豊姫は顔を上げた。
「八意師匠……!」
「あら、永琳。」紫が軽く笑う。
「あなたは干渉してこないと思っていたのだけど。」
永琳は一歩踏み出し、静かな怒気を孕んだ声で言った。
「白々しいわね。私は今、貴方にものすごく腹を立てているのよ。」
紫は肩をすくめて、悪びれた様子もなく答える。
「いやね、月への突入をしようとしたら“たまたま豊姫の能力で幻想郷に送り返された上に、月の民までついてきた”のよ。
幻想郷を守るために、あの子を排除しようとしただけ。
それに、あなたに飛ばされた諏伯もあなたのために戦っていたのに。」
永琳は深く息を吐いた。
「偶然ね、偶然。……問い詰めても長くなりそうだから、今はいいわ。次に――豊姫。」
「は、はい、師匠!」
「紫のスキマを幻想郷に繋ぐまでは問題ない。けれど、どうしてあなた自身が幻想郷に来たの?」
豊姫は言葉を詰まらせた。
「……。」
「私を探しに、でしょうね。」
永琳の声は冷たくもどこか優しさを含んでいた。
「けれど、あなたが来ることで戦闘にならないと思ったの?」
「す、すみません……。」
「そして――吹き飛ばされた諏伯。」永琳の視線が移る。
「私、言ったわよね? 豊姫に手を出したら戦争になるって。
借りがあったとしても、妖怪に利用されすぎよ。」
「……はい。」
諏伯はただ頭を下げることしかできなかった。
永琳は静かに頷き、冷静に言葉を重ねた。
「豊姫、諏伯。全員、何もなかったことにして帰りなさい。
そして――紫。暴れ足りないのなら、幽々子の件をここで暴露してもいいのよ?」
紫の扇がぴたりと止まる。
短い沈黙のあと、ため息をついて微笑んだ。
「……わかったわよ。帰る。」
諏伯はその背を見送りながら、心中で小さく呟いた。
(……宝物庫に泥棒に入るのは容認してるのか、あの人は。)
永琳は最後に豊姫へと向き直る。
「豊姫、月にいる吸血鬼たちを幻想郷に送り届けておいて。」
「はい。」
「それと――久しぶりね。」
永琳の口元がわずかに緩む。
「立派に成長していると思うわよ。」
「はいっ!」
その声が静寂に響く。
こうして、永琳の介入によって――
幻想郷と月の民との全面戦争だけは、ひとまず避けられることとなった。
静謐な光が差す月の会議室。
空気は薄く、冷たく、音ひとつない。
その中央で、稀神サグメは白いホワイトボードの前に立ち、淡々とペンを走らせていた。
ペン先が走る音だけが、月の静寂を切り裂く。
【月の侵入者について、寛大な処置を】
文字を書き終えたサグメは、静かにボードを皆に向ける。
豊姫は頭を下げ、柔らかく声を出した。
「今回の地上への渡航……勝手に行い、申し訳ありません。」
サグメは再びボードに文字を刻む。
【問題、ない。渡航がなければ、いずれ別の方法で侵入していただろう】
依姫がそれを見て頷く。
「確かに。幸い、こちらでも命のやり取りはなかった。それが救いです。」
ペンの音がまた響く。
【その通り。月の民とて、純狐とヘカーティアの存在がある。幻想郷を相手にしている暇はない】
依姫が思い出したように顔を上げた。
「そういえば、諏伯も地上にいたそうですね。何かあったのですか、姉さん?」
豊姫は少しだけ目を伏せる。
「あの子とは戦闘になったわ。ほんの一歩で一撃を受けそうになった。でも……敵意はなかった。」
サグメのペンが止まり、今度は少し間をおいて動く。
【よい。恨みを持たれていたら、こちらとしても対応に困っただろう】
最後にもう一度、白板に静かに文字が浮かぶ。
【願わくば、彼に純狐をまた地上に留めていてほしい】
その言葉を読み終えた豊姫と依姫は互いに目を見合わせ、小さく頷いた。
誰も声を出さない。
ただ、ペン先の跡だけが月の冷光を反射して輝いていた。