幾日かの時が流れ、幻想郷の空には白く大きな月が浮かんでいた。
静寂の中、スキマがふっと開く。そこから現れたのは八雲紫だった。
紫はいつものように優雅に扇子を広げながら言う。
「吸血鬼に、魔理沙、霊夢――無事に飛び立ったわ。今頃はもう、月の上ね。」
諏伯は頷き、心の中で呟く。
(彼女たちはただの好奇心。今回は戦争ではない――あくまで知恵比べ。)
紫は扇子を軽く閉じ、意味深な笑みを浮かべる。
「さあ、私たちも行きましょうか。月の宝物庫――何かひとつ、頂戴しに。」
その声に呼応するように、空間が音もなく裂けていく。
そこから覗くのは、青白い光に包まれた月への道。
まるで深淵と天界が混ざり合ったような、異質な通路だった。
諏伯は一歩を踏み出す前に、紫を見つめる。
「本当に行くんですね……。」
紫は悪戯めいた笑みを浮かべる。
「当然よ。復讐……とまではいかないけれど、私は月の民が嫌いなの。」
風が吹き、スキマの縁が淡く揺らぐ。
やがて二人の姿は闇に溶けて消えていった――が。
次の瞬間、二人が踏み出した先に広がっていたのは、見慣れた幻想郷の景色だった。
諏伯が訝しげに辺りを見回す。
「……幻想郷? 行き先を間違えました?」
紫は眉をひそめる。
「そんな筈は――」
そのとき、二人の前に影が立った。
静かな声が空気を切る。
「この前、諏伯を送り込んできたのに、何の対策もしないと思っていたのかしら?」
振り返ると、そこに立っていたのは綿月豊姫だった。
月光のような髪を揺らしながら、余裕の笑みを浮かべている。
「久しぶりね、諏伯。今度も妖怪にいいように使われているようだけど。」
諏伯が息を呑む。その声に紫が眉を寄せた。
「……何故豊姫がここに? 月の民が幻想郷に入れる訳がないでしょう。」
豊姫は扇を広げ、静かに答える。
「簡単なことよ。そこ妖怪の“スキマ”に、私の能力で繋げただけ。
『月への道は幻想郷へ』――その際に、私も通らせてもらったの。」
諏伯の胸中を冷たい予感が走る。
(不味い……。幻想郷に来られたなら、永琳と輝夜の存在も露見する。
戦うつもりはなかったが――)
「確認ですが……」と諏伯が静かに問う。
豊姫は首を傾げる。
「なぁに?」
「月の民として、ここに来たのはあなた一人ですか?」
「そうねぇ……嫦娥が永琳を探すときに、玉兎を一匹送り込んだらしいけれど、
本格的に来たのは私が初めてかしら。」
諏伯は深く息を吸い込み、吐いた。
「紫……殺しましょう。」
紫は一瞬、瞠目してから笑みを浮かべる。
「本気なの? あなた、今回はやる気がないと思っていたけど。」
「状況が変わりました。」諏伯の瞳が冷たく光る。
「月での遭遇なら土下座でも逃走でもしたでしょう。
だが、幻想郷に現れたとなっては――これは楽園の危機です。」
紫は扇子で口元を隠しながら、愉快そうに目を細めた。
「ふふ……あなたからそんな言葉が聞けるなんてね。」
豊姫は微笑んだ。
「私を殺す……ふふふ。貴方がそんなに好戦的なのは、八意師匠がここにいるからかしら?」
諏伯は目を細め、心の奥で静かに決意を固めた。
(霊夢とレミリアには悪いが、幻想郷には家族がいる。彼女たちが月で死ぬことになっても――“豊姫を殺さねば”。恨むなら、恨め。)
「――土槍!」
地面が唸りを上げ、固められた土が槍の形を成して放たれる。
だが豊姫は微笑み、扇を一振りしただけでそれを塵のように散らした。
「本気……なのね。純狐の息子が月の民に攻撃を仕掛けた。この事実が知れれば、今ごろ依姫と対峙している巫女や吸血鬼はどうなるかしら?」
「承知の上だ!」
その声には迷いがなかった。
「幻想郷に月の賢者が現れる――それは即ち危機。彼女らよりも先に、私が対処する!」
掌をかざし、諏伯が叫ぶ。
「再結晶!」
豊姫の扇で素粒子となった土が、再び集まり一本の槍となる。
その光景に、豊姫の瞳がわずかに見開かれた。
「……驚いたわね。」
槍は再び彼女を狙う。豊姫は身を翻してかわしたが、
諏伯の目には確かな手応えが宿っていた。
「いくら分解されようが、そこに在るのなら再び集めればいい。」
「なら、これはどうかしら!」
彼女が扇を広げると、烈風が生じた。
土壁が次々と砕かれ、砂塵が舞い上がる。
全てを呑み込む嵐の中、諏伯の姿が消えた。
「上半身ごと吹き飛んだわね……。ん? あれは――」
崩れ落ちた諏伯の身体は、茶色く崩れ、砂となって地に還った。
「……土人形? 本物は――」
背後に揺らめくスキマの気配に、彼女の表情が変わる。
「いや、後ろにスキマ? ――!」
紫の声が響いた。
「ごめんなさい、後ろにいたのは私。諏伯は“上”だったわね。」
豊姫が反射的に空を見上げた瞬間、
スキマの裂け目の中から諏伯が姿を現した。
彼の手が、神力をまといながら豊姫へと伸びる。
「――純化!」
「……私が、負ける……?」
彼の手が触れようとしたその刹那、鋭い音が空を裂いた。
諏伯の手に矢が突き刺さる。
勢いのまま彼の身体は吹き飛ばされ、地面を転がった。
「――おやめなさい!」
その声は冷たく、しかし威厳を持って響いた。
現れたのは、月の賢者・八意永琳だった。