それからしばらく、まるで何事もなかったかのように幻想郷の日々は流れていった。
――博霊神社。
縁側で霊夢が湯呑みを傾けていると、竹箒を担いだ魔理沙がいつものように遠慮なく上がり込んでくる。
「おい霊夢。ちょっと頼みがある」
「あら魔理沙。久しぶりね。天界から降下する途中で別れて以来かしら」
「そうそう。そのあと地獄の船頭についてってな、ちょっと地獄見学してきたんだよ」
「化けて出てこないでくれる?」
「だから死んでないっての!」
霊夢はため息をつき、湯呑みを置く。
「どうせ五十年もすれば行く場所でしょ」
「縁起でもないこと言うなよ……まあいい。本題だ」
霊夢は面倒くさそうに視線だけ向ける。
「何よ」
魔理沙は声を潜める。
「地獄の閻魔がな、月が今大変なことになってるって言ってた」
「月?」
「諏伯の母親と、地獄の女神が襲撃してるらしい」
霊夢は一瞬だけ思い出したような顔をするが、すぐに興味を失ったように視線を逸らす。
「ああ、あの純狐とかいうの? でも月の話でしょ。私たち関係ないわよ。諏伯に教えれば?」
魔理沙はニヤリと笑う。
「その“今大変”ってのが重要なんだよ」
霊夢の眉がぴくりと動く。
「何が言いたいの」
「月が手を焼いてる今――宝物庫は手薄だ」
一拍。
「ちょっと拝借すれば、黄金がたんまりと……」
霊夢の目が輝く。がしっと魔理沙の手を掴む。
「いいわね相棒!!」
「早い早い早い!」
「月の宝物よ? あいつらが溜め込んでるんでしょ? ちょっとくらいなら罰は当たらないわ!」
「だから足がないって言ってるだろ。前回は紅魔館の連中が連れてってくれたけど、今回は何もない」
霊夢は腕を組む。
「じゃあどうするのよ」
「神様に頼めばいいだろ」
「は?」
「境界いじれる奴とか、天界にパイプがある奴とか。紫か守矢の神なら何とかなる」
霊夢は疑いの目を向ける。
「そんな簡単にいくかしら……」
――数刻後。
守矢神社。
二人は八坂神奈子の前に立っていた。
「悪い話じゃないだろ? 一個くらい守矢用に持って帰るからさ」
「月の宝具に興味はあるが……神に盗人の手伝いをしろと?」
「守矢はどっちかと言えば正義より悪だろ?」
神奈子の視線が鋭くなる。
「冗談だって!」
「どちらにせよ無理だ。いくら神でも日本の神だぞ。地球から離れた月に扉を開けるなんて芸当はできん」
「なんだ、神のくせにできないの」
次の瞬間、霊夢の頭に拳が落ちる。
「痛っ!」
「神を何だと思っている」
神奈子は腕を組み、ふと何かを思い出したように言う。
「そうだな……諏伯に聞けばいいんじゃないか? あの子、月で長いこと罪人やってたんだろ。何か一つくらい知ってるだろう」
「おーい、諏伯――」
その瞬間、魔理沙が慌てて口を塞ぐ。
「いやいやいやもういいぜ! ありがとな神様!」
「やけに嫌そうだな。知られたらまずいのか?」
「なーーーいけど! ちょっと黙っててほしいだけだ!」
神奈子は呆れたように肩をすくめる。
「なら紫しかないだろうな」
「それが居場所掴めないのよ」
「なら早苗を貸してやろう。奇跡で見つけられるかもしれん。早苗ー!」
奥からぱたぱたと東風谷早苗がやってくる。
「どうかしましたか神奈子様。霊夢さんと魔理沙さん?」
「紫を探してほしいの」
「私にそんな便利機能は――」
神奈子がさっと早苗の口を塞ぎ、耳元で囁く。
「この二人が馬鹿しないように、適当に時間をかけてあしらって見張ってこい」
「はい! 分かりました!」
三人は神社を後にする。
「早苗、あんたの奇跡で見つけられるの?」
「お任せください! 私は奇跡の巫女ですから。どこぞの巫女とは違います」
霊夢のこめかみに青筋が浮かぶ。
早苗は地面に簡易の陣を描き、真面目な顔で唱え始める。
「さあ、おいでませ我が奇跡。八雲紫のスキマ、出でさせ給え!」
一瞬、風が止まる。
そして――
ぱくりと空間が裂け、目の前に見慣れたスキマが現れた。
「……おお」
「マジかよ。本当に出てきた」
早苗は内心で震える。
(私の奇跡にこんな便利機能ありませんけど!? なんで出たんですか!?)
しかし表情は完璧にドヤ顔。
「ほら、出ましたよ」
霊夢はためらいなくスキマに足を踏み入れる。
「行くわよ」
「待てって霊夢!」
魔理沙も続く。
早苗は一瞬だけ振り返り、守矢神社の方角を見た。
(……神奈子様、これ完全に想定外です)
そうして三人は、何が待つかも知らずにスキマの中へと消えていった。
同じ頃――月。
灰白色の大地の上に築かれた月の都は、かつてない緊張に包まれていた。
空気そのものが張り詰め、浄土特有の静謐さは失われ、どこか息苦しい気配が漂っている。
その原因はただ一つ。
純狐とヘカーティアによる襲撃だった。
現在、月の民たちは安全のため、夢の世界へと退避している。
そこは現実と違い、淡く揺らぐ色彩に満ちた空間だった。
依姫が腕を組み、不満を隠さず呟いた。
「全く……どうしてこんな事態に」
豊姫もため息をつく。
「戦っているわけじゃないのに、息が詰まる感じね。あの二人が近くにいるだけで空気が濁るわ」
その横で、夢の管理者が露骨に顔をしかめる。
「それなら出ていってほしいんですけどね」
ドレミー・スイートは、腕を組みながらはっきり言った。
「ここは“夢の世界”ですよ。避難所じゃありません。しかも相手は純狐とヘカーティア。夢の構造そのものに負担がかかってるんです」
部屋の中央では、サグメが無言でホワイトボードに文字を書いていた。
――追い出せるなら、追い出してもよい。
筆談を読み、ドレミーは肩をすくめる。
「分かってますよ。あなた方を追い出せるなら、とっくにやってます」
豊姫が軽く笑う。
「分かってるならいいじゃない。ドレミー」
依姫は状況を整理するように言葉を続ける。
「問題はそこではありません。
純狐とヘカーティアが“共闘”して襲撃してくるとは予想外でした。
ここに避難できているとはいえ、このままでは月に戻れません」
サグメはまた文字を書く。
――諏伯は、止め役にならなかったか。
豊姫が小さく首を傾げる。
「不思議なのよね。息子と一緒にいられるなら、無理に襲撃してこないと思っていたのに」
依姫は皮肉めいた声で言う。
「嫦娥様がまた何かやらかしたのでは?」
サグメは首を横に振るようにペンを止め、書き直す。
――上層部の動きを見る限り、それは違う。
――今回の襲撃は、純狐とヘカーティア自身の意思だ。
その文字を見て、空気がさらに重くなる。
――我らは構わない。だが、このまま帰還不能ならば。
豊姫が淡々と続ける。
「幻想郷の浄化、という話になりますね」
サグメはゆっくりと書き終えた。
――それが最終手段にならぬことを祈る。
しばし沈黙が落ちる。
やがて豊姫が軽く手を挙げた。
「サグメ様。……少し地上へ行っても?」
依姫が眉をひそめる。
「無駄では? 諏伯は我らを恨んでいるでしょう」
サグメは即座に書く。
――今、敵との接触は許可できない。
豊姫は少し考え、言葉を選ぶ。
「では“調査”という形で。
もし地球浄化が現実になるなら、幻想郷の反応を探る必要があります。
純狐とヘカーティアの襲撃を、向こうがどう見ているのか」
サグメは少し考え、ゆっくりと書いた。
――許可する。
――だが行くのは依姫のみ。
――豊姫、お前は上から地上との癒着を疑われている。
豊姫は肩をすくめる。
「やれやれ、信用がないわね」
依姫は無言で頷き、立ち上がる。
二人は会議室を後にした。
夢の廊下を歩きながら、豊姫が小さく笑う。
「さて……紫のスキマに繋ぐとしましょうか。
私も随分、目を付けられたものね」
依姫は真剣な表情のまま問いかける。
「姉さん。私は何をすれば?」
「やることは単純よ」
豊姫は指を一本立てる。
「幻想郷が“純狐とヘカーティアの襲撃”を容認しているのか。
それとも止めようとしているのか――そこを見てきなさい」
依姫は静かに頷いた。
その前に、空間がゆっくりと裂ける。
紫の境界に“繋ぎ替えられたスキマ”が現れる。
依姫は一歩踏み出す。
夢の世界の光が背後で閉じ、彼女の姿は境界の向こうへと消えていった。