諏伯は、ゆっくりと息を吐いた。
肌を刺すような圧力。
立っているだけで、魂そのものを押し潰されそうになる。
(圧倒的な力量差……)
目の前にいるのは、ただの神ではない。
地獄を統べる女神――ヘカーティア・ラピスラズリ。
洩矢の二柱とも違う。
神奈子や諏訪子から感じる威厳とは別種の、底知れない“格”がそこにはあった。
本能が警鐘を鳴らし続けている。
(……使うしかないか)
諏伯は静かに神力を練り上げる。
その内側で眠る、“純化”の力。
純狐から受け継いだ、月すら蝕む穢れ。
だが――。
「その力を使うのは、やめておきなさい」
不意に、ヘカーティアが口を開いた。
瞬間。
世界が止まる。
風が止んだ。
飛び交っていた弾幕が空中で静止する。
霊夢も、魔理沙も、早苗も。
誰一人として動かない。
音すら消えた。
静寂。
まるで世界から、自分たち二人だけが切り離されたようだった。
諏伯は目を細める。
「……時を」
「少なくとも“今は”ね」
ヘカーティアは気軽な調子で続けた。
「止めたというか私の空間を作ったという方が近いかしら」
諏伯は警戒を解かないまま構える。
「……これを使えば、いくら貴方でも効くでしょう」
「効くでしょうね」
ヘカーティアはあっさりと頷いた。
「純狐も使ってるし。怖いから止めるわけじゃないわ」
彼女は一歩、諏伯へ近づく。
「貴方のためよ」
「私の……?」
諏伯は眉をひそめた。
「というか、何故わざわざ時を止めたんですか」
ヘカーティアは肩をすくめる。
「純狐に貴方を認識されたくないから、かしら」
「……っ」
諏伯の表情が硬くなる。
「だってあの子たちとは、ただのお遊び中なんだもの」
まるで近所へ買い物に行く程度の軽さで言う。
だが、その言葉の意味は軽くない。
「……やっぱり、母さんは」
「ええ。予想通り、“純化”が暴走してる」
ヘカーティアは隠すことなく告げた。
「少し前、貴方が暴走してたでしょ?」
諏伯の脳裏に、自身が力を制御できなかった時の記憶が蘇る。
「あれを純狐が回収した」
喉が詰まる。
「母さん……」
「でも助けようとか思わないことね」
「なぜですか」
即座に返した。
ヘカーティアは少しだけ困ったように笑う。
「会えば、貴方が傷つくからよ」
静かな声だった。
だが、その声音には確かな本心が滲んでいた。
「暴走自体は、月の民への鬱憤を晴らしていけば徐々に落ち着くわ。まだしばらく時間はかかるけどね」
諏伯は拳を握る。
「でも、このままじゃ月の民が追い詰められて……幻想郷にまで被害が」
「知ってるわ」
ヘカーティアは即答した。
「でもね」
真っ直ぐに諏伯を見る。
その瞳には、地獄の女神としての威圧ではなく。
ただ一人の友を案じる色が宿っていた。
「私にとって大事なのは、月でも幻想郷でもなく――純狐なの」
空気が重く沈む。
「諏伯。貴方だってそうでしょ?」
諏伯は答えられない。
幻想郷。
母親。
どちらも失いたくない。
だからこそ、答えが出ない。
ヘカーティアは小さく笑った。
「だからさ。もう一回誘ってあげる」
彼女は背後の月を指差す。
「そこの巫女たちなんて忘れて――一緒に月を攻めない?」
諏伯の心が揺れる。
もし、その誘いに乗れば。
純狐を救えるかもしれない。
月との争いも、終わるかもしれない。
だが――。
諏伯は、ゆっくりと顔を上げた。
「……確かに、貴方の誘いに乗れば簡単に終わるのかもしれません」
静かな声。
しかし、その瞳には迷いとは別の光が宿っていた。
「ですが――」
諏伯は拳を握り締める。
「忘れられた者達の楽園……あの儚くも美しい楽園を」
脳裏に浮かぶ。
守矢神社。
博麗神社。
命蓮寺。
人里。
宴会で騒ぐ妖怪達。
笑い合う幻想郷の日々。
「月の民の手に渡す訳にはいきません!!」
沈黙。
ヘカーティアは数秒、諏伯を見つめ続けていた。
やがて――。
「……ハハッ!」
乾いた笑い声を漏らす。
「あの創られた世界がそんなにいいの?」
諏伯は即答した。
「月に比べれば、比較にならないくらい良い場所ですよ」
再び沈黙。
ヘカーティアは髪を指に絡めながら、楽しそうに目を細めた。
「じゃあ、言ったことの責任は取りなさいよね」
空間が揺らぐ。
ヘカーティアの隣に、黒い扉が現れた。
その奥から流れてくるのは――あまりにも濃密な純化の気配。
諏伯の表情が強張る。
「この先に純狐がいるわ」
ヘカーティアは手をひらひら振った。
「私はまだそこの巫女たちと遊んでから行くから」
諏伯は静かに頭を下げる。
「……ありがとうございます」
ヘカーティアは何も答えなかった。
ただ、小さく笑うだけだった。
諏伯は覚悟を決める。
そして――母の待つ空間へと、一歩踏み出した。
中に入ると――そこには確かに純狐の姿があった。
だが、その空間を満たしているのは、かつて諏伯が知っていた穏やかな気配ではない。
空気そのものが“純化”されている。
ほんの少し息を吸うだけで、体の内側まで侵食されそうになるほど濃密な神力。
諏伯は息を呑んだ。
「……母さん」
懐かしさと安堵が混じった声だった。
ようやく会えた。
そう思った瞬間――。
純狐の瞳が、ゆっくりと諏伯を捉える。
次の瞬間。
無数の弾幕が空間を埋め尽くした。
「っ!!」
諏伯は咄嗟に地を隆起させ、防壁を形成する。
轟音。
純白の弾幕が地面ごと空間を削り取っていく。
一撃一撃が、以前とは比べ物にならない。
諏伯は後退しながら目を見開いた。
「母さん!? 何を――」
純狐は答えない。
ただ静かに諏伯を見つめていた。
徹底した拒絶。
「……お前は誰だ?」
冷たい声だった。
諏伯の動きが止まる。
「……え?」
理解が追いつかない。
純狐は再び弾幕を展開しながら、淡々と続ける。
「母さん?」
その声に、僅かな苛立ちが混じる。
「私の息子は――とうの昔に亡くなった」
純白の神力が周囲を軋ませる。
「息子を騙るな」
諏伯の喉が詰まる。
(……なんだ、これ)
目の前にいるのは、確かに純狐だ。
ずっと追い続けてきた母親。
なのに。
まるで知らない存在を見るような目をしている。
諏伯は一歩踏み出す。
(……純化の暴走)
ヘカーティアの言葉が脳裏をよぎる。
諏伯は歯を食いしばった。
(記憶がないのか……?)
いや、違う。
忘れているというより――。
“息子を失った純狐”だけが残っている。
その感情だけを純化し続けた結果、他の全てが削ぎ落ちてしまっている。
純狐は冷たく諏伯を見下ろした。
「今は忙しい」
感情のない声。
「見逃してやる。帰れ」
純狐が片手を振る。
空間が歪み、背後に出口が開いた。
「これ以上私の前に立つな」
諏伯は出口を見た。
そして――小さく息を吐く。
このままでは駄目だ。
今の純狐は、自分を息子として認識していない。
ならば。
別の方法でこちらを見させるしかない。
諏伯は純狐を真っ直ぐ見据えた。
「……嫦娥様の居場所を知りたくありませんか?」
その瞬間。
空気が変わった。
純狐の瞳が細められる。
「嫦娥……様?」
その言葉には違和感があった。
まるで聞き慣れない単語を聞いたかのように。
「貴様――月の民か?」
純白の神力が膨れ上がる。
殺気が空間を満たした。
だが諏伯は退かない。
むしろ口元に笑みを浮かべる。
「そうだと言ったらどうします?」
純狐の周囲で弾幕が渦巻く。
「殺す」
即答だった。
諏伯は宝塔を構える。
「なら来い」
神力が解放される。
「恨みに取り憑かれた神霊め!」
空間が震えた。
純狐の瞳が見開かれる。
次の瞬間――。
激怒した純狐の弾幕が、諏伯へと降り注いだ。