サグメからの詳細な報告を受けた月の上層部は、一様に顔を曇らせていた。
その表情には困惑と苛立ち、そして確かな安堵が入り混じっていた。
「――ともあれ、今回の件で我々の都市は一時的に沈んだ。被害は決して小さくない。」
会議室の重たい空気の中、老練な上層官がゆっくりと口を開く。
「悪いが、今回は大きな被害が出た。
もうこれ以上、私的な理由で部隊を動かすのはやめてもらいたい。嫦娥殿。」
部屋の一角に佇んでいた嫦娥は、一拍の間を置いてから静かに頭を下げる。
「……分かった。これ以上は、勝手な行動はしないわ。」
その声は穏やかで、従順にすら見えた。
だが、彼女の顔には――かすかな笑みが浮かんでいた。
(……勝手はしない、とは言ってもね)
誰にも聞こえぬ声が、喉の奥に沈む。
彼女の視線の先には、誰にも見えぬ“未来”が潜んでいた。
やがて月の都市は、表面上の平穏を取り戻していった。諏伯による断層破壊は確かに一度は都市機能を沈めかけたが、都市結界とサグメの能力によりほぼ全域の構造が元に復元された。
暫く時が経過した薄く霞む月の回廊。
修復を終えた都市の灯が、静かに遠くにまたたいている。
綿月豊姫は手すりに寄りかかり、ぽつりとつぶやいた。
「……嫦娥様、笑ってたわね」
その声音は、呆れと微かな嫌悪を含んでいた。
「え?」
依姫は一瞬耳を疑い、姉の顔を振り返る。
「諏伯が拘束されて、何もできなくなった瞬間。
遠くからだけど、私、見てしまったのよ。
あの人、ほんの少し――楽しそうに、微笑んでいたの。」
「……また?」
依姫の口調には、明らかに不快感が混ざる。
「姉さん、あの顔……覚えてます?
たまに見せる、なんとも言えない、あの――
“悪趣味な収集家が珍品を手に入れた”ような顔。」
豊姫はわずかに頷く。
「ええ。“理知的な仮面の下に、歪んだ嗜好が詰まってる”……そんな表情よね。
あれ、昔から変わってないのね。」
依姫は唇を噛む。
「つまり、今回の拘束も――本当に“月の脅威だから”じゃないと?」
「……私の予想だけどね。
多分、あの人、“純狐”に執着してるのよ。」
「憎しみ、ですか?」
「それもあるかもしれない。
けれどそれ以上に――あの人、純狐の“感情が歪む瞬間”に、快感を覚えてるんだと思う。
怒り、絶望、悲哀――そういう“表情”を、収集でもするように眺めてる。」
依姫は目をそらし、吐き捨てるように言う。
「……趣味、悪すぎます。」
「……“変態”って言葉、これほど似合う方も珍しいわね」
豊姫の言葉は静かだったが、明確な距離感が込められていた。
「最初は、純狐への当てつけのつもりだったのかもしれない。
でも、今のあの人は――」
「――もう、諏伯そのものに執着してるように見えますね」
「ええ。拘束の仕方が、“実用目的”じゃないもの。
動けないようにして、殺して、生かして、何もさせずに眺めている。
……あれ、誰のための措置なのか、明らかよね。」
依姫は息を詰めたまま、やがてぽつりと呟く。
「……なんだか私、無意識に“協力してしまった”気がして……嫌です」
豊姫は何も言わず、静かに頷いた。
その目には、どこか遠くを見るような、月面の光すら映さぬ沈黙が宿っていた。
――そして、彼女たちはその瞬間から、
本能的に“嫦娥にこれ以上近づくべきではない”と、悟っていた。
彼女達が想像していた人物と場所の小さな、静かな部屋。だが、そこに満ちるのは沈黙ではない。
低く、短く、断続的な「音」が響いていた。
ガクン、と軋む音。ビクリ、と筋肉が跳ねる音。
血が湧き、命が戻り、再び絶たれる――その繰り返し。
諏伯の身体は、今もなお死と蘇りの輪廻に縛られていた。
月の拘束具により、四肢と頭部、そして心臓を“貫かれ”たまま。
彼は蘇り、そして即座に死ぬ。
蓬莱人であるがゆえに――逃れることは、許されなかった。
そしてその“儀式”を、まるで美術鑑賞のように眺めている者がひとり。
嫦娥。
白い衣を揺らしながら、彼女は静かに佇んでいた。
だが、その瞳は静かではない。
淡い笑みと、異様な輝きが、彼女の表情に宿っていた。
「ふふ……すごいわ。完璧な再現。壊れて、戻って、また壊れて。」
諏伯が再び息を吹き返す瞬間、その胸がかすかに震える。
刹那――心臓に埋め込まれた封釘が力を帯び、再び命を止める。
彼の喉から、かすかな嗚咽とも叫びともつかぬ音が漏れた。
それを見て、嫦娥は目を細める。
まるで――甘い果実の熟しきった色を確認するかのように。
「美しいわね、この“循環”。
あなたの肉体が拒んでも、魂が悲鳴をあげても、終わらない。
そう。蓬莱人の命を最大限、無駄にする方法。月の封術も捨てたもんじゃない。」
足音もなく歩み寄り、諏伯の顔に影を落とす。
彼の瞳は朦朧とし、焦点すら合わない。
しかし――意識の断片は、まだ底に残っているようにも見えた。
「あなたにはね、もう少しこのままでいてもらうわ。
まだ純狐には知らせていないの。だって――」
嫦娥の笑みがわずかに歪む。
「知らせたとき、あの女がどんな顔をするのか。
その“表情”を想像するだけで、私、背筋がぞくぞくしてしまって。」
自らの指先を唇にあて、笑いを抑えるような仕草をする。
その仕草はどこか可憐で、それゆえに恐ろしかった。
「憎いはずなのに……ふふ。おかしいわね。
私、もしかして――あなたのこと、ほんの少し好きになってしまったのかもしれないわ。」
諏伯の胸が再び波打つ。
蘇生。即死。
嫦娥は踵を返す。
そのまま扉へと向かいながら、振り返りもせず、最後にこう呟いた。
「“愛してる”なんて言わないわ。
私が言うと、全部歪んでしまうから。ね?」
静かに扉が閉じられた。
残されたのは、魂が削れ続ける音と、永遠に終わらぬ死の輪舞だった。