繋がれた境界の中――
依姫は、空間の歪みの中を滑るように進んでいた。
無音の通路。時間の感覚すら曖昧になる異界。
その時。
ヒュン――
一瞬、何かが横切った。
依姫の足が止まる。
「……今、高速で誰か跳んで行ってたような……」
しかし、すぐに小さく首を振る。
「……姉さん達が、なんとかするでしょう」
依姫はそのまま、幻想郷側へと歩みを進めていった。
---
一方その頃――夢の世界。
豊姫は腕を組み、わずかに空間の揺らぎを見上げていた。
「依姫、大丈夫かしら」
サグメは無言でホワイトボードに書く。
――身の危険はないだろう。
だが。
書き終えたサグメの手が、すっと止まった。
ゆっくりと、背後を指差す。
豊姫が首を傾げる。
「何かありましたか、サグメ様?」
くるり、と振り返り――
固まった。
床のど真ん中に。
魔理沙、霊夢、早苗。
三人まとめて、見事に転がっていた。
「いたたた……魔理沙さん、マスパの逆噴射はやりすぎですよ……」
早苗が頭を押さえてうめく。
魔理沙は悪びれもなく笑った。
「いいじゃないか。おかげで長い空間をスパッと通過できただろ」
霊夢だけが、すでに周囲を警戒していた。
「……二人とも。呑気にしてる場合じゃないかも」
豊姫は引きつった笑顔になる。
「なんか居るんだけど……いや違いますよサグメ様、私が連れてきた訳じゃ――」
サグメ、無言。
ホワイトボードに走る文字。
――何故ここにいる?
霊夢が目を細める。
「……綿月姉妹の姉?
ここ、もしかして月?」
豊姫が軽く肩をすくめた。
「みたいなものね」
魔理沙が早苗の肩を小突く。
「おい早苗。お前、紫のスキマを奇跡で呼んだんじゃないのかよ」
早苗は全力で首を振る。
「私にそんな奇跡ありませんよ!
なんか祈ったら、勝手にあのスキマが出てきたんです!」
豊姫はため息混じりに結論づけた。
「……手違いで入り込んだ、ってところね」
霊夢は即座に踵を返す。
「じゃ、帰るわ」
魔理沙が慌てて止める。
「おい待てよ。目的地は月なんだから問題ないんじゃないのか?」
豊姫の目が細くなる。
「へぇ。月に“用事”が?」
一歩、圧が強まる。
「どんな用事かしら?」
魔理沙、わずかに汗。
「そっ……そりゃ観光だよ」
(盗みに来たとか言えるか!!)
一拍。
豊姫が横目でサグメを見る。
「サグメ様、どうします?」
サグメ、即答。
ホワイトボードに叩きつけるような筆圧。
――逮捕。
三人、空気で察した。
霊夢の目が一瞬で戦闘モードに切り替わる。
「夢想転生!! 二人とも逃げなさい!!」
霊夢の周囲に結界の光が展開する。
同時に。
サグメのペン先が走る。
――豊姫。二人を捕まえろ。
豊姫が扇子を開き、にっこり笑った。
「逃がすわけ、ないでしょう?」
魔理沙が箒を蹴り上げる。
「乗れ、早苗!」
そのまま後ろに早苗を引っ張り上げ、二人は一気に飛び出した。
「ちょ、ちょっと! 別に逃げなくても、三人でやればいいじゃないですか!」
「お前は知らないかもしれないがな――」
魔理沙は歯を食いしばる。
「あいつら、一人でも霊夢でも勝てないレベルだ」
「えっ……そんなに強いんですか」
「今回は弾幕ごっこじゃない。下手すりゃ生命の危機だぜ……」
早苗の顔色が変わる。
「それ、駄目じゃないですか! 霊夢さんが!」
「……あいつならなんとかするだろ」
魔理沙は後ろをちらりと見る。
「追ってきてないな……よし――」
「魔理沙さん、正面!!」
その瞬間。
行く手の空間に、まるで最初からそこにいたかのように――
豊姫が立っていた。
「私から逃げられるかしら?」
放たれた一撃。
二人は間一髪で回避するが、背後の壁が粉微塵に吹き飛ぶ。
「ったく! やりすぎだろ!」
魔理沙は即座に進路を横の階段へ切り替え、そのまま上層へ急上昇する。
だが――
「甘いわ」
再び、上層への通路に豊姫が立ちはだかる。
「……紫さんみたいに、スキマの能力でしょうか」
「考えてる暇はない! 一か八か――」
魔理沙が八卦炉を構える。
「恋符、マスタースパーク!!」
極太の光線が一直線に走る。
「なっ――」
豊姫は瞬時に位置をずらして回避。
しかしマスタースパークは天井をぶち抜き、そのまま上層へ巨大な穴を穿った。
「よし、道ができた!」
二人はその穴を抜け、最上階へ飛び出す。
魔理沙が周囲を見回した。
「ここが一番上か? ひぇ~……デカいもんだな、月の都市も」
早苗がきょろきょろする。
「……追ってきませんね」
「好都合だ。よし――」
魔理沙の口元がにやりと歪む。
「金目の物、探索開始だ」
目の前の厳重そうな扉へ魔法を走らせる。
カチリ。
錠が外れ、扉が開いた。
中は――
無数の培養槽が並ぶ、明らかに異質な空間。
「これは……培養液?」
「知ってるんですか? かなりSFですけど」
「紅魔館の本で見たことある。ホムンクルス作る施設だな」
その時。
コツ、コツ、と足音。
奥の闇から、一人の女が現れる。
「あら。人間が二人。被検体?」
空気が凍る。
「いや、私たちはただの観光きゃ――」
言い終わる前に、後ろから口を塞がれた。
「私のご友人です」
いつの間にか背後にいた豊姫が、にこやかに言う。
「……あら、そう」
女――嫦娥の視線が、ゆっくり早苗へ向く。
「そこの緑髪の方」
「わ、私ですか?」
「少し興味があるわ。名前は?」
「東風谷――」
その瞬間。
豊姫が一歩前に出る。
「嫦娥様。この子たちは、今から私が連れていきますので」
わずかに強い口調。
嫦娥は数秒だけ見つめ――
「……そう」
それ以上は追及しなかった。
豊姫は二人の腕を掴み、そのまま半ば強引に部屋の外へ引きずり出す。
扉が閉まった瞬間。
豊姫が深くため息をついた。
「……よりにもよって、あそこを選ぶなんて」
「なんだよ、悪いか」
「私が連れ出さなければ死んでたわよ、二人とも」
早苗が青ざめる。
「さ、さっきの方は……?」
「月のお偉方。いろんな実験をしている方よ」
魔理沙が腕を組む。
「で? 私らをどうするつもりだ」
「別に殺さないから大人しくなさい。赤い方の巫女は、もう捕まってるから」
「……ちぇっ」
二人は渋々従う。
最初の部屋に戻ると――
霊夢が普通にくつろぎながらお菓子を食べていた。
「お疲れ。あんたらも食べる? いけるわよ」
「……随分平和的な扱いですね」
豊姫が優雅に微笑む。
「お茶でも飲みながら話しましょうか。私は霊夢とだけ面識があったかしら。綿月豊姫。こちらは月の賢者の一人、稀神サグメ様」
「博霊神社の巫女、博霊霊夢」
「その友達で魔法使いの霧雨魔理沙」
「守矢神社の巫女、東風谷早苗です」
サグメの視線が早苗に止まる。
「……守矢神社?」
「何か?」
豊姫がふと思い出したように言う。
「洩矢諏伯って知ってる?」
「ええ、もちろん。諏訪子様の息子さんですよね」
「……なるほど」
豊姫は小さく頷く。
「だからさっき、嫦娥様が興味を持ったのね」
霊夢が目を細める。
「あんたらも諏伯のこと知ってるの?」
「聞いてない? 彼が月で罪人になった時――戦った相手が私たちよ。妹は今、幻想郷に行ってるけど」
魔理沙がぽんと手を打つ。
「なるほどな。あいつが言ってたのはあんたらか」
サグメが前に出る。
「……本題だ」
静かな声。
「君たちは、なぜ“戦争中”に月へ来た?」
「えっ、戦争中?」
「緑の巫女は知らなかったようだな」
サグメは一度だけ魔理沙と霊夢を見る。
そして――初めて肉声で言った。
「質問に、正直に答えなくていい」
魔理沙が肩をすくめる。
「だから言ってるだろ。忙しくしてる間にお宝を盗みに――あれ?」
霊夢が即座に小突く。
「あんた何本当のこと言ってんのよ!」
豊姫はくすくす笑う。
「なるほど。お宝目当てね」
サグメは再びホワイトボードに書きつける。
――むしろ、そちらが目的でよかったかもしれん。
その口元には――
わずかな笑みが浮かんでいた。