純狐の息子は二度目の生で母を追う   作:四国の探索人

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囁かな日常

数日が過ぎ、竹林の霧が薄く漂う中、諏伯は再び永遠亭を訪れていた。

薬湯と墨の香りが薄く混ざった診療室で、八意永琳は書類を綴りながら問いかける。

 

「あなたは蓬莱人だから問題ないでしょうけれど……矢傷は、本当に平気だったのかしら?」

 

諏伯は腕をかすかに押さえながら苦笑した。

「怪我の原因は……医者(あなた)にやられましたがね。あの矢は私が豊姫に一撃いれないように止めた。そう考えると、永琳らしい一撃でしたよ。」

 

永琳は視線を上げ、こともなげに答える。 「ええ、狙いは逸らしてあるわ。動脈も臓器も外したもの。」

 

「……豊姫のこと、本当に殺さなくてよかったんですか?」

諏伯の声には、疑いとも苛立ちともつかぬ色が混ざっていた。

 

永琳は静かに息をつく。

その瞳は深い湖のように揺れない。

 

「豊姫が、私に害を為すことはないわ。」

 

「存在を知られたくないからここに住み着いたんじゃないんですか?」

諏伯の言葉は低く、押し殺すようだった。

「せっかく……助けるつもりで戦っていたのに。」

 

しばし沈黙が落ちる。竹林の風が廊下の障子を微かに鳴らした。

 

永琳は静かに言う。

「今回のこと、少しは分かったでしょう? 月の民があなたを見たときの気持ちが。」

 

諏伯は息を呑む。

永琳の言葉は鋭い刃のように胸奥を切り裂いた。

 

思い返す――

月へ踏み込んだあの日、迎え撃つ側にいたのは諏伯ではなく、豊姫や依姫たちだった。

純狐の息子というだけで向けられた、理由もない憎悪と恐怖。

それが今、諏伯自身の中に芽生えていた。

 

(……立場が逆転していたのか。)

 

目を伏せたまま、諏伯は呟く。

 

「まさか……それを気づかせるために、わざと豊姫を幻想郷に来させたんですか?」

 

永琳は口元だけで微笑む。

その表情は無邪気にも狡猾にも見えた。

 

「どうかしらね。」

 

答えにならない答え。

永琳らしい、冷たくも優しい煙幕。

 

「さ、次の患者が来ているわ。ほら、帰った帰った。」

 

手をぱたぱたと追い払うように振る。

 

永琳の診療室を後にし、諏伯は廊下を黙って歩く。

深い竹林の静寂が永遠亭にも染み込んだようで、足音だけが微かに響いた。

 

その時、横の襖が突然すっと開いた。

 

驚くより先に、細い白い手が諏伯の袖を掴む。

気付けば諏伯は畳の上へと倒され、柔らかな膝が後頭部を受け止めていた。

 

「お疲れ様です。先の戦闘、お疲れ様でした。」

 

落ち着いた声が頭上から降りてくる。

蓬莱山輝夜が、静かに諏伯の髪を撫でていた。

 

諏伯はわずかに目を伏せたまま尋ねる。

 

「怒らないんですか? 月の民を……みすみす逃がした私を。」

 

「怒る理由がないわ。」

輝夜はゆっくりとかぶりを振る。

「私たちのために戦ってくれたのでしょう? それも、勝ちが見えるところまで。怒るだなんて、なぜ私が。」

 

暖かい膝、指先の優しい動き。

それがかえって胸の奥に刺さる。

 

「……そろそろ止めてもらっていいですか。」

 

そう呟くと、輝夜は肩をすくめながら諏伯を起こした。

 

「あら、せっかく永琳に怒られて落ち込んでるから励ましてあげようと思ったのに。もう終わりにしちゃうのね。」

 

その声は茶化しているのに、どこか寂しげだった。

 

やがて輝夜は表情を切り替え、いつもの調子で軽やかに笑う。

 

「でもね――本当に感謝しているの。結果はどうあれ戦ってくれて。」

 

永遠亭から離れ、人里あたりにて夜になる。ぬえに泊めて貰おうかと思い着くも、命蓮寺の廊下は夜の静けさに包まれていた。

諏伯はふらりと一室の襖を開く。

 

「ぬえ、守矢神社まで帰るのが疲れた。泊めて。」

 

布団の上で寝転んでいた封獣ぬえは片目だけを開けた。

 

「ふーん。いいけどさ、あんたなら飛行でもすぐ帰れるでしょうに。わざわざ私の部屋に来るなんて――良い心がけね。」

 

言葉とは裏腹に、どこか嬉しそうだった。

ぬえはタオルケットを肩に引っ掛けながら、予備の布団を押し入れから引っ張り出す。

 

枕を並べ終えた頃、ふと動きが止まった。

じっと諏伯に顔を近づける。

 

「……諏伯。あんたから、女の匂いがするんだけど。」

 

「永遠亭に居たから病室の匂いが……」

 

「んなわけあるかっ!」

ぬえは眉を吊り上げる。

「頭からだけ匂うのよ!そこ、そこだけ!つまり膝枕だな!?あんた、膝枕されて来たな!?」

 

諏伯は目をそらした。

その反応が何よりの答えだった。

 

「……否定はしませんが。」

 

「する気ないのかこの浮気者!」

ぬえは布団を握りしめ、勢いよく諏伯の頭を引き寄せる。

「よーし分かった、私で上書きしてやる!このこのこのこのー!」

 

膝の上で諏伯の頭をゴシゴシ撫でまわす。

 

「痛い痛い痛い!髪が逆立つ!」

 

「文句言うんじゃない!その姫だか医者だか知らないけど、私の存在を薄めるんじゃないー!」

 

ぬえの頬は少しだけ膨れていた。

怒っていると言うより、呆れて拗ねている。

 

ようやくぬえの攻撃が止んだころ、諏伯は整えようとする髪を押さえながら息をついた。

 

「……で、満足しましたか?」

 

「まあね。よーし許す!」

ぬえは満足げに腕を組む。

「明日の朝、絶対その膝枕した相手の名前を白状してもらうからね。」

 

「それは……口を割るつもりはありません。」

 

「ほほう?」

ぬえの笑顔が闇に光る。

「じゃあ代わりに明日は付き合ってよ。」

 

諏伯は頷いてから、布団に潜り込む。

 

灯りが落とされる。

夜虫の声だけが静かに響く。

 

そして眠りにつく直前、諏伯は小さく呟いた。

 

(……まあ、こういう夜も、悪くはないか。)

 

ぬえは聞こえないふりをしていたが、掛け布団を引き寄せながら――ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。

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