っていた。
寺の前では、子どもたちが笑いながら走り回っている。
「希望が戻って、みんなの心も明るくなりましたね。」
寅丸は頷きながら空を見上げた。
「はい。……酒も、美味しく戻りました。」
「寅丸、、後で正座です。」
白蓮はため息をつくが、その目は優しい。
「けれど、あの太子さんも、本当は幻想郷を案じての行動でしょうね。
信仰とは、形が違えど“誰かを救いたい”という心の現れです。」
山の上では、早苗が掃除をしていた。
傍らでは諏訪子と神奈子がちゃぶ台を囲み、茶を啜っている。
「いやー、あの時は危なかったねぇ。危うく私達まで敵扱いされるとこだった。」
「早苗、少し焦りすぎたな。」神奈子が笑う。
早苗はモップを握りしめたまま振り返る。
「だって、あんな堂々と人前で宣伝されてたら、神職として黙っていられません!」
「うんうん、その心意気は大事だよ。」
早苗は目を細め、微笑んだ。
「さあ次こそは我が守矢による信仰を集めましょう!」