落ち着きを取り戻した幻想郷のある日、諏伯は八雲紫に呼び出された。屋敷の蔵のような一角で、紫はいつもの淡々とした笑みを浮かべて待っている。
諏伯は紫の顔を見るなり呟く。「悪い顔をしていますね。」
紫は肩越しに軽く笑った。「分かる? 月に嫌がらせをしようと思って。前にもそんな話、したでしょ」
諏伯は眉を寄せ、素直に返す。「絶対参加しませんよ。二度と関わりたくないです」
紫は首を傾げる。「あら、前回は送ってくれとそちらから頼んできたのに、そのお礼はないの?」
諏伯は言いよどんでから小さくため息をつく。「……。で、何をすればいいんですか?」
紫は手をひらりと動かして、ざっくりとした作戦図を語り始めた。「私と行動を共にしてくれればそれでいい。知恵比べよ。月から“借り物”を拝借するために、吸血鬼と巫女を使って泥棒を誑し、月へ送るの」
諏伯は首を振る。「そんなの、賢者に見つかって殺されるのがオチですよ」
紫は涼やかに笑った。「それは貴方が“純狐の息子”だからよ。目をつけられて処遇が変わる。今回の狙いは派手な侵攻じゃない。賢者の注意が別方向に逸れている“隙”を作ること」
諏伯は過去の記憶を押し込めるように目を伏せる。「私だから、、殺されたですか。前回の月面戦争で死んだ妖怪たちを忘れましたか」
紫は肩をすくめる。「あの時は月全体に周知される規模だったから死者がでた。今回は違う。賢者だけが分かるようにして、私たちはひっそりと動くの。月の上層部には知られない規模でやる。吸血鬼たちが“囮”になっている間に、私と数名で宝物庫へ忍び込むのよ」
諏伯は冷静に反論する。「無理です。綿月姉妹が必ず感知して対処します」
紫は少しだけ目を細め、別の案を出す。「そこで最後に幽々子を送り込む。幽々子は“穢れのない存在”に近いから、月の民の感知に引っかかりにくい。吸血鬼や普通の侵入者が警戒されても、幽々子なら比較的自由に動けるはず」
諏伯の顔に、ようやく納得の色が差す。「……確かに、穢れを感知する月の民には相性が良いかもしれない。幽々子なら感情の齟齬を生まず、事を荒立てずにすむ」
紫はゆっくりと頷いた。「前回にはいなかった“幽々子”の存在を利用して、宝物庫から一つだけ何かを拝借する。それが今回の目的。貴方は注意を引き続けておいてくれればいい。派手にやる必要はないわ」
諏伯は一拍おいてから静かに言った。「分かりました。それで借りを返せるなら」
紫は薄く笑みを深め、煙草の火を消すように少しだけ息を吐いた。「いい返事ね。詳細はこれから詰める。余計な波風を立てないよう、諏伯──あなたの“存在”が必要以上の月の警戒になる。そしたら幽々子は動きやすくなる。」
諏伯は肩に重みを感じつつも、目を閉じて小さく息をついた。「ええ。」
紫はその答えを聞いて満足そうに微笑み、淡い闇の中へと戻っていった。
諏伯は八雲紫と別れたその足で、月を知る者――八意永琳のもとを訪ねた。
永琳は湯を啜りながら、静かに微笑んだ。
「まぁ、あなたから来るなんて珍しいわね。」
諏伯は立ったまま要件を告げる。
「紫が月と“知恵比べ”をすると言っていました。」
永琳は湯呑をそっと置き、肩をすくめる。
「ええ、知っているわ。あの子たちが乗るロケットも、もう完成しているそうよ。
吸血鬼たちはいつも突拍子もないことをするけれど、今回は特にね。」
「……壊した方がいいんじゃないですか?」
諏伯の声にはわずかな焦りがにじんでいた。
永琳は目を細めて笑う。
「ふふ、吸血鬼たちの身を案じているのね。でも、私は邪魔をしないわ。」
「あなたの立場なら、止めるべきでは?」
諏伯は眉をひそめる。
「もし何かあれば、月との緊張が再燃しかねません。」
「そうね。でも――」
永琳は、静かに答えた。
「吸血鬼に大妖怪、巫女に泥棒。どれも月の戦力に比べれば子ども同然。
綿月姉妹は無慈悲な殺戮者ではないわ。赤子が勝負を挑んできた程度で、命までは奪わないでしょう。」
諏伯は口を結び、永琳の目を見つめた。
「では、あなたは静観する、と?」
永琳は少しだけ声を落とす。
「そう。……けれど、あなたは違う。」
彼女の言葉は柔らかだが、芯がある。
「“純狐の息子”という肩書きは、月にとって決して軽くない。
二度も襲撃に関わったあなたがいれば、知恵比べでは済まなくなる。
月の民は恐怖し、理屈よりも先に“排除”を選ぶでしょう。」
諏伯は黙り込んだ。
永琳の言葉は冷静でありながら、どこか慈悲深かった。
その瞳には、かつて月にいた者の覚悟と静かな諦観が宿っている。
「……的を射ていますね。」
諏伯は小さく頷いた。
「紫には、借りは別の形で返すと伝えておきます。」
永琳はふっと息を吐き、遠くを見た。
「それが賢明ね。紫が月の民を嫌う理由は分からなくもないけれど――あなたを出すのは愚策よ。」
諏伯は軽く一礼し、背を向ける。
竹林の外から差し込む光が、彼の横顔を照らした。
去り際、永琳は小さく呟いた。
「……本来なら貴方の命を奪った月に恨みを抱いても仕方ない、参加してもいいのに。やっぱり、あなたは母親に似ているわね。優しい。」
小さな空間が「ひと筋」裂ける。そこから顔を覗かせたのは、八雲紫だった。
スキマの中に半身を沈めたまま、彼女は唇に笑みを浮かべる。
永琳の厳しくも穏やかな声と、諏伯の真面目な返答。
すべてを、まるで芝居を観るように愉しげに聞いていた。
「……あの永琳が諏伯を止めるなんて、珍しいわね」
彼女は小さく肩を揺らし、くすくすと笑う。
「上手くやるわよ。――永琳の反応を見る限りやはり“純狐の息子”という存在は、月にとっての脅威となり得る。
ならば、それを利用しない手はないわね。」
金色の瞳が夜風にきらめく。
その笑みは妖しくも美しく、そしてどこか――冷たい。
「月の賢者たちも、あの子の存在に気づけばきっと動揺するわ。絶対に勝つ。」
紫は指先でスキマを閉じながら、月を見上げた。
薄い雲の切れ間から覗く白い光が、彼女の横顔を照らす。
「さて……幽々子に話を通しておかないとね。
“亡霊の静けさ”ほど、月の民を欺けるものはないのだから。」