永琳は、言葉を慎重に選びながらも、どこか落ち着かない表情で立ち上がった。
「……じゃあ、私は戻るわ。」
踵を返しかけたその時、ふと立ち止まって空を見上げる。
「月が……滅びないといいけど。」
その呟きに、背後から淡々とした声が返る。
「今回はしないわよ。」
振り向きはしないまま、永琳は小さく頷き、仙界の霧の中へと静かに消えていった。
純狐が指を鳴らすと、その中心から淡い炎が広がり、空間がねじれる。現れたのは、三つの世界に足をかける地獄の女神、ヘカーティア・ラピスラズリ。
「……呼び出すなんて珍しいじゃない。何かあった?」
「……息子が月に囚われたの。」
その声に込められた静かな怒気に、ヘカーティアの顔色が変わる。
「諏伯? あの子が……どうして月に?」
「詳しくは永琳から聞いた。おそらく嫦娥が動いた。私と関係があるって、月の奴らに気づかれたみたい。」
「……っ最悪ね。でも、あんたがここで私を呼んだってことは?」
「奪い返す。……それだけよ。」
純狐の眼差しに、もはや迷いはなかった。
「私はもう、誰にもあの子を奪わせない。」
ヘカーティアは静かに息を吐く。
「わかった。じゃあ今回は“破壊”じゃなく、“救出作戦”ってわけね。」
「そう。必要なら壊すけど、本懐はそこじゃない。」
「じゃ、門を開くわ。」
彼女が手をかざすと、異空間に通じる赤い裂け目が広がる。その先には、冷たく輝く月が浮かんでいた。
「準備はいい?」
「とっくに。あの子を……迎えに行く。」
――母が、息子を迎えに行く。ただそれだけの、まっすぐで、破壊よりも重い“怒り”を秘めて。
次元を超え、ふたりの影は月へと消えた。
月の地表。
突然生じた裂け目から、二つの影が静かに姿を現した。
純狐と――地獄の女神ヘカーティア・ラピスラズリ。
砂煙も舞わぬ静寂の中で、純狐は遠くに浮かぶ月の都市を見据えていた。
「……行くのかい?」
と、ヘカーティアが首を傾げながら問う。
純狐は一度だけ小さく首を振った。
「まだ。今は動かない。」
その言葉は冷たく、しかし焦りを感じさせなかった。
「理由は?」
「――奴らが私の息子ひとりに大軍を出すとも思えない。それに……あの都市、少しばかり異様に静かだわ。」
ヘカーティアは無言で都市の方へ視線を向ける。
「なら、“様子を見る”ってやつね。」
「ええ。けれど、確実に“動く時”は来る。その時は私が主導する。」
その目には怒りではない、“確信”があった。
---
同時刻。月の宮殿深部――
稀神サグメは、月の周辺に走る異常な歪みに気づいていた。
(これは……ヘカーティアの気配? それにもう一つ……これは純狐。)
彼女は瞬時に全てを悟った。
(こちらにすぐ攻撃を仕掛ける様子はない……が、目的は明らかだ。――諏伯。)
すぐに紙に言葉を記す。
「彼女たちは来ている。だが、まだ構えてはいない。」
(上層部に報告を? それとも、私が出向くべきか……)
サグメは一枚の紙を手に取りながら、月の未来について思考を深めていた。
(……この状況、誤れば、月もただでは済まない。)
数時間後、、、月面議政庁 ― 会議室にて
白銀に輝く高天井の下、重鎮たちは半円に並ぶ卓上端末の前に座っていた。
綿月姉妹、稀神サグメも招集されていたが、中央の高席にいる者たちはどこか気の抜けた様子だった。
「純狐とヘカーティアが現れた件、確認済みだ。だが……今のところ動きはなしだろう?」
一人が淡々と話す。
それを受け、別の幹部が薄く笑った。
「緊急対応は不要だ。何もしない者に何を恐れる必要がある?」
「防衛結界も健在。加えてサグメ殿と綿月両名がいれば、たとえ侵攻されても――」
「――“万に一つ”の事態すら想定せずに済むな?」
依姫の低い声がそれを遮る。
会議室の空気がわずかに揺れる。
豊姫も続ける。
「私たちを前に出すつもりなら、それ相応の備えが必要です。“今のところ動きはない”が、次の瞬間もそうとは限らない」
「そうです。放置すれば、今度こそ都市そのものが危うい」
上層部の者たちは視線を交わしながらも、あくまで穏やかな調子で応じた。
「諸君の忠誠と勇気は高く評価している。だが、必要以上の緊張は混乱を招くだけだ。今は“経過観察”に留めるべきだろう」
机の隅で、サグメが一枚の紙を静かに掲げた。
「――ならば、諏伯の拘束を解除してはどうか。状況を緩和する要因になる可能性がある」
一瞬、静寂が落ちる。
だがそれは、すぐに冷笑混じりの言葉で破られた。
「……何を言い出すかと思えば、まるで月の安全を危機に晒せという提案だな」
「奴の力は不安定だ。地震に神力に蓬莱の再生、加えて純狐の加護まである……とても放てたものではない」
「そもそも純狐の興味の対象が“息子”にある以上、彼を人質にする意味でも捕らえておくべきだろう?」
サグメは無表情のまま、紙を机の上で伏せた。
> 「愚策です。状況は動いている。楽観視は後悔のもと」
「結構。我々はその“愚策”で長らく月を保ってきた」
上層部の長が手元の端末に指を滑らせる。
「会議はこれで終了とする。状況に大きな変化があれば再招集するが、それまでは通常通りの警戒を継続されたし」
会議は、何事もなかったかのように閉じられた。
綿月姉妹は、無言のまま立ち上がる。
その背筋に浮かぶわずかな緊張と不快感が、部屋を去るまでの残り数秒を支配していた。
一方、サグメは最後まで座席に留まり、目を閉じたまま一枚の紙にゆっくりと書き記す。
「このままでは“選択肢”を失う」
その紙は誰の目にも触れることなく、そっと破られ、静かに掌の中で消えた。