八雲紫のスキマにより、諏伯は月の地へと降り立った。
そこには、静謐すぎるほどの沈黙と、銀白に照らされた広大な地平が広がる。
諏伯は一歩踏み出し、周囲をぐるりと見渡した。
「……都市からはだいぶ離れた場所に案内されたようだな。」
月の都の影はなく、周囲には建造物すら見えない。
不自然なほどに“何もない”ことに、彼は一抹の違和感を覚える。
小さく息を吸い、手を掲げて神力を放つ。
淡い金の粒子が周囲に散り、空気がわずかに震える。
「サグメか誰か……気づいて、来てくれるといいが。」
その願いに応えるように、空間が微かに揺れ、一人の女性が現れる。
軽やかで優雅な足取り――綿月豊姫だった。
「久しぶりね〜諏伯。力を出してくれたおかげで、すぐに見つけられたわよ。」
彼女は相変わらずの調子で笑みを浮かべているが、その瞳は以前よりずっと冷たい。
諏伯は、しかし落ち着いた表情で言葉を返した。
「来てくれたのが、話の分かりそうな相手でよかった。」
豊姫は目を細め、その視線を真っ直ぐに向ける。
「褒めてくれるのは嬉しいのだけど……今回は助けてあげられそうにないわね。」
その言葉と同時に、彼女は懐から信号弾を取り出し、迷いなく天へと撃ち上げた。
青白い閃光が月の空に弾け、静寂を破る。
諏伯は一瞬、驚きの表情を浮かべた。
「……なにを?」
豊姫は視線を逸らさずに答える。
「ここに来たってことは、嫦娥の件を内々に解決しようとしたんでしょう?」
「……そうです。話をしに来ただけです。」
「そっちはともかく。問題は――あなたが“あの純狐の息子”だということよ。」
その言葉が落ちると同時に、さらなる二人の気配が空気を引き裂くように現れる。
綿月依姫と、稀神サグメ。かつて諏伯を監視していた二人だ。
だがその眼差しは、もうかつてのような憐れみや同情ではなかった。
今やそこにあるのは、明確な“敵意”だった。
「お前が純狐の息子……それだけで、月にとっては十分な脅威だ。」
依姫の声は冷たく、容赦がなかった。
「転生ねぇ……半信半疑だけど、嫦娥様が仰っているからには……従うしかないわね。」
豊姫は、諏伯を見るその目を少しだけ伏せるようにした。
サグメは無言のまま紙に筆を走らせ、一枚の札を諏伯に差し出す。
『選択の余地はない。排除か監禁をさせてもらう。』
その文字を目にし、諏伯はほんの少し眉を寄せた。
「……待ってくださいよ。私はただ、嫦娥が私を探している件について、話をしに来ただけで――」
「黙れ。」
依姫の声が鋭く割って入る。
「決定事項だ。お前を無力化させてもらう。――前回みたいに裁判はないから覚悟しろ。」
その言葉に、諏伯の目の色がわずかに変わる。
だが感情的に返すことはなく、ただ静かに問うた。
「……私の能力を、忘れましたか?」
淡々とした声の中に、微かに宿る威圧。
「そちらがその気なら……月の都市を壊すくらい、私にもできますよ。」
依姫は表情を変えずに答えた。
「上からの指示だ。都市の防衛より、お前の排除を優先しろとの命だ。」
それは、月の意志。冷酷なほどに機能的な判断だった。
「……交渉の余地なし、ですか。」
豊姫は小さく息をつく。
「降参してもいいけど、その場合、あなたの扱いは――嫦娥様に委ねられるわよ。」
諏伯は、しばし沈黙した。
月面にただ静かに、彼の影が伸びる。
「…………。」
その表情に読み取れるのは、諦念ではなく――次の“選択”を計る目だった。
暫くの沈黙の後、月が呻いた。
乾いた地面が低く唸り、諏伯の足元から黄金の神紋が咲き乱れる。
重力のないはずの月面に、大地の怒りが広がる。
「穢れと呼ぶなら見せてやる……純なる怒りの神震(しんしん)を!」
月の岩盤が震え、無数の亀裂が三人の足元を走る。
その揺れは月にあるまじき“地震”であり、明らかに諏伯が地そのものを操っている証だった。
豊姫は即座に扇を開き、涼しげな声音で詠唱する。
「――山と海、表と裏、ここに繋げる。」
その声とともに風が生まれた。
だがそれは空気を撫でるものではない。素粒子を浄化する月の兵器――“風の刃”が月面に走る。
諏伯の神力の一部が、触れるだけで浄化され消し飛んだ。
風が肩をかすめ、装束が裂ける。
「……防げない、か。」
だが次の瞬間、その傷が肉ごと再生される。
蓬莱人としての不死性、そして母・純狐の加護が、外傷を無効化していた。
依姫は続いて神を宿す。
「宿れ――天照大神!」
刀に太陽のような輝きが宿り、空間を焼く一閃が生まれる。
全力の斬撃が、真っ直ぐに諏伯を襲う。
だがその瞬間、諏伯は懐から光を帯びた小さな宝塔を取り出した。
「……これ以上、舐められては困りますね。」
宝塔が宙に浮かび、上部の蓋がカパリと開く。
“ズオォォオオオ――ン!!”
神力を集束させた極太の霊力ビームが、一直線に依姫へと放たれた。
それは霊気と熱と圧力を兼ね備えた、“浄化”と“殲滅”の光――宝塔だった。
依姫は咄嗟に横へ跳び、刀を構えて防御。
斬撃の余波で光を割るも、地面は大きく抉られ、爆裂四散する岩とエネルギーが月面を切り裂いた。
「っ、これが……宝塔の攻撃力……!」
豊姫の扇風も一瞬、流れを崩される。
その混乱の中、サグメが静かに呟く。
「……彼は、逃げ切れる。」
途端に空間の因果が反転する。
彼女の能力――“言ったことが逆に作用する”が発動し、**「逃げられなくなる」**が現実となった。
周囲に見えない“網”がかかるような重圧。
諏伯は顔色を変えず、ただ一言。
「――結構、だが、ここで終わらせる気はありませんよ。」
再び宝塔を構え、足元の地脈が火を吹くように震え始めた。
三人の“月の守り人”と、
一人の“地”を喚ぶ不死神子の反撃が、
いよいよ幕を上げる――!