しばらくの後――。
諏伯は守矢神社の寝所で、ゆっくりと瞼を開いた。
天井の木目。鼻をくすぐる御香の匂い。
そして、すぐ近くにいる気配。
「おっ、起きたね」
聞き慣れた声に、諏伯は上体を起こそうとして――軽い頭痛に顔をしかめた。
「……何が、ありました? 確か天子に攻撃を受けて……」
諏訪子は縁側に腰を下ろしたまま、のんびりと頷く。
「そうそう。で、そのまま純化の力が暴走して、ちょっと暴れてたってわけさ。
あれは流石にまずそうだったから、純狐さんに何とかしてもらったよ」
諏伯は一瞬、呼吸を止めた。
「……純狐さんが?」
「うん」
諏訪子は笑ってみせるが、どこか歯切れが悪い。
「助かったのは間違いないんだけどね。
止めに行く前に手紙だけ残して、どっか行っちゃったんだよ」
諏伯の眉がわずかに動く。
「……純狐さんは、どうなりましたか?」
諏訪子は肩をすくめる。
「それが分からないんだよねぇ。
諏伯はそのへんに転がってたから、紫が拾ってここに置いていった、ってわけ」
諏伯の目が細くなる。
「紫が……?」
思い出すのは、月への一件。
そして、自分が紫へ与えていた“純化の影響”。
「……異変というか。紫に与えていた純化の影響は、どうなりましたか?」
諏訪子は少しだけ真面目な顔になった。
「一緒にいた式が、もう問題ないって言ってたよ。
取り敢えず、最初の目的は達成だね」
諏伯は胸の奥で小さく息を吐く。
最悪の未来――第三次の戦争だけは避けられた。
「……なら、良かった」
諏訪子は思い出したように懐を探り、折り畳まれた紙を取り出した。
「で、これがさっき言った純狐さんの手紙ね」
諏伯の手に、手紙が渡される。
紙は不思議と冷たく、墨の匂いが濃い。
諏伯は静かに開いた。
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手紙
母さんより
諏伯へ。
私がかけた加護が、天人との戦闘で“攻撃”として利用されたみたいです。
それは母さんがなんとかしました。
でも、少し力の調整が必要で、側にいられないのを許して下さい。
今の諏伯は、私の加護がない状態です。
だから、自分で加護を身につけるように。
P.S
ちょっと忙しくなるので、母さんの家に行っても誰もいません。
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読み終えた諏伯の指先が、わずかに強く紙を握る。
諏訪子は諏伯の顔を覗き込みながら、ぽつりと呟いた。
「……痛いはずなのに、側にいられないって言うのはさ。
こりゃ、何かあったんだろうね」
諏伯は手紙を畳み、胸元にしまった。
「……へぇ。分かりました」
それから、ふと思い出したように言う。
「後は……人里、ですかね」
諏訪子は手を振って笑う。
「あー、大丈夫大丈夫。
私と神奈子が、お前が寝てる間にいい感じに直しておいたよ。今はもう元通りさ」
諏伯は少し呆れたように目を瞬かせる。
「……直した、って……」
「炊き出しもやったし、話も回したし、信仰もいい感じに集まったよ」
諏訪子は誇らしげに胸を張る。
「完璧だね」
諏伯は小さく苦笑した。
「さすがですね……」
それから、もう一つ気になっていたことを口にする。
「……天子は?」
諏訪子は思い出したように笑う。
「霊夢にいきなり後ろから殴られて倒れてたから、保護者が連れて帰ってたよ」
「保護者……衣玖ですか」
「たぶんね」
諏伯は頷く。
「……そうですか」
諏訪子は立ち上がり、諏伯の額を指でつついた。
「もー。やることないし、病み上がりなんだから、もう少し寝ておいで」
諏伯は布団に視線を落とす。
確かに体は重い。だが、頭の奥が妙に冴えている。
純狐がいない。
加護がない。
そして――“忙しくなる”。
その言葉が、やけに引っかかった。
諏伯は小さく息を吐き、布団へ背中を預ける。
「……少しだけ、休みます」
諏訪子は満足げに頷いた。
――一方、地獄。
静まり返った閻魔庁に二つの足音が響いていた。
小野塚小町と霧雨魔理沙は、四季映姫の前に立っている。
「小町。報告に来るのは感心ですが……その人間を連れてくる必要はありません」
静かだが鋭い声が場を引き締める。
「いいじゃないっすか。地上に戻すより、報告の方が優先だって判断したんすよ」
横で魔理沙がきょろきょろと辺りを見回す。
「へぇ……ここが地獄か。もっと禍々しい場所を想像してたぜ」
「死ねば、いくらでも堪能できますよ」
即答に、魔理沙は肩をすくめた。
「生憎だな。私は天国行きなんだぜ」
「……どの口が言うのですか。日頃の窃盗行為、ここで裁いても構わないのですよ」
「はいはい。それは死んでからにしてほしいぜ」
小町が咳払いをして話を戻す。
「それで、四季様。諏伯の件は?」
「幸い、純狐様が対処してくださいました」
魔理沙は少し意外そうに眉を上げる。
「諏伯が暴走したのって、そこまでヤバかったのか?」
「ええ。仮にあのまま暴走していれば、生きとし生けるものを大量にこちらへ連れてきかねませんでした」
一瞬、映姫の表情が和らぐ。
「……私たちも、あの子には幸せになってほしいのです。純狐様が動いてくださって本当に良かった。
――と言いたいところですが」
小町が苦笑する。
「今度は、その純狐様が諏伯の代わりに暴走中っすからね。
上位の神霊だから会話は成立してますけど、月の民への恨みを晴らす気満々っす」
「ヘカーティア様も乗り気です。
幻想郷での惨事は回避されましたが……その代わり、月で惨事が起きかねません」
魔理沙が腕を組む。
「事情はよく分からんが……そいつらを倒せばいいんじゃないのか?」
「ただの魔法使いに、何ができますか。
残念ながら、我々に出来ることは何もありません」
小町がわざとらしくため息をつく。
「あーあ。もし誰かさんが、この事を諏伯に伝えたら……
上司であるヘカーティア様の邪魔になっちゃうかもしれないなぁ」
「そ、そうですね。
“誰かさん”が諏伯に広めてしまえば、ヘカーティア様の邪魔になりますね」
二人は意味ありげに顔を見合わせる。
次の瞬間――
そこにいたはずの魔理沙の姿は、跡形もなく消えていた。
小町は肩をすくめる。
「四季様。わざと幻想郷への扉、開けっぱなしにしてましたよね」
映姫は視線を伏せ、静かに答える。
「本来なら、ヘカーティア様の邪魔をするつもりはありません。
ですが……追い詰められた月の民が、何をしでかすか分からない」
――そしてこの瞬間。
魔法使い、聞いてはいけない話を“聞いてしまった”ことだけが、確かだった。