戦場に、再び沈黙が走った。
豊姫が、静かに扇を傾ける。
「依姫」
その一言に、依姫はわずかに頷いた。
「分かっています、姉さん。」
目を閉じ、依姫は神降ろしを始める。
足元に結界の紋が浮かび、八百万の神々がその身に宿り始める。
諏伯はすぐに距離を測る。
彼我の間にはゆうに三十メートル以上。
咄嗟の反応は十分間に合う。そう踏んでいた。
(この距離なら、対応できる。……狙うなら、抑えの効かないサグメからだ――)
その刹那。
依姫の眼が開かれ、刀が閃いた。
放たれたのは、彼女が纏った神威による“雷切”――高速の斬撃。
空間を裂いたその一閃は、明らかに諏伯から外れた方向へ放たれた。
(……あれ? 外した……?)
だが、次の瞬間。
――ズンッ!!
諏伯の腹部を、鋭い斬撃が直撃した。
「がっ……!? な、なんだ……っ!」
宝塔が握りしめられたまま、諏伯は後退しながら傷口を押さえる。
しかし血はほとんど出ていない。
純狐の加護が防いでいなければ、致命傷だっただろう。
その困惑を見透かしたように、豊姫が微笑んで言った。
「ふふ……依姫の攻撃を、貴方に“繋いだ”の。
交戦距離なんて、私たちにとって意味はないわよ。」
諏伯の目がわずかに見開かれる。
(“空間を繋げる”……! 依姫の攻撃と、私の位置を!?)
豊姫は再び扇をゆらりと揺らした。
「私の能力は“山と海を繋げる程度の能力”――つまり、あらゆる場所を結ぶ力よ。
人と人、攻撃と標的、森と風。思いのままに。」
依姫はすでに再び構えを取っている。
刀身に雷光を纏わせ、二撃目を狙っていた。
諏伯は左腕を押さえながら、呼吸を整えていた。
傷口は浅いが、三対一の戦況は時間が経つほど不利になる。
能力の応酬と、空間を自在に操る豊姫の支援。
サグメの逆転能力。
そして、神々をその身に宿す依姫の無尽の神撃。
(このままでは、いずれ追い詰められて終わる……)
それでも、彼の瞳はまだ光を失ってはいなかった。
「このままでは、攻撃を受け続けるだけ――」
諏伯の低い独白に、依姫が静かに嘲るように言う。
「……万一にも、この三人相手に勝てると思ったか?」
豊姫は無言で扇を揺らし、次の布陣に備えて距離を取っている。
サグメは静かに紙を取り出し、また一つ未来を揺るがせる言葉を書こうとしていた。
だが、そのとき。
諏伯の姿が、変わった。
諏伯は地に膝をつき、宝塔を月面へと深く突き立てた。
瞬間、月の地下に眠る神力が脈打ち、周囲の空間がきしみを上げる。
「……ここまで私を追い詰めたのは、そちらですからね。」
両の掌が月面を這う。
その下に流れる地脈――都市を支える構造断層に、諏伯の神力が注ぎ込まれていく。
「ならば、私も容赦はしない。」
目を閉じ、静かに息を吸い込む。
「――地よ、割れ、崩れろ。
月の都市を、土の底に沈めろ!」
ゴゥン……!
地の奥底で何かが砕けるような重低音が響いた。
瞬間、遠くに見える月の都市の輪郭がわずかに歪む。
支柱の一部が傾き、月面の一角に亀裂が走る。
その震えは、確かに“始まって”いた。
都市の直下に埋め込まれていた断層が、諏伯の神力によって崩壊を始めたのだ。
「っ……!」
豊姫の扇が手からこぼれ落ちるほど、彼女の手が震える。
「嘘……本当に、都市の支えを崩したの……?」
依姫も目を見開き、呆然と遠くを見つめていた。
だが。
サグメは一人、沈着な手つきで紙に一言を書き、それを二人に見せた。
「安心しろ。こんな時のために都市結界がある。」
豊姫が、はっとしたようにサグメを見る。
「……っ! そんなの……あったわね……!」
そして、ぽつりと口にする。
「まさか、本当に使う日が来るなんて思わなかったから……忘れてたわよ、そんなもの……!」
その間にも、月の大地は軋む。
だが――確かに“結界”が発動したのか、都市の崩壊は寸前で止まっているように見えた。
微かな光の繭のようなものが、月の都市を包み込み始めていた。
それを見て、諏伯はゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、遥か上空――いや、遥か先の存在を射抜いていた。
「――嫦娥よ」
その名を呼ぶ声に、空気が凍る。
「……見てるか!」
咆哮ではない。だが、その声は月全体に響くほどの意思を帯びていた。
サグメは静かに紙を一枚取り出し、さらさらと筆を走らせる。
「都市は幸い崩壊していない。結界が耐えているうちに終わらせば、私の能力でなんとかなる。」
依姫は一歩踏み出し、刀を握る手に力を込めた。
「……やはり、奴は本当に純狐の息子。
もうこれ以上、時間をかけるわけにはいきません。殺しましょう。」
その言葉に、豊姫は僅かに目を伏せてから、静かに口を開く。
「……そうね。……いいえ、待って。」
「なんですか、姉さん!!」
苛立ちをあらわにする依姫の視線の先――
豊姫が指さした先には、宝塔を抱えたまま、力尽きて倒れている諏伯の姿があった。
「……力の気配は、なし。」
豊姫は慎重に近づき、静かに屈み込む。
手を伸ばし、その首元に触れる。
「息は……あるわね。」
「なら、すぐに殺しましょう!」
依姫はドカドカと大地を踏みしめながら歩き出す。
その顔は、普段の整った凛然さとは異なり、怒気に満ちた鬼神のようだった。
刀を振り上げたその瞬間――
スッ――と紙が差し出された。
サグメが、無表情のままその筆跡を二人に見せる。
「落ち着け。蓬莱人だから、殺しても復活するだけ。拘束の必要がある。」
「……っ、失念していました。」
依姫は呼吸を整え、一歩下がった。
サグメは黙ったまま、自身の袖から異様に長く、太い釘を何本も取り出す。
「まさか……本気でやるんですか?」
豊姫が一歩下がりながら問いかけたが、サグメは頷きもせず淡々と作業を始めた。
ズン――!
まずは両手首と足首に、杭打ちのように釘を突き刺す。
月の地面まで貫かれたその釘が、諏伯の身体を地に縫い付ける。
次に取り出されたのは、より太く禍々しい二本。
サグメは、一瞬だけ躊躇うようにその目を伏せたが――
すぐに迷いなく、脳と心臓に向かって静かに、しかし確実に釘を打ち込んだ。
バシュッ……
諏伯の体は一度、完全に沈黙した。
だが次の瞬間、蓬莱の呪いにより即座に再生――
しかし、釘は死の状態を維持したまま、次の再生すら強制的に殺しへと導く。
死→蘇生→死→蘇生――その無限ループ。
それは不死であるがゆえの“処刑”だった。
「とりあえず、これで何も出来まい。
このまま放置し、報告に戻る。」
サグメが新たな紙を見せると、依姫も頷いた。
「……これならば、諏伯ももう、どうにも出来ませんね。」
静寂が戻った月面。
釘に貫かれた不死の者が、冷たい風の中で音もなく転がっていた。